それは特に僕がビジュアル進化で、種口さんが言語思考者っていうところがものすごいはっきり出てるタイプだったと思うんで、なんかそれがすごい僕にとってもめっちゃ新鮮でしたし。
なんか紹介してもらって本も読んだし、あとゆる言語学ラジオも見て、なんか二人が話してる中で、この今の社会において言語が優位とされているのはそういうふうにもうしてきたからであるみたいな、
そもそもの、例えば就職活動のエントリーシートって全部文字だし、テストってそもそも基本的には何か言葉で回答を出すっていう、そもそもこの社会の構成が言語優位者にとって有利なようにできているんじゃないかみたいな話があって、なるほどみたいになって。
二人がなんかこう、じゃあ逆に対してその入試問題が全部絵だったらどうなるか、そんなの全然できひんわみたいな、そういう話をしているのがあって、なるほどっていう、そこのもちろん広告的な生かし方の面白さもあったし、確かにこの社会自体がそこに優位にできているし、それが得意な人が今なんかこう良い扱いを受けやすいみたいなのがあって、
今言語化ブームというかがあるみたいなの、そういう日も時があって、なんか番組見てて、なるほどなーってめっちゃ面白かった記憶。
あれ面白かったですよね。なんかその番組の中でレイジされてた、すごい印象的なエピソードが、アートの展示とかを、ビジュアル進化の人は基本的に絵から何を感じ取るかっていう。
どこを見るかっていう話ですよね。美術館に行った時に。
そうそうそう。てかもう別に美術館、美術館っていうフィールドがそもそもビジュアル進化のための、ためのって言ったらあれですけど、ビジュアル進化が何かを感じるっていうことをメインに作られている場所だとは思うんですよ。
でなんかそこで言われてたのが、アートというか絵を見た時に、絵とかデザインとかアートを見た時に、それのビジュアル、目の中に飛び込んでくる視覚的な情報で何を感じるかっていうのを一時的に感じ取ってるっていうのがビジュアル進化。
それは僕にとってかなり普通の感覚だったんですよ。普通の感覚だったんだけど、イルゲンゴアクラジオのパーソナリティの二人はもう全然そんなことできないみたいな話をしてて、じゃあどういうふうに世界を見てるんだと思ったら、アートの横にちっちゃく貼ってあるこの解説文とか。
キャプションみたいなやつ。
キャプションを読んで、これはそう解釈するんだっていうふうに初めて理解に落ちるというか、アートというものを鑑賞するという行為につながるっていう話をしてて、そういう見方があるんだっていうのはめっちゃ面白い。
絵なくて、説明だけあればいいって言ってて、極端すぎてもう美術館じゃないやんっていう話ですけど、それぐらい振り切った話もしててめっちゃ面白かった。
面白かったですよね、あれ。実際そうなんですか?谷口さん的には世界の味方というか。
結局どうなんだろう、でも別に美術館行ったら絵も好きなんで、絵から感じるエネルギーを浴びようとは思うんですけど、ただ動画も見たりとか今も改めて思うと、
結局自分の中にその作品を取り込んでいく瞬間は多少なりとも自分の中の言語の部分で翻訳された状態で自分の中に入っていってるかもなとは今ちょっと聞いてて思った。
絵から感じるすごいエネルギーはあったとして、それを本能的に最初は感じるんですけど、最終的にこの絵好きだったなっていう風に思い出せるようになるためには、何か言葉があった方が自分の中であの作品ってこういうテーマの結局こういうのが良かったよねっていう風に自分の中で解釈としてはそうなってる気がするので、
本当のビジュアル進化の人ってそもそもそういう回路さえ経由せずにもうビジュアルのインパクトとして脳に記憶されているのかなと思うと、なんかそれはちょっとないかもなと思う。一緒に美術館とか行っても多分もう感じてることが本当に違うんでしょうね、そもそものなんか。
なんかこれも最近も話したりしたことですけど、なんか自分の中でのそういうコミュニケーションって何なんだろうっていうのを改めて考えたときに、先に自分の中で感じてほしい独語感的なのがあって、
この独語感を同じ体験をしていない人に対して感じてほしい。この体験のエモーショナルさであったり、オニックさであったり、面白さであったりっていうものを自分が感じていいと思ったと同等に思ってもらえれば、きっと心が動くはずだっていうところから設計をしているので、
もう先に見せたい絵というか、感じてほしいものは決まっていて、それをどのようなメディアと言葉と絵でそれを伝えれば、同じ自分の心の動きの作用が他人に対しても生じることができるのかっていう観点でやっていて、
そこがコピーとかビジュアルの力の使い方がずれてしまうと、自分が描きたかった絵が見た人にちょっと違う形で伝わってしまうと、多分それは本当に伝えたいものは伝わっていなくて、今までやってきた仕事の中でそれがすごい評価してもらったりとか、広告書とか入賞できた作品とかは、多分自分が描いた底の部分が読者や審査員の方にも同じように伝わった
ああ、そうですね
感覚があって、それが伝わったって思えることが自分にとって物を作ってる時の喜びだし、なんかそのためにやってる感じがあって、これを今から覆されると思うんですけど、そういう感覚はないのっていう
確かにね、今の話聞いてて、なんかこう、なんすかね、読むぐらいのコンペみたいなものに置き換えて、なんか今ちょっとお話ししてたと思うんで、確かに宣伝会議賞とかのフィルドって、なんかその最初のこの言葉に目を向けさせるっていう構造は一旦チューブラリーにでも成立するじゃないですか
なんかその企画の中での読ませる、文字に目を向けさせるためのビジュアルとかっていう構造のところは、そこは一回置いといて
確かにもう言葉を読んだ上でどこまでのパワーがあるかっていう骨音のコンペでもありますね、ビジュアルがないし
そうそうそう、この言葉に目線を誘導させるための構造っていうのはあるという前提で、この言葉を読んでもらった時にどんな独豪感を残せるんですか、どんな効果を果たせるんですかっていうのが
そう言われてみたら、確かに宣伝会議賞ってそういうコンペだなと思って
逆もありますよね、絵がないからこそ言葉自体にその映像が含まれているから、より言葉の奥行きというか深みが出ているから
それがこうちょっと他のと比べて目立ってきたりとかして評価されるみたいなのもある気もするし
そうっすね、そうっすね、確かに、そう見ていくの面白いですね、この各種のコンペに何が欠けていて、そこ以外でどうやって戦えるのかみたいな話もね
確かに なんか
それこそ、なんていうんでしょう、このビジュアル進化的に
あ、なんかこのコピーいいなって思った過去の、最近朝日広告賞とかやってるんで、今朝日広告賞で思い出した作品があって
それがね、結構前の年の作品だったと思うんですけど、緊張の多分かとり線香の広告で
黒バックに一本線香の煙がこうバーって立ってて、黒バックに白い筆文字で摂取をしながら供養って書いてあるんですよ
僕これめっちゃいいなと思って、なんでいいんだろうと思ったら、コピーの摂取をしながら供養って殺すっていう字から始まるじゃないですか
殺すに生きるというか生で そうそうそう、殺すに生きるから始まるじゃないですか
言葉が持ってるエネルギーとしては一番高いぐらいの そうそうそう、言葉が持ってるエネルギーがめっちゃ強いし
あとこうパッて巡った時に新聞広告って新聞媒体ってものを考えた時に、新聞媒体に黒バックに筆文字で殺すっていう字が一番最初に出てくることってまずないじゃないですか
事件ですからね そうそう事件じゃないですか
っていう結局だから、そういうなんていうんですかね、ベースがビジュアル進化だとビジュアルとしてこの文字がビジュアルのアテンションを取るっていう機能を果たしているっていうものにやっぱ結局
心動かされちゃうなみたいなことを今の話で感じて、その文字自体がビジュアルのアテンションの役割を果たすっていうこともあるなっていうのをちょっと思って
なんかそれ聞いて丸山さんの中でマップというか、あれ作れるんじゃないですか、言葉ランキングみたいな言葉バトルロイヤルみたいな
言葉バトルロイヤル 漢字一文字でどれが一番強いかって、たぶん殺すって結構上位だと思うんですけど
それをなんかトーナメントしていたら何が勝つのか、たぶん撃つとかもかかる多いから
攻撃の撃破 たしかに とかなんかいろいろ
はいはいはい なんかありそうだなとか思って あーありそうですね
でも確かにでもそこは、そこまでの意識ではやってないですけど
同じことを言ってるコピーって本当にちょっとした言い回しの違いであったりしても
やっぱりこうレイアウトを組んだ時にしっくりくるものとなんかしっくりこなかったりする時はあって
それはたぶん本能的に意味より先に希望的な美しいものとして目に飛び込んでくるかどうかっていうのがすごくある気がして
特に自分のこれまでの仕事とかだとOHKの屋外ポスターとかそれをすごく意識してほうがいいなと思ってやってたりしましたね
なるほどね 屋外広告って本当に情報に接触するのが極端に言うと一番少ないかもしれないぐらいじゃないですか
そもそもスルーされるところが気づかれもしないかもしれないみたいな
それくらい景色に溶け込んでるものだったりする中でそれこそその中で文字で情報を伝えなきゃいけないってなったら
そこが単純にもう読みたくなるかどうかをデザインされてないとそもそもダメなんじゃないかみたいなところで
同じ意味が伝わるんだったらもうちょっとテニオ派は減っちゃうけどあえてちょっと短縮して
日本語的にはちょっと不適切なんだけどこっちのほうがいいかなとかなんかそれを考えたりもするぐらい
言葉をビジュアルとして捉えるっていうのは結構係数したイメージを作っていく上ではかなり重要だなっていうのはちょっとずれますけど
確かに確かに 思ったりしますね
それはなんかめっちゃそうですね結局このクリエイティブってなんかこの違和感の流度というか
違和感で作る認知負荷のギリギリのラインみたいなものが結局読ませる力とか見せる力みたいなところになってるなっていうのはすごい思って
いろんなこう養成講座の講師の方とかあるいはこうすごいクリエイタートップクリエイターの人が解説してるのを聞いて
例えばあの大根の名作のソーダ京都行こうとかもあるじゃないですか
あれもこうソーダ京都点行こうってなってるけどこの点の位置がソーダ点じゃないっていうところにやっぱこうリズム感とか視覚的な違和感
普段の言葉遣いとはちょっと違うところになんかこう文字としての置きどころがあるなとか
あとはこうソーダ京都に行こうみたいな助詞が入ってない助詞をあえて落としてることで
こう普段の言葉遣いとちょっと違うっていうところになんかこう少し頭に汗をかかせるっていうことをあのまさに今
講師の谷山さんとかがおっしゃってたんですけど
なんかその頭に汗をかいた上で分かったことっていうのはやっぱこう人は手放したくなくなるというか
なんかそこのバランス感覚みたいなものっていうのをこういかにつけるかっていう
分かりやすすぎてもダメだしかといって分からなくてもダメだしっていう
このギリギリのラインをせめて少しでも印象に残して見る人の印象に残して
しかも印象に残したベクトルを自分たちが言いたいメッセージに向けなきゃいけないっていうことだなっていうのを今なんかすごい感じました