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2025-01-07 25:11

09. 弱みは見せた方がいい?

#となりのニューロダイバーシティ
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00:05
はい、こんにちは。
こんばんは。
こんばんは。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
えー、今回は第9回ですね。
はーい。
テーマは、弱みは見せた方がいい?
うん。
逆なのか、どうなんだろうっていうところで、
えー、結構弱みっていう言葉、何なんだろうねっていうことを、
飯野さんと話していたんですけれども、
2つあるんじゃないかって言っていて、
それは、あの、強みに対する弱み。
うん。だからね、学校教育の中でよく聞くし、
あなたの強みと弱みを自覚しましょうみたいなね、余計なお世話っていう。
でも結構障害界隈では、やっぱりなんか強み弱みっていう話はよくあるんですよ。
ありますよね。
弱みを保管するものとしての強みっていうようなね、位置づけもされてたり、
弱みを自覚して、人への手助けを求めましょうみたいなね。
なんて言うんだったっけ。
援助要請。
そう、援助要請力みたいなね、何でも力にしちゃうんだなっていうね、そういうのもありますよね。
その場合、強み弱みっていうのは、ある程度固定的っていうか、
自分の中に備わっているスキルとか、能力とか、何だろう、傾向、特徴みたいな意味付けなのかな。
でこぼことかも言われることあって、王と奴ですよね。
結構その心理検査なんかで、いろんな分野のプロフィールが出てくる中で、
高いところと低いところ、その文脈でその心理検査の中に、
ストロングとウィークっていうのがあって、
そういう基準というか尺度があるわけだ。
尺度っていうか、この個人の中の強みがどこかっていうのが、その心理検査で探すんですよね。
だから心理検査から来てるのかもね。
その強みとか弱みっていう言葉自体はね、その強み弱みっていうセットになった時の。
うん。なんか多分、心理検査ってただこう、何ていうのかな、数字を足すだけだっていうのが、
あんまりこう、意味がないっていうか、じゃないかっていう批判も多分ある中で、
そういう強みとか弱みを見るためのツールとして使おうみたいな。
そういう文脈があるように思います。
それが一つ、弱みって言った時の意味合いとして、強みとのセットでの弱み。
で、それはなんか個人の中で、固定化っていうほど固定化されてないかもしれないけど、
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どういう状況でも一定程度安定してあるものみたいなイメージで捉えられてるのかなっていう反面、
もう少し日々の体調不良みたいなものも、ある種弱みというか弱さみたいなものとして捉えられますよね。
なんか日々変わるものとか。
そうですね、その日のなんか、調子が悪いとか、うまくいかないとか。
うまくいかなかったとかね、そういうのも見せた方がいいんじゃないのっていうね、隠さずに見せて人に話して、
人に話したら楽になるよとかね、そういうことって一般的に言われるようになったかなって思いますよね。
なんかSNSなんかでも、ちょっと前まではというか、一番初めっていうのはSNSって、
なんかこう、自分のいいところっていうか、どちらかというとポジティブな面を見せるツールっていうような意味合いで使われてきたような印象を持ってるんですけど、
まあ私自身はあんまりポジティブでもネガティブでもない使い方しかしたことないけど、
どちらかと言えばなんかポジティブな面なのかなって思っていたけど、最近はそうでもない。
もともとそうでもないんですかね。
いや私もちょっとよくわかんないんだけど、でも本当にずいぶん前、何年前だろう、10年ぐらい前かな。
学生に聞いてびっくりしたのは、
フェイスブックとかインスタグラムは良い面を見せるツール、
で、ツイッター今のXはちょっとダメな面を見せるツールとして使ってるっていうふうに聞いて、
え、そんな使い分けするんだみたいなのは聞いたことある。
文化ですか。
わかんない、その人だけかもしれないし、
なんかツイッターって愚痴をつぶやきやすいツールではあるじゃないですか、ポロッと一言。
確かに匿名性もどちらかと言えば高いですもんね、フェイスブックとかより。
そう、だからそういう使い分けしてるとかいうのは聞いたことある。
ダメな部分をあえて見せるみたいな。
あと裏垢とかね、複数アカウントあったりして使い分けてるみたいな話もありますよね。
結構使いこなすのは難しそうですけどね、裏垢とかあったらね。
でもまあ確かに最近、弱さの自己開示みたいな形で、
Xとか、フェイスブックもそうだと思うけど、
ちょっと自分が今弱ってるんだみたいなのは書く人多くなってきたイメージはありますよね。
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あれによって、心配、みんながしてくれて、自分のこと気にかけてくれているんだっていうふうに思って、
ちょっと気が楽になるっていうこともあるのかなって思う反面、
特性って呼ばれる、そういうものを例えば開示することによって、
それがなんか固定化されるっていうか、自分はそういう人なんだっていうふうに、
なるほどね。
自分を固定化しちゃうようなことも起きていそうですよね。
そういうふうに自分を見せるツールになってるってことですよね。
うん、確かにね。
だから、SNSっていうのは、その人の人間関係の本当に一側面でしかないから、
そこだけ見て判断してもしょうがないんだけど、
弱さの自己開示っていうのが、
共感とかいいねを獲得するっていう文脈に閉じた形でなされているっていうところは、
なんかちょっと気になっていて、
その自己開示した後に何が起きるのかっていうところが結構大事なんだけど、
弱さとか弱みっていうのが単なるパフォーマンスみたいなものとして、
消費されちゃってる側面もあるのかなっていうのが私自身の懸念の、
懸念というか気になってることの一つにあるんだよね。
その自己開示が自己完結しちゃうっていうね、
本当はそこからの関係性の構築であったり、
場合によっては連帯に発展させていくみたいなね、
運動に発展させていくとかね、
そういうことがそもそも議論されていたはずだったと思うんだけれども、
それがどの程度十分になされてるんだろうかみたいなところは、
少しずつ気になってはいる。
もう一つはやっぱり、
もう時代の問題でもあるんだけど、
この弱さとか弱み自体もある種コンテンツ化されて、
特にSNS上ではコンテンツ化されて、
他者に共感という形で消費されてしまってるんじゃないかなっていう、
つまり共感を得るとかいいねを得るっていうことが目的化されて、
さっき言ったようにそれから先のアクションとかね、
そういったものがなかなか生じにくくなってるとしたら、
それはこの弱みとか、
もともとフェミニズムの文脈だと、
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脆弱性っていう言葉を使ったりするんだけど、
その議論が非常に表層的な形で、
消費されちゃったなっていう、消費されてるなっていう。
そうか。
ちょっと話が変わるかもしれないんですけど、
自信を持つみたいな話って、
よくいろいろな障害のある子どもたちが、
ちょっと苦手なことがあったりした時に自信を失っていく。
その時にまた自信を取り戻していくみたいな話の時に、
自信を持つ、持たないとか、
自己効力感を上げるとか、
そういうのは結構あるんですけど、
なんかその自信って、以前ポッドキャストでも話したことあるんですかね、
井野さんが自信っていうのをどうやって持つのかっていうことを話してくれたことがあって、
自信っていうのは自分で持つって決めて、
そうそう、決意。
持つんだよと。
誰かが授けてくれるものではなくて、
それとか成功体験が積み重なったら自信が持てるとか、
そういうことではなくて、
そういう人もいるのかもしれないんですけど、
そういうもんじゃないんじゃないのっていう話をしたことがあって、
そうなのかなっていう気がしています。
自分が真ん中で自分が主体になるっていうことが自信だから、
誰かから授けられている限り、
自信っていうものが持てなくて、
次々承認を求めてしまうね。
そうだと思いますね。
つまり弱さとか弱みに関しても似たようなことが起きてるんじゃないかっていうことなんですか?
そういう作用が働いちゃってるんじゃないかっていう。
安心感とか、ちょっと自信を取り戻すためにSNSでつぶやいて、
みんなからのいいねをもらったり、声をかけてもらったりしたいと。
で、外から安心感とかを調達しようとする限り、
常に安心感が足りない状態が生じてきてしまうんじゃないか。
そのSNSがそういうのを高めてしまうんじゃないかって。
SNSがっていうよりはやっぱり、
脆弱性とか弱さっていうものの捉え方が非常に表層的だから、
そういうことが生じてるのかなっていうふうにも思うんです。
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ちょっと難しい話になるかもしれないけど、
フェミニズムの中でこの脆弱性っていう概念が重視されるようになった経緯には、
近代の事故っていうのがすごく強い、
自分自身で考え、決定して行動するみたいなね、
すごい強い主体っていうか事故として設定されていて、
それによって弱いとされた女性だったり、障害者であったり、
人種的に白人ではない人とか、日本人でない人とかね、
それぞれ国地域によって違うけど、
そうした人たちが社会の終焉に置かれたり、排除されてきたりした人たちは、
自分では決められない存在として見なされてきたっていう、
それへの批判なんですよね。
だから、事故っていうのをそんなに強いものとして想定せずに、
むしろ人っていうのは一人では生きていけないっていう意味でも、
その脆弱性っていうのを持ってるし、
今の時代なんてね、コロナの時にも私たち感じたけれども、
会ったこともない人から病気が、感染が広がって、
自分自身の生活とか身体も脅かされるっていう、
それってまさに脆弱性の経験だと思うんですよ。
その脆弱性っていうのが、実は他者との関係とか、
あるいは人々がつながって政治運動をしていく基盤になるんだっていうのが、
もともとの議論なんですよね。
脆弱性っていうのは、
例えば平林さんは弱いから守ってあげなきゃっていう議論じゃなくて、
平林さんの弱さに対して、私はどう応答するのかっていう話なんですよ。
倫理的、政治的に。
それは、いいねを押すとか、慰めるとか、そういう応答じゃないはずなんだけど、
そういうやりやすいものというか、分かりやすいものだけが広まって、
本来重視されていたものが、すっかり忘れられているような感覚っていうのを私は持っているんです。
なるほど。
共感すればそれでいいとか、優しくすればそれでいいみたいな、
でもそれは違っていて、それはね、相手を守られるべき対象としてみなしているっていう意味では、
結構問題のある行動なんですよ。
それは倫理的態度ではないはずなんですよね。
だけどそれがある種の倫理的、あるいは道徳的に正しい振る舞いだっていう風になっちゃってるじゃないですか。
だから、そこにちょっとこの問題の複雑さというか厄介さみたいなのを最近感じていますね。
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なるほど。
その弱い存在って、みんな弱い、それぞれ弱い存在であるといったときに、それに応答していくっていうことを、
もう少し重症度を下げて考えると、
社会保障を充実させていくとかね、そういうことですよね、まず第一義的にはね。
そうですね。
やはりその、医療制度っていうかな、医療システム、医療リソースっていうのかな、
医療リソースっていうのも、今全員には行き渡らないようになってますよね。
お金を払えば行き渡る、行き渡るとか得られるけれども、
十分に行き渡らない状況っていうのは生じていて、今でもね。
そういった問題も解決しないといけないと思うし、今もインフルエンザ流行っていて、
結構救急外来大変なことになってるじゃないですか。
だからそういう問題をどういうふうに解決していくのかっていうのはすごく重要だし、
社会的なインフラをね、どう整備し、そして維持していくのかっていうところにもつながってるし、
単純に個人的に共感して寄り添うっていう話ではない方向に、
社会をどういうふうに整備して、
そうした私たちが本来持っている脆弱性をサポートしていくのかっていうか、
脆弱だからこそ社会のリソースが必要なんだよねっていうところに持っていかないといけないんだけど、
なかなかそこまで、SNS見てるだけだから、そこは見えてないだけかもしれないけど、
なんかちょっとね、賄賞化されてるのかなーみたいな感覚は持ちますね。
そうですよね。
戦争が起きている時に、じゃあウクライナから来ている人に優しくするって大事なことだと思うんですけど、
でもこの戦争を止めるにはどうしたらいいんだろう?
戦争を起こさないためにはとかね。
っていうようなことも同時に考えないとね。
始まってから反対するのももちろん大事なんだけど、
そのもっともっと手前で考えておかなきゃいけないこと、
学んでおかなきゃいけないことがあるはずなんですよね。
そういうことは自分たちにはちょっと難しい、手が届かないことだ、みたいな。
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その社会の福祉へのリソースをどうするのかとか、
そういうことっていうのはあまり自分たちで変えていけることだっていうふうに、
思わない仕組みになってきてるっていうことなんですかね。
本来は市民が議論をし、決定していく仕組みを作らなきゃいけないけれども、
それは専門家が、政治家が、行政の人が考えればいいことなんじゃないの?って他者に明け渡してしまってる。
平橋さんがさっき言ったように、本来自分が決意すれば自信って持てるんだけど、
他者からいろいろと褒められたりとか、
ポジティブなフィードバックをもらえないと調達できないっていう状態と同じように、
他者に明け渡してしまってるところがあると思うんですよね。
もちろんそれが過剰になっていくと、近代的事故みたいに戻ってっちゃうかもしれないから、
準備しないといけない部分はあるとはいえ。
近代的事故になるっていうのはどういうこと?
もう他人は一切関係なく、自分だけで損失できるみたいな。
わかんないけどね。
強くなればいいっていうわけではないんだけど、
弱みを見せてもいいとか、弱さの自己介してどんどんしていこうっていう風潮の中だからこそ、
弱みを見せるっていうこととか、弱みを共有するっていうことと、
自分のことを自分で決めずに他者に明け渡してしまうっていうこととは違うんじゃないかっていうのが一つあるし、
そもそも弱さを自覚するっていうのは、
もっともっと違った、ただ単に共感とか寄り添いとかそういう話ではなくて、
社会をどういう風に作っていくかっていう話でもあったはずなんだっていうところですよね。
ちょっと話を戻しても、戻しちゃうんですけど、
強み弱みの話に戻って、ちょっと頭をよぎったことがあるので喋ってもいいですか。
あの学校で強み弱みの話に、そういう授業を参観する機会があって、
とても面白い授業だったんですけど、
私が子供の時みたいな忘れ物が多い子と、また違うタイプの子、
それぞれいろんなタイプがいるよねっていう話なんだけど、
強みって私は弱みの裏返しだっていう風に思っていて、
21:03
表裏一体ってこと?
そうです。裏から見たら弱みも強みに、状況が変われば弱みが強みになるし、
強みだったものは弱みになるし、
なので心理検査だと強みの領域弱みの領域みたいな話なので捉え方が違うんですよね。
なんだけど、表裏だから、なんかこの強みは目指すべき、
こういう強みは目指すべき強みだけど、
こういうのは弱みらしい弱みっていうんですか、
そういう勝ちづけがやっぱり強み弱みになり得る要素っていうのが。
強みは望ましいあり方で、弱みはできれば避けたほうがいいというか、
抑制したほうがいいというか、直したほうがいいというか。
そういう勝ちづけが確かになされてますよね。
それってなんか本当は表裏一体?
いや、そうだと思います。私も最初にその強み弱みの話してた時に言おうと思ってたんだけど、
状況によってその評価って変わるじゃないって。
同じことなんだけど、忘れ物が多いみたいなものがあったとして、
この状況では確かにネガティブな結果を招いたけれども、
別の状況ではニュートラルだったり、ポジティブな結果が招かれたりする、
そういうものですよね。状況依存的な、文脈依存的なものでしかないとは思ってますね、
強みとか弱み。でもそうではないものとして語られてるなっていうのはある。
ありますよね。
特にやっぱり発達障害の領域なのかな。
学生支援の中でもね、自分の強みと弱みを自覚し、
本当に余計なお世話なんだけどって思うよね。
いやだからさ、状況によるのにねってね。
本当になんかね。
状況によるからいいわけですよ。多様な人が集まるから、
そうそう。
思いもしないことが起こるかもしれない。
だから学生支援ってさ、障害学生支援ってすごくやっぱりそういう意味で保護主義的なところがあって、
いろいろ間違えてるなって思っちゃう。
そうですよね。で、弱みを強みで置き換えろっていう。
で、自分の弱いところは援助要請能力で補おうとか。
そう、よく理解して。自分の弱みをよく理解して。
でもなんかすごくいろいろと、いろいろと間違えてる。
そうですよね。合理的配慮を言い出せない子どもっていうのを、
援助要請ができない子どもみたいな、できない人っていう風に捉えて、
自己理解をもっと進めなくちゃとか、援助要請の練習をさせなくちゃとか、
いや、その状況が言い出せない状況になってるってことでしょっていう風に理解した方がいいと思うんですけどね。
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なのでこの強み弱みの話は、ちょっと思わぬ展開も見せたので、
今日の話、なんかもう一回聞き直して、論点拾って、なんか別の回にしてもいいかもしれないと思います。
そうですね。なかなか面白いテーマですかね。
いろいろ考えなきゃいけないものが詰まってそうだなと思いました。
今配信しているスタンドFMっていうサービスを新しく使ってるんですけど、
レター機能っていうのがあるそうで、メッセージみたいなの送れるので、
たぶんフォローしている人はみんな送れるんだと思うんですよね。
なんか言いたいことがムクムクと湧いてきた方は、ぜひレターお待ちしています。
こういうのもありますよみたいな。
いやもうほんとね。
そしたらそれについてまた企画を立ててお話しできるので。
では今回は第9回目でした。
25:11

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