最初からダニーを村の一員にするつもりで村を受け入れてるんだ。
そういう感じですよね。で、事実ダニーにとってはそこっていうのが、自分を受け止めてくれる人たちとの出会いになるわけなんじゃないですか。
初めてここで本当に自分をありのまま笑顔で受け止めてくれるような存在と出会うという。
ダニー自身も結構象徴的なシーンがいくつかあって、ホルガーに入る前にホルガーのほど近い草原で薬を決めるシーンがあるんですよ。
その後もたびたびドラッグの影響を受けるたびに、彼女は自分の体の一部に草が生えるような現象をするんですね。
この一番初めでは手だったし、その後メイクイーンになった時には足から草が生えているような現象をしたと思うんですけれども、
あれはおそらくは彼女が絶対に不動のもの、要するにクリスチャンみたいに不安定で全く頼りにならないものではなくて、
まるで大自然のようなですね、完全に大きな存在に自分が同化する、
要するにそれだけを万弱なものに依存したいっていう欲求が原始になって現れているんじゃないかという、そんな気がするんですよ。
ただ一方でその後彼女バッドトリップして小屋の中に入るんですけど、その時鏡を見ると自分の顔が溶けてる現象もするんですね。
あれは大きなものに依存したいんだけれども、その一方で自分が消えていってしまう、
要するに何かでっかいものに依存することによって絶対的な安心は得られるだろうけれども、
それによって自分という子が消えてしまうことへの恐怖っていうものは、あの時点では併せ持っているということの描写なんじゃないのかなっていう気がするんですね。
ところが一方でこのホルガの村っていうのは徹底的にダニーをどんどんどんどんどん囲い込んでですね、取り込んでいくわけです。
それがさっきオウムも言ってたような同調するような、要するにダニーが泣き喚けばみんなも泣き喚くしみたいな、
一緒に感情を共有してくれるみたいなことをみんなでやってくるわけじゃないですか。
そこに薬物による感情の起伏をより引き出すようなトリップを乗っけてくるわけで、
ダニーからするとですね、非常にその辺は初めて感じる、人から共感されるっていう強烈な安心感に移っただろうし、
さらに非常に面白いのが生活のほとんどがやっぱり大きな建物で同時に行われているということ。
育児に関してもそうですし、寝る場所もみんな同じ世代の人たちっていうのが大きな建物の中で一緒に寝るみたいなことが行われるわけじゃないですか。
儀式の空間とかもやっぱりでっかい建物があって、そこにみんなで入っていくみたいなそんな空間ばかりで、
そこでジョーンズは絶対的な権威を持っているわけなんですけれども、
みんなの生活の中では全員で合唱したりだとか、
やっぱり集会を長時間行う中で、共同体としての統一意識みたいなものを高めていくわけですよね。
最終的に何をしたのかっていうと、死を全員で選ぶっていうことをさせちゃうんですよ。
で、みんなで毒入りのジュースを飲んで900人以上が同時に死ぬっていう大事件を起こしたんですね。
これが人民人事件っていうアメリカでも記録的な出来事なんですけれども、
ここで重要なのは、でもそこに集まった人たちは救いを求めて集まって、
そして共同体の中では今自分たちがやってることは、
それは救いを得るためにやってることなんだっていうふうに本当に心から思ってしまっていたわけだし、
だから何の疑問もなく毒入りのジュースを飲めてしまうわけですよ。
これって本当にホルガが行っている、いわゆる儀式として死を選ぶ行為と、
あるいは救いのために普通はできない決断をさせるっていう構図とほぼほぼ変わらないような気がするんですよね。
あとは日本で言えばオウム心理教団とかもやっぱり象徴的な事件として知られているところですけれども、
結局あれも構成している人たちっていうものがかなり高学歴の人が多かったっていうところは、
犯罪心理学の中でもすごく取り上げられる事実だとは思うんだけれども、
日本が当時抱えていたちょっと負の部分ですよね。
未来への先行きのない不安だったりだとか、そういうものを抱えているエリート層なんかを巧みに取り込んでいくと。
そういった中でオウム心理教がやったことっていうのは、やっぱり共同生活ができるサティアンみたいなものを作ってですね、
信者を徹底的に孤立させるんですよね。
家族からの切り離しっていうものを完全に行っていくと。
一切の連絡ができないような状態にして、外部との関係性っていうものを完全に立って、
共同体の中での関係性っていうものだけに依存するように仕向けていくという。
そういった中で瞑想みたいなものを繰り広げていく中で、
今自分が感じているこの感覚っていうものはこの宗教団体によって授けられたし、
それを見ながら分かち合っているんだっていうふうな感覚をいつの間にか擦り込まれていく。
そんな中で、死への絶対的な復讐っていうものもどんどん構図として組み込まれていって、
最終的には組織の歯車として犯罪行為に手を貸してしまうというふうなことが起きる。
こう考えるとホルガって何をやってるかって言ったら、完全にカルト宗教の文脈と同じことをやってるんだよね。
あとはさっき言ったどでかい巨大空間の演出で子を消すみたいな。
この意識を消すみたいなことが、もっと大規模なお話で言えば、
ナチスドイツがやってたこととほぼ変わらないんじゃないのかっていうお話も実はしたくて。
これですね、ナチスドイツは非常に興味深くてですね、
たびたびナチスドイツ関係のドキュメンタリーを見てしまうんですね。
また新しいドキュメンタリーできてるって言って、またどんどん見ちゃうんですけど。
中でもシュペイアーという人物がいて、この人は建築家なんですよ。
別段、特筆すべき人物ではなかったように、
ナチスによって起用されたことによって、その後も名を残すことになるわけなんですけれども。
彼がやった一つの功績に、光の大聖堂というものがあるんですね。
これは本当にただの演出なんですよ。
建築家なんだけれども、光の大聖堂は物理的な建築ではなくて、
ナチスドイツの集会に集まった人々の中にですね、
超巨大なサーチライトをですね、空に向かって垂直に照らし出すんですよ。
そうすると光がですね、一本の柱のように天空に向かって上がっているわけですね。
それらが列になって並んでいると、あたかもですね、
自分たちが超巨大な聖堂の中に集められているかのように思うという。
光の大聖堂という。
要するにそれだけの建築を作るということはできなかったから、アイディアなんですけれども、
これがこうしてですね、ナチスドイツは何度も何度もですね、
いわゆる集会を開くんですけれども、その集会で人々が集まった時に、
ただその場に集まって、ただ演説をするんじゃなくて、
そこに集まった時にその空間というものが超巨大な空間であり、
なおかつ一人一人個人が小さく感じるような、
巨大な空間の中で子というものがなるべく溶け込んで一つになるかのような、
そういう効果を狙うんですよ。
これって本当にこうなんていうのかな、
ダニーがですね、ホルガ村の中では大きなですね、建物の中に集められるところとか、
あるいはその巨大な謎の建築物の周りでみんなで踊ったりだとか、
そういうことをやっていく中で徐々に子という、
そういう自分自身のアイデンティティのようなものが溶けてなくなっていくようなのと、
結構同じような構造を持ってるんじゃないのかなっていうふうに思ったりするんですね。
そう考えると結構中央集権の中でも独裁の方向に進むような国家っていうのは、
マスゲームが多く行われるわけですよ。
ダメって言われるようが、それは自分自身の知的欲求を抑える理由にはならないわけだ。
っていうふうに考えると、彼は非常に高尚な目的を持っているっていうふうに、
取る人は取るかもしれないんだけれども、
ただそれは見方を変えれば、
単純に自分の知的欲求に忠実なだけであって、
果たしてそれは性的欲求に忠実なだけのマークと大差あるのかっていう話にもなりかねないわけだ。
だからこそ、このジョッシュが自らですね、
ホルガムラの人たちの言うことを聞かないで、
神聖な場所に入ってカメラを向けるっていう、
わかりやすいマシーンが差し込まれたんじゃないのかというお話。
で、クリスちゃんはこれこそですね、他者依存なんじゃないのかっていうふうに思っていて、
結局彼のすべての決断って、何一つクリスちゃんの意思じゃないんですよ。
すごい気持ち悪い男なんですよ、こいつ結局。
ダニーに言われたことは全部やる。
全部やる、基本的には。
恋って言われたら行くし、多分こう言ってほしいだろうなを全部言うようにしてる。
それでいて、その決断を人任せにするんですよね。
ダニーにやることも結局、お前がやってほしいって言ったからやってあげてんだろうになるし、
友達に対する態度も全部そう。
友達からしたら早くダニーと別れてほしいって言うんだけども、でも自分はできないからそれはやらないし。
ダニーの誕生日を祝うのもペレに言われたからだし。
何も自分で決めない。そして自分の研究テーマも自分で決めない。
助手が興味持ってやってることにただ乗りしようとする。
完全に彼は他者依存で、まるっきり優柔不断な状況にあるんだけれども、
誰かに決めてもらうことによって、自分の意思で決断してそこに責任を負うということから避け続けるという。
他者依存の局地としての存在としてクリスチャンがいるんじゃないのかと。
ペレは共同体への完全な依存だよね。
もう共同体の一部として機能している存在なのだから、これに関しては言うまでもないんだけれども、
じゃあダニーは何かっていうと、ダニーは一番初めにも述べた通り依存先の欠如という状態にあるわけだから、
ある意味ではダニーが一番何者にも依存はしていない状態とも言えるんだよね。
そんな彼女がこの共同体への依存というものを強めていく過程を見せることによって、
依存と信仰って一体何の違いがあるんだと。
あるいは依存と救いってどんな違いがあるんだみたいなお話をしたいのかなというふうに僕は思ったんですよ。
ここが非常にちょっとうまく言えないんだけれども、ちょっとウィッカーマンの話をさせてもらうと、
ウィッカーマンと比較するとどんなことが分かるかな。
ウィッカーマンの主人公は敬虔なクリスチャンなんだよね。