2025-09-17 1:12:34

【Replay】#映画『#最高の人生の見つけ方』『#最高の人生の作り方』あなたは死とどう向き合いたいですか? [Replay] #TheBucketList & #LastVegas — How Do You Choose to Face the End?

ああ…無念…無念だ!くたばるのは無念…しかし仕方ないのさ、これも…!しかたないのさ…これも無念であることがそのまま「生の証」だ…!

ーーーーー

映画談義ポッドキャストパーソナリティまこです。

今回は  #ポケ沼 よりオーマを迎えての収録です。

というわけで最高の人生云々シリーズです。

邦題って結構適当だよね。

監督同じだからって現代マル無視してここまで揃えなくても・・・

とはいえ作品の根幹に死と生き方があるということは変わらないわけで。

死んだらそれまで。あなたはどういきたいですかね?

podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

語りたい映画なんて尽きることない!

エピソードの公開は毎週or隔週となります。


ご感想は是非 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#リルパル #ReelPal でツイートをお願いします。

いただいたツイートは番組の中で取り上げることがあります。

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これからも番組をよろしくお願いします。


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“Ahh… regret… such regret! To die feels unbearable… but there’s no escaping it. And yet—that very sense of regret, that unwillingness to go quietly… that itself is the proof of life!”

Hey, it’s Mako, your movie-chat buddy.
This time, Oma from #PokéNuma joins me at the mic.

We’re tackling the so-called “Best Life” series—you know, those movies with Japanese titles that love to lump everything together. Honestly, Japanese distributors really do some wild things with translations. Just because it’s the same director doesn’t mean you have to give every film the exact same kind of title, right?

Still, at the core of both films sits the same theme: death, and how we choose to live before it comes.
When it’s over, it’s over. So the real question is—how do you want to live until then?


🎙 Hosted by Mako (@_macobana)
Yomoyama Kobana (#まこばな) is my spin-off podcast where I get to ramble about all the movie thoughts I couldn’t cram into my main show, Pocket ni Numa o (#ポケ沼).

📅 New episodes drop weekly or every other week.

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Thanks for listening, and stick around for more movie talk!

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Reel Friends in TOKYO バックナンバー 過去のエピソードをプレイバック!
はい、ということで、本日のテーマは、映画最高の人生の見つけ方、最高の人生の始め方。あなたは死とどう向き合いたいですか。メモした?
死と、死とどう向き合いたいか。
そうですね。
死とどう向き合いたいか。
死って、シティーじゃないんだよな。
なぁ、シティー。
デスなんですよね。
デスって。
やっぱ。
はい。
そしてね、今大変なことに気づきました。
なんですか。
メモをね、作り方見つけ方って書いてるんだけど、作り方ってなんぞって。
あ、あれ、作り方だったっけ。
いや、え?
あ、違う。えっとね、作り方も作り方であるんだよ、確か。
でも、それは。
ちょ、俺違うの見てる?
いや、そんなことはない。始め方がモーガン・フリーマンで。
うん。
で、見つけ方がマイケル・ダグラスだよね。
あれだよね、不動産の話だよね。
だったよね。
違う、見つけ方がモーガン・フリーマンだ。
モーガン・フリーマンが見つけ方で。
はい。
で、あれ?これね、物によってタイトルの付き方違うのかな、これ。
え?作り方、作り方だね。俺が見たの、作り方。
これね、厄介ですね、これ。始め方も見つけ方もモーガン・フリーマン。
これね、ちょっと厄介ですね。始め方は、始め方は、これすごい厄介だ。
ちょっと整理します。いいですか。
今回我々が見たのは、最高の人生の見つけ方と最高の人生の作り方なんですよ。
あ、良かった良かった、合ってる合ってる。
最高の人生の見つけ方は、モーガン・フリーマンがこの監督のログライナーとタグを組んで撮ってるわけですね。
で、ジャック・ニコルソン。
で、最高の人生の作り方は、マイケル・ダグラスと同じくログライナーなんですけど、
そしたら別に最高の人生の始め方っていうのもあって、
この始め方、始め方に関しては、もうモーガン・フリーマンが同じくログライナーとタグを組んでるんで、いよいよややこしいんです。
で、気をつけなきゃいけないのは、放題がそれってだけで、現代全然違うのよ、全部。
03:03
放題つけた人が悪い。
え、これ別の映画だったんだ。
別の映画。
アルコール依存症の老作家が隣に暮らす親子と交流を通して再生していく姿を描いたヒューマンドラマ。
違います。
つまり、とりあえず整理しましょう。見つけ方と作り方でね、今回見たのはね。
うん、見つけ方と作り方。
バケットリストとアンルソーコースでね。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
焦った。すげえ焦った今。
まじ焦った。まじ焦ったし、どんだけややこしい放題つけてるんだよっていう。
ログライナーのヒューマンドラマね、最高の人生の何にする?みたいな感じになってるから多分ね。
それは違うよっていう。
もう。
勘弁してくれよ。
焦ったぜ。
というわけで今回は見つけ方と作り方ということで、この2本だけでお送りいたしますが、別々に語るもよし、比較して語るもよし。
いずれにしてもですね、全ては風任せでいつも通りいこうと思っております。
はい。
じゃあとりあえずはこの2本のね、あらすじをお話ししていきましょうか。
はい。
3分でいくか3分で。2本だから。
2分にする?
いや2本あるから3分。
3分。
3分でいこうか。
よし、じゃあいきますよ。
よーい、ドン。
はい、ということで本日は最高の人生の見つけ方と作り方の2つでお話をするので、始め方は今回扱いません。
両方とも先ほどお話しした通りロブライナーという監督が撮影した映画になります。
いずれもですね、登場人物も違えば話の展開も違うんですけれども、テーマとしてはいずれも死っていう人生の大きな節目ですね。
最後のピリオドになるんですけれども、それをテーマにした作品ではあります。
ただ視点がかなり異なっているので、ある種今回のタイトルにもつけました通り、自分は一体どうやって死と向き合っていくのかみたいなことを考えながら見てあげると楽しむことができるのかなというふうに思います。
最高の人生の見つけ方に関しては、余命宣告を受けた全く異なる2人の男性が登場します。
背景が異なる2人が、ひょんなことから病院の同室に入院することになり、そこから人生最後にやりたいことリストを共有し、それを実現する旅に出ていきます。
そんな中で2人は少しずつお互いの違いを認め合いながら友情を育んで、限られた時間の中で人生をいかに生きるのかというのを死を目の前にして味わっていく。
そういった中で少しずつ彼ら2人の間にも徐々に変化が生まれていくというような作品になっています。
06:02
一方、最高の人生の作り方は死そのものというよりは死によって分かたれ残された生者たちを描いたような作品になっております。
主人公であるオーレンは妻を亡くして心を閉ざしてしまった実力派不動産業界の営業みたいな感じですね。
そんな彼の自宅、アパートの隣に住んでいる、こちらも夫を亡くしたジャズシンガーの女性リア。
これもまた死との向き合い方が違う2人なんですけれども、お互いの違いを時にぶつかり合いながら少しずつ認めていき、
徐々に死と向き合い、死を認め、受け入れ、そして乗り越えていく、そんな姿を描いた作品になっています。
2つの映画を対比して見ていくと、やっぱり死ってどうしても避け得ないものですから、
そうした死とどうやって人間が向き合っていくのか、そんな多様な反応を追体験することになります。
最高の人生の見つけ方、そして最高の人生の始め方、いずれも死という大きなテーマに対して、
人がどう向き合っていくのか、あるいはその死そのものとの距離感の違いから見えてくるものも、
見えてくる世界の違いみたいなものも、なんとなく考えさせられるような作品になっています。
あなたもぜひこの作品を見て、自分にとって人生をどう生きていくのか、そんなことをちょっと考えてみてください。
悔しいな。
今回は結構頑張ったくない?
今日なんか綺麗にまとまりすぎて何も言えなくてさ。
最後の方は同じことを2回言いそうになってたから、ちょっと調整ミスったなみたいな感じはありましたけど、
とりあえずそんな感じで、結構もうあらすじこんなもんだよね。
そんなもんですよ。
もうちょい突っ込んでいくと、一応始め方からまずいこうか。
始め方がモーガンフリーマンの方。
モーガンフリーマンの方だね。
モーガンフリーマンは貧乏なんだよね。
自動車整備工場にお勤めのちょっと貧乏な方。
頭の面積なんだけれども、在学中に後に妻となる女性が妊娠したことで、
夢を諦めてすぐに稼げるように仕事に邁進してきた、そんな男です。
一方でもう一人のエドワード・コール、ジャック・ニコルソンが演じてるのが病院の経営者で、
多分それ以外にも強悪を振るっているような、そんな男で、
自分自身の力と実績を何よりも理解しているのが自分自身ですから。
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そんな態度で、ある種周りから嫌われているけれども、それを一切気にしていない傲慢な男、みたいな感じで描かれていますね。
コールが自分が経営している病院に入院するんですよね。
2人とも脳腫瘍だっけ?
コールが脳腫瘍だろうと思われる。
モーガン・フリーマンの方は何がんとは言われていない。
でも結局、混同して痙攣も起きててっていうのがあったから、脳とかの神経中枢に何かあったんじゃない?転移した的なあれじゃない?
多分でもオペとかしてないから、単純にメタしたってことだと思うよ。
でも最後、頭蓋の切開手術を受けようとしてなかった?
メタしたからでしょ。
そういうことですか。
いずれにしても、この2人は余命があと何ヶ月って言われてたんだっけ?
1、2ヶ月?
半年なかった気がする。
ところが、この2人が同室になったことで、なんかいい感じになるっていう。
あれは何だろう?分からなくもないけど。
僕は何度も入院したことがあるんですけど。
何回も入院してるんですよ。結構病気しがちでですね。しかも割と重めな。
その結果ですね、病院同室になると妙な連帯感を感じるっていう謎の効果については理解をしているんですよ。
ただあそこまで背景異なると、どうなんだろうなっていう。
そうね。同じ病室の人が仲良くなるっていうことは確かにすごいあるし、
病院の中でお互い頑張ろうなみたいな、特に重たい病気であればあるほど、
同じ病室の仲間みたいなのが治療が成功して退院したりとか、あるいは亡くなったりっていうので、
この病室内でのダイナミックスみたいなのが変わっていくっていうのは結構あったりもするんだけど、
退院するとすっと関係性が消えるっていうのもこの不思議なものなんだよね。
そうなんだよね。
ある種、限られた期間埋めを共同してるというだけであって、
ある意味ではみんなこれがこの時だけの関係であるということを理解してるような。
だから言うなればあれだよね、受験会場で知り合ったやつとちょっと仲良くなるみたいな。
12:06
分かる分かる分かる分かる。
お互いにこれから何か大きな自分の人生に影響を及ぼす結果を待ち受ける存在として、
一緒に頑張ろうなってなるんだけど、結果どうあれその後も仲良くすることはないっていう。
どっちかが落ちるとかどっちかが受かるとかじゃなくて、お互いに受かったとしてもなぜか入学後はちょっと疎遠みたいな。
あるよね。
あるよね、なんかね。
何ならね、例えばグループディスカッションみたいなのさせられて、
ちょっとお互い二人組作ってちょっとお話をしてみてアイスブレイクしてくださいみたいなのやって、
そこそこいろいろお話すると、その後昼食にアイスとか行ってちょっと休憩になったときにたまたま会うとちょっと気まずいみたいな。
なんかね、なんかあるよね。
なんかあるよね。
だからね、そこを超えられるかどうかってやっぱり人へのコミュ力というか、
人に興味がある人間同士だからできるんじゃないのかみたいなところを感じると、
今回はカーター、フリーマンの方の働きかけで、
エドワードがちょっと心を開き始めるみたいな、そういう関係性なのかなって気がしますけど。
でもね、いや面白かったっすよ。
でしょ?
面白かった。
ど直球すぎるんだよね、正直。
ど直球すぎるんだよ。だからどうかなとは思ったの、これ見始めるときに。
死とどう向き合うかみたいなテーマっていうのは、やっぱりみんな描きたがると思うんですよ。
なんでかといったら、誰が見ても共有できる感情だから。
必ず死ぬからね。必ず死ぬから、死とはいずれ向き合わないといけないわけで。
だからそれをテーマにしたら、それはみんないろんな感想を積極的に持ってくれるのは確かなんですけれども、
ど直球で描くとちょっとね、どうかなっていうテーマではあるとは思うんですよ。
ただここまで逃げずに、本当に全力でそのテーマだけやりきるんだったら全然アリだねっていう気がしましたね。
ど直球といえば、現代がバケットリストですからね。
そうですね。
まあそうね、でも割とさ、リアルっちゃリアルなところを描いてくれたかなっていう気はするんだよね。
どのあたりだとリアルに感じた?
ちょっとポテチ食っていい?
いいよ。俺もじゃあカリカリチーズ食うわ。カリカリコーンチーズ。
15:06
やっぱり中でもね、ちょっと言ってたんだけど、シンクの危機モデル。
あのね、一つわかったのは、このコストコの片焼きポテト。
これ食ってると、バキバキっていう音で、お前の声が何も聞こえないことがわかった。
意味ないですこれ。だめだこれ。ちょっともう一枚ね。
フィンクの危機モデルについてお話をしたいんです。
これだめですね。
聞こえた今?
これだめです。何も聞こえないです。
話いいっすか?
どうぞ。水野みなさんもしばらくごめんなさい。
フィンクの危機モデル。衝撃、対抗、承認、適応みたいな感じのところを、
途中でモーガン・フリーマンじゃなくて、ジャクリン・コルソンが結構知ってるかみたいな感じで説明したりするんだけども、
あれ、ものすごくわかりやすく、その場面っていうのを起承転結として、この映画の中でも作ってるんじゃないかなっていうのがあって、
やっぱり、ガンになったよっていうところの衝撃の段階から、
なんとかなるんじゃないかっていうような、対抗であったりとか防御であったりとかっていう段階から進んで、
2人で遊びに行って、承認だったりとか適応だったりっていう段階で、適応まで進んだので、
もともとモーガン・フリーマンの方は旅が終わる頃には適応になっていて、
ジャクリン・コルソンの方はまだ承認から、ちょっとまだ防御的対抗っていうところがまだ少しちょっと動いていて、
最終的にモーガン・フリーマンが亡くなってから、この適応の段階っていうところに入っていくっていうところを、
すごく映画のプロットの流れっていうところをすごく表しているなっていうところが、
分かりやすく、フィンク説明しているなっていうところも一つあるし、
まあリアルじゃないところといっては、あんなに元気じゃないです。
そうですね。それはそうです。
あんなに元気ではないよ。
あれはね、ちょっと元気すぎるよねっていうのは感じましたけど、
これが映像作品の強みなのかなっていう気はするんですよね。
18:08
あんだけ元気に映像でやられたらもうなんか許せるというか、
これ文章だとピンとこないんですよ。は?ってなるところが、
映像ってやっぱり妙に説得力があるんだよね。
人間って映像とかを映像で見せられると割とすんなり信じちゃうというか、
こういう重いテーマをそこのけに明るいね、
2人のやりとりで終盤進んでいくような見せ方をしてますけど、
映画作る上でやっぱりそういう盛り上がりとか、あるいはちょっと嫉妬させたりというような環境が必要なので、
大病患っている2人があれだけ全力で楽しんでいる姿を見ることで、
なんかこう勇気づけられるみたいな、そういう風習があるので、
あれはもう許す。
この映画を見た人に注意が必要な部分が1点だけあるんですよ。
この映画の公開は2007年なんですね。
2008年からピラミッドは登れなくなりましたので、
この映画を見てピラミッドを登りたい人は、残念ながら今は無理です。
だいたいですね、世界遺産に登る、しかもそれが応募みたいなさ、
そういうものに登るという発想自体が、本来的にはよろしくないんじゃないのかっていう感はあります。
2006年、7年ぐらいまではみんな観光客登ってたらしいよ。
実際そこらへんの感覚が、もう少し現地というか、
そこに根付いていた信仰みたいなものをちょっと大事にしようよみたいな方向に動き始めたのって、
だいたいその辺ぐらい。
割とそういう発想がそもそもない人の方が多かったんじゃないのかなっていう。
確かね、僕がいつ行ったんかな、10年前?
10年もいかないかもしれないですけど、オーストラリアのウルル行っていたんですよ。
ウルル?
ナンチャラストーン、地球の変装。
あれだよね、セカチュウのラストシーン。
あれグランドケニョンじゃなかったっけ?
グランドケニョンだっけ?
忘れました。
なんて言ったっけな、あのでっかいやつ。
なんとかストーンだよね。マリッジストーンじゃなくて。
何ストーンだっけ?
オーストラリア石で出るかな。
21:00
石で出ると思うんだけど。
出てこないね。
あれちょっと年齢かもしれないって言われてる。エアーズロックだ。
エアーズロック、ストーンじゃねえじゃんって。
エアーズロックも今登れないんですよね、確か。
そうなの?
僕が行ったときが多分もう翌年から登れなくなりますよみたいな。
へー。
その直前ぐらいに行って、風が強くて登るツアーはやってませんみたいな。
ここで面白いのは比較的そういうのを感じて、あんまり良くないよねみたいなことをちょっと鼻につく感じで言いがちな俺が、
割と風吹いてなかったら登ろうとしてただろうということですね。
結局観光客なんてのはそう滅多に来ないから、どうせならって思うんだよね。
まあそうよね。
登るんなら登るわみたいな感じになっちゃうから。
でも本当はエアーズロックも、それこそ勝手に自分のネームタグみたいなものを釘で打って、
金属プレートをつけてみたいなのをやってた人たちもいたぐらいのない場所にされていたんですけど。
非常にアボリジニの方々からしたら神聖な場所なので、ありえないことなんですけれども。
そりゃそうだよな。
ちょっと話それちゃったね。
でも今回の作品のテーマが死であるっていうことを考えると、
ピラミッドの最上階っていうのは一体何を意味するかって言ったら、
あれは結局死んだ王の天に登るための階段を模してるみたいな説もありましてね、ピラミッドなんかは。
そうだね。
太陽信仰がありますから、太陽により近いところに近づけるような、そんな構図を持ってるわけで。
そこの頂上で2人が残された生についての話をしていく。
ある意味では死んだ後のことをちょっと考えて、どう生きるかを逆算して考えていくみたいな、
そういうシーンとして考えると、意味はあるなっていうようなロケーションだったなって気がしますね。
あとは何だろうね。
なんか結構ね、僕がメモったことをね、結構対比させたり絡めたりっていう内容しかないんだけど。
じゃあちょっともう、作り方の概要に行きますか。
いいですか。
最古の人生の作り方はand so it goesですね。
うん。
どう翻訳します?
and so it go…
and?
and so it goes。
そして続いていくんですね。
まあ、このタイトルの方がいいよな。
24:00
最古の人生の作り方って何?ってちょっと思っちゃうけどね。
まあなんか、1本目であれでしょ、最古のって入れちゃったから。
入れちゃったからね。
しかもバケットリストと見つけ方ってちょっとなーっていう気がしますけど。
こっちはでも僕が思うに、やっぱり続いていくんだよねっていうのってすごく大事な視点だと思うんですよ。
いわば二人ね、このオーレンとリアはお互いに立ち止まってんだよね、ずっとね。
話の始まりからオーレンは妻の墓参りに行って、自分たちの今家を売ろうとしている状態からスタートしている。
リアは自分のシンガーとしての仕事をしなきゃいけないにも関わらず泣いちゃうっていう。
死んだことを思い出して泣いちゃって全然仕事は手につかないみたいな。
二人は死を契機に先に進んでないんだよね。
オーレンは先に進んでるように見せてはいるんだけれども、家もどちらかというと早く手放して楽になりたいみたいな。
そういう視点での売り方をしているし、完全に自分だけの世界で生きてる。他者は関係ないと。
他者と関わることがいずれは自分が傷つく理由になるから、だったら傷つきたくないから誰とも深い関係性を結ぼうとしないみたいなね。
その辺りの感覚っていうのが僕は結構分かったりして、いずれ終わっちゃうなら始めない方がいいみたいな気持ちになることってあるんでね。
あそこまで突き抜けたことはないですけど。
でも結構、所属するコミュニティによっては結構同じように立ち回るというか。
ここで関わりあっても絶対に今後続いていかないと思うんだったら、始めっからそこまでみたいなふうに思っちゃうタイプなんで。
なんかオーレンの生き方にはすごく感じるところがあったりはするんですよね。
オーレンに関しては、しかも亡き妻との間に一人息子がいて、その息子が役をやって結構グレてたと。
妻の葬式でありった状態で来て、そこで感動して、それ以来全然会ってないみたいな、そんな設定だったと思いますけど。
そこにそんなクソ坊主の抑えた娘がやってきて、サラですね。
で、サラを預からなくなったっていうところから話が進んでいく。
2人の時間が流れ始めていくっていうような感じでしたけど。
徹底したこれは、最高の人生の見つけ方が、ある意味ではいかに死ぬかだよね。
27:02
どうやって死に向かっていくかっていうものを描いてたのに対して、
死によって残された人たちがどう生きればいいのかっていう視点で描かれていて、
いずれも死は大きなテーマなんだけれども切り口が全然違う。
オーレン森はもう大事な人がいて、その大事な人が死んでしまった。
でも大事な人が死んでも、日々は続いていくわけで。
その続いていく日々の中で、次に何を紡いでいけばいいのかみたいなことを描いている作品。
僕どっちかっていうとこっちの方が好きだったんだよね。
まあラブロマンスだから正直興味ないんだけど。
ただのラブロマンスではないわけじゃないですか。
愛する人が死んだら、もう二度と誰も愛してはならないのかみたいな話にもつながってくると思うんですよ。
ここって、わりと日本人はあんまり好まんよねっていう。
まあそうだね。
多分アジア的な感覚だとは思うんですよ。
実際、例えば中国とかでも朝廷が滅びて、
新しい都ができたときに、新しい帝の配下になるような人を見下すような技術っていうのが、
民進の時代ぐらいからあるんですよね。
日本に至ってはもう言わずもがなで、純子の文化があったわけですから。
そい遂げるということが、男女間だけでなく、仕事の中でもそうだったりとか、
一度つないだ絆っていうものは、最後まで徹底すべきであるみたいな。
そういう視点がやっぱり強く残っている感じがするんですね。
まあ多分儒教の思想的なところがやっぱり強いよね。
やっぱり未亡人っていう言葉があるぐらい、まだ亡くなってない人だからね。
多分そういうのが強いんだろうけど、
アメリカって実際どうなんだろうね、その未亡人に準ずる言葉ってあるのかしら?
ウィドウじゃないの。
ウィドウか。
ウィドウってどういう意味なんだろう。
ウィドウじゃないの?違うの?
いや、ラテン語的にさ。
その語源的にってこと?
そうそうそうそう。
わかんねえな、それ。
語源…えっと…
30:01
ウィドウの語源、古代中国の音に準じて…
あ、でもやっぱり未亡人っていうことみたいだね。
ウィドウを分ける話すって意味から始まってるみたいですよ。
うーん、でも分けるなんだね。
そう、分かたれるってことでしょうね。
だからやっぱり根本的な考え方はちょっとやっぱり違うよね。
別れられたっていう、世界が分断されたっていう考え方と、
そっち側にまだ行ってない人っていうとらえ方じゃん。
日本とかアジア圏に関してはさ、未亡人だとか純子っていう文化があるから、
本来そっち側に行くべきなんだけど、まだ行ってない人っていうところと、
世界が分断された人っていうところだからやっぱ違うよね。
だから分かたれてないんだよね、死んだとしてもっていうような。
そういう感覚なのかなって気がします。
ある意味では死に対する考え方の違い、
宗教的な考え方の違いもおそらくは関わってくるのかなって気がしますけど。
でもやっぱり絆はそこにあって、
でもだとしても別に愛が他にあってもいいじゃないっていう考え方は、
気が楽でいいし、
より良く生きようと思った時には非常にいい視点なのかなって思いますけどね。
そうね、その辺の考え方って、
ある意味離婚の考え方もすごい違うなと思っててさ、
向こうで離婚ってなっても、完全にセパレートする場合もあるし、
あるいは共同親権っていうような形で、
例えば週末だけパパのとこ行くとかさ、
離婚はしているけれども、お互い信頼できる人間であるみたいな付き合い方っていうのは、
往々にして、これ映画だけの世界なのかもしれないけどね。
綺麗なところばかり描いているところはあるかもしれないですけれども、
そういう関係性のパートナーがいるっていうのは聞きますよね。
だからそういうところもあるのかもしれないね。
僕が今回言いたかったことが2つしかなくて、
共通点に関することっていうところが2つトピックスがあるんだけど、
まず1つは、どちらの映画を見ても、
やっぱり樽を知るっていうことが1つのキーワードになってるんじゃないかなと思うんだよね。
見つけ方の方では、新しい体験っていうものを刺激を求めたりとか、
挑戦みたいなところとやってたんだけれども、
結局最終的には自分が今まで培って持ってきたもの、
33:00
今持っているものっていうのの価値の再発見をしているわけだし、
あとその過ごし方の方では、
アパートの住人がすごい面白い描かれ方をしてるなと思って、
そのアパートの住人たちの交流を通して、
恋愛・結婚・子育て・出産のライフステージの追体験を、
オーレンとリアオがしているっていうところ。
確かにね。
そうそう。
その追体験をすることで今までの人生を振り返って、
価値を再発見をすることで次に進むみたいな描かれ方をしていて、
やっぱり今何を持って生きているのかって、
何に満足できるっていうところの価値っていうところの樽を知るっていうのが、
やっぱりキーワードになってたんじゃないかなと思ったんよね。
でもわかりますね。確かに言われてみればそうですね。
人生、ライフステージのすべてをなぞってますね。
そうそう。ゲットしてるんだよ。
それが生命に触れていく過程で、
人はやっぱり生きようと思うみたいなところにもなるのかなっていう。
やっぱり結局死とずっと向き合い続けてきてるわけじゃない。
パートナーのね。最も近しいパートナーの死から目を反らせないというか、
ずっとそこを凝視してしまっている2人が、
そこじゃないよね。生きていくっていうのは。
人が生きるっていうことは誰かに育て育てられること。
それに触れることによって、ようやく自分が生きなければいけないんだ。
残された自分たちは生き続けるんだみたいなところの視点に
引き戻されていくみたいなところはあるのかもしれないし、
キリスト教的な価値観にもなりますけど、
やっぱり生命を充実させるっていうことが非常に重要なわけで、
当然、自死すること自体がそもそも禁じられているぐらいですから、
死に向かい急ぐことにもなるわけじゃないですか。
死を見つめ続けることっていうのは。
そうじゃないよねっていうところに引き戻す作品なのかな。
確かに、そういう意味ではキリスト教も仏教も、
現世での行いっていうところが、
あの世での充実度に変わってくるから、
やっぱり現世でいかに充実した人生を送れるか、
他者とどういうふうに関わっていくかっていうところが、
死後の何かっていうところに関わってくるっていうような定義だからさ。
36:02
やっぱりどういうふうに関わっていくのかっていうところが、
やっぱり一つの大きなテーマになるよね。
そうね。
なんかね、僕今回これを通して一個見直したことがあって、
僕は全然宗教を持たないんですけど、
自分が全てだと思ってるんで、自分教なのかもしれないですけど、
死んだらもう終わりだなって思ってるんですよ。
観測者たる俺がいないからね。
もうそれでいいかなと思っていて、
だから死んだら極楽にいけるだとか、
天界に迎え入れられるみたいな話を聞いても、
やっぱりいまいち僕はピンとこない人間なんですよ。
そういう罪深い人間なんですよ。
そういう罪深い人間がそういう話を聞くとどう思うかって言ったら、
本当にそんな言葉で俺のこと慰めなくていいよみたいな別に、
しゃあねえししなんていうふうなスタンスなので、
そんなね、みたいな思ってたんですけど、
始め方じゃないやつだっけ?
始め方だったんだっけ?見つけ方だっけ?始め方?作り方?
もう分かんない。
作り方と見つけ方。
作り方を見て気づかされたんですよ。
何も死を恐れる人たちを助けるためだけに、
死後の世界の思想があるわけじゃないなって。
自分に近しい人が死んでしまったときに、
その人がもう消滅して、自分二度と会えないし、
今この世界には存在しないんだっていうふうに嘆くよりも、
その人は次のステージに行っただけなんだよっていうふうに思ったほうが、
まあ気持ち的には確かに救われるなっていう。
自分がどうじゃなくて、
誰か近しい人が亡くなったときにその思想に救われるっていう感覚は、
僕でも理解できるなっていう。
確かに葬式ってある意味そういう行動なのかもしれないよね。
葬式ってぶっちゃけさ、
なんかすごい極論だけどさ、
もう死んでるんだからさ、やんなくていいじゃん。
まあそうね、見てないから。
国に定められた埋葬だったり処理の仕方、
極論言えば処理の仕方をすればそれで済むわけだから、
やんなくてもいいってなるけれども、
やっぱり生きている人間が、
例えば親族であろうと友人であろうと、
亡くなったねっていうところをこんなにも多くの人と共有するとか、
あるいは親族だったら、
一緒にパートナーだったこの人はこんなにも多くの人に慕われていた人と、
39:04
私はパートナーになれたんだなっていう、
その再確認ができるだろうし、
思い出を共有し合うことでまた次のステップに進むっていうことができるかもしれないし、
あと友人同士だったら、やっぱり寿司食ってビール飲んで、
思い出話に花咲かせるわけじゃない。
そうね。
そこで多分区切りをつけているっていうのが、
なぜ葬式をするのかっていうところと、
やっぱり被ってくるのかなと思った。
そうね。やっぱりそれに関しては、
背景となる宗教が違っても、
人間はそういう営みを世界各国で各地で脈々とやってきているっていうのは、
やっぱり同じ人間なんだなっていうのを感じてちょっと僕は嬉しくなるのよ。
確かにね。
やり方は違えど、痛むっていう行為は、
やっぱり万国やるからね。
だってそれこそね、何千年も前からそうだったわけじゃないですか。
エジプトのピラミッドだってそうだし、
別にピラミッドみたいな超巨大なオーボに限らなくても、
屈送されている骨の中に、
動植物の種らしきものが入っていたりだとか、
装飾品が一緒に埋められていたりだとかさ、
やっぱり痛む行為っていうのは、
それこそそういう具体的な思想が生まれる前から人間はしてきてるんだっていうふうに思うと、
やっぱりいかに生きるかっていうのを、
誰かの死をもって改めて考えるっていうことは、
人間のDNAに染み付いた何かがそうさせてるんだなっていうのを、
なんとなく感じますね。
だからこそね、それはやっていかないといけないことなんだろうね。
ずっと自分だったり、誰かの死のことばかりを考え続けるっていうのは、
あんまり良くないねって思ったから。
そう思えるようになったのは、
自分が年取ったからなのかなって思うんだけど。
そうだね。
でもなかなか、やっぱり、
触れ合ってきた死って、自分の中で割と蓄積されるからさ、
この方はこういう死に方したなとか、
この人はこういうふうに死んだなとか、
っていうところが、
逆に自分がどう死にたいかっていうところの考察につながっていく面もあるから、
ある意味、メイメントモリボンはすごい大事なんだろうね。
まあね。
死を思うことで今をよりよく生きられるんだっていうのは、
42:06
わからなくもないというか。
ただやっぱりそこにね、その死にさ、
何だろうな、
切実感がないとメイメントモリって生きてないよねっていうのも感じるんですよ。
やっぱりその言葉が生まれた時の時代背景だったり、
人々の平均寿命だったり、衛生環境だったりとか、
そういうことを考えたらメイメントモリは、
かなり説得力のある言葉だったろうなって思うんだけど、
今の我々が今の生活の中でメイメントモリできるっていう。
ふわっとは考えるよ。
正直、この高度文明になってからっていう、
もうそうだと思うんだけどもさ、
あまりに死というものが隠されすぎてる気がするんだよね、僕は。
日本的思想でも汚れとかっていうところはあるんだけれどもさ、
死そのものって必ずきれいなだけのものでもないし、
めちゃめちゃ小汚いものもあるし、
薄汚れたものもあるし、
殴り合いになるような感情の行き違いみたいなところもあるし、
いろんな感情が織り混ざってるものっていうのが死だと思うんだけれども、
ある意味、今の現代社会で死を美化することを強制させられてる気がするんだよね。
いろんなドラマ映画でもそうだし、
日本人的思想でいうと、それはそうなのかっていう気もするけれども、
亡くなった人を悪く言うことっていうこと自体も、そんなにゼとされないじゃない?
亡くなってんだからそんなこと言うもんじゃないよ、みたいなさ。
それはそれ、これはこれじゃない?って思う面もなくはないの、僕自身はね。
死そのものを美化されることによって、
いかに自分が生きるかっていうところがどんどん境界化していくっていうかさ、
ふわっとしたものになってるような気が僕はする。
関連する話なんですけど、
僕はやっぱその死が隠されているっていうのは、死に限らないと思ってるんですよ。
人間社会で隠されてるのはね、生命そのものなんだと僕は思ってるんですよ。
これ一体何かっていうと結局、死、要するに命の終わりですよね。
45:01
例えば動物を殺して肉を食ってるということすら、意識しなくても生きていけちゃう。
誰かの死みたいなものも、どんどん言葉が濁されて、報道ですらなんかふわっとした表現を使うようになってきてる。
そして何より、生命の誕生のことも隠されてるわけですよ。
セックスが。
これって何なんだろうなって。
人は生命と向き合うことをなぜそんなに恐れるのだろうかと。
よくわからないなってすごい思っていて。
僕はそこの感覚の背景に、やっぱり人間が人間であろうとして、
社会的な生き物であろうとするために、動物的な部分を全て隠そうとしてるのかなっていう。
気はしてるんですけど、別にあんまり深く考えてないから、
僕の中で絶対こうだろうなっていう。
殺し文句はないので、そこでふわっと終わってるんですけど、
そういう感はあるなっていうのを日々感じてるんですよね。
でも考えた方がいいよねっていう。
さっき大間が言ってた死を美化することが果たして良いのかみたいな話あったと思うんだけど、
美化する必要なんて全くないし、現実はちゃんと捉えた方がいいよねっていう。
はっきり言えるのは、人は命を利用して生きてるわけじゃないですか。
生きた動物を殺して食べるし、時には道具とするために殺すし、
ペットだって可愛がってるとは言うけど、
あれって命を言うならば持て遊んでるわけじゃないですか。
自分の意図によってね。
別に彼らにも自分の意思で生きる権利はあるはず。
だけどそれをさせずに自分の意思で自分の囲いの中で生かしている。
あれはやっぱり持て遊んでいるというふうに取ることもできる。
別に僕は批判したいわけじゃない。
そういう見方もできるっていうこと。
側面もあるよっていうね。
犬や猫を使って動物性セラピーを行う。
それも非常に美しい話ではあるんだけど、
それも利用して生きてるよねっていう。
人間はあくまでこの世の中の主体として、
周囲の命っていうものを徹底的に利用・活用して生きてるよね。
それは別に悪いこととかではなくて、事実でしかないんだから。
そこを何か美しい言葉で誤魔化す必要はないだろうというふうに思うんですよ。
他の命への憐れみだったりだとか感謝みたいな言葉を忘れないみたいなのもわからなくもないし、
それはとても批判されるような対象ではないと思うんだけれども、
感謝云々とは言いますけれども、
やっぱり一方的に時に奪い、時に持て遊びで生きてるんだから、
48:03
その事実からむしろ逃げずにそれを真っ直ぐ受け入れた方がよほど潔いんじゃないのかみたいなこともすごく感じたりはするんですよ。
うんうんうん。
でも今話聞いててちょっと思ったんだけど、
人間が根本的にそういうふうなことを考えたのって、
やっぱり宗教の発明が大きいのかなっていうふうに思って、
その命がどういうふうに扱われたりとか、命をどういうふうに扱うのって根本としては宗教の話にやっぱりどうしてもなってくると。
宗教をするとしたらその崇拝であったりとか威負だったりっていう感情が必ず織り込まれてくる。
ですると、子里編の方の性っていうところと、死っていうものそのものが美化したり威負したりっていうことが当たり前になってくる。
ですると、より隠さなければいけないものとか、恐れているふりをしなきゃいけないとか、
この美しいものとして捉えなければいけないものっていうところにまた繋がっていくっていうのがあるのかなってちょっと思った。
今のもすごく感じるところはあるね。距離の取り方の問題だと思うんですよ。
あがめる、持ち上げるも、落とす、恐れるも、いずれも距離を取るための行為だからね。
だから性に関しては穢れ的な問題にもなって、美しくないものとして。
どこぞいほっぽり出すわけじゃないですか。エッチなのはいけないと思いますって言って、距離を取るわけですよ。
で、一方で、そんなこと言ったってハリウッド映画とか抱きまくるじゃないみたいな、って言いますけど、あれはあれで美化して持ち上げて距離を取ってるわけですよ。
もう結局やってることは同じだよねっていう気はしますね。
当然の営みの一部として扱ってることってなくないっていう。
なんだろうね、死、宗教。
いつか僕これ中庭でやりたいテーマの一つであるんだけど、
萌えさんがいるときに絶対入れ込もうと思って、まだ当たったことはなくて。
当たんないですね。
51:00
当たんないテーマが、人は神か動物か、あるいはその中間か。
っていうのをいつかやりたいので、ここでは深くは語らないんだけど。
ある意味人間という存在が精神疾患のように自分を神と誤認しているんじゃないかなっていうのが僕の持論なんだよね。
人間特有の病気みたいなのが、人間病があるんじゃないかなって思っちゃうんだよね。
まあでもそうだよね。それは大いにあるかなっていう気はする。
なんだろうね、やっぱり線を引きたくなるのかな。
自分は考えることができるということを客観視することができることによって、
特別視しやすくなるんじゃないかなっていう気はします。
別に、所詮は数多い命の一つに過ぎないので、
別にどこを言ったってしょうがないし、僕らが名を轟かせたところで、それは人間界の中での名であってね。
自然界の中の名ではやっぱり到底なり得ないんですよ。
けどそのあたりが結局自分たちの捉えている世界というものが、自分たちの世界であるというふうにやっぱり僕らは思っているので、
どうしてもちょっと天狗になるよねっていう気はしますけど。
でもだったらだったらね、自分たちの営みの全てを真正面から受け止めてほしいなとは思うんですよ。
生の話がなんでこんなに遠ざけられるんだろうという気はしますね。
しかも最近、生と死って遠ざけるどころか他人任せになってきてない?
一昔前って言ったらどのぐらいまでを指すのかをちょっと僕は謎ではあるんだけれども、
ふと気づいた時から生と死って家庭で教えるものじゃなくなったよね。
確かにね。
生教育が大事だとかさ、ライフプランの授業をするとかさ、
根本的に道徳の授業もそうなんだけどさ、
これって家庭のしつけの範囲じゃね?って僕は思っちゃうのよ。
それを学校教育として日本で生きる上での最低限の人格を与えるっていう意味では、
学校教育であるでやるっていうこと自体に僕は何も反対はないし、むしろ賛成なんだけど、
そこでやってるから家庭の中では何もしなくていいよねって考える人たちが多すぎる結果、
余計にタブーシが加速しているんじゃないかなって気がする。
でもまあ、僕はちんちん皮むいて洗えってちゃんと押し付けられましたけどね。
今回はちょっとさすがにあれか?センシティブにつけとくか。
54:05
ちんちんまでいっちゃったら、ちんちんはあれだよ。
ちんちんはちょっとまずいよ。
ちんちんは政府みたいな風潮ありますよね。
まあちんちんは政府とかね、
政府の方が、
ちんちんって言う言葉を連発してるんだけどさ。
うっかりつけが当たったりするかもしれないので、ちょっと気をつけてください。
ちょっと僕がやべえやつみたいになっちゃうぞ。
いやでも、確かにそうね。
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
いやでも、確かにそうね。
そのあたりの話っていうのは。
いやだからやっぱりそこら辺もやっぱり、
西洋から入ってきた文化もあるのかな?どうなんでしょう?よくわかんないわ。
いわゆる予備の習慣、風習がある地域の話とかも出てくるとは思うんですけど、
性に関することっていうのは、コミュニティの存続に関わるから、むしろ積極的に話題に上がり、
なおかつ年長者から年少者に対して積極的に教えていくべきものであったはずなんだよね。
そうだよね。
ところが、それが何か晴れ者のように扱われ始めたのは一体何ぞいというのは、
おそらくはやっぱり社会の仕組みが変わっていったことと関係性は深いとは思うんですよ。
言うならだから、産んで増やすことっていうのがそこまで重要な目的とされなくなってきたこと。
そして、個人の権利っていうものが拡大し、集団の利益っていうものが縮小していったということ。
おおむねこの2つに異分されるんじゃないのかなという気はするんですけどね。
ただ、事実として我々は生物で子孫を残す仕組みになっているので、
それを語ることに臆病になる必要は全然ない。
別にそれはやれやるなという話ではなくて、
こういう仕組みで人間っていうのは生まれてきていて、それはどの生物もほとんど大きな違いはないぜっていう話はしていいじゃんっていう話でしかない。
セックス自体が、生殖行為としてのセックスもあるだろうし、
ボノボだったりとか、普通の野生動物でもコミュニティの存続のための協調関係としてのセックスっていうのも、
57:03
人間と同じようなパートナーシップとしてのセックスみたいなのも、自然界でも全然やっていることではあるんだよね。
ただ一応、知っててやることと知らないでやっていることと、
全然話が、やってるっていう行為自体は変わらないけれども、
知識を持ってやるかやらないかの選択をすることっていうのは非常に意味があると思うんだけれども、
知識を持たざるに、とりあえずやってみて知識を得ようとすると、やっぱり歪みが生じるんじゃないかなっていうことを僕は思うから、
やっぱり知識だったりとかっていう、その経験は後からつけることはできるけれども、予備知識っていう部分では、
タブーしせずにもっとオープンにしていかなきゃいかんのではないかなっていう気がする。
ある意味で今回のログライナーがやってることっていうのは、やっぱりありですよね。
要は土著級で描いていいじゃんっていうそういうことって。
ただ言ってしまえば、ことさらに美化されてるから、そこに関してはまたちょっとね、意見は別れるところかなって気がしますけど。
特に教育の部分っていうところで言うと、例えば幼少期に性のことをおっぺろげにしすぎるっていうのは、これちょっと発達上非常に問題があるってことはもう既に明らかになってるから、
それはその発達のステージに合わせた教え方っていうのはもちろん検討すべきだと思うので、
誰にもかんでも何でもいいからオープンにしろっていうことではないんだけれども。
それもだからさ、今この高度情報社会でだいぶ歪んできてはいますよねっていう。
大人が何したところで子どもたちは好きに自分がちょっとでも興味を持ったら、いろんなコンテンツに手が出てしまうという環境にあるわけで、
発達段階に応じた選択は子どもが主体になってできないというね、本当に非常によろしくない環境にあるとは思うんです。
そこにどう対抗していくのかっていうのを考えていかないといけない。
そういう本気の性教育っていうものを考えていかないといけないフェーズに実はあるとは思うんです。
一方で全てに目隠しをしたらどうなるかって言ったら、当然それはそれで非常に大きな、また異なる歪みになるわけで。
実際、学校教育で性教育がしっかり行われるようになったのって、
確かお医者様か箱入り娘のご霊嬢を騙して妊娠させた事件っていうのが、昭和?大正?年間とかに確かあったんじゃなかったっけな。
まるっきりそういう性的な知識を持ち合わせていないご霊嬢が、治療と称してみたいな。
1:00:04
エロ漫画でありそうな。
どこが創作だよみたいな感じで。本当に実際そういう事件が確かあって、それで性教育って家庭任せにしてもダメじゃないみたいな。
ちょうどだからその辺りを家庭に任されて、というかコミュニティに任されてコミュニティが勝手にやってたことっていうのがだんだん薄まってきたときのちょうど歪みに当たるタイミングで、
そういう事件が起きてきていたっていうのが多分あったのかなっていうふうに思うので、やっぱこの性と死、そしてセックスだよね、セックスも含めた性と死っていうものに向き合っていくことっていうのはやっぱり人間絶対に避けることはできないので、
どう向き合うのかっていうのは今回のテーマですけれども、結構重きを占めるというか、ちゃんとビジョンを持っておかないといけない部分なんじゃないのかというふうに思うわけです。
もう一つの僕がちょっと話したいトピックスでもあったんだけども、それをするときに一人じゃ無理っていうところがこの映画の中でも語られて、表現されてたんだと思うんだよね。
やっぱりどっちの映画でも重要なのっていうのは、いかに人と関わるかっていうところだと思うんだよ。
人と関わったりとか意見を交わしたりとか、あるいは人との関わりの中で葛藤したりとかすることで、相手を通して自分自身が鏡のように見えてくることっていうこと自体がすごく大事なんじゃないかなと思って。
やっぱりそのいざこざが起こっているときって、しんどいしめんどいしだるいんだけれども、でもそれをしばらく経って振り返ったときに、
必ずしもいい思い出になっているっていう、そんな煌びやかなことを言うつもりは全くないんだけれども、それがいい思い出にしろ悪い思い出にしろ、自分の体験として経験として蓄積されているっていうそのこと自体っていうのがすごく大事になってくるから、
やっぱりそれが一人きりで過ごしていると、自分自身が見えてこなくなるから、やっぱりリアもオーレンも自分の中の殻に引きこもっていたからこそ進めなかった。
人と関わるようになってから進めたっていうところは、やっぱりこの人と関わって自分自身を見直すっていうことの重要性っていうところが表現されてたんじゃないかなと思うんだよね。
だからこそ、自分の成長につながるような人と出会うためにもいろんな人と関わっていかなければいけないという。
1:03:00
同時に関わっていてもそれを対象化できてないと、自分一人で生きている気になってしまうっていうのもあると思うんですよ。
最高の人生の見つけ方のコールとトーマス秘書の関係なんかもそうなのかなって。
コールは当初全然もうトーマスのことを無視じゃないけど、もうしがにもかけてないというか、ただ手足のように使ってるだけ。
名前なんてどうでもいいみたいな感じだったのが、物語が進んでいくにつれて態度は変わってないんだけれども、そこにユーモアが乗ってくるようになってくる。
それでお互いに信頼の言葉をかけながらも、どこかでちゃんと信頼関係が、こいつは俺のことを信じてるし、俺もこいつのことを信じてるんだなっていうのを、
互いが違う立場なのにも関わらず共有できてるような関係に最終的にはなっていくじゃないですか。
気づいてないだけで自分を支えてくれる、自分に変化を与えてくれるような人は実は近くにいるかもしれないっていうことも、僕らは考えておいた方が生きやすくなるのかもしれない。
俺一人なんだって思うんじゃなくて、気づいてないけど自分を支えてくれてる人近くにいねえかなっていうふうに一度目を向けてみるっていうのも大事なのかなっていうのをちょっと感じましたね。
シャンシャン台風のいつでも誰かかっていうことだよね。
そうですね。ポンポコね。
ポンポコです。
それね、グループ名知ってる人全然いないから。
なんで?
いないから。歌のフレーズ、歌いだし聞いたらあああれねとはなるけど。なるけど。シャンシャン台風知るかっていうのはなるからね。
知っててほしいなあ。
一瞬頭にハテナ浮かびかけましたけど。ぼちぼち1時間超えましたんで、ちょっと今日の結論につなげていこうかなと思っているんですけど。
死とどう向き合いたいですかね。
どう向き合いたいか?
向き合いたいかです。どう死にたいかじゃないですね。どう生きたいかでもないです。死とどう向き合いたいかです。
まあ、人の距離感の持ち方とかでもいいですし、死をどう解釈しておきたいとかでもいいし、なんでもいいですけどね。
そうだね。僕自身は割と死に近い、死のことをよく考えるっていうところは今の現状あるから、
そこに時間がかかっても必ず、いろんな死っていうものから目をそらしたくないなとは思ってる。
1:06:04
今まで亡くなった人たちっていうところもそうだし、今生きている人たちっていうところもそうだし、その人たちとどう生きるか、あるいはどう死なせるか。
僕が直接手を下すわけじゃないけどね。
それはやめてくださいね。怖すぎますね。
それを両方ひっくるめて、生きるために死と向き合うっていうところは目をそらさないでおきたいなっていうのが、僕の向き合いたいと思ってるやり方だよね。
生きることと死ぬことってのは表裏一体なので、どちらかを意識するってことは、そのどちらかをまた意識するということになりますもんね。
死との向き合い方ね。僕は不老不死を目指そうかな。
水銀飲めばいいんじゃない?
コロッといきますから、死亡程度だから。
でもね、死を恐れること自体がナンセンスなんだろうなって、本来的には。
直面して初めて本当の怖さを知るのかもしれないんだけど、
僕は本当に幼いときに病院に行って、結構大きな手術をして、
あのときに死んだらどうなるのかなってちょっと考えたんですよ。
何よりまず、宝くじみたいなもんだなっていつ死ぬかっていうのは。
当たる人はいきなり当たるし、当たらない人はなかなか当たんねえし。
いつ来てもおかしくねえんだなっていうのをなんとなくすごい感じたんですよ。
それまでやっぱり自分の近くで死んだ人なんて全然いなかったからさ。
意識なんて一切してなかったんだけど、そういうことをすごい感じて。
ひいばあちゃんがその後死んで、こういうことなんだなっていうのをなんとなく感じて。
でもやっぱり、惜しまれる人って素敵だなとはそのときに思ったんですけど、
同時に僕はそうはなれないなっていう。
こんなふうに大勢の人から惜しまれるような人にはなれないなとも思ったんですよね。
だからなんだろう、せめてやっぱり自分だけは自分なりに納得できるように生きて、
そしたら仮にものすごく直面したとき怖くても、
本当にその間際にはこれもまた人生かなと思えるんじゃないのかと思ってるんですよね。
1:09:04
今まさにもう割と納得してるんですよ。
だからいつお迎えが来てももういいかなっていう気にはなってて。
いや別にこれはもう自ら進もうなんていうのはさらさらないんですよ。
僕は楽しいことが好きだから。
死んだら楽しいことなんて待ってないとは思ってるので、せっかくだから楽しみ続けたいし。
死とどう向き合うかって言われたら、いつお迎えが来てもいいように毎日を楽しく生きる。
毎日を楽しく生きることが僕にとっての死の迎え方ですね。
そうすれば死を迎え入れられるなっていうふうに思ってるんで。
そういう距離感で死と共に歩んでいきたいなと思ってます。
なるほど。
かっこいいことをかっこつけてますけど、
本当に目の前に死が迫ったら多分、
糞尿を撒き散らして泣き叫ぶ可能性ありますからね。
いやもう。
それはしょうがない。フィンクの聞き方でどうなるか。否認が。
まずはね。
まずはね。
受けることは当然できませんから。
まあまあ、でもね。
その状況になる前の段階ではせめて大きく構えていたいなとは思いますね。
いやーなんかでもね、なかなか綺麗な作品を2本見たんで、
自分も清い人間なんじゃないかってちょっと錯覚しました。
僕は清い人間だよ。
次のやめよう。
次のやめよう。チンチンチンチン言ってた人はね。
さあ、そんなところでいいですかね。
でもちょっとこれすごい良い作品だったんで皆さんもぜひ見てください。
心を洗われます。シンプルに。
いいなって思います。
今回本当は僕は、
日本人の宗教観とキリスト教的な宗教観によって、
どう使徒の距離感が変わるのかみたいなこともちょっと触れたかったんですけど、
もうね、疲れたよと。
宗教に疲れたんだよね。
宗教トークに疲れてきたっていうのもちょっとありまして。
一回封印だね。
一晩封印しようかなと。
本当はいろいろあるんですけど、
これはいずれ語りたくなった時にまた語ろうかなと思いますが。
というわけで、じゃあ終わっていきましょうかね。
そうですね。
何かあります?今日語り残したというか。
僕もちょっと今言っちゃいましたけど。
まあそうですね。
こうやってね、いろいろ語って気づいたんだけど、
今回この最高の人生のっていう、
人生自体がどんな価値を持てるのかっていうような、
1:12:02
人生の価値とはみたいなところを、
ちょっとその生と死っていうところを通して見ていってたんだけれども、
やっぱりこのね、映画を見て真ことを話しているこの時間、
これが最高の人生なんじゃないかなって思うよ。
ご視聴ありがとうございました。
01:12:34

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