最古の人生の作り方って何?ってちょっと思っちゃうけどね。
まあなんか、1本目であれでしょ、最古のって入れちゃったから。
入れちゃったからね。
しかもバケットリストと見つけ方ってちょっとなーっていう気がしますけど。
こっちはでも僕が思うに、やっぱり続いていくんだよねっていうのってすごく大事な視点だと思うんですよ。
いわば二人ね、このオーレンとリアはお互いに立ち止まってんだよね、ずっとね。
話の始まりからオーレンは妻の墓参りに行って、自分たちの今家を売ろうとしている状態からスタートしている。
リアは自分のシンガーとしての仕事をしなきゃいけないにも関わらず泣いちゃうっていう。
死んだことを思い出して泣いちゃって全然仕事は手につかないみたいな。
二人は死を契機に先に進んでないんだよね。
オーレンは先に進んでるように見せてはいるんだけれども、家もどちらかというと早く手放して楽になりたいみたいな。
そういう視点での売り方をしているし、完全に自分だけの世界で生きてる。他者は関係ないと。
他者と関わることがいずれは自分が傷つく理由になるから、だったら傷つきたくないから誰とも深い関係性を結ぼうとしないみたいなね。
その辺りの感覚っていうのが僕は結構分かったりして、いずれ終わっちゃうなら始めない方がいいみたいな気持ちになることってあるんでね。
あそこまで突き抜けたことはないですけど。
でも結構、所属するコミュニティによっては結構同じように立ち回るというか。
ここで関わりあっても絶対に今後続いていかないと思うんだったら、始めっからそこまでみたいなふうに思っちゃうタイプなんで。
なんかオーレンの生き方にはすごく感じるところがあったりはするんですよね。
オーレンに関しては、しかも亡き妻との間に一人息子がいて、その息子が役をやって結構グレてたと。
妻の葬式でありった状態で来て、そこで感動して、それ以来全然会ってないみたいな、そんな設定だったと思いますけど。
そこにそんなクソ坊主の抑えた娘がやってきて、サラですね。
で、サラを預からなくなったっていうところから話が進んでいく。
2人の時間が流れ始めていくっていうような感じでしたけど。
徹底したこれは、最高の人生の見つけ方が、ある意味ではいかに死ぬかだよね。
例えば動物を殺して肉を食ってるということすら、意識しなくても生きていけちゃう。
誰かの死みたいなものも、どんどん言葉が濁されて、報道ですらなんかふわっとした表現を使うようになってきてる。
そして何より、生命の誕生のことも隠されてるわけですよ。
セックスが。
これって何なんだろうなって。
人は生命と向き合うことをなぜそんなに恐れるのだろうかと。
よくわからないなってすごい思っていて。
僕はそこの感覚の背景に、やっぱり人間が人間であろうとして、
社会的な生き物であろうとするために、動物的な部分を全て隠そうとしてるのかなっていう。
気はしてるんですけど、別にあんまり深く考えてないから、
僕の中で絶対こうだろうなっていう。
殺し文句はないので、そこでふわっと終わってるんですけど、
そういう感はあるなっていうのを日々感じてるんですよね。
でも考えた方がいいよねっていう。
さっき大間が言ってた死を美化することが果たして良いのかみたいな話あったと思うんだけど、
美化する必要なんて全くないし、現実はちゃんと捉えた方がいいよねっていう。
はっきり言えるのは、人は命を利用して生きてるわけじゃないですか。
生きた動物を殺して食べるし、時には道具とするために殺すし、
ペットだって可愛がってるとは言うけど、
あれって命を言うならば持て遊んでるわけじゃないですか。
自分の意図によってね。
別に彼らにも自分の意思で生きる権利はあるはず。
だけどそれをさせずに自分の意思で自分の囲いの中で生かしている。
あれはやっぱり持て遊んでいるというふうに取ることもできる。
別に僕は批判したいわけじゃない。
そういう見方もできるっていうこと。
側面もあるよっていうね。
犬や猫を使って動物性セラピーを行う。
それも非常に美しい話ではあるんだけど、
それも利用して生きてるよねっていう。
人間はあくまでこの世の中の主体として、
周囲の命っていうものを徹底的に利用・活用して生きてるよね。
それは別に悪いこととかではなくて、事実でしかないんだから。
そこを何か美しい言葉で誤魔化す必要はないだろうというふうに思うんですよ。
他の命への憐れみだったりだとか感謝みたいな言葉を忘れないみたいなのもわからなくもないし、
それはとても批判されるような対象ではないと思うんだけれども、
感謝云々とは言いますけれども、
やっぱり一方的に時に奪い、時に持て遊びで生きてるんだから、
当たんないテーマが、人は神か動物か、あるいはその中間か。
っていうのをいつかやりたいので、ここでは深くは語らないんだけど。
ある意味人間という存在が精神疾患のように自分を神と誤認しているんじゃないかなっていうのが僕の持論なんだよね。
人間特有の病気みたいなのが、人間病があるんじゃないかなって思っちゃうんだよね。
まあでもそうだよね。それは大いにあるかなっていう気はする。
なんだろうね、やっぱり線を引きたくなるのかな。
自分は考えることができるということを客観視することができることによって、
特別視しやすくなるんじゃないかなっていう気はします。
別に、所詮は数多い命の一つに過ぎないので、
別にどこを言ったってしょうがないし、僕らが名を轟かせたところで、それは人間界の中での名であってね。
自然界の中の名ではやっぱり到底なり得ないんですよ。
けどそのあたりが結局自分たちの捉えている世界というものが、自分たちの世界であるというふうにやっぱり僕らは思っているので、
どうしてもちょっと天狗になるよねっていう気はしますけど。
でもだったらだったらね、自分たちの営みの全てを真正面から受け止めてほしいなとは思うんですよ。
生の話がなんでこんなに遠ざけられるんだろうという気はしますね。
しかも最近、生と死って遠ざけるどころか他人任せになってきてない?
一昔前って言ったらどのぐらいまでを指すのかをちょっと僕は謎ではあるんだけれども、
ふと気づいた時から生と死って家庭で教えるものじゃなくなったよね。
確かにね。
生教育が大事だとかさ、ライフプランの授業をするとかさ、
根本的に道徳の授業もそうなんだけどさ、
これって家庭のしつけの範囲じゃね?って僕は思っちゃうのよ。
それを学校教育として日本で生きる上での最低限の人格を与えるっていう意味では、
学校教育であるでやるっていうこと自体に僕は何も反対はないし、むしろ賛成なんだけど、
そこでやってるから家庭の中では何もしなくていいよねって考える人たちが多すぎる結果、
余計にタブーシが加速しているんじゃないかなって気がする。
でもまあ、僕はちんちん皮むいて洗えってちゃんと押し付けられましたけどね。
今回はちょっとさすがにあれか?センシティブにつけとくか。
人間と同じようなパートナーシップとしてのセックスみたいなのも、自然界でも全然やっていることではあるんだよね。
ただ一応、知っててやることと知らないでやっていることと、
全然話が、やってるっていう行為自体は変わらないけれども、
知識を持ってやるかやらないかの選択をすることっていうのは非常に意味があると思うんだけれども、
知識を持たざるに、とりあえずやってみて知識を得ようとすると、やっぱり歪みが生じるんじゃないかなっていうことを僕は思うから、
やっぱり知識だったりとかっていう、その経験は後からつけることはできるけれども、予備知識っていう部分では、
タブーしせずにもっとオープンにしていかなきゃいかんのではないかなっていう気がする。
ある意味で今回のログライナーがやってることっていうのは、やっぱりありですよね。
要は土著級で描いていいじゃんっていうそういうことって。
ただ言ってしまえば、ことさらに美化されてるから、そこに関してはまたちょっとね、意見は別れるところかなって気がしますけど。
特に教育の部分っていうところで言うと、例えば幼少期に性のことをおっぺろげにしすぎるっていうのは、これちょっと発達上非常に問題があるってことはもう既に明らかになってるから、
それはその発達のステージに合わせた教え方っていうのはもちろん検討すべきだと思うので、
誰にもかんでも何でもいいからオープンにしろっていうことではないんだけれども。
それもだからさ、今この高度情報社会でだいぶ歪んできてはいますよねっていう。
大人が何したところで子どもたちは好きに自分がちょっとでも興味を持ったら、いろんなコンテンツに手が出てしまうという環境にあるわけで、
発達段階に応じた選択は子どもが主体になってできないというね、本当に非常によろしくない環境にあるとは思うんです。
そこにどう対抗していくのかっていうのを考えていかないといけない。
そういう本気の性教育っていうものを考えていかないといけないフェーズに実はあるとは思うんです。
一方で全てに目隠しをしたらどうなるかって言ったら、当然それはそれで非常に大きな、また異なる歪みになるわけで。
実際、学校教育で性教育がしっかり行われるようになったのって、
確かお医者様か箱入り娘のご霊嬢を騙して妊娠させた事件っていうのが、昭和?大正?年間とかに確かあったんじゃなかったっけな。
まるっきりそういう性的な知識を持ち合わせていないご霊嬢が、治療と称してみたいな。