いいや。これできちゃうぜ。
動画で見てください。
一瞬見ると何がどうなってるかわかんないけど、僕は動画をひたすらスローモーションで見たりして、
だんだんとわかってきて、できるなってなって練習して習得したんですよ。
これが意味することは一つあって、僕らが小学生の頃なんて、
専門的に長跳びをやってる人みたいなものが近くになると、そんな跳び方を知ることもないし、
仮に知ったとして、改めて見るとか、自分の好きなスピードで見返すっていう機会を持つことはできなかったわけじゃない。
だから、ある種すげーで終わっちゃってたものが、
ちゃんと自分が習得したいと思ったら分析的に見たり、
あるいはトライアンドエラーの中で習得していくツールが手元にあるような時代になったと。
これってめちゃくちゃでかくて、だから子供の頃にできないな、自分にはこんなことできないんだって諦めたものが、
大人になってやってみると環境が完璧に揃ってるから、
それこそ理屈の上から入っていって、習得に至ることができるっていうことなんですよ。
だからこれってめちゃくちゃ嬉しいことで、ある種自分の中でコンプレックスがいろいろあるわけじゃない。
だから俺なんかも結局体がクソでかくて、成長のスピードがものすごい速かったからね。
それも多分あるのかと思うんだけど、体の動かし方がわからないうちにどんどん体重が重くなっていったから、
二重跳びなんて一回もできなかったわけよ、小学校のとき。
そういった中で大人になっていろいろ体がちゃんとできてきて、
動かし方っていう技術レベルっていうところが体の成長に追いついたときに、
改めてやってみるとびっくりするほどいろんなことが簡単にできるようになってくるわけ。
だからこの感覚っていうのは、ぜひ今生きている大人の皆さんにもやっぱり味わっていただきたくて。
今度ちょっと俺、逆上がりの練習しようかな。
そうそうそうそう。逆上がりも俺結局ほぼ大人ぐらいのときに初めてできましたから。
18ぐらいですかね。
今たに俺、一度として成功したことないんだよね。
大丈夫、それも。それももう動画の時代だから。
どこでどう踏み切ればいいのかとか、自分の動きのどこが悪いのかを録画して見返すことすらもできるわけで。
だから本当に完全な環境なんだよね。
自分を見返すというか、自分の課題に気づくみたいな。
そういうことが当たり前のようにできるような時代になって、これって非常に素晴らしいなと。
確かに僕、よくボラダリングをやるんだけど、自分のことを撮影するんですよね。
特にナルシズムでやってるわけではなく、
この時のこの手はこの順番で上げたほうが良かったなとか。
結局ボラダリングって体を使ったパズルゲームなんで、
そこには精神を病んだ凶悪犯だったりが収容されている精神病院アッシュクリフが建っています。
連邦法案官のテディ・ダニエルス、そしてその相棒のチャックはそこから1人の女性患者が脱走したという知らせを受けて調査のために船で乗り込んでいく。
これがオープニングです。
さてですね、島に着いた2人を待っていたのはとにかく奇妙な出来事ばかり。
嵐で足止めされてしまった2人は捜査を進めていくものの職員たちは何か怪しい目つきで2人を見てくる。
なおかつ謎に卑怯力的です。
テディはこの島では政府が患者を使って危険な実験をしているのではないかという疑いを目を向けて熱心に捜査に乗り出していきますが、
そんな中で島の外れに立っている灯台を怪しむテディ。
彼は果たして島に隠された秘密を暴くことができるのかというふうな軸で物語が進んでいきます。
ただそんな中、テディは島に入ってきてから悪夢や幻覚に油断されることばかり。
戦争中に目にした打破を強制収容所での惨状だったり、あるいは火事で亡くなった妻の姿であったり、
そして自分と因縁があるという謎の男、アンドリュー・レディス。
そんな影がちらつく中、少しでも真実に迫ろうと足掻き続けるテディ。
ところが捜査を進めていくうちに、彼はついに島の秘密が実は自分自身の秘密だったということに気づくことになります。
テディに隠された過去とは、そして妻が死んだ過去には一体自分はどう関わっているのか。
そして委員長が企んでいたわけじゃないんだよね。
この辺がどこまで説明していいかわからなくなりましたが、最後、ドン電返しが待っておりますのでぜひご覧ください。
はい、というわけでね、ただ語るには全部話さないといけないから、
ネタバレが嫌な人はここで一回止めていただいて、実際に見てください。
いやいや、もうネタバレしてるからね。
あらすじの中でもうネタバレしてるからね。
いやいや、わかんないじゃん、まだ。まだわかんない。まだわかんない。
自分に何か隠されてるの?みたいな感じになってるんで。
一応説明しておくと、家に放火して妻を殺したと言っていたアンドリュー・レディスは実は自分自身だったと。
そして妻が死んだ経緯としては、放火ではなく、自分の仕事にのめり込んでいたレディスに精神を病んでしまった妻がですね、
愛する我が子二人を湖に沈め、最終的に自ら焼かれて死んだんだっけ?
違う、普通にテディが射殺したんだよ。
普通に射殺したんだ、許せなくて。
あれ、きついですね。
現実を受け入れられないような状況にテディがなっていたからこそ、
あんなによくわからないことを言って、否定に死にかかるとか。
あるいはそもそも、海でボートでやってきたっていうシーンで、
非常に吐き気を催しているっていうのも、現実が囲われた世界の中で、
自分が馴染めないみたいなところもあるんじゃないかなとか。
っていうところで、やっぱり水と火っていうのが、そういう妄想と現実っていうところのメタファーになってるし、
あと灯台っていうのが、そもそもは、やっぱりこの海から見て、
こっちが陸地だよっていう道標になるような場所になってたんだけれども、
結局このテディにとっても、灯台というものが自分の真実を知るための道標になっていた場所だったみたいなことになると、
非常にメタファーの描き方としてすごく綺麗だなっていうのが、書館の最初の一つ。
なんで火と水なの?
そこは特に考えてない。
あ、考えてないんだ。
うん。
奥さんがやっぱり水で自分たちの子供たちを殺したっていう。
あ、そういうことか。
最もレディスにとっては目を向けたくない現実が水に投影されて、
だからこそ水と杖になる存在として火が妄想のメタファーになったんじゃないのって。
いいじゃん。採用。
多分今の論調に合わせるならそういうことなのかなって気がしたよ。
そういうことですよ。
わかりやすくないだって。
確かに確かに。採用。
じゃあそういうことで。
そういうことします。
ここでこの映画をちょっと見るために、ちょっと深掘りする知識っていうところをちょっとみんなで共有していきたいんですけども、
何を共有した方がいいかっていうと、この精神医療に関しての歴史をちょっとね、やっぱり知っといた方が、
なんでこのシャッターアイランドの場所でスキンヘッドのおっさんがあんな厚く語ってるのかっていうのが多分わかんないと思うんで。
これはね多分知ってみないと、結末の意味もちょっとよくわかんないと思うし。
だからその辺はね本当に大前提として知っておくといいのかなっていうのを思ってたんでお願いします。
シャッターアイランドの舞台っていうのが1950年代の精神病院アッシュクリフ。
この時代っていうのが本当に精神医療における転換期の過渡期になってくるんですよね。
それまでの精神医療っていうのはどういうふうに行われてたかっていうと、
まず精神医療という形作られた、それまでは結構精神を病んだとなると、
本当に閉じ込めて日の目を浴びさせないように力をに閉じ込めるとか、あるいは塔のてっぺんに閉じ込めるとか、
あるいはそもそも殺してしまうみたいなことが往々にしてあったりとか、
いわゆる魔女裁判にかけたりとか、宗教的なことに悲劇すべきものとして処刑したりっていうことがよくあったんですけども、
やっぱりそれが精神疾患っていう一つの病気なんだよっていうところが発見して、
治すべき対象だってしたのが1930年代から40年代ぐらいですね。
2次世紀前半のその辺の時代っていうのは身体ショック療法っていうのが主でした。
例えばなんですけど、メトロゾール痙攣療法って言って、薬で痙攣をガーッて誘発して、
その痙攣を起こすことで妄想とか幻覚っていうのが改善するんじゃないかっていうような考えられたっていうような療法があったりとか、
あるいはインスリン混水療法って言って、大量のインスリンをポーンって入れることによって、これも気絶させるんですね。
だけど、この混水から覚醒をするっていうことをリセットするみたいな、そういうイメージで行われてたっていうのだけども、
両方とも結構死亡リスクが高かったっていうところがあったんですね。
今で考えると、とんでもねえ治療やってるなっていう気はするんだけども、
これもやっぱり初期の精神疾患っていうものが何なんだっていうところがよくわかんなかった時代に何とかどうにかしたいなっていう、
必死の考えのもとの産物なんだろうなっていうことではあるんだろうけども、そんなに効果はなかったなっていうところになってくる。
1938年ぐらいには電気系電療法、ECTって呼ばれてたんですけども、がイタリアで開発されて、いわゆる電気ショックを行って精神疾患を治そうっていうような。
そうなんだよ。実は理にかなってはいるんだよね。やっぱり脳みそが過剰に動いてしまったりとか、あるいは過剰に動かなくなってしまったりっていうことで精神疾患って誘発されたりもするので、
その電気ショックをある程度のところで与えることで治療ができるっていうところは大発見だったんですね、当時は。
今でも一応、鬱とか僧病には結構有効だって言って、実際に行われてる療法の一つでもあるんだけども、
1950年代だったか38年代スタートした頃には麻酔も何もせずに、電気医師のごとくガチガチにやってたので、
これはスコセッシが狙ったことなんだと思うんでね。
テディから見た彼っていうものを今まで僕らは一緒に見てきたから、なんか信用のならない怪しい院長だ、
こいつは絶対に裏で何かやってるぞって思っちゃうんだけど、いざ全てが明らかになると、こいつマジ成人やんけっていう。
僕らが見てきたものっていうのはやっぱりあくまで虚構に過ぎなかったんだっていうことを、
これでもかと突きつけてくるためにこそ、あの院長の見た目と実態っていうもののものすごい乖離っていうものが、
意図的に配置されてるんだろうなっていう気はしました。
なんかちょっと話せそうな感じで、ニヒルの白髪のおじいちゃんいるじゃない。
最初にやり込められる方。
すごく話が通じるようで、あいつロボトミ推進派だから、最初から最後まで寄り添ってないのよ。
そうね。実はね。
実は。最後の最後でこう、たぶん鎮静薬かなんか打たれるシーンがあるけども、
それぐらい患者のことをマジ信用してない。ずっと持ち歩いてるっていうような医者だったみたいなところもあって。
だからすごくその辺を知ってみると、またこの作品のより深みが増すし、
あとその統合失調症だと思うんですよね。レジスに関しては。
統合失調症ってたぶん怪理性人格障害だったりとかそういうところになってくると思うんですけども、
そこの臨床像みたいなところもちょっと知っておいてほしくて。
統合失調症っていうのは人口の1%ぐらいが発症すると言われるような性質疾患で、
だいたいね、思春期ぐらいから青年期の成人、だいたい2,30代ぐらいまでのところでよく現れるっていうような疾患の一つ。
特徴が大きく3つあって、陽性症状と陰性症状と認知障害っていうここの3つがあって、
陽性症状っていうのが何かなっていうと、その幻覚と妄想と幻聴みたいなところが、
幻覚と幻聴はちょっとアセットにされることもあるんだけど、
思考のまとまりが低くなって、ありもしないものが見えたりとか、
ありもしない現象が現実として認識されたりとかっていうような症状が出てきたり。
途中で亡き妻の姿が見えるとかっていうところもそうだし、
それこそおもちゃの銃を本物だと思ってたとか、
あと陰痴をパーンって打ったときに血が出てくるように一瞬見えたとかっていうのがまさにこの陽性症状になってきて、
あとは陰性症状として感情の乏しさだったりとか意欲の低下だったりとか、
引きこもるみたいなような、たまに時折出てましたよね。
こちらが加害している行動にもなり得るんじゃないかなっていうことに、
気づかされる映画でもあると思うんですよね。
そのテディの姿っていうのが、やっぱり統合失調症のすごい、
陽性症状、陰性症状と認識障害っていうところをすごく綿密に描いていて、
でもテディにとってはそれが現実になってるんだよね。
テディにとってはそれはもうその世界で生きてて、そういうふうに生きているから、
テディにとっては社会とか見えてる世界の方がおかしいんだよって、
自分が何か認識が変わってるとか、認識が歪められてるっていうようなことには気づけていないというところになると、
何て言うんだろうな、観客が統合失調症の人たちの世界にどっぷり入っていって、
それが鈍然返しされることで、そこの偏見がお前あったろう、
でもこの人たちはこういう世界で生きてるから、そこを何か忌避するっていうのでどうなん?
っていうような、そういう目線の向け方にもなるんじゃないかなと思うんですよ。
で、それが一番色濃く出たのが最後のシーンだと思ってて、
やっぱりそのモンスターとして生きるのか物語として生きるのかっていって、
最終的にテディがその自己認識ができていたのかどうなのかっていうところは語られないんだけれども、
彼は自らロボトミーをおそらく受けに行っているんじゃないかなと僕は考えてるね。
だからその妄想の世界に生きるぐらいだったら、自分で自分の世界を完結させるっていうふうに言ったんじゃないかなと思うけど、
その辺で結局、社会が彼の存在を許さなかったっていう、
僕らが精神疾患だったりとか、そういう障害を抱えている人たちの存在を許さなかったからこそ、
彼はそっちの道を選んでしまったのではないかなっていうところが突きつけられてくる。
そうすると、じゃあ今、我々はどうやってそういう人たちに接していく、
共にあるべきなのかなっていうところを、また今いうちに考えなきゃいけないような、
っていうところを考えさせられる映画の一つになってくるんじゃないかなと思って、
特に現代だとリカバリー志向であったりとか、ピアサポートっていって、
相助関係とか地域の生活の支援っていうのが医療に中心になってきてるんだけれども、
この作品は、精神疾患を患って現実から逃げるしかなかったアントリュ・レディースの悲劇っていうものを
序章的に描いたんですね。それでいいとこうサスペンス的な様子も含めて、
エンタメとして見ずつもその悲劇に一緒に涙するみたいな構図を楽しめるような作品ではあるんですけれども、
その一方でこういう見方もできるんじゃないのかなという一つの例として持ってきたのが、
陰謀論批判映画説でございます。
ご存知の通りですね、ディカプリを演じる主人公のテディ・レディースはですね、
精神病棟に潜んでる政府の陰謀みたいなものをアバコードしていくわけですよ。
明確に始めは、脱走した女性患者を探していくっていうストーリーだったのに、
途中からだんだん政府の陰謀みたいな話に変わっていく。
島全体は本当に一種閉鎖空間みたいなものになっていて、それをカメラで抜いて見てるから、
観客も彼と一緒に何か巨大な秘密があるんじゃないのかな、
その秘密を解いていくのがこの映画なんじゃないのかなっていうふうに気づいたら思い込まされてる。
ある意味では、映画館全体、あるいはこの映画を通して映画を見る瞬間を共有してる人たちにとっては、そこがエコーチェンバーになるわけですよ。
この先どうなるんだろうね、あの人怪しくないとか、この診療所どういう組織なの、
何か絶対大きな力払ってないみたいな気持ちで見ていってしまう。
だからそれって本当にSNSで毎日起きてる現象の一つですよね。
こういうものだという情報が先に入ってきてるから、例えば短文で出てきた言葉にも過剰に反応してしまったり、
拡大解釈を行ってしまうという節はあるんじゃないのかなと。
これをもう少し細かく見ていく上で、陰謀論って何で広がるのかなっていうところを確認しておくと、
これが面白いぐらい後につながってくると。
まず一つ目は知識の独占欲としての要素ですよね。
要するに周りは知らないけど我々は知っているっていう。
そういう構図って陰謀論を拡散する投稿とかに必ず見られるんだよね。
意外な事実とか何割の人が知らないみたいなことをやっぱり言うんです。
それは本当に知識の独占欲をくすぐってきているっていうところがあるだろうと。
あとは確証バイアスですね。信じたいものしか信じないと。
レディスは本当に自分自身の作った過去につながるようなものしかやっぱり触れようとしたがらない。
そういう自分自身が妻を亡くして精神病院にいるみたいな、そんな事実は知りたくないわけじゃないですか。
だからもうあくまで自分自身が仮説として立てているこの診療所にいる患者たちは、
政府の陰謀によって人体実験の餌にされているみたいな、
そういう話にちょうどそぐような情報ばかりを集めていくっていうところがあったんじゃないかな。
あとは不確実さによって煽られる不安みたいな話もあって、
やっぱり陰謀論が広がるときって必ず社会的な不満っていうのが下敷きにあるんですよね。
なんで自分たちはこんなに苦しいんだろう、なんでいつまでも変わらないんだろうみたいな、
そういう癖激とした思いっていうものがだいたい陰謀論への飛びつきエンジンに変わってくるわけですよ。
っていうふうに考えるとシャットアイランドの中では嵐とか霧の演出がかなり多くて、
自分は一体何を求めているのかみたいなことすらもわからないような不確実さとか、
未来の余命なさみたいなものに対する日本人のスタンスみたいなものがそこに描かれてるんじゃないのかなという気がするんですよ。
日本人なんて明日滅ぶって言われるとたぶん今まで通りの生活を行いますからね。
まあね、あんだけ地震が終わっても翌日就舎しますからね。
あとはリアクタンス効果っていう、要するにサイコロジアカルリアクタンス。
ダメだよって言われたらやりたくなっちゃうっていう、いわゆる背徳感というような甘美な果実がそこにあるわけですよね。
っていうふうに考えると、このテディが自分自身で追いかけている物事っていうものの全体像が明らかにならないっていうのは、
ある意味ではその続きっていうものを常に出していかないと自分が飽きられてしまうところもあるだろうからかなというふうに思っています。
あとはナラティブトランスポーテーション論ということで、人間は辻褄が一見合うような物事にどんどん寄り添っていくわけだ。
レディスの場合は結局周りの人なんて巻き込んでないから、自分さえ納得できればそれで良かったわけだよね。
だから他の人と共有できないから、他の人は全員文字通り何かしらの疾患を抱えている人たちだろうなというふうに思うけれども、
彼女はそこに染まろうとしないで、ちゃんとソファーに座るときはソファーに座って背筋伸ばすみたいなことをやってるわけだよ。
その辺から見ると、彼女ないしはこの作品を見たい人たちっていうものが、どんどん飯目当てじゃないけれども、
そうでないならということで、どんどん離れていっちゃうような位置にもなりかねないなというふうに思いました。
こうやって見ていくと、インボーロンというものがどうやって手招きをしてるのかっていうのはなんとなくわかってくるよね。
だから一つ言えば、東大なんかもそうですね。
東大の上で一体何が行われているのかみたいなことは、誘われなきゃ見れないみたいな感じがありましたけれども、
2000年代からネットがグイッと携帯の普及に伴ってグイグイ上がっていくことになるわけだよ。
っていうふうに考えると、当然ネットっていう情報の渦を中心にして、いわゆるデマゴギーだったりだとか、
陰謀論っていうものが爆発的に普及していく。陰謀論も爆発的に普及していく時代だったと言える。
っていうふうに考えると、それを予期してマーティン・スコセッシュが陰謀論というのはどう広がっていくのか、
危険性とは何なのかっていうものをエンタメに昇華した作品であるというふうに見ることもできるんじゃないかというふうに思うわけですね。
まとめていきますけれども、舞台となるのが孤島であるということ。
そして海の中にある孤島である。閉じた空間であり誰も外に出ていけない。
外部の検証っていうものが一切効かなくて、そこで起きる出来事っていうのは1日1日に毎回ぐるぐるぐるぐる回り続けていくっていうのは、
ある意味ではSNSで氾濫していく陰謀論の構図とほぼ同じだなというふうに思ってるんですね。
ショート動画しかり、非常に短い動画だったりで常識をあえて崩すようなことを言うと、そうするとみんな食いつくからね。
食いついたところで画像とかで集客を行ったりとか、あるいは外部サイトに繋いだりとかいうことをし始めているわけなんですけれども、
そういう舞台となることっていうのは本当にSNSの中である陰謀論に関するコミュニティの姿とも言えるんじゃないのかなと。
嵐とか霧とかっていうのは自分自身が見たくない事実っていうものを乱反射によってチラして見えなくする。
ただその結果ですね、ディガプリはものすごいスピーディーに島の秘密みたいなものに迫ることができてしまったがために、
かえってうまくいかなかったっていうところがあるかもしれないんですけれども、
その辺りも今回の仮説に繋がってくるんじゃないのかなというふうに思っています。
ロボトミーに関してもさっき説明がされていたので特別に言う必要はないんですけれども、
患者に寄り添わない診療外科というアプローチの治療だけですよね。
これに関してはもう止めようがないから僕は何もしてないわけですし、
実はアメリカも有意的にそれが減ったのか増えたのか全然よくわからない状況ですけれども、
ただやっぱりそれを陰謀論に当てはめて考えていくと、
陰謀論にとらわれ続けたがためにレディスは結局ロボトミーを受けざるを得なくなったわけじゃないですか。
そうですね。
これはもう間違いない。
テディは自分は正気だっていうふうにずっと信じて疑わなかったんだけれども、
それがどうも違うようだっていうことに最後の最後で気づき始めるわけだよね。