AI作業の飽き
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。今回のテーマはですね、AI作業に飽きるということを話していきたいと思います。
AI作業に飽きる、つまりですね、AIに作業させるには、今のところプロンプト文を打ち込むとか、音声入力で会話するということもありますが、
多くがチャット形式で打ち込んでいるんじゃないかなと思っています。どうでしょうか。
チャット形式じゃなくてもですね、動画とか音楽とかだとまた違ってくると思いますが、基本的にはプロンプトに文をどう作るか、もしくはどう指示をするかの部分が変わってくるんじゃないかなというところです。
一方で、そういったものがどんなソフトであろうが、使うサービスによって変わってくるかと思うんですが、結局ですね、作業というのは定型化してくるわけですね。
つまり定常化といいますか、同じものになってくる。そこでまさに飽きがくるんじゃないかということです。
それをですね、自分が自ら感じたので、そのあたりを少し共有していきたいと思います。今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、しごくりラジオの大橋です。少し長くやりましたけどね。今回のテーマはAI作業に飽きる。もしくはですね、AIに指示すること自体に飽きないか、答えというか結論として飽きたと。
だからですね、AI使わないとかそういうことはないんですが、物事は何度も同じことやってると飽きるよねという話でもあります。
そこでですね、あんまりそこまで使い込んでなかったんですけど、要はですね、読むのが疲れた、AIとのやりとりが疲れたとかそういうことではなくてですね、それも含むんですけど、
画像生成物を少し試してて遊んでましたと。それは全然いいんですよね。最近GPTでですね、フォーオー以上になりますが、画像生成機能が進化したというのがあって、それだけでもないんですけど、
簡単に画が生成できるようになってますと。それはいいんですけど、その生成する中で、生成物がどうということではなくて、どう指示していくかというのは結構アイデアが問われるなというところを思ったんですよね。
これ絵じゃなくても一緒で、その指示の仕方っていうのはですね、学んでたり知らないと。例えば僕が絵を見てなかったら、こういう絵って言えないじゃないですか、とか絵を描いてる人のほうが絶対的にこれ優位なんだよね。
これはよくある、詩人に対してその該当知識が人間側にあるか、もしくは体験があるか、そういうことになってるかなと思ってます。
なので、AI を使う画家とかイラストレーターの人がいて、その人たちはかなりいい感じで使えてるんじゃないかなと思ったりします。
それは置いておいて、ちょっとだけの問題とかもありますけど、それを置いておいて、今回そういう指示をしていく中で、指示の仕方で飽きてくるなと思ったんですよね。
今やってるのはですね、簡単にテーマを投げて、こういうシーンとかこういうのを描いてください。
何もイラストとかの作風を指定しないとデフォルトのものが出てきてしまって、最近よく見かけるんで飽きてくるんですよね。
イラストを批判するわけじゃないんですけど、同じ映画を見てるとちょっと飽きてくるみたいなのがあって、それにもしかしたら落ち着きを見出す方もいらっしゃるかもしれませんが、やっぱり飽きてくるっていうのが僕の感覚です。
そういう感覚として飽きてくるので、自分がやっている作業もパターンを掴んできて飽きてくるわけですよね。
だからこそ僕にとってはですね、飽きないようにするっていうのがかなり史上命題というか、生きていく上で非常に重要なんだなと、まさかそんなことを感じると思わなかったんですけど改めて感じました。
もう一方で大事なのはAI作業が飽きるんですよね。
指示の工夫
これはですね、四国にラジオでもずっと言ってきてますし、何度も申し上げるんですけど、AIに作業を効率化させますと人間の仕事とやってほしいことを効率化させるじゃないですか。
例えば最近であれば僕だったら、この四国にラジオの要約を文字を起こししたものを読み込ませて要約させたり、一覧を作ることをやらせたんですね。
それは全然いいんです。だけど今度はそれが短くなることで、よく言われているより想像的な人がやらなきゃいけないようなことにできるっていうことなんですけど、
それは全然建前でも、ポジショントークでも、AIサービスを開発している人のポジショントークでも全然ありだと思うんです。
だけど次に思ったのは、じゃあそのAIに要約させる、ポッドキャストを要約させるっていう作業自体は?ってなると、そこはまだまだできていない。
AIエージェントとかに任せればできるようになるかもしれないんですけど、どこまで品質がいいか、ムラがないかになってきますよね。
そこまでいかずに自分がAIに依頼することをやるわけじゃないですか。プロンプトで指示するわけですよね。
ポッドキャストを要約してください。各々近々でやって、やり取りして、内容を見て帰ってきたものを確認するみたいなことをやると。
それが結局定型化しませんか。同じようなことであればまさにそうですよね。
要はAIで効率化する対象のものが同じようなことであれば、それを指示するものも同じようになってくるわけです。
それがまさにさっき言った画像生成をするときの指示文がテーマを投げて出してくるものに飽きてくるわけです。
もちろん作風を変えたり、思いもよらない構図とかが出てきたりして楽しめる部分もあるんですけど、それがもしなければつまらない。
もしくはこちらが出せる指示もだんだん変わってくるので、そうなると何になっていくかといったら、
AI側にランダムに出させるわけですけど、AIのランダム要素ってどこまであるのかなっていうのと、
そのランダム性も結局コントロールするってことになってくると、結局そのランダムも程度があるというか言論があるというか、
完璧なランダムってなくて、自分が考えているものを伝えないとそうじゃないものにならないというか、矛盾がありますよね。
自分が想定していないものが欲しいんだけど、でもそれは何か期待してるじゃないですか。
だからそのランダム性って結構難しいなと思っていて、結局ですね、数をこなしていくと何が見えるかというとパターン化してくるので、
その指示自体に飽きてくるという話なんですよね。
ここでまさにAIに作業に飽きるので、そうならないように自分で工夫していかなきゃいけないなってことで、
AIと創作行為の違い
僕としては驚いた行動としては、絵を勉強したほうがいいんじゃないかなっていうことを少し思いました。
もちろん絵をプロの画家目指すとかそういうのも全くないんですけど、
例えばその描き方ですよね。これも簡単な話ですけど、どの視点から見るかといったら真正面からしか見ないっていうのって、
やっぱりパターンがないからリズムがなかったり、動きがないわけじゃないですか。
そういうのも多分指定してできるんですよ。でも絵の素養というか、勉強しないとそれができないわけですね。
わかりますか。例えば2人のキャラクターがいたときに、その2人がただ横に並んでいるだけって面白くないですよね。
だから動きをつけたいと。動きをつけるっていう指令も出せればいいんですが、
出したところで絵として描くにはどのように描いたほうがいいのかってことですよね。
つまり視点ビューですね。まさに見え方がカメラのように変えて下から見上げるようなものだとちょっと迫力があるかもしれないし、
後ろから追いかけるような背中を見ると別れとかになるかもしれないし、
そのあたりの表現って非常に奥深いと思うんですが、絵を描いていなかったりすると表現としてそもそもないので、
そもそも指示できないってことになるわけですね。これを思ったことがそういうことがあります。
あと、AIでそうやって絵を描けるから、AIのイラストっていうところで仕事がなくなるかみたいな話は言われていると思いますし、
そういうことを言う人もいると思いますが、全然その立場では全然ないんですけど、
やっぱりそれによって失われる仕事というか、絵を描いてどうかというのとは全く違うかなと思いました。
少なくとも絵を描く行為とAIが出してくる絵は全く違っているってことですね。
それは何でかというと、当たり前ですけど、人間が絵を描くってそこに描く行為があって、
描いていって気づいたり修正したり深めていったりとか、さまざまな感覚があるんですね。
あと楽しいとか面白い部分もあるんじゃないかなと思ったりします。
これは僕が描くって言ってるとちょっと分かりづらいですが、
ドローのほうじゃなくて絵を描くじゃなくてライトのほうですね。文章を描く、文字を描くみたいな話で、
その文章を描く行為でも全く同じことが思っているので、
一つの文章を描く、絵を描くっていうのは創作行為として出てくるアウトプットは違いますが、
非常に似ているものだとするならば、創作行為として一緒であるって考えたら非常に共感できるというか、
その通りなんじゃないかなと思います。
つまり絵を描く行為も文章を描く行為も人間がやるからこそ得ている何か、
描くであったり遊びであったり気づきであったり学びであったり、
それこそ日記じゃないですけど、描くことで自分の気持ちを整えたりリズムを整えたり、
瞑想ではないですが、心を整えるみたいな部分もあるんじゃないかなというふうに思います。
その価値をAIに描かせることで得られるわけはないわけですよね。
写真の例でもいいかもしれないですよね。
昔だったら肖像画とかを描かせたわけですよね、お金持っている人がね。
自分という人を描かせたわけですが、
それで写真というものが生まれたときにそれが必要なくなるわけじゃないですか、絵をね。
でもそれはリアルに描くとか、写実的に描くみたいなのが失われただけで、
別にその肖像画みたいなのを描かせたい人がいるとかなくて、
写真というものであれば実写としては再現できるわけですよね。
そうじゃない、その人の主観とか表現が入ったときの絵は普遍というか、
むしろまだまだ残るし、むしろそれを求めて今の人は絵というものを見たりするんじゃないかなと思ったりするんですよ。
僕は絵にはそんなに語れないんですが、文章だったら同じようなこととか、同じような世界というのがあまりなくて、
現代社会に生きている造作という意味で、フィクションの方はまさにそうですけど、
ノンフィクションでも同じ事象でも違うように捉えられることもありますし、
その事実をどう組み立てていくかというのもありますよね。
フィクションであれば当然世界の描き方で変わってくると。
それが非常に違いが面白いんじゃないかな、人が感じる感覚や主観というのが面白いんじゃないかなと、
改めて思ったということになります。
AI作業に話を戻していくと、AIの作業自体ですね、プロンプトを支持していくこと自体に飽きてしまう人って、
どれくらいいるのかわからないですけど、僕はちょっと飽きたなというのがありました。
飽きるので何するかというと、当然飽きたのでやめますということではなくて、
飽きないために作風とか絵の勉強じゃないけど、どういうふうに描くとどういうふうに示すと面白いかなというふうにやります。
これはですね、割と僕の中では鉄板ルートというか、いい感じの現象なんですよ。
つまり飽きるってことは、そのやり方はある程度型としてマスターしたりとかしているわけです。
そのやり方というのは完全に僕はね、絵の生成の仕方をマスターしているだけじゃなくて、
自分のやり方では限界があるから、違うやり方をやらなきゃいけないなということで試さなきゃいけないわけですね。
この試すときに、ただ一方で新しいことをゼロから試すというのって結構大変なわけですよ。
試しましょうと言っているけど、いきなりやるのが億劫ということもわかるんです。
そのときに大事なのは、今やっていることとかやり続けられるような、回し続けているような普段のことに
そのちょっとしたスパイスな感じで新習慣を入れる、もしくはついでにやってみるということなんですよね。
まさに僕の画像生成というのはそんな感じでやっていて、慣れてきたので作風を変えたりとか、
さっき言った視点を変えてみるとか、もっといろんな出し方があるよねということをある種研究する感じですよね。
だから手段と目的が変わったりするわけですね。
最初は生成して何かやっていこうというのが目的だったんだけど、何かいじっているうちにもっといろんなやり方がないかなというふうにやっていく必要があると。
プロンプトの重要性
別に画像生成をしている人がいいとかそういうことを言っているわけじゃないんですけど、
一応やるためには、なんかこれいいなというふうにAIの絵でも思わせるには、結構人間がプロンプトを工夫するとか何かをやらないとできないんですよね。
そのプロンプトがコピーされたり真似したりということで、プロンプトを売買するようなサービスがあったりしますが、
そういうのは別に僕は使っていないですけど、そういうのも全然いいと思うんですよね。楽したいというよりいいと思いますが、
僕からするとそのプロンプトを作ること自体が面白いんじゃないかなと思うので、それはもったいないんじゃないかなと思ったりします。
つまりそこがまさにアイディアを試せるし、アイディアを投下できる予知・予約だと思うんですよね。
どういうことかわかります?
例えばマインクラフトみたいなゲームでやったことある方がいればわかりやすいし、やったことない方向けに説明すると、
ちょっとポリゴンみたいな3Dがあって、キャラクターを動かして家を作ったり。
一応あれストーリーがあって、僕全然クリアしてないんですけど、全然ゲームクリアできてないんですけど、
家を作って敵を倒したり、あとは家を作るためには資源を集めたりするんですよね。
どんどん進化させていって、進化というのは文明的なものでありますけど、石から鉄とか、
ミスリルでしたっけ?ダイヤが最強だったかな?わかりませんけど、
そういうのを進化させていくためにはアイテムを作って、石炭を燃やすような設備とか、鉄を溶かすとか、いろいろあったと思います。
武器防具とかももちろんありますし、ファッション的なものとかもありますし、
花から植物とかを採取してやるとか、そういうのもあってかなり自由度が高いです。
ゲームをクリアするという意味では自由度が高いはずです。植物の生産もできますしね。
それをマインクラフトを楽しむために、もちろんマインクラフトをやっていって、
そういうのが理解できてやっていくというのは自然でいいんですけど、
一方で面白くないやり方というのは、教育現場のマインクラフトとかはよくわからないですけど、
これをやるために学びましょうみたいなふうに、学習教材を悪い意味で教材風にすると全然面白くない。
例えば自分はそんなにやりたくないんだけど、マインクラフトの世界観って面白くないよねって思ってしまったら、
もうそれで終わっちゃうわけですよね。つまり言われたように、じゃあ家を3個建ててくださいって言われたら、
なんかあまり面白くないわけです。これは僕もですね、教える立場みたいなところになったときに、
あれをやりなさい、これをやりなさいっていうのって結構我慢な気がしてて、
言われてある程度できたらなるほどって思うけど、そのある程度できるまでの方が結構忍耐なんで、
その時に集中を切らせないようにやれるかっていうのがポイントかなと思います。
それを途中で終わってしまったり、タスクというかやることがデカすぎてできなかったらもう嫌になるじゃないですか。
そういうのがないようにしていった方がいいかなとは思っています。
そういう時にまさに我慢じゃないんだけど、楽しんでやれるかっていう時に、
マインクラフトはそういうのが自由度が高いっていう話なんですけど、その自由度が高いが故に自分のアイディアを保つわけです。
建築って言っても家が建ててもいいんだけど、16までの概念は確か普通のものではないので、
塔があるじゃないですか、タワーがね。そういうものも逆転させて、
とんがった部分だけが下で、三角形の頂点の上の部分が上になるんじゃなくて、下にして逆三角形ですね。
逆三角形みたいな建物ができるわけですよ。面白くないですか?って思えるかどうかですけど、
そういうのをまずアイディアが出るかと、そういうのをやってみたいかどうかが楽しいなって僕は思っているんですね。
実はあなたがどこに楽しみを生み出すかは全く分からませんが、自分が楽しいなって思うポイントをそこに入れられるかどうかが、
僕はアイディアの醍醐味だし可能性だし、非常に楽しいんじゃないかなというふうに考えています。
それを奪って逆三角形の建物を作りなさいって言われたら、やる気なくなりませんか。
1個ぐらいだったらいいけど、2個3個ってことをどんどん課題とか宿題なふうにやっていくと、
これは非常に面白くないので、マンキュラフターなんて嫌だってやめてしまうような気がします。
っていう僕は思っています。実際の中ではいかがでしょうかというところです。
AI作業の限界
なんでAIに話を戻しますと、プロンプトを入れてどういうふうに作っていくかってことが分からないし、
それを入れると何が出てくるか分からないから面白いと思ってますが、
自分が出したいものを効率的に出せて何かやるっていうふうな考え方の人っていうのは、
全くそれが別でいかに早く作れるかっていうふうに考えられてるんじゃないかなと思います。
でもそこで見失ってしまうというか、創作っぽいけど創作的じゃないなって思うのは、
それを大量に機械のようにこなしていくと、確かにそれは便利かもしれないし、ある程度はできるかもしれないですよね。
でもそこにあるのは、虚しさみたいなのが僕の中ではあるかなと思ってまして、
結局各行為をAIに委ねていった時に、つまんないねってなっていくのと同様で、
AIに支持する作業が同じになってからそこに飽きるわけです。
それは飽きるものじゃないよと、全然いけるよっていう人は全然今回の話は刺さらないと思うんですけど、
僕は飽きるんじゃないかなと思うんですね。
同じことをやってるとやっぱり飽きてくるし、同じようなアウトプットになってくるわけですね、AI側もね。
じゃあAI側に違うアウトプットを出させるには、
AIにランダムでお願いしますって言っても出てこないわけですよね、多分ね。
じゃあそのランダムとか違うようにっていうのは人が支持しなきゃいけないんだけど、
そのためにその人ですね、まさに僕がその支持の仕方を変えます。
こうするとAIには出てくるんだなってことを学びます。
さらにそれを得るためには自分がいろんな経験とかを体験とかしなきゃいけないわけですよね。
つまり、だいぶ話戻しますが、そのAIに効率化して任せられるってことで、
得られる人間的な、何だろう、創造的なことですね、クリエイティブなことっていうのがまさに
自分の体験や考えを増やすってことになりますね。増やすというか得る。
そのためには日常生活もそうですし、さまざまな人の考え方や意見や、
それこそ創作、面白いなーっていうものを探して触れないと、
なかなか出てこないんじゃないですかねっていう話でもあります。
なので僕がですね、繰り返しになりますが、AIを作業してて、
AI作業って飽きるんだなっていうことですよね。
AIの作業が飽きるというよりも、作業というものが同じことをやっぱりやっていれば単に飽きるっていうだけなんで、
飽きないように工夫してやっていく必要があるってことでもあるわけですね。
だから飽きないためには、僕は僕なりにプロンプトを工夫して、
どういうのが出るかなとか、こういうふうに入れたら出てくるんじゃないかってことを楽しんでいるんで、
まだいけてるんですけど、これがですね、裁量がないもの。
だから今のやり方は全然否定してるわけじゃなくて、もっと改良していけばいいっていうポジティブな話なんですけど、
これをですね、僕を閉じ込めるというか、押し込めて非クリエイティブにさせるっていう意味では、
このやり方しかやっちゃダメですっていうふうに指定して、決めて、
全部裁量というか、あなたの自由はないですというか、アイデアを入れないでくださいってやると、
まさにですね、僕は壊れてしまうというか、終わってしまうという感じがしますし、
つまんないねってなるんで、そのつまんないのをずっとやり続けるんだってなって、
だんだん暗くなっていって、静かになってくると。
そういうことで何が起きるかというと、リスナーで楽しんでいただいている方は大変嬉しいんですが、
その嬉しく楽しんでいる方にとっては、僕のアウトプットが指紋できて、
この人ずっと同じこと言っていて、壊れていってるんじゃないかっていうね。
最近AIの話ずっと同じこと言っているかもしれませんが、
少しずつね、本当に少しずつ進化というかね、慣れていって変わっていくかなと思うんで、
同じようなものを擦ってるかもしれませんが、毎回の一応気づいたことを話しているというところは、
信じていただくか、ちょっと変わったなぐらいのところで楽しんでいただくという感じがいいかなと思いますが、
それがなくなっていくわけですね。
同じものでいいやとか、作業してていいやって、面白いことは何かってことを得られないと、
飽きてくるし、いくところですね。
なので、繰り返しになりますがまとめると、
AIに何か出させることで効率化するってことでは全然いいですね。
でも効率化させるためのプロンプトや手法自体がルーチンとして定型化とかね、
同じことの繰り返しになっていくと、そこに飽きませんかっていう話ですね。
飽きの防止策
もし僕は飽きたんですが、飽きたしまったら、そのために工夫を入れなきゃいけない。
AIに指令するところで工夫を入れなきゃいけないんだけど、それがまさにアイディアで、
自由にやってくださいってことになりますね。
それを指定されて、指示されて楽しいよねっていう人ももしかしていらっしゃるかもしれないんで、
別にそれは僕と考え方が違うというわけで全然いいんですけど、
僕は飽きるので、飽きないようにそこに自分なりのアイディアを入れなきゃいけないなって思いました。
そのときのアイディアがAIに対してお願いするのであれば、してももちろんいいんですが、
それは今までの議論というか、四国ラジオを聞いてきた方、もしくはAIを普段使っている方であれば明らかなのは、
同じような指示であれば同じようなアウトプットしか出てこないので、
もしくはAIに任せると何かよく分からないけど定型的な何か、平均的なものしか出てこなくなるわけですよね。
それは当たり前なんです。
なので、自分が変わらなきゃいけなくて、自分が学んで、それでこういうアイディアはどうだろうかってことを言っていかないと、
やはりAIは使えてないような気がします。
AIを使えてないっていうとちょっと大げさですが、AIに任せてるって感じが強いんですね。
AIに任せることを否定しないんですが、人がAIに任せすぎると、やはり今のところ僕は前も話したと思うんですが、
その思考の部分で人が考えなくてもいいやってなるじゃないですか。
AIに投げたらやってくれるからいい、で、あなたは何するんですかってことで、
それによって自分の体験とか他のことを勉強してできるし好奇心あるからどんどんやっていこうっていう人は全然心配がないというか、
それはすごくいいAIの活用の仕方だと思います。
逆にそうじゃなくて、AIに考えさせてやらせられるから自分は考えなくていいといって、
そこで何度も言ってますが、人間がより想像的なことをやるっていうことはポジティブな見方なんですよね。
ネガティブな見方というか、人ってそんな態度というか動かないでしょってダラダラしたいんじゃないですかっていう。
仮に自分の仕事をAIに任せて自分はずっと遊んでいるんだったら遊びたいっていう人もしかしたら多いんじゃないかと思うんですよ。
だけどそこでもさらに言って、そうやって今きついからAIに任せられていいよねっていうのはすごく分かるんですよ。
楽できるからね。
だけどその次の瞬間に自分がやりたいこととか楽しいことっていうのが、いわゆる趣味とか褒美、
例えばなんかずっと1日映画館ずっと見るのが夢だったんだって言って1日映画館行ってもいいと思います。
でも僕は1日で飽きるんじゃないかと思います。
もしくは3日ぐらいで飽きる。
1週間行き続けてそれで飽きなかったら、それは英語を見続ける才能があるんじゃないかなってすら思います。
多分飽きるんですよ。
何でかっていうと刺激は一緒だし、仮に一人で行ってたら誰かと話したくなったり、
工夫の重要性
仕事とかなんかやった合間に適度に気分転換に見るのが良かったんだっていうような気づきがあるんじゃないかと思います。
別に映画じゃなくても全然いいんですけど、魚釣りでもいいしね。
写真撮るんでもいいですね。
ずっとやってたいってもしかしたらある方がいらっしゃるかもしれません。
それは否定しないし全然いいと思いますが、それは多くの場合は僕も含めてそんなにやらなくていいってことがほとんどなんじゃないかなと思ってます。
だから趣味とかそういうのを否定してるんじゃなくて、ずっとそれをやり続けても楽しいっていうのは、
僕は僕なりの考え方では、それをやり続けても作業とは思わず、
作業になったら、今回の話であればアイディアとか工夫を入れて飽きないようにし続けるっていう、
ある種努力といったことがわかりやすいかもしれませんが、その工夫が必要なんですよね。
僕は考えてます。リスナーのあなたはどうでしょうか。
それが工夫ができなかったり、工夫をするまでもないというかそこまでやる気がないのであれば、
多分それは向いてないというか頻度が高すぎるかで調整して減らす。
時間が長つくので減らすみたいなことですよね。
自分が今なかったものに対して憧れて、もっと休みたいなとかサボりたいなっていうのは全然わかるんですよ。
でもそれってそれを望んだ時にまたやってみると意外に大したことがないことが、
僕の経験則では多いっていう話ですね。
だから経験しなかったり体験しなかったりすると、こんなもんかっていう風になることも多いし、
もちろんそれは全然自分が想定してなかったこんなに面白いものがあったんだってこともありますからね。
だから全然体験することは否定してるんじゃないんだけど、
そこまで追い込んでやって、自分と違ったなってことの方が多いっちゃ多いと思うんですよね。
だからこそ続けられるためのここでは提示したいのは、
何か続けて何かやるってことは、それは続けることになります。ある程度興味があれば。
続けるんだけどやっぱ飽きたりするんですね。
僕はその飽きるところに対してかなり敏感というか、何だろうなと思ってしまうので、
自分が飽きないように工夫をすると。それが結局継続になっていくってことになると。
これがAIにおいてもそこまで、AI指示とかAIを使うってことも同じなんだなっていう風に思ったってところですね。
AI利用の体験
だから今AI利用を楽しめてる人っていうのは、
このある程度工夫が自分なりにできて、こういう風に使ってみようかなとか試したり、
こういう風にやるとなるんだなってことが、割と自然にできてしまっている人たちなのかなと思います。
これができない人は、まずみんなができるできないって分けるわけじゃないんですけど、
できないとか苦手な人っていうのは、AIを使うときに自分で使えなくて、
誰かに言われないとやれないとか、もしくは自分でさっき言ったように使ってて、
画像生成を使ってて、こうしたらどうかっていうアイデアが出てこなかったりすると。
出てこないと、誰かのプロンプトとか誰かのやり方を真似しなきゃいけないんだけど、
それってあんまり面白くないわけですね。
ここが結局AIの利用の学習みたいになっていくんですけど、
AIリテラシーみたいになっていくかもしれませんが、
自分で工夫して試すってことを、癖がなければAIがあっても結局それはできないので、
結局誰かが言ったような、どこかにあるようなやり方を真似てできないので、
なんでできないんだろうってなって、話としては、
AIでもその利用が頻度がどんどん減っていったり、
AIでできないんだなってなって諦めていくっていう感じがありますよね。
これが1回で終わって諦めてしまう人もいれば、
2回、3回で粘って、粘り続けられるかどうかっていうのもあるから、
そこら辺の総合力がいるんじゃないのかなって改めて思いました。
総合力っていうとちょっと偉そうですけど、どんなものでも読書でもそうだし、
何か続けていくこととか、話すことでも何でもいいですけど、
続けることっていうのは飽きることが入っていて、
その飽きることを工夫、アイディアによって解消したり、
また違うように高めていくことができる。
僕はそれが割と人間の想像力とかものなんじゃないかなと改めて思いました。
今回、そういう意味でAIの作業がまさか飽きるんだっていうのは、
結構やっぱり繰り返していくと思うので、
これは僕にとって非常に面白い体験でした。
飽きるからこそアイディアがいるってことで、
逆にやっぱり人がアイディアを出すとか、
自分で考えるってことの有用性というとね、
ちょっと手前ミスかもしれませんが、
やっぱりそこが楽しい気がします。
面白いというか。
だから逆にそれを全部決めてしまって、やること決めて、
こうです、こうです、ああですって全部作業化してしまうと、
ロボットみたいになりますよね。
それがもういい、それで何も感じないよねっていう人はいいんですけど、
僕は嫌だなっていう話ですね。
なのでそうならないような仕事とか、
そういう風にしていく仕事をどんどん生み出していくしかないと、
まさに仕事クリエイターになるかもしれません。
今回は以上となります。
シゴクリーラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上失礼いたします。