AIと効率化について
シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。今回のテーマは、練習というか普段考えていることが大事、とんな話をしていきたいと思います。今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、シゴクリラジオの大橋です。なんかちょっと早かったですけど、冒頭テーマは練習ですね。普段考えていることが大事というテーマですね。
最近ですね、AIの話ばっかりしてますが、AIに毎日触れていくわけですが、リスナーのあなたはいかがでしょうか。
AI自体が悪いとかね、ことは全く思わないんですが、使う人間ですよね。詐欺であったりね、犯罪に使う人がいるわけですよね。
じゃあそういう人をけしからんと言って、投げててもしょうがないので、自衛したり防衛したりしていくし、そういうのだけじゃないですよと。もっといろいろ良いふうに使えますよということの、もうちょっとポジティブな面を見ていかないと、悩むわけですよね。
僕、これ2つ大きく分かれているなと思っているのが、AIを悪く使いましょうという人は論外というか置いておいて、良くしましょうみたいなところで、大きく2つあるんじゃないかなと思います。
つまり、仕事とかの業務とか、既にあることを自動化したり効率化するという面。もう1つ目が学習ですね。学びを促進するというところにおいてです。
1つ目の話はよく言われているかもしれないです。効率化します。
例えば僕だったら要約とかで恩恵受けたり、誤辞、脱辞じゃないけど指摘を受けたりするときの、ある種のパートナーとなりますので、それは良いかなと思います。
そこでですね、仕事ではないんだけど、メンタルのコーチじゃないけど、話し相手とするのが良いかどうかはやや人によるかなというところがあります。
それで救われる人がいれば全然僕はポジティブに良いと思うんですが、やりすぎてしまうのは何でも微妙かなと思ったりしているので、そこだけ注意が必要かなと思います。
やりすぎていることが分からないというのが問題なわけで、それは多分やりすぎなんでしょうね。
学びと時間の利用
自動化効率化というのの課題というか問題は、それを投げかけることによって、ここの四国理ラジオでも何度も申し上げていますが、何度もくどいくらい言っていくと、
その委ねた結果、余った時間を何に使うんですかという問いなんですよね。それを誤魔化さずに、想像的ですというふうに言うんだけど、
じゃあその想像的ってクリエイティブの方法ですが、何を指しているんですか?企画するんだったら最初のアイディアを出すところとか考えるところなんですか?
それを考えるということは何を時間に使うんですか?使っているんですか?みたいな話になってくるんですよね。
でも、そんなツッコミの手前でたぶん留まっているような気がしてまして、要は何を言っているかというと、
効率化すると例えば2倍とか1.5倍とか上がるわけですよ、効率。その時間よりできたから、はいおしまいねというぐらいの感じに聞こえます。
そういうのが大体なんじゃないかなと思っています。でも、次の瞬間もう分かると思うんですけど、
AIが誰かの権力とか誰か特定の人しか使えないという特殊スキルでもなく使えてしまうじゃないですか。
そうなるとIT技術と一緒で、例えば3Dプリンターじゃないけど、プリンターで誰でも出せるようになるみたいなところは、
別にあなたもそうですし僕だけもそうですけど、3Dプリンターを買った人だけができるっていうもちろん、
3Dプリンターが高価で買いづらかったらダメかもしれないけど、それなりの価格がこなれてきていて、
誰でも買えるようなものになっていったら誰でも出せますからというふうなものと一緒で、
誰でも作れるということと一緒なんですよね。だから誰でも文章を書けるし予約できるみたいになっていく。
あとは品質の問題にありますよね。そういったプロセスとか工程の部分がある程度省略されてしまうということですよね。
5工程あったものが4工程3工程になっていったときに、残る人間がやる効率化できる工程は多分誰もが一緒で影響を受けやすくて、
そうじゃないよねっていうところが言えるかどうかですね。残りの3工程というかクリエイティブな部分というのは何ですかってなってきますよね。
っていうふうにはまだなってなくて、たぶんその工程として洗い出して効率化した先に何が待ってるんですかねぐらいな感じがします。
この話を何度もしているというのは結局どう生きたいかとか、人が何で生きるためになるのかとか、何のために生きるかとか、
そういう哲学をしたいわけじゃないんだけど、哲学的なテーマになっちゃうんですよね、どうしても詰めていくとね。
そこを避けてしまえば全然迫力がないものになりますから、そこは避けられない気がします。
ちなみに僕はですね、仕事が効率化されて、より余った時間というのを想像的なもので使いたいですし、
そこでハトと気づくのが自分が表現したいとかやりたいってことがなければ、もはや地獄とは言いませんが苦行になるんですよね。
要は余った時間を暇つぶしみたいなのがあるじゃないですか、概念として。時間が余ってるから暇つぶしになってるみたいな。
非常にもったいないなと思いますが、そういう考え方もありますし理解ができると思います。
でもそれってやりたいことがあればそっちをやるわけで、やりたいことがないという状態になると、
全部が暇つぶしになってしまうっていうのもまたどうなのかなって思ったりします。
偉そうに言ってるんですが、昔20代の頃に仕事は暇つぶしだみたいなことも思ってたりしたんで、実際ね。
それは悪意があるわけじゃないですよね。暇つぶしっていう言葉って結構危ないなと思います。
あんまりいい言葉じゃないんだけど、人によってはカジュアルに使うんだけど、時間を大事にしている人にとってかなりダメージを与えるみたいな。
そんな言葉はいっぱいありますけど、そういうのがあります。
もう一つの学習です。この学習ということにおいても、学びたい人にとってはAIやレバレッジをかけてプラスになるんだけど、
学びたくないとか、苦行でやりたくないことをやらされている人にとっては、ある種の助けとなるもので、
それらの利害関係が一致しないというか、立場が違う人にとってプラスっていう恩恵を得るから、
よくわからなくなっている感じもします。
今回、練習が大事とか普段から考えることが大事って言っているのは、
そもそも普段AIを使うわけじゃなく、そんなに考えていないのにAIを使うということで、
考えている人に慣れている人がAIを使うと多分使えるんですよ。
普段考えることの重要性
なぜなら、考えて人に話したり伝えたりしているからです。
それをそのままAIというものに転じるからできる。ただそれだけなんですよ。種も仕掛けもございません。
それを普段考えていない人が、これももう一回くどいですが、
普段考えていない人がダメとは言っていないんですが、考えることによって伝えようとしたりとか、
相手がどう考えているんだなというのを想像したり、考えるという定義がさらに難しくなるので、
一旦省略していくんですけど、そういうふうにしている人が、
じゃあハターとAIの前に立ち向かった時に指示ができるのかといったら、
なんとなくよろしくねっていうのは極端な例ですが、なんとなくやっといてとかうまくやっといてって、
これは違っているから直しておいてねっていう時に、その直しておいてねってことを指摘せずに、
その人の教育目的で意図してやっているならアリですが、そうじゃないのに自分もわからないのに、
なんかあなたの方が得意だからよろしくねみたいなふうに言われたとするじゃないですか。
それは困惑しませんか。もしくはAIにそれは通用しないというわけですね。
これでAIをどうかという話をしているんだけども、実際はもっと話はシンプルで、
普段やってないことはやれないんですよ。本当そうです。
普段やってないことはやるなってことでもないですよ。
普段やってないことをやってくださいって言ってやれる人はほぼいないですよね。
だから準備とか瞬発力とか瞬発ゲイみたいなものがありますが、瞬発力だけで世界って決まっていなくて、
瞬発する前にその前に準備をしてじわじわ高めていってやれる。
取り組んで成長するスピードが遅いんだけど、その期間でできる、ある種の大器晩成型みたいなものがあった時に、
そういう人もいるし、瞬発でそれまで対応してやっていく人もいるし、
社会っていろんな人がいるかなと思うんですよね。
ここではその瞬発ゲイ的な話で、瞬間的にやってできるっていうみたいなものをあまり評価しすぎると、
それを悪いと言ってないですよ。それだけを見ていると、
AIをはい、出してやってください、できないですよね、みたいなことにもなりかねないんじゃないかって話ですね。
一方でその大器晩成型の人でも、当然当たりますけど使ってできないから、
なんでできないんだろうねって言って放り投げるよりも、放り投げずにそこでじわじわと学んでいって、
少しずつやっていくってやり方もありますよね。これは時間がかかる。
世の中的にですね、早く早くみたいなのがあまりにも多すぎると。
カウンターとしてゆっくりしようみたいなのがあるんですけど、
ゆっくりしようがですね、そこを吹き飛んできますよね。
ゆっくりしようみたいなものを言った瞬間に、もっと早く、効率よく、コスパタイパーみたいになっていくと。
でもそのコスパタイパーですよね。僕も別にそのまま聞いたわけじゃないんですけど、
コスパタイパーを求める人っていう若い人がいたときに、Z世代アンケートがありますが、
結局それ何に使うかって言ったら、浮いた時間はゆっくりするわけですよ。
老人と、コンサルト老人でしたっけ。漁師か。みたいな。言ったじゃないんですけど、
ゆっくりしたいんだったら、ゆっくり得たらどうじゃろうかいっていう話になってくるんですけど、どうじゃろうかいです。
そうならないんですよね。なんかね、不思議じゃないですか。
なんかその型みたいなのがどうもあって、それがいいかわかりませんが、
ユーチューバーでゲーム実況やってる人がいて、そのゲーム実況やってる人は、これ何回か言ったかもしれないですけど、
ゲーム実況っていう方とか枠を通してレスナーとか視聴者に届けているっていうお客さんというかファンに届けているわけですね。
その人はゲーム実況っていう枠を通してやっている。これなんかお笑い芸人じゃないんですけど、
なんかその一発芸とかわかりやすいものってことであったら、
例えばコスプレとかなんか着てたりして衣装をやってる人はこの衣装をしないと伝わらないし、
普段着のパーカーなんか着てたら伝わらないから、
そういうある種の自分のイッチョーラというか、イッチョーラって古いですね。
芸としておめかしして、その自分のパフォーマンスを出せるような格好というかね、
それが正装であるわけですね、そのショットではね。
それは悪いなんて言ってませんよ。そういうものがあります。
そういうのと同じようにYouTuberもそうやって、
特にそのYouTubeを見てる人はゲーム実況してくれる人だっていうフィルターがあるわけなんで、
その人がいきなり実はお話がありますみたいな感じで真正面から撮って、
その人が出てきて話をするっていうのが非常に違和感が出てくるわけですね。
それやるなって言ってないでしょ。違和感が出てくるわけです。
だからその人はゲーム実況っていうのを通してその動画を撮りながら話していく人がある。
なんか面倒くさいなってもしかしたらその話をリスナーのあなたが面倒くさいと思ってるかもしれませんが、
そうやって話していかなきゃいけないんですよね。
多分ね。それ伝わりますか。
だからタイパーコスパーみたいな部分が周りがやってて、周りがそういうような状況にあると、
周りがそうじゃなかったらいいだけなんですけど、
あるとそれに合わせてやりながら実は自分は違いますよねっていう対比ルートを作る。
だからそれってある種の同調行動に僕は近いなと思ってて、
別にそれ嫌だったらやめればいいじゃんってなるんですけど、
そこで出てくるのは実はみんながやっているみたいな実さですよ。
みんながそう思っているかわかりませんが、同調行動の現れだけかもしれないですね。
なぜなら他の人が知っていることを知らなかったのが怖いとか、
みんなと違ってたら怖いみたいなのがあるわけですね。
それはわかります。僕もわかるんで。
だけど、それが最終的に到着するのがゆったりしたいっていうのだったら、
最初からゆっくり学んでいったらいいんじゃないかとか、
SNSの役割
ゆっくり情報を得たらいいんじゃないかとか、そういうふうになりませんか。
結局そういう神経を使わないとか、緩くできるSNSとか、
すでにあるメジャーなSNSじゃないXとかインスタとかじゃないものが出てきて、
それがサービスとして成功するかどうかは一旦置いておいて、
そういうのが人気があったり使う人がいるという状況があるのは、
そういう人のニーズをうまく捕まえている。
つまり、ゆったりやりたい。
SNSとかでもゆっくりしたいっていうのがあるんだろうなってことを思ったりしています。
じゃあそんなこと言っているけど、
あなたはオワシさんどうなんですかっていうカウンターが来ると思うんですけど、
僕も結局一緒でポッドキャストで喋っているから、
このポッドキャストで触れた人はポッドキャストで喋っている人だみたいな感じになると思うんですよ。
別にそれは全然良くて、残念でもなんでもなくて、
僕もポッドキャストでずっと喋って生きているわけでもなく、
いろんなことをやっている中での一つというだけしかないんですよ。
だけどこれがある種のメディアだと思うんですね。
メディアというか、それがソーシャルメディアだろうがマスメディアだろうが、
インターネットメディアだろうがウェブメディアだろうが、
何だろうがこういう発信する場があったときに、
それで人が聞いて認知するという形成というか、
そのモデルが、仕組みが、情報の伝え方が、伝達の表現が、
それ自体がメディアというか場なんだなというふうに、
佐藤さんですね、佐藤まさくさんというピタゴラスイッチが著名だと思いますが、
方がインタビュー記事で言ってまして、その通りだなと思いました。
だから、僕も参加者であり当事者ですが、
リスナーのあなたも当事者であり参加者であり、
その関係性は別に対等だと僕は思っていますが、
この中で、そういう場の中でに、わざわざ我々ですね、
リスナーのあなたも僕もということが巻き込まれていて、
この話を通して共感をする部分もあれば、
それは違うなという批判的な部分ももちろんあると思いますが、
そういうところで、一緒に場を作っているんだろうなというふうには思うわけです。
さっきの話に戻すと、だから僕自身も手間なんですが、
これを聞いている人に動画でメッセージを受けるとか、
文章でどうかというふうになると、あまり相性が良くないんだろうなということは思っています。
だから一応ブログの案内とかしていますけど、
多分これを聞いている人って文章とかあまり見ないんじゃないかなとか思ったり、
あと僕のブログの方を見ている人は、
あまりポーズキャストとか音声とかそこまでじゃないのかなって思ったりしています。
これ何でかというと、僕は全然どっちも好きなんですけど、
ただ入り方ってあると思っていて、
その人の言葉のイメージが、話すイメージが良かったらその話の方がいいかなと思うし、
もちろん選択できて、オーディブルはアマゾンか、
本だったら本を読むのもあれば、それを音で聞きたいか、
もしくは漫画とかだったら、漫画じゃなくてアニメとか、
もしくは映画とか、違うもので楽しみたいというのはあるわけじゃないですか。
だけどそれを全部得たいとか、もしくは全部どれでも良くていいという人って、
どれでもいいというのは、
それぞれ作品が違うっていいよねっていうクロート的な意味じゃなくて、
よりファンの人じゃなくて、
情報さえ入れれば何でもいいよねっていう人ってそこまでいないと思うんですよね。
つまりその表現である今言っているポッドキャストもそうですが、
バーみたいなものにかなり影響を受けされてるんじゃないかなって僕は考えました。
ちょっと主題とは脱線してますが、そんなことを思いました。
だから手間なんですけど、この聞いている人にはポッドキャストを起こして、
ポッドキャストで伝える。
起こすって言うのも変なんですけど、伝えることが必要だし、
思考と表現の重要性
それが一番のメインであり起点であるかなと思うわけですね。
だからこのポッドキャストを聞いてくださっている方、
リスナーのあなたは他のポッドキャストも聞いている可能性も高いですし、
もしかしたら配信者の人もいるかもしれませんし、
ということが容易に想像できるわけですね。
これは別に僕がエスパーじゃないけど、心理で読んでるわけじゃなくて、
単に使う人はスタンダードFMを使ってたらスタンダードFMをアップで使っているということは
聞いているかもしれないですね。
他の番組も聞いていて、たまたまその一部かもしれないし、
たまたま新宿に出てきてかもしれないし。
あと配信もしてますが、スポティファイとかアップルポッドキャスト行ってるのかな?
わかりませんが、そういったところですね。
他の媒体でリスナーも聞いている人がいたら、
それはそれでそこから入ってきているというだけなので、
それはそれでそのサービスのプラットフォームで他のものを聞いていたりするという可能性がある。
入り口が違うというだけです。
だけどポッドキャストという音声のメディア、媒体は変わらないので、
そこで形成されている関係性みたいなのがあるんだよなということは結構大事かなと思いました。
なんでこの声に反応する部分のところに文章という、目ですね。
読むというところと相性がいいか正直わからないですよね。
僕も。わからなくて。
ただ、僕の感覚でいうと話すのも好きだし書くのも好きだという人ってそんなにいるのかなというふうにふと思ったんです。
僕は全然好きなんですけど。
それは両方いろんな経験の中でポジティブにそれを捉えているだけであって、
別に僕が他の人もそうだよねというふうに別に思っているわけじゃないです。
そこの想像というのを根拠ということで、自分の経験だけじゃなくてですよ。
他の人の話とか、そういう人がいた、ああいう人がいた、伝聞でもいいし、
そういうのを見聞きして鍛えていくしかないというところが一つ場の話として言っておきたかった。
そんな話になってますね。
言いたかったこととしては戻していくと、
ARの話ですね。
そもそもさらに戻すと練習の話であり、
普段考えてないと考えは言えないし、
アイデアもそうだし、アイデアを考えていなかったらアイデアを出せないし、
文章を書いていなかったら書けないし、
普段話して伝えていることをしなかったら伝えられないし、
イベントとかやっていなかったらイベントを企画するって分からないし、
企画もそうですね。企画をしていなかったら企画はできないし、
誰かの人の話を聞こうとしていなかったら、
誰かの話が言っていてもそれを聞こうとできなくないですか、
というような当たり前だと思うかもしれませんが、
これをもし当たり前だと思われている方はできている方かもしれません。
それは確かにそうだなと思った方は、もしかしたら違う視点が必要なのかもしれません。
できていないからダメっていうことではないんですけど、
そんなもんだと思っていまして、
つまりこれは僕がいろいろできるなんていうことを
ドヤ顔して言いたいということは一面でもないし、
それをやって伝わっていないことを祈るんですけど、
そうじゃなくてできることってめちゃくちゃかけられているんじゃないかなという説です。
だから大事にしましょうということです。
同時に広げる、拡張するアイデアを出す、自分ができなかったこと、
それもAIで学びでもいいですし、何でもいいんですけど、
そういうのも大事にしましょうということで、
別に両方大事にすればいいという話なんです。
だから今自分ができていることは普段やっていることであるという証拠なんです。
それが積まれているからできるということで、
もしあなたが資料を作れる、何でもいいですよ、
それは資料を今まで作ってきたからできることですよね。
もしあなたがスポーツとか運動とかをできるのであれば、
それはレッスンしたからだし、取り組んだからですね。
音楽は弾けたり、写真を撮れたり、イラストを描けたり、漫画を描けたり、分かりません。
その質はどこか、その質というのは置いといてね。
市場に投げてマーケットみたいなものがあって、市場マーケットですね。
売れるからそれで商業とか成功してお金を得ているから質があってその質はすごいというのは確かにあると思います。
それはただ市場とかマーケットというところではそうなんです。
主体的な生き方
でも世の中って、僕が断言しておくんですけど、
というか断言しておかないとつまらないんじゃないかなと思うんで言っておくんですけど、
その市場とかマーケットだけのお金の世界を否定するわけじゃないんですが、
それだけじゃないわけですよね。
例えばリスナーのあなたが生きてます。
僕も生きてますよね。
生きてる中で、自分はこう思うんだけど、社会とか市場マーケットや仕事として求められるということは違いますよね。
という時に何を感じますかということなんです。
自分がやりたい、発表したいこと、発露というかね。
やりたい、表現したいことはAなんだけど、世の中が求めているのはBです。
という時に、器用な人は別にBをやってこなしてお金を得ながらAもやる。
自分の自己表現できますよね。
というのはあるんですけど、器用じゃなきゃダメかというと、そうでもないわけですね。
不器用でもいいからやる。
もしくは本当はそれは市場がBって言ってるだけで、
別に市場に合わせなくても自分はAでやりたいよって言って、
自分がやりたいことを追求するのもありなわけです。
この時に分かりますよ。
お金が得られないなら何をやってもダメなんじゃないかっていうのも、
すごく言いたいことは分かるんですけど、
でもその発想自体がまさにお金があって、
どうこうっていう視点になりすぎてるんじゃないかってことなんですよね。
例えば言ってるリスナーのあなたもそうですし、僕の生き方もそうですが、
人生ってものがあった時に、例えばですよ。
ちょっと哲学的になるんですけど、
生まれておぎゃーって言った時に、親にこうしなさいって言われたから、
それをあなたはやるんですか?
僕もそれに言われたからやるんですか?
洗脳とは言いませんし、環境とかもあるから、
そういうトラウマもある方もいらっしゃるんで、
家庭がいいとか、親がいいとかっていうのも、
ある種のガチャみたいなものもありますから、それは分かるんです。
一方で言われたからそれをやりなさいっていうのは、
やっぱり僕はないと思ってて、
じゃあ自由意志で全部やりなさいってことでもないと思うんですよね。
環境が選べてないんだけど、その中でランダム的に決められて、
それこそ日本人でもらえてきただけで幸せみたいなのもありますから、
そういうのもいいですよね、一つの考え方として。
その時に自分が言われたからやりなさいっていうことをやり続けますか?
っていう話になった時に、
そこに市場というかお金とかなんかあります?ってことなんです。
多分ないと思ってて、
それは学びとか自分が得てきた、経験してきたこととか、
そのリスクリターンとか、ちょっと分からないです。
その中で全部言い合わせることはできないんですけど、
本当に全ての人生を賭けるっていうと大げさなんですが、
自分の人生の生き方まさに、
僕は戦略ってことはそういう意味では好きなんですが、
自分なりの戦略を立てていくっていうのが、
僕は主体的に生きることだなと思ってるんです。
それがもし、もしですよ、
リスナーのあなたも僕もそうですが、
それはおかしいよねと、そんなリスクがある生き方できないって言われても、
別にいいと思うんですよ、その人がリスク取ってて、
リターンを狙ってるって言ったら全然いいと思います。
そのリスクリターンの共有値が違うから、
思考と市場の関係
だいたいおかしくなるというか、話が噛み合わなかったりするので、
それは噛み合う人とか、もしくは噛み合わない人とかのバランスですよね。
仲間を見つけるっていうのがまさに噛み合う人。
仲間じゃない人っていうか、批判だけしてくる人はやっぱり仲間じゃないから、
距離はある程度置いた方が精神正常はいいかなと思います。
その時に自分が考えてやっていることっていうのが、
認められるかみたいな話になってくるわけですよね。
その時もまさに市場とかマーケットっていうので、
お金っていうものだけを見ていると、もうほんとそれしかないわけなんで、
それがまさに、くどいですがお金の奴隷みたいな話なんですよね。
お金ってそもそも何ですかってなった時に、
お金って別に手段なわけじゃないですか。
要は、理屈で言えば、
労働したっていうところの対価でお金が得られるっていうのは、
多分それは経済、資本主義もそうですが、
経済とか何かを回す時に、
ラムネっていうものでもいいわけですよ。
つまり働いたらラムネがもらえる。
でもラムネって安易に真似できたりするから、
信用とか交換とか、
保存か保管できるっていうところで有用だから使われてて、
だからこれが絶対でこれに従えよっていう世界を、
分かんないですけどね。
作りたかった人がいるのかは知らないです。
だけどそれを使っててこれでいいやっていう風になってしまっている
っていうのが実際なのかなと思います。
なんでそんな資本主義の話をしたかわかりませんが、
少なくとも市場とかお金っていうものに対してだけを見過ぎていると、
自分の所属感の重要性
感覚ってやっぱりおかしくなってくるんじゃないかなっていうのが僕の見立てです。
だからそれを、
中国の三国志じゃないですけど、
3つぐらいで分離させた方がやっぱりいいかなっていうのは思ってて、
要は自分と市場というか仕事の場とかそういう関わりと、
もう一個は町とかコミュニティとか、
家族っていうとちょっと違いますが、
違う所属みたいなものですね。
もちろん所属、だから所属が企業でサラリーマンやって、
そこで埋もれてっていうかやってますっていう人は、
本当に図でいうと企業の自分の勤め先の中にいる人みたいになっちゃうんですよね。
リスナーのあなたがもしそれでドキッとしたのであれば、
別にそれを遅くなくてダメとも僕は思わないですけど、
それでいいとあなたが思うならもうそれでやればいいし、
僕がどうこういう立場になるんですよ。
でもそれがもし嫌というか何か違うなと思うのであれば、
まず自分というのを立ててみて、
その中に自分は所属しているのはたまたま今のお勤めの先だしとかね、
っていうふうに考えていくとだいぶ気持ちが、主体が自分になっていくわけですね。
そうすると自分の所属する何か趣味のものとか、
あと自分が関わる表現したいものがあればそれをやることで、
たぶんですね、かなりそのパーセンテージが企業で勤めているサラリーマン活動みたいなものに、
もし名前を付けられればほぼ成功だと思ってまして、僕は。
サラリーマン活動以外の趣味活動とかバンド活動でもいいし、
ボランティア活動でもいいし、
他のコミュニティに行ってオンラインでゲームする活動でもいいし、
そういうものがいくつもあって、
それぞれの顔があるっていうことを感じられることができるようになれば、
そこですでに市場主義とかマーケットですね、
お金だけでものを見るってことは、すでにそこの時点で消え去っているってやつですね。
よく悩んで考えてよくわからない問題っていうのが、
実は抱えてるんじゃなくて、抱えてると思ったんだけど、
いつの間にか消えていたってことはよくあるんですが、
この類の話ってこういうところに提供できるんじゃないかなっていうふうに、
思いました。
普段ですね、さっき冒頭にお話した通りだいぶ主題が連れてきて恐縮ですが、
練習しないと、普段練習してたりやってないとできないっていうのは、
考えることの価値
AIがどうとかってことだけじゃなくて、何でもそうなわけですよね。
コミュニケーションをしっかり、話すのをしっかり、何でもそうですね。
文章を書く、それは先ほどお話しした通りなんですけど、
そうやってですね、普段お金で物事を考えている人がいるとするじゃないですか。
僕はそんなことないと思ってるんですけど、
周りとか他の人がそう言っとかないと困るから、
そう言って言わざるを得ないみたいな、もし雰囲気があるとすれば、
それはあんまり良くないんじゃないかなっていうことです。
わかります?
つまり、例えばお金はいらないよって言ってないですけど、
お金がそんなにいらなくて、お金じゃないものの価値っていうこと。
ここでお金に困って全然食べていけませんみたいな話だったらまた別ですけど、
一旦そこは置いといて、お金がある程度あって、
じゃあお金のためだけに働いていたら、
例えば体ぶっ壊したとか、うつ病になったみたいな人にとっては、
それってやっぱりリスクなわけですよね、仕事だけするのって。
だからこそ他のことをやらなきゃいけないし、
他のことをやっていく必要があると。
この時にコミュニケーションとして、世間話みたいな話で、
他の人もこういうふうに考えてるよねみたいなところで、
お金って大事って言っておかないと叩かれるみたいなね、
そういう恐怖心っていうのもあるんじゃないかなと思うんですよ。
要は周りと合わせてないと、まさに同調です。
同調しておかないと変わったやつだなと思われて弾かれるみたいなね。
コミュニティから弾かれて、いわゆる村初めってやつですね。
相手にしてもらえない。
それは孤立だから、それは望まないし、
別に僕も他の人から切り離されて孤立していきたいなんて別に思ってないです。
思ってないんだけど、考えとして自分がまさに、
リスナーのあなたもぜひ考えていただきたいんですけど、
自分が考えてそう思っているんだったらいいですけど、
自分が考えてるわけじゃないのに、
他の人がお金が大事だよって言ってるから、
自分もお金が大事って言って同調してコミュニケーションを取ることっていうのは、
グルーミングみたいな言葉が確かありますが、
要は毛作りですね。
動物とかが敵意はないってことを示す意味での話。
みたいなことになってたら、
グルーミング自体は悪くないですよね。
毛作りも悪くないですよね。
世間話して自分は敵じゃないですよねとか、
飲み会もただ自分は敵じゃないですよねと。
登山とかすると、すれ違う人にこんにちはって言うんですけど、
怪しいものじゃないですよねって意味も多分あるなぁと思いながら言ってるんですけど、
挨拶ってそういう意味が大事なんですよね。
それが苦手とか得意とか得意じゃない人もいらっしゃると思いますけど、
そこも置いといて、
でも自分は明確な意思でもしくは何となくでもいいんですけど、
どういう意識でそれをやってるかっていうのは、
僕はまさにそれが考えることなんじゃないかなと思います。
それを明確に意識してないからダメですとか、
そんなことは全く思わないんですけど、
この同調してるっていう意識がないのに同調していくと、
ネットワーク効果じゃないですけどソーシャルメディアの、
同調みたいなのがどんどん広がっていくんですよね。
なんか伝わりますかね。
なんかちょっと説明が雑になりましたけど、
自分は同調してないと思ってるんだけど、
自分は同調とか何も考えてないんだけど、
こういうものがあるよねっていうのに同意することの態度を示すことで、
他の人もそれでいいんだよねみたいに思っちゃうってことですね。
別に一人一人個人が強烈に主張して、
天気の話をしてるのに、
いや天気の話は絶対したくないよねみたいなのも、
さすがに変わり者と思うんですよね。
そういう変わった人がいてもいいんですけど、
ずっとそれやられても疲れちゃいますからね。
なんですが、
考えるとかもそうですし、
考えるってことは多分大事だと思います。
今回の話で。
考えずにダラダラしていて、
まさに受け身ってことですね。
受けで勝手に来たもので、
世界が構築されて勝手にうまくいくっていうのは、
さすがに虫がいいよねっていうところは確認したいわけですね。
能動的とか自律的みたいな考え方がやはりないとですね、
多分こういう人もいると思います。
人から聞きたいものをこなすことで、
自分はうまくさばいて生きているみたいな人もいらっしゃると思うんですけど、
それはですね、
ある種のさばき方が能動的なんじゃないかなと思ってまして、
じゃあ受けて全部いけるよみたいな人もいても全然いいと思いますけど、
なんか世界がですね、
自分の方から手がけずに勝手に変わることはないなと思っているのは、
まさにこの僕の感覚が、
ちょっと哲学的になってきますが、
あるのは多分、
学ぶってものって受け身ではできないってことに到達するというか、
決まってくるんじゃないかなと思います。
学ぶってことが今回話してて、
自分が勝手に学ぶってことはなくて、
それを習慣化して無意識化しているだけであって、
意識的に取り込んでそれを練習したりして、
めんどくさいですけどね、
慣れてうまくいかないけどめんどくさいんだけど、
それを乗り越えた先に何かがある、
違う視点が見えるってことが、
モチベーションになっているんじゃないかなと思いました。
すみません、ちょっと長くなりましたが、
考えるんですね。
普段練習したりしてないことは、
普段やってないことはできないということで、
それがですね、考えるでもいいし、
何かやるでもいいし、
何でもいいんですよね。
それがすごく大事で、
じゃあそのあらゆることを考えておきましょうみたいな、
博学になりましょうみたいな話じゃなくて、
まず自分が今やられていることとかできていることを、
要は褒めるって感じですよね。
自分ができているから、
普段できていることがあるってことですね。
でもそれだけで安住というか、
道って僕はないなと思ってて、
いやそうじゃなくて、
そこは土台がありますと。
土台っていう言い方がよくないですね。
自分のうまく言えてないんだけど、
言語化できないんだけど、
とりあえず自分は今できていることがあるみたいな、
そんなふわっとしたものでもいいですね。
で、その上で拡張というか、
まだまだ未知なことはあるから、
AIしっかり学んで、
どんどん拡張していけばいいだけなんだと思うんですよね。
という感覚がですね、
社会全体にあるとは全く僕も思ってないんですけど、
そうやってですね、
普段やっていることを増やすのもいいですし、
普段やっていることをできることを、
しっかり自分で肯定しなきゃいけないということはないんですけど、
受け入れて認める。
だけどこうやって言うと、
自己肯定とか土台とかって言うと、
すごい大きなスケールの話になるじゃないですか。
社会のためにみたいなミッションがあるとかなるんですけど、
別にそういうことは言っていなくて、
できることって、
たぶん小さいことでしか個人ってないなと思ってます。
僕も全然できることって少ないから、
まさにこのポッドキャストだけでもいいですし、
自分が発信するニュースを
僕はブログとかやってますが、
そういうところでしっかりと伝えて、
人とコミュニケーションを取ることを
厭わないということですよね。
変な人に絡まれたら無視すればいいんですけど、
そうじゃなくて、
できるだけ
教育と市場の関係
僕の社会貢献というのはちょっと違いますが、
社会にとって
このラジオをやっている意味もあるんですが、
こういう人がいてもいいよねみたいなことの予知を、
まさに僕も自分のためにですね、
作るとかないと、
なんか窮屈だなみたいな。
分かります?
ちょっと違うんですけど、
海外行って、
自由とかいろいろ言うのはいいなと思って
日本に戻ってきたら、
場所がないとかって嫌じゃないですか。
これ海外じゃないですけどね。
だからですね、
そういう意味で自分の場所は
自分で作るみたいな、
ある種の技術もあるのかなって思ってて、
そういう
訓練じゃないけど、
練習ももっとやっていかなきゃいけないなってことも
改めて思いましたし、
考えるってね、
面白いなと思いました。
すいませんね。
リスナーのあなたを吹き飛ばしてね、
どっか行ってしまったら申し訳ないですが、
リスナーのあなたを責めるつもりは全くなく、
今の状態とかできることっていうのをまず
把握するか、
なんとなくでいいので把握すると。
その上でですね、
未開拓なものとかをやってみるといいと。
で、だんだけど、
そういうことを言うと、すごい意識が高い
何かみたいに聞こえるかもしれませんが、
それはフェイクというかダミーで、
そうじゃなくてですね、
真なるところは自分のできることっていうのが
小さいんだけれど、
それを厭わずね、
少しずつでいいのでやっていく。
まさに少し話の中で出てきた
大義万世型モデルみたいなものを評価し直す。
だからそれって、
今の社会で言えば
教育にお金を使わないとかの一緒で、
そこにお金使わないと何に使うんですか?
ってことなんですよね。
だからそういう意味では、教育って市場とかお金とは
相性悪いはずなんですよね。
教育って学びとかだと思うので、
自分の高めるのはね。
だから教育と市場っていうのはある種の
対立するわけじゃないけど、
独立したり違うふうに切り離しておいたほうが
僕は健全だなと思います。
で、そうやって言うと、
何か役に立たないものにお金を使ってみたいな
人が出てくるかもしれませんが、
それはすごい市場とかお金の
味方をしてますよね。
多分、教育側の人に、
教育分野とか教育業界にいる人は
そんな視点はあまりなくて、
もしかしたらそういう卑下して、
お金が稼げてないのごめんなさいとか言うかもしれませんが、
その視点がですね、
回収するサイクルが全然違うわけですよね。
自己成長と考える力
1年で回収するのか、10年で回収するのか。
で、
それだけをやってたら確かにできないから、
市場を取り込んで、
教育業界で塾とかもありますし、
逆で市場もそれだけでできないから
人材育成するじゃないですか。
何年もかけてね。
で、あるんで、
その2つだけ見ても
それぐらい違うので、
どちらの考え方とか見方も入れつつ、
僕が
強調というか主張したいのは、
市場とか、
マーケットに寄り過ぎていると、
なんだろうね、
ってなりがちなんで、
ちゃんと教育とか、
市場外の
自分とかね、
人生を考えるとか、
そういうものって、
答えないじゃないですか。
ないし、正解もないから、
そっちもすごく
しっかり考えないと、
今後も分かんないです。
誰も、
市場から吐き出して、
知らんよっていうね、
自己責任ってことはあんま好きじゃないんですけど、
そういう時代になっていくかもしれないんで、
僕が言えることは
そんなことになります。
考えることが楽しかったら、
そこら辺は苦労してないかもしれないし、
僕は楽しいんですけど、
多分そんな人ばっかりだけじゃないんだよな、
ってことを、
ちょっと友人と話す系があって、
思ったりしたところでした。
少しでもヒントになれば幸いです。
分かりづらかったらすみません。
というわけで、今回も以上ありがとうございました。
四国居ラジオ大橋でした。
以上、失礼いたします。