1. シゴクリラジオ!
  2. 社会にアイデアや意見はたくさ..
2025-07-17 44:53

社会にアイデアや意見はたくさんある?ない?を考えてみる

spotify apple_podcasts

---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/618b94773db982af52639b7a

サマリー

このエピソードでは、アイデアや意見、考えが社会に普及しているかどうかについて考察します。大橋は、アイデアには様々な視点からの意見が含まれ、それが社会や人との関わり方に影響を与えることを語ります。著者は、コミュニケーションや読書の重要性、また、周囲の環境が個人の考え方に与える影響を探求し、自己表現や意見の育成の必要性を強調します。本エピソードでは、アイデアや意見が社会にどれだけ存在するかというテーマについて議論します。本屋の役割や知的な会話の重要性、社会での対話がどのように形成されるかについて考察します。社会には多様なアイデアや意見が存在し、その重要性について探求しています。

世界観とアイデアの考察
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
この番組シゴクリラジオは、仕事クリエイターである私、大橋が、仕事づくりに関して話をしていく番組です。
すみませんね。仕事づくりですね。
今回はちょっとだけ、世界観とか世界線というか、ほぼ同じ意味ですが、世界線の方がどうなんだろう。
世界観でいいのか。
世界観よりも世界線の方が、より新しいものに出会った感の方が強いですかね。同じ世界、世界観というよりもね。
世界観ではないんですけど、要は価値観ですよね。見え方の話をしてみたいと思います。
きっかけとしてはですね、考えや意見、あ、ごめんなさい。意見、考え、アイデア。
僕がアイデアと言っていればいいですね。それは意見、概念、工夫、解決策、様々なものを指すと思っています。
今日のこんだて、何食べよう。
トレーニングのメニューで、腕立て飽きてきたんだけどどうしたらいいみたいな時とか。
そうですね。スマホ忘れたからどうしようみたいな時とかね。旅行を楽しむ、より楽しむにはみたいなポジティブなものはもちろんある。
だから、あとは自分の生き方みたいなのも、それはアイデアっていう人はあまりいないかもしれないですけど、どういう風にしたいのかっていうのはまさにアイデアだと思います。
それを雑多にまとめていって、意見とか考えっていうことだと思うんですが、ただですね、雑多とはいえ、
僕がよく言っている違和感発想法って言ってるんですけど、違和感から発想しましょうというのですが、
これって結局切り口を求めるんですね。切り口って何かって言ったら結局考えなんです。
結局考えることに戻ってきちゃうし、この考えるループから脱しようと思ったことはないですが、そういうものかなと思ってが楽しいんですけど、
リスナーのあなたはどうでしょうか。そういうところで僕が見ている世界観というか世界観というか見え方は、
世の中にはそういうアイデアもですし、意見や考えが溢れていると。溺れているわけじゃないですけど、溢れている。
いろんなところに豊かな生態系って言ったらいいですか。山、海でもいいですけど、森でもいいですけど、都会とか田舎関係せずにと思ってたんですが、
どうもそうではない人もいらっしゃる。というかむしろ多くの人にとってもしかしたらそうかもしれないということを考えるとちょっとだけ怖くなりまして、
そのあたり怖いというよりもずれがあるよねっていうところを踏まえていくと何か見えるかもしれないし、今回も見えないかもしれないし、
それらがヒントになれば幸いで、そのあたりを少し共有していきたいと思います。今回もどうぞよろしくお願いいたします。
深い考えの重要性
はい、しごくりラジオの大橋です。今回のテーマは世の中、社会に意見、考え、アイデアは溢れているのか、溢れているというか、といったものはあるのか、あるないという感覚でお答えいただく感じですが、
あるとかないとかどちらでもよくて、なんで考えたんですかという話です。これは話というか話題を見て気づいたというところなんですよね。
簡単に言ってしまえば冒頭で話した通りで、まず僕の立場というか僕は世の中にはアイデアとか意見とか考え方も含めて、考え自体もあるし考え方もあるしが溢れていると思っているんですね。
聞いている方がたくさんいると、お一人じゃないという状況になったときに2人以上いる、Nイコール2以上みたいなときに、その一人一人の方が考えがあると。
それは大幅に違いますとか、そうだよねというのもあったり、そこまではいいんだけどそこは違うとか、いろいろあっていいんじゃないかと思っているんです。
だいたいそうじゃないですか、全部ガッチして、この人が言っていることを全部言うよりは全部取り込もうみたいな、逆に気持ち悪いじゃないですか。
だから参考になる部分だけ参考にしていけたらいいよねみたいなところがあると。だから切り取ってそれだけ取れるかは別問題だと思いますが、その辺りは考えつつね。
そういう意味でそうなっていると、僕は感じていました。ただここで言う考えとか意見とかっていうのは、表層的なものではなくいわゆる深い本質的なものの話をしている。
だから表層がダメって言っていなくて、入り口としてはいいけど、それは入り口なので、出入り口みたいな入り口があったときに、それは扉であるわけだから、マインクラフトっていうゲームの話になっちゃいますけど、マイクラって言って建物を建てることもできるんですけど、扉しかないので建物じゃないわけですよね。
建築基準法でしたっけ?建物の定義って確かあって、柱を立てただけじゃ建物にならないでしたっけ?柱を立てて上に囲った瞬間になるのかな?その辺りは詳しい方いらっしゃるかもしれませんが、定義がある。
扉だけでは多分扉っていうパーツがあるっていうしか目指さないし、扉をどう設置しないといけないから、マイクラっていうゲームだと扉だけで動くんですけどね。面白いですけど。扉を設置するということは中、建物がある。家屋というかね。小屋でもいいし、なんかあるわけです。
期待しているのは、表層的っていうのは建物風に見えるものがあったときにその中が建物だっていうことを期待しませんか?そこがメイン。
その中に入るための入り口じゃないですか。入り口ということは、次というか中があったり違うコンテンツがあったりするっていうことだと思うんですよね。話としては、考えとか考え方の深さって正直絶対的なものないし、相対的なものだと思うんですよね。
少なくとも今言えることは、世の中に意見考えがあふれている、もしくはいっぱいあると考えています。それはなぜなら、こういう証拠というよりも感覚とか、気づいたことがあるし、こういう体験があるからどうかっていうふうに、まさに今深めようとしているっていうところが考えなんじゃないかなって思います。
それをアウトプットする。メディアというのは情報の伝える手段でありコミュニケーションであるので、このポッドキャストも一つのコミュニケーションであるんですが、そういうところで言うか言わないかはまた別じゃないですか。
変数があると思っていて、親しい人には自分の考え方を言うけど、知らない人に言うのは恥ずかしいとか、もしくは怖いとか言われたら怖いというのはわかります。
で、その上で発信する側で誰か知らない人っていうことを言ってるわけじゃなくて、これは別に万人に届けなんて思っていなくて、志望送りもそうですけど、何かやっていきたいなという人に届けたらいいなというぐらいの思いと、ヒントになればぐらいの感覚で話しているわけですよ。
氷もせず、金もせず、楽しく話してもらっていますよ。そういうところがあるので、そういうふうにやっていると。
コミュニティとその影響
考えを深めていくというところがあったときに、これは僕の感覚なんで、他の人がそうとは全く思っていないし、そうじゃない人もいらっしゃると思うんですけど、できれば関わるのであれば、その人が考えていることを知りたかったり、そういう意見や見方があるんだなというのを知りたい方ではあると。
だからそれは、その態度がまさに、たぶんその人を理解しようとするというふうに、僕が勝手に思っているわけじゃなくて、言ってもらえることがあるわけです。伝わっています。
だから浅く付き合うみたいなことは否定しないし、そういう関係もあるからだけですけど、本当に浅いだけだと、何が起きるかというと、これは別に偉そうに言っているわけじゃなくて、社会での人との関わり方がわからなくなるわけですよね。
みんなこれ表装で浮っ面というか、入り口で扉でガチャガチャやっているだけなのかといったら、そうじゃないですよねというのが僕の考え方です。僕の考え方なんで。
そうじゃない人もいると思っていまして、入り口でガチャガチャやって、そのふりをするというか。もちろんそれも考え方なんですよね。
世の中に自分のことをわかってくれる人はいないとか、自分のことをわかってもらえるのは自分だけだ、もしくは特定の境遇を共有した人だけしかわからないよね。
わからないでもないんですが、それをやってしまうとつまらないというか、僕はですよ、可能性というか狭めてしまうんじゃないかなという。
別にみんなとみんな友達になれとか深い話をしようというのもまた違うと思うんですよね。だからケースバイケースとか状況とか人とかタイミングとか変数がありすぎて一言で言えないので、あくまでも僕の考え方というのを強調しておくと。
そういうのがあるんで、僕が、これは人の付き合い方ですけど、なるべくその人の言いたいこととか考えていることを知ろうとします。逆でですね、リスナーのあなたがどう思われているかわかりませんが、そういう態度が嫌だなという、人はこの番組は聞かないでしょう。すぐ閉じると思います。
もしそれが悪くないんだと思っていただけるなら、付き合いというか、遊びでもいいですけど、話とかが進行するって感じです。でもそんなもんじゃないですか。万人に好かれようなんて全く思ってないし、むしろ変わったことをやろうとか、変わり者であろうというね。
変わり者って社会に理解されない、変靴者みたいになってはダメだと思うんですが、なるべく変わったものをしれっと入れて理解していただける方向に持っていく。という意味では、変わった見方をされる方からすると、社会にこびているみたいなね。
そんなことないですけどね。もういい人もいても別におかしくないかと思う。その人から見たらね、相対的に見たらね。絶対できるものないですから。絶対的というよりも、その人から見たらそうっていうのが絶対的ですよね。
でも、状況によっては変わっていくよねっていう話です。それは僕の目線です。立場という考え方です。でないと、考え方だ、こうだとか、ああだ、そういうことを言っていかないわけです。
僕からするとそういうことを言っていて、そうではない人の立場からすると、真逆ですよね。世の中や社会はそういう考えとか意見というのはあまりないのではないのだと。見えないのだと。見えないって言ったら正しいかなという捉え方があると。
で、これって何だろうなって思ったんですね。僕の中ではそんなにない。それはリスナーの方から見たらそう思われる、そう思うんじゃないかなっていう、もしかしたら考えている方いらっしゃるかもしれませんが、どういう環境で育つ、もしくはどういう環境にいるとそう思うかというと、まず、まずですよ、これは僕は想定とか推測とか考えているだけなんで、合っているとかは分からないです。
まず一つ目、そんな整理されていないんですけど、一つ目思ったのは、周りで話ができる人があまりいない。例えば、自分はこんなことを考えているんだけどどう思うっていうような。
それを僕は一般的には親友、もしくは話せる友人がいるみたいな。それを知人とか知り合いっていうにはちょっと重たくないですか。
これはもう分からないです。言葉の定義であるんで、いきなりちょっと最近知り合った人に話で、もちろん盛り上がっていろいろ話して、この人信頼できるなと思ったら話せばいいんですけど、それを置いておいて、そういう話をできる人がいるかいないか。
そういう人の存在、もしくはコミュニティでもいいでしょうね。SNSでアウトプットとか記事を書くとか、そういうのは色々あるんで、別にしてもしなくてもいいかなって。
コミュニケーションとアイデア
ただ自分で書いているかとか、メモしているかとか、仕事とか限定された場で言えるかどうかっていうと、そういうのを鍛えられているかどうかあるんで、単に量とか触れ合う、コミュニケーションしているとかそういうことの量になっていくかなと思います。
質は後からついてくる。だからそういう話せる人がいなかったりすると、当たり前ですけど、世の中ってそうなんだ、社会ってそうなんだって思いますよね。
2つ目ですね。これは1に近いんですけど、環境って捉えて引いてみると、例えば本ってありますよね。ここに本、研究者の方とかいろんな小説とか読み書きのものがあるんですけど、そのところで言うと、この本も研究者、著者の人がいたら、この著者の考えが溢れてるじゃないですか。
本ってそういうものじゃないですか。だからその期待があるから、AIのみが書いたようなものとか、AIが主流のものの本だと、その人の体温というか温もりというと気持ち悪いかもしれませんが、その人のらしさみたいなのがないと、ちょっと騙されたみたいなのがある。
その人らしさを求めずにノウハウだけ欲しいという人もいるから、本って難しいんですけど、ただその本自体はその人の考え方があると僕は考えてますから、その本を、そういう本とか読んでない人なのかなと。
要はインプットするものがノウハウだとか、情報だとか、ライフハックだとかに偏りすぎてる。ただこれも後で思うのは、仮にそのノウハウです、ライフハックですとか、トゥードゥリストにあげてそうするといいですよみたいな効率化とかね。
なんか体温とかなさそうなやつでも、その紹介する人の意気遣いみたいなのがあるわけじゃないですか。これは良いと思いましたとかね、感想とかですね、意見が入ってくるはずだから、それがないってものの方が逆に珍しいというか。
AIですらそれっぽい考えとか意見という、意気地というわけですけど、が著しく高いと。意気地が高いということは、大抵のものはアイディアでもない、意見でもない、考えでもない、しっかりしてない、故にないっていう風になるのかなって思ったんですよね。
でもそれもあるっちゃあるか。確かにアイディア出し苦手な人とかがよく思うというかハマるのは、要は期待値とかレベルが高すぎて、出てくるアイディアがものすごくイケていて、すごく実効性が高く、それこそビジネスだったらなんか儲かりそう、儲かる。
ビジネスプランが描けて、それこそ投資家がすぐ席を立ち連絡をして、あなたの話をぜひみたいなアイディア。そんなのあるわけないじゃないですか。って思うんだけど、こちらとしてはアイディアを普段出している人っていう立場ですよ、僕はね。
思っちゃうんですよね。
それはちょっとこの例えが適切かわかんないんですけど、恋愛の話はそんなによくない。ただ片思いみたいなのがあったときに、自分が好きな人がいたときに、その人は素晴らしい人なんだと思い込んで、理想の何かを想定する。
その人の理想像をその人に当てる。そんな知ったことないじゃないですか、相手からしたら。
まあまあ誰とは言わないですけど、誰とは言わないですけど、それでUVじゃないですか。初心って書いてあるUVなんですけど、初心。
初心。この四国レラジオではUVだっていうことを。だからUVって言ってる人あんまりいないですけど、UVだなと思います。
可愛らしいっちゃ可愛らしいですよね。でも経験値が少ないって言ったら少ないですよね。だから経験値が少ないからダメとか、UVだからダメとかっていうわけじゃないですけど、その状態がまさに初心ってことじゃないですか。
っていうふうに思ってほしいと。だからアイデア出しの場合はそこを鍛えていくことで、僕は変わるんじゃないですかねっていうのはあるので、技術だとか訓練だとかは思ってますよ。
だからできなかったらもう教えるとかヒントをどうとかなんて一切言ってないですから。言わない、やらない、諦めでもありますよね。でもそれはないです。だからできると思ってる。
自己表現と環境
恋愛の方も恋愛攻略とか流行ってる気がしますけど、一切知らないですけど、なんかやってったら上手くなるんじゃないですかっていうぐらいです。ポジティブにいきましょう。
本とか読んでないじゃないか。あともしくは域地が高すぎる。ゆえに認定してくれない。意見とか認定してくれない問題。これはどっちかというと3つ目にします。
要は周りにそういう話せる人はいない。深い話ができる人がいない。もしくは友達があんまりいなかった。
あと本だとか考えが出てくるものに触れようとしなかった。もしくは触れてない。あと3つ目に触れてるんだけど域地が高いがゆえに認めないという考えだとか。
ぐらいかなと思ったんですけどね。他のもしかしたら僕が見落としてるのもあるとは思うんですけど、それを考えてるんですけどすごく面白くて、そういうふうに見えるんだなって。
そうそうそうそうそうそうそう。っていうところなんですね。
では話を僕の方に戻すと、その志望送りもそうですけど、仕事が世の中に価値があるかなとか、こういうことをしたら喜んでくれるかなっていうのはまさに自分の考えとかアイデアをぶつけるというかやってみるってことは価値だと。
錯覚してね。最初は錯覚ですよ。前も言った創発志向って言ってましたけど、アートデザイン創発みたいな感じで、自分がこれ勘違いかなと思いながらも行ってる。
だから志望送りっていうのが多いなら勘違いの可能性もあるわけです。それは踏まえてます。その上でやってみないと分かんないからやってみる。
それに対して、実はいいんじゃないですかねっていうか、ちょっと見せ方変えたらいいんじゃないですか。わからないです、じゃあお願いしますみたいな。そういうふうに巻き込んでいって変わっていくこともある。
で、デザイン志向ね。だけど、何か言われたことをこうしたらいいですよってことを言われてやるんだったら、つまんないじゃないですか。
いや、分かったんだけど僕のやり方もやらせてくださいみたいなふうに若干アートに戻して、アートデザイン、自分の考えもしくは意見もらったやつの考えを混ぜて最後に、
これはもしかしたら今まで到達できなかったものだよねっていうので、そうはずって言ってるんですけど、そういうものが仕事づくりにおいてもあるんじゃないかなと思ってます。
だからその頻度とか期間とかね、どういうものを作るかサービスを作るのかによって変わりますが、それでやっぱりチャレンジというかね、やっていけたらいいじゃないですか。
だからそこで出てくるのがまさに考えや意見、アイディアを出すことですし、それが人とは違ったり人と違うんだよねっていうことを踏まえるってことなんですよね。
つまり、もう少し行くと入り口でガチャガチャ扉ガチャガチャやってるわけでもなく、突っ込んで入り込んでいって、考えはこうだとかってことを見ていかないと、価値っていうものは全然スッカスカというか届かないような気がするんですよね。
例えば釣りじゃないですけど、見えている範囲で手を水中に突っ込んで、手をかき混ぜさせて魚いないなって言っても、見てないし魚は見えてないじゃないですか。
見ながらやってもいいですけど、届かない、距離が届かない。明らかに遠くにいるんだけどみたいなね。
水中だと見えている位置が下がるというか、実は上なんだけど下だったりということがあると。
下だったり上かな?ちょっとわからないですけど。
光で見える位置とずれているわけですね、水中だと。
その時に釣竿でもいいし、違うものを持ってきてやって。
実はそれこそ比喩として適切かわかりませんけど、水中に行ったら魚がいたりとかもっと違うものがいたりする。
要は視点の話になっちゃうんですけど、自分が見えている理解ではこういうふうですよね。
この人とかもしくはこの考え方は。だけど違う見え方があるかもしれないなって思うこと。
これはある種の遊びでもあるんですけど、自分から見た時の考えじゃないものを、実はその人は持っているかもしれないという余地を残しておく。
もしくは残しておかないと入ってこないというか入れられないですよね。
他の人の考えって思ったりします。
じゃあそういうものって何か。
要はさっき言ってた周りに意見とか考えているのが世の中にないっていうのは、
そう決めつけてしまったらそうなりますよね。ほらないでしょってなるんだけど。
行き地問題はちょっと置いておきましょう。
行き地が高すぎるのは何だろうなって。笑いの行き地でも良くて、
ペンがコマのように回らないはずなのに、ペンをものすごく高速回転したらコマのように回ったらちょっと面白くないですかって僕は思うんですけど、
だからペンを思いっきり回したら行けるんじゃないかって思ってやってみることが面白い。
本当に面白いか分からないですけどね。
そういうのがあった時に、それはつまんないんじゃないですかって人もいるじゃないですか。
いいんだけど、その面白いレベル高くねって同時に思うわけですね。
それで仮に行き地が高いか低いかで、低いとか高いとかちょっと置いておいて、
高いと何が問題かというと、高すぎると反応しなくなるというか、世の中にないと思っちゃうというわけです。
そんなことないんだけどなぁみたいな感じがする。
行き地の話は一旦置いておいて、周りに話せる人がいない本とかそういう考えがあるようなものを読んでないとなると、確かにそう思うのかもしれないですね。
これはもっと引いていくと、自分が育った環境において、自分の話を聞いてくれる体験があり、もしくはしっかり話をしてくれた人がいたら、世界が変わってた可能性がある。
教育の問題だって言ったら話が終わっちゃうんですけど、一時的な教育の話じゃなくて、それを踏まえて認められると言うとおかしいんですが、
社会にね。社会というよりも周りって言ったらいいんですけど、あなたの考えって面白いよねって言われたときに、これが考えを出すことなんだとか、
もしくはあなたはよく話を聞いてくれるって言われたら、それは相手からのフィードバックで、それがまさに考えを聞いてくれることなんだみたいなことの体験を積み重ねていかないと、
これは一長一短ってことで、一日ですぐ簡単にできる話じゃないので、積み重ねがいるんですよね。
教育と心理的安全
それが性格的にも、嫌だなっていう人もいるわけじゃないですか。話をして、相手の深い話をしていくのが恥ずかしいと。
あと恥ずかしいというよりも、恥ずかしさもあるんじゃないかと思います。自分が間違ってたらね。
間違ってたらってやつです。
闇とは言わないですけど、確かにそれはあるんでしょうね。
それが間違いだったら恥ずかしいは、以外にもあるんでしょうけど、前言った通りで、間違えてもいいよっていうね。
僕が小学校の他人の先生が言ってた、間違えていいよって教室は間違えていいよって。
そういう場を作らなきゃ、心理的安全な場所を作らないと、怖いですよねっていう状況に今なってるんじゃないかと思います。
ここでちなみにっていうことを言うんですけど、本や書店が割といいんじゃないかなっていうふうに、
これはですね、ブックコーディネーター内沼さんが、この文脈では言ってないと思いますが、
書店がそういう考えたり、哲学とは言ってないかもしれないですけど、記事が書かれてた気がしてて、
あるいはイベントだったか忘れましたけど、でもそうだと思いました、僕はね。
つまりメディアとしての本屋っていう、メディアというか場としての本屋っていうのが、本を売ると。
本を売るって何?って言ったら、考え方とか、人はいないですけど、ほとんど人はいないんだけど、
本の数だけ人の考えだと思ったら、いろんなものの考え方があるって意味では、いいんじゃないかなと思います。
それを元につまみにして、話にして、こんな人いるんだねっていうのが、僕は面白いと思ったんです。
だから話をする場、哲学カフェとかね、対話とかって言っちゃうとちょっと固めですけど、
こう思いましたねっていうのが一旦受け入れられる。そういうのもあれですねって言って、こういうのもありますぐらい。
そのやりとりっていうのを、多分なんか知的な会話みたいな風にもしかしたら思われるかもしれないですけど、
僕自身が知的な会話をしているという意図はなく、狙いもなく、そういうのが知的と思われるなら、知的な会話でいいですよっていうぐらいです。
別にあまり深い意味はないです。ただ、そういうところで本屋っていうのは、なっていったらいいなーって僕は勝手に期待します。
だけど、シンプルにビジネス的に言うと、場所をつけり本があり、そこで話をして、そしたらなんか飲み物でも飲みたいじゃないですか。
社会のアイディアの存在
ってなっていくと、飲み物機能みたいになっていくと、なかなか難しいよなーって思います。
ただ、それを本当にやりたい人がいれば全然協力はしたいなっていうのはありますね。
でもね、これ思うんですけど、そこまで何かやりたいっていう人はなかなかいないんじゃないですかね。
だから、それは本屋をやりたいっていう感じとはちょっと違う。
そういう近い、本屋でコミュニティをっていうような感じの人は多分近いですね。
だけど、特定の思想に染めたいとかでもないから、ここが非常に難しい。
変わり者みたいな偏屈というかね、悪い意味で偏屈みたいな人がいたときに、
その人が他とコミュニケーションしたいかって言ったら、ちょっと違ってたりするから、これもまた難しい。
難しさ満載だから、やらないというか、より難易度が高いような感じがしますよね。
簡単じゃないっていうかね。
なんでできるかって言ったら、本当に思いとやりたいっすっていうのと、
それでお金がいっぱいもらえるわけじゃないですからね、モデルとしてね。
そこに稼げるモデルがあったら、みんなやってるんじゃないですか。
教育要素も入るわけですね。
ごめんなさい、だから僕はそこまでやれないからとりあえず、
今の言ってる本屋じゃないんだけど、
しおぐるスペースとか、バーバーチャル、オンライン、ディスコとか、
ところでやっていけたらいいかなっていうふうには着地しますよね。
すいません、言いたいことがまとまったかわかりませんけど、まとめられる範囲にいくと、
世の中の見方として、アイディア、意見、考えみたいなものがあったときに、
それをある種の、コンテンツとは言わないですけど、
ある種、中ぐらい、もしくは深めだとしましょう。深めのものだと。
簡単に挨拶として、今日雨ですねとか、今日暑いですねみたいな、そういうのではなく、
もっと突っ込んだ話をしていけるものの類のものだと思ってました。
それがある世の中に、社会にあふれてるのかあふれてないのか、
もしくは周りにあるのかないのかっていう感じでいくと、
僕はあると思っていましたし、今でもそうです。
なんでもっと話そう、もっと話そうよっていうとちょっとね、
何なのこの人ってなると思うんですけど、
まあまあでもそんな立場ですかね、一応ね。
黙ってましょうよっていうふうにあんまりならないかな。
別に無理して話せとは言ってないですよ、この塩梅はあります。
一方で、社会とか周りにそんな考えとかないですよっていうのがあったと。
それは僕は不思議に思ったんで、なんでだろうなと思ったときに、
単純に周りにそうやって話せる人がいなかったり、
そういう話してくれる人がいなかったり、あんまり経験や体験がなかったら、
それはそうだろうなとか。
あと本とかも環境なんですけど、考えが出てくるようなものに触れないと、
エディソンすげえとかにならないですし、
エディソンって人がこういう人がいてねって紹介してくれる人がいなければ、
エディソン知られないじゃないですか。
まあそういうのがあると。
もう一個は意気地ですよね。認定基準が高すぎて、
それはアイディアじゃない、それは意見じゃない、それは考えじゃないみたいな。
それはちょっとね、偏屈すぎるからって思いますけど、まあまあ。
そういういろいろな要因はあるんだけど、そうやって考えていただけると、
少なくとも原因とか要因とか環境とかいろいろあるんだけど、
確かに周りでそうやって受け入れてくれる、話してくれる、
自分が話しても聞いてくれるとか、
あなたはじゃあ相手の話を聞いて対話とか話をしていくってことがないのかと。
コミュニケーションの価値
言うのがなければ、それはないなっていうふうに思ったっていう話なんですよね。
伝わってます?
これはリスナーのあなたが、僕とも認識がない人っていう想定であれば、
このラジオだけ聞いてるとか、もしかしたらブログとか見てくれた方がいらっしゃるかもしれませんが、
ちょっとわかんないんだけど、とりあえずよく言われるのが、
哲学的だねみたいなところになることはよく言われるわけですよ。
哲学知らないですよ、って僕は思ってますけど。
ちなみに大学の時の哲学の講義取った時にめちゃくちゃ成績悪くて、
この人デカルトとか何言ってんだろうみたいな感じでしたからね。
今はもうちょっとよくわかってないです。
ただ、それを置いといて、
哲学的ですねって言われるんですよ。
リスナーのあなたがどう思うかは任せます。
勝手にそこは感じてもらえればいいです。
僕は何を言ってるんだろうと、何が哲学的なんだと、
会話しとるだけやんって言うんですけど、
まさにこれがしごくりかなと思いますね。
要は自分が普通に普段やってることと他者が感じる、
それが詳しくないですか、それが良くないですか、みたいな。
哲学的って言ってるのが二つ以上意味がありますからね。
あなたの言ってることがよくわかんないとか、
深遠すぎてそこまで考えてないとか。
もちろん冗談で、喉が渇いた時に要求を五条件述べようとか言ったらうざいじゃないですか。
そんなことやってないはずなんですけどね。
あと全員が全員にあなたの考えを述べて、
述べなかったら話が進ませんぞみたいな、そんな詰めてはないはずですよ。
それはうざいなと思うんで、それは関係性が壊れますよね。
そこは置いといて、じゃなくて考えを深めていきましょうとか、
考えを聞きたいなっていうのって結局感情ですから、
この人は別に悪くなってそうだとか、この人は良さそうだっていう風になっていったらどんどん行くし、
何か違うなとか、あっさいなーみたいな。
あっさいなーって言ったらちょっとわからないですけど、怒られるかもしれないけど、
言わないですよ。言わないけど、思ったらちょっと距離を取ったりとか、
なってきますよね。そんなもんじゃないですか。
だから何言ってるかというと、僕はそういう考えとか意見とかを大事にしてくれる人、
もちろん全然意見違ってたりすることもありますから、それはいいんですよ。
っていうところを大事にしてるんだなってことは逆に思いますよね。
だからそういう人しか周りにいないし、
これは僕の感覚ですけど断言、主観ですけど断言できる。
でもそれだけなんですよね。
だからそれは誤解をしてほしくないんですけど、
考えと違う人と付き合わないっていうのとはだいぶ違いますよね。
考え方を出せるっていう人と付き合っていくってことですね。
それに考えが違ってても別にいいんじゃないかなっていうところになります。
でもこの話ってなかなか理解がし難いなって人もいると思うんですよ。
考え方違う人と付き合っていけるの?みたいなね。
そうですよね。
だから共有できる価値がなければなかなかしんどい。
だけど価値って何?って言った時に深さとかがあると、浅さがあるとね。
そんな気にしない必要があって、そのトレードがあるわけ。
トレードってよくないですけどね。
それ気にならないけどこっち気になるみたいなのがあって、
それは僕もあります。気にしてる気にしてないがある。
それが合う合わないがある。
そして一つだけここで言えそうなのは、
それ一心伝心で心で思ってても通じろって言っても、
ここで僕がすごいパワーを送りますとか言っても届かないんですよ。
パワーを送っていることすらわからないっていうかね。
届けようとしてたんだぐらい思われちゃう。
それは冗談なんですけど、
その一心伝心で伝わらないから、いわゆるトレーディングカードじゃないけど、
持ち札みたいなやつがあって、その札っていうのは何かって言ったら、
自分の考えとか意見とかアイディアがカードの一枚だと思ってください。
こういうカードではどうですか?あなたはどうきますか?ってことをやり取りする。
そういうことがまさに僕はコミュニケーションだと思いますけど、
少なくとも野球みたいな感じ、野球じゃなくてもいいですけど、
キャッチボールみたいな感じがないなら、ゲームでもいいし、
マインクラフトでもいいんですけど、僕はこういうふうな家がいいと思うんだけど、
君はどうだい?って言って、
ダサいとかすごいとかを置いておいて言い方になりますけどね。
だけど、自分はこういう方がいいからこういう風にしてみようとか、
もしくはこういう家に一緒に作ろうとかね。
それが価値なんじゃないか。要は価値というか意見とかアイディアで、
そこまでにコミュニケーションが重なっていくわけですよ。
人間ってそこでこういうカード、こういうアイディア、
こういう建物とかこういう風にやったらいいっていうのを出して、
そこを作っていけるイメージが僕にはあるんで、
アイディアとか意見とかっていうのはすごくポジティブに捉えてるわけですよね。
もちろんネガティブな、否定とか批判がネガティブっていうよりも、
世の中をすごく悪くしようとかね。
自分の思うままにコントロールしてやるっていう人がいないのかって言ったら、
いや、わかんないですよねっていうところになるから、
そこはちょっと置いておきましょう。
ただ、僕の見方はそうです。
そこが露出というか発露というか出てくるっていうところにいないとないと思う。
だから雪を見たことがない人にとっては雪なんかないよね。
魚を見たことがない人とか海を見たことがない人にとっては、
え、海なんてあるんだって。
社会における常識と多様性
そんな世界ぐらい違うのかもしれないですよね。
だから日本とか今の社会全体とか地域、何でもいいですけど、
言ってますよね、そういう抽象的な概念あるじゃないですか。
ふわっとするやつ。
何なんでしょうね。
思ってたより違ってますよね。
っていうことを僕は思ってるんですけど、
大体一緒ですよねとか、
それ常識ですよねっていう言葉とかっていうのを多分使ってない。
調べたら使ってるかもしれないですけど、
常識って何でしょうねっていう。
だからそれ普通ですよねっていう。
普通はって言ったときに、
自分含めて言ってるのか含めてなくて言ってるのか、
立場は何なのかっていう。
普通とかないんですよね。
それはあなたが思う普通で、
常識で考え方。
だから普通っていうのがなくて、
それはあなたの考え方っていうふうに捉えてたりしますね。
それが多数派とか少数派とかもあるかもしれないけど、
いいじゃないですかっていうね。
そのキャパシティとか受け入れられる余地っていうのが、
もし僕があると思っていただけるなら、
それはもう本当に人と話すとか、
いろんな考えを見るっていうことでしか鍛えようがないです。
魔法みたいなのはないですね。
でもそれってカジトリとして、
相手の考え方とかこういう意見があるってことを、
捉えてかなかったり、
あと触れてなかったら鍛えられようがなくないですか。
だから別に本とかだけじゃなくていいんですけど、
でもそれはやっぱり興味になってきて、
原点はやっぱり興味になってきて、
好奇心、関心で、
他の人の考え方とか今回だったら違うね。
世の中ってそんな考えないですよねみたいな人に触れたときに、
そんなことないんじゃないって思う感じ。
そこがまさに起点となったわけですね。
そういう人に触れてなくて、
それは分かってますよ。
みんながみんな喋って、
私の考えはこうだっていうふうに言ってる人だけだと、
とてもじゃないけど思ってません。
みんな起業家だとか思ってないですよ。
それを踏まえつつっていうことですね。
そこら辺が面白いなって思いました。
なのでリスナーの方のお考えはちょっと分からないんですが、
一つですね、周りにアイディア、意見、考えが溢れている方がいいのか、
そうじゃないのがいいのか、二択ではないですが、
どちらがいいか、なぜそう思うのかって考えていただくと、
面白いのかもしれないという話でした。
今回は以上となります。
少しもっとヒントになっていただければ幸いです。
以上、四国にラジオ大橋でした。
失礼いたします。
44:53

コメント

スクロール