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2025-04-21 26:41

AIの使い方は読者や本と一緒ではないか

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サマリー

AIの使い方は読書に似ているという仮説を検証しています。AIを利用することで、創造性に影響を与え、思考過程や考える力の重要性が再認識されます。AIの出力を受け入れるだけではなく、自分の考えを加えることが求められます。AIを使用することで、人間の作業が効率的になり、創造的な活動へシフトする可能性があります。しかし、AIと人間の思考プロセスには違いがあり、出力されたアイディアを鵜呑みにせずに批判的に考えることが重要です。AIの利用方法は読書や自身の経験と同様の考え方を伴い、手段としての役割を果たします。使用に際しては、批判的思考や実践が求められ、自己啓発やビジネス書とも関連付けられます。

AIと読書の類似性
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオ始めていきたいと思います。今回のテーマは、
AIの使い方は本を読む読書と一緒じゃないか説というわけで、この仮説を少し検証していければいいかなと思います。今回もどうぞよろしくお願い致します。
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回のテーマとしては、冒頭でお話ししました通り、AIは読書と一緒じゃないか、使い方ですね。AIの使い方は本を読むような感じではないか、つまりAIは本じゃないかということですね。
という仮説ということをふと思いまして、 その話を共有していきたいと思います。
シンプルにですね、AIを最近使っていると、想像性において、特にアイディア出しにおいて、僕にとって一番近い、企画にもいいですよね。
言葉を選ばずに言うと人がバカになるんじゃないか、つまり僕がバカになるんじゃないか。
もっと言えば、もうちょっと丁寧に言うなら、AIを使うことにより、僕が考える機械や考える質、もしくは考えるその型を忘れる。
もしくはですね、忘れるというとゼロイチになるじゃないですか。だから衰えるですね。 考えなくなるんじゃないか。考える力が弱くなるんじゃないか。
って言えばいいでしょうかね。 って思ったんですよ。こういうことを言っている人もいて、僕もその通りだなと思ったんです。
シンプルに、1回で自転車とかで身についたら、自転車の乗り方を忘れるとかないんですが、毎日に自転車乗っている人と、1年に1回しか乗っていない人って、自転車の乗り方違いません?
車の運転でもいいですよね。 ここで自転車に1回しか乗りません。車に年に1回しか乗りません。
それでパチパチパチと問題がない、社会生活に支障がないであれば全く問題はないわけですね。
社会生活というとちょっと分かりづらいかもしれませんが、日常生活というのも含めつつ、例えば仕事をやっているのであれば仕事においても同様ですね。
それで支障がないかということですね。問題がないから。
で、アイデア出しを本と一緒じゃないか、AIの使い方が本と一緒じゃないかということで、
本を普段読んでいる方がいて、月に何十冊は結構やばいと思います。プロだと思いますが、数冊でもいいでしょう。
数冊を読んでいる人がいて、それが年に数冊になります。つまり10分の1になりました。
この時に本を読まなくなったからダメとかそういうことは全くなくて、本を読まないなりに何か代替手段と言いますか、人とよく話すようになったとか、
自然でよく考える時間が増えたとかね。ちょっとよくわかんないですけどそこは。
そういうふうにですね、代替手段ができて、もしくは質が変わっていった。
ここでも本を読まないからダメとは一言も言っていなくて、変わっていった。そこで問題がないなら問題がないというか、
問題がないというか、その人にとって全然幸せですよ、豊かですよということであれば、本なんて言ってたら怒られますけど、
いらないのかなって思ったりするわけですね。一方で昔でAIがない時代のところで言えば、
触れるものってなくて、記憶手段がなくて、コンピューターもなかったら本ぐらいしかないわけで、あとは人との話じゃないですか。
あとは作品とか昔のものってことになっていくと、いわゆる過去のアーカイブってものがなかったわけですよね。
コンピューターが生まれAIが出てきたってところでいくと、本質は様々あると思うんですが、
ショーペンハイルという人ですかね。本を読む本という本で言及されているやつで、これ一回読んだんですけどね。ちょっと忘れてしまったんですけど、たまに
言及されている記事をね、読んで思い出したところが、今回の仮説なんですけど、本って読んでると良さそうとか賢いとかって
もしかしたら思うかもしれないですよね。でもそれは賢く読んでるであって、本を読んで受け入れだけで
○○さんが言ってましたっていうね。その人に対して、誰かに対して○○さんが言ってたよっていうのは、それで一つは
思考力の重要性
意見として視点としてあるかもしれませんが、それを受け入れだけでね、引用してこうですよって言ってるだけでは
説明にはなってないわけですよね。印象が悪いとは言いませんが、あんまり発展しづらいこともある。逆にね、
コミュニケーションとして、あえて印象悪くして引用だけみたいな人もいますが、
それは何か意図があるのでしょうとして、そこは置いておきましょう。要はですね、本の受け入れだけで構成されていたら、その本を引用しているだけになるから、
その人が考えてないんじゃないかって話ですね。一方で、その本を引用してくるだけまだマシじゃないかっていうこともあるので、
一旦ですね、引用してくるだけがマシっていうのは置いておきます。 要は本を引用して、そこから自分でこうじゃないかって考えれるってことを
読書を正しくっていうのぐらいですね、適切に活用できているっていう状態だとします。で、このまま
リツアーのあなたも考えていただきたいんですが、AIもそうで、AIが出してきたものをそのまま鵜呑みにするんじゃなくて、自分ならこうする、こう考えるってことを
使っていくってことがまさにAIのいい使い方、いいですね、ここでは。 僕が考えるいいですね、使い方なんじゃないかなっていう話と
なります。つまりその読書の、そのショペンハーベルさんの本でも、結局ですね、本って他人の考えが書かれているだけなんですよね。
他人の考えが書かれているだけっていうのも変なんですけど、他人の考えがあるんですよね。 で、小説とかもまた違ってくると思いますが、その世界に行くっていうことは、そこにやはりですね
アクセスしていけ、その著者の世界、ワールドに入っていくことなんですね。 ここでワールドって言ってるのは、メタバースとかにおけるワールドと全く一緒でして、そこの
世界にアクセスする、それがディズニーランドであり、小説だったらわかりませんが、秋田川隆之介、羅生門とかありますが、
その世界観がいいかどうかを置いておいて、入っていく。 僕はあの、あの人、名前忘れました。
忘れてしまいましたね。まあいいや。三月記のね。 っていう小説好きなんですけど、まあああいう世界観ですよね。捉えになってしまった。
何でもいいですよね。宮沢賢治でもいいですし、様々な現代小説でもいいし、何でもいいですね。 海外小説でもいいし、漫画でも全然いいかもしれません。そのワーピースっていうね、海賊漫画がありますか。
読んでない方も読んでいる方も、もしその読んでいるところで入っていくってところは全然いいわけですね。没頭していくと。
でもその世界観に浸って、でもそこで生きられないじゃないですか。
で、当然その世界観がいいが、その世界観の影響を受けてどうしますってことで現実に行く。
だから例えばそのワンピースみたいに生きるんだってことで、犯罪はいけないんですけど、その感覚みたいなことがワンピース的っていうのは別に悪くないかなと思いますよね。
って僕は思います。それはもう結局本の世界や小説の世界でも何でもいい、フィクションでもノンフィクションでも僕はどちらでもいいと思っているんですが、
その世界をノンフィクションなりフィクションなり自分のところ持ってきて、世界に持ってきて、そこに変換して考えて適応させていくってところが
非常に重要であると。それがまさに本の読み方でありAIの使い方なんじゃないかなって思いました。
で、この話でもその通りだなと思っていただいた方は今回の話は全然面白くないかなとは思いますけど、僕の中でですね、あくまでもこれはかなりしっくりきたなと思います。
つまり、本とか読書ってことを妄信ですよね。
どちらかというと、本を読むことっていうところをあんまり言語化せずに本を読むっていうことが、僕も含めて何か良いことだと思ってたんですよね。
本を読まない人の方があんまり考えてないとかね。でもそれはちょっと偏った見方、だいぶ偏った見方でして、
本を読まずして結構考えていらっしゃる方も結構いるんですよね。で、それってなんでできるのかって言った時に他人の考え、要は人とその分話しているわけですね。
もしくは人とその分、その人に注力して聞いている、考えているってことになるんですよ。
で、あとはもう一個は、本、なりなりの本があっていう言及はないんだけど、その本を読んだ人と話したりすると結局その人に影響を受けるか
そんなこと言ってたんだけど、あ、そうです、こういう本に書かれてたんですねってことになります。つまり本を読んでない人が本を読んでいくと、あの人は何か言ってたことってこの本に書かれてたことに近いなみたいなのが結構あるんじゃないかと思います。
で、実際にそれはあると思います。僕も本を様々言及していったり、自分の考えだって言ってますが、これはある本に書かれてたことかもしれなくて、それを受けて自分なりに解釈して今こうなっているみたいなのが非常にあります。
だから影響を受けてますね。だからAIが本みたいになってた時にAIの影響を受けるかもしれないんですが、今度は問題はAIってものがAI単独で何かね、事実的にボコンって出てきたわけじゃなく、人間が学習させて出てきたってことで、この使っている時にまさにどういう状況で学習させられたかってことを意識せざるを得なくなってきます。
AIの影響を考える
なんだけど、ブラックボックスってやっぱり楽じゃないですか。聞いたら出してくるようなUI、UXっていうのは非常に強力でして、聞いたら返してくれるってまさに僕が言ってるように返してくれてるわけじゃないんでしょうねっていうところなんですよね。
聞いたものを解釈してそれなりに何かやりとりしているようになるっていうことが昔できなかったわけだから、それができてる時点ですごいんですが、まさに発明になるんでしょうね、そういうやりとりって。
AIを使う時に、皆さんというかリスナーのあなたも感じているかもしれませんが、AIをここでも何度も言ってますが、繰り返すとAIに何か投げかけて帰ってきたものをそのまま使うと、端的に言うとバカになるんじゃないかって話です。
言葉が強いので、変換すると頭を使わなくなるんじゃないかってことですね。実際に頭を使わなくなってるんです。
よく理想論として何度も言われてるんだけど、何度も繰り返しますが、AIに今までの人間の作業的なことを任せると、その分作業しなくなった分効率的になります。
効率的な時間をより創造的な、クリエイティブなものとか人間がやった方法に使います。ここまでは全然いいんですよ。いいんですよ。
でもここで問題は、作業的なものって何で、効率的にしたから世界が救われるとかもなく、人間が嫌だった作業を、嫌なものをAIが肩代わりしてくれる。ここまではいいですよね。
だけどその一部、もしくはごく一部かもしれないんですが、創造的って言ったら何か、もしくは考えて何かやりたいっていう方向に行きたいのかって話じゃないですか。
これは結構暴論ではないんですけど、みんながみんな考えて、戦略かける戦術を立てる、考えてやればいいって言ったときに、その考えのベースもあるし、それを理解して動きたいかっていうと、結構大変なんじゃないかなって思ったりするんですよ。
だからつまり、作業者であれとか、作業者になりたくないとか、そういう意見は置いておいて、自分で何かやりたいならいいんですけど、全員が全員それを応用して考えて何かやるっていう世界って、正直なところタイプとか資質とか、これも先天的なものがあると思います。
あと同時に環境もあるんで、そうは言ってもね、AIを使えば考えること集中できるから、みんな考えることができますよねって言われても、別にそこまで考えたくないよねって言われたらもう終わりじゃないですか。ある種それは残酷なのかもしれませんけど、実際に社会って考える人がいれば考えない人もいるわけで、ここでは考えることが全てみたいに言ってるかもしれませんが、考えているだけで頭でっかちになって動けなかったらやっぱりダメだし、
考えた上で自分で動くのかと、考える方にフォーカスしておいて動くのは人に任せるっていう風にするのか、これまたいろんな考え方あるじゃないですか。だから考えるが全てではもちろんないってことですよね。
AIと人間の思考の違い
ただ自分の考えを示していってアウトプットでってなっていった時に、例えば端的に僕だったらアイディアを出すので、そのアイディアを出す部分というところが全部そのAIに任せてしまう。もしくはかなりAIに任せてしまう時に何が起きるかというと、
AIとアイディアの話も何度も繰り返しになりますが、結局AIが出すアイディアはそのまま使えるものではございません。そのまま使えるものではないというよりもむしろAIなりの想像力みたいなのがありまして、AIクリエイティビティみたいなやつですね。
人間の生きている社会とか常識、法律などそういうのを考慮していない。もしくは日本社会のルールを読み込ませて、日本特有の例えば何々町とか自治体とか、もしくは村とか特有のやつも読み込ませてほぼリアルタイムにやらせたとしても多分それは何か違うものになるんじゃないかなと思ったりします。
もしくはそれを出したとしてもやはりAIはAIなりの論理になるし、ちょっと違ってくるかなと思ったりします。って思いませんか。というか僕はそう思っています。
なので人間が考えるそれとはやはり違うので、じゃあAIを使わなくていいのかというと、そんなことはなくてAIは適宜使えばよいのであって、それが作業性が高いやつとか、もう人がやるんだったらやりまかせとか早いみたいなことはやらせてっていいんじゃないかなと思ったりします。
つまりここはやっぱり使い方の話になってきて、本が良いとか本が考えると有効だという時にも、本もそれを読んで自分で自ら考えて批判するなりいいなりということを自分で考えてどうかということを言わないと結局考える力は身につかないんです。
考える力が身につけた方がいい、考えていった方がいいと言っているのは結局考えることを、考えるというのは想像、クリエイティブなものもあれば論理的なものもありますが、そこを全部投げちゃうと何度も結局こうなるのは人は何かみたいになってくるんですよね。
自分の人生の意味みたいなことをリスナーのあなたご自身が毎日考えているとは思わないし、僕も毎日そんな風に考えていないんですけど、ただ自分の人生なんだろうねみたいなことの哲学的なテーマでいいんですが、答えはないし正解はないわけですよね。
ただ、こうありたいそうありたいというのはAIがくれるわけでもないし、本がくれるわけでもないし、誰かがこうしなさいと言ってくるわけでもないじゃないですか。明らかにAとBCとあったときに誰かがAと言っている、本はBと言っている、AIはCと言っている、でも自分はDなんじゃないか、Eなんじゃないか。
というのが人間らしいと思いませんか。論理で選ぶってつまらないじゃないですか。僕はつまらないと思います。だから面白いっていうところがいいんじゃないかなと思います。
っていう考え方が、僕だけが世界に一人そのように面白い方がいいじゃないかって言ってたら、それだけで僕は孤立するし、社会から社会に入れないと思うんですが、恐縮ながら面白いってことを認めてくれる人がいたり、面白い方がいいよねって言ってて、その面白さが全然違うんだけど、
いろんな面白さがあっていいじゃないかっていうのをやっぱり理解しているとか、共有できる方もいらっしゃるんですよね。だから僕はそっちにかけていきたいなって思うし、そうしていこうと思う人がいたら、ぜひ自分で面白いものをやってください。
それがまさにAIや本っていうのは、学ぶものとして、手段として、使う道具としてあってもいいんだけど、それだけじゃないですよね。それをうまく使うことによってうまくいくんじゃないか。自分がやりたい面白いことを促進してくれるんじゃないかってことになりますよね。
だからこそですね、面白さってこういうことだよねとか、楽しいってこういうことだよねっていう感情や感覚が弱いというか、緩やかなときにそれなりのアウトプットが出る。要は初学者とか初心者の人がAIを使うとそのアウトプットが出てきてしまうので、それでできてしまうと勘違いしてしまうわけですよね。勘違いだと思いますこれは。
勘違いというのは何かというとシンプルで、その出てきたものをこれがいいかどうか評価できないという場合です。当然AIに聞けばいいじゃないかというのは優れた問いのようですが、それはAIがいい悪いということを言ったとしても、それをどこまで初学者の人が判断できるかというと別問題ですよね。
AIの判断が丸って言ったからその初学者の人がこれを使うというのは論理的には正しいような気がしますが、それはどこまで言ってもAIが判断していることになるので、その初学者の人である人間が判断していないというのがポイントです。ポイントというのは良くないということですね。
だからどうしたらいいのかということが多分ほとんど解答というか考えられないか、もしくは触れてはいけない。近畿とは思いませんがタブーとも思わないですけど、どうしていくかというと現状はあまり策がなくて結局人から習うのも結局似たようなものじゃないか。
つまりAIから習うのと人間というのの違いというのがあまり明確になっていない。ただ一つ言えるのはモチベーションですよね。その人が学ぶというところの、AIと知識ベースで比べたら絶対人はかならないので、知識だけ求める人はAIでいいんですよ。
だけどAIだけでやっているとまず思うのは楽しくないな面白くないなってなるんですよ。人とやってないからですね。だから人の指導者の強さがそこで出てくると思います。逆に指導者の人で知識だけとか魂というか心とか精神とかその人に寄り添うみたいなことができない人はそれはもういらないですよねってなると思います。
あとはコストの問題っていうのはありますよね。いつでも聞けるとかそういうのはあったりするんだけど、でもここで問題があるのはいつでも聞きたい学びたいってすごいモチベーションが高い人はいいんですけどそんな人います?どんなに。四六時中やりたいって人います?っていう人はそれAIで使わなくても、そこら辺で言ったら怒られますが本を置いといてもその本を一冊何回もやってものすごく上達すると思うんですよね。
本とAIの批判的な使い方
だからここはかなりギャップがあると思ってまして、そんなモチベーション高い人はAIでもできるし人でもできるしってことになります。AIしか使ってないんだけどモチベーション高いっていう人は多分そのモチベーションが理解が違ってたり、これは言い方すごい悪いんですけど言葉で言ってるだけでやってなかったりするっていう人ですよね。
AIなのにやってない人は多分そのAIを感知できない、AIリテラシーが低いかどうかは置いておいて使っていけば上手くなるっていうのは確実に言えるんで。だからなんていうんだろうな、ある種の守りって言うと良くないんですが本気じゃないってことですよね。本気じゃないって言っても怒られないかもしれません。
ある何か理由があってそのAIを使えないっていうことであればわかんないんですけど、学習されるとか学習できないようなオプションもありますしね。会社で使うなって言われたら別個人でもできますから。機密情報はダメですよね、個人情報とかね。じゃなかったら全然いけるわけなんで、それはちょっとよくわかんないです。
というわけで今回まとめとしては本もAIと同じように使い方として使っていけばいいんじゃないか。つまりですね、AIをそのまま使うんじゃなくて批判的に使っていくと、鵜呑みにせずやっていけばいいかなっていうことです。
意外に思うかもしれませんが本を読んでいるだけではあまりよろしくないと。読んでいるだけというのはそこからアウトプットせずに自分の中だけに取り込んでいったときに考えていたらいいと思いますけどね。考えてメモするとかそういうのやってたりですけど、多分思考するってやっぱり書くとか紙に書くとか打ち込むとか何かしないとそのまま取り込んでいって終わりって感じなんですね。
記憶してるかって言ったら多分記憶も結構曖昧だと思ってまして好きなものだったら知らないですけどね。だから結構それはAIとそれを戦うべきじゃないですよね。あとコンピューターでも戦うべきじゃないところですよね。なのでそれをうまく使えばいいんですよね。
読むことをうまく使っていく。読むインプットを試行するってことにしていくとやっぱりAIも本もそれを出してきたものを当然鵜呑みのせず本当だろうかって考えてやっていくと。
思うのは最終的にはその作業量ですね。人間がいきなり10倍くらい考えられるようになるかって言ったらそれは多分なくて脳が疲れて僕は無理だなと思っているのがインプット量が増やせるかというと脳が疲れてしまうのと集中する時間というのが増えることもなかなか難しい。
アスリートとかものすごいそれを特化して考えている人は知らないですけど、それも生活の時間とかにどんどん置き換えていって何かスライドさせてオンオフ関係なくみたいなのが分かるんですけどそれでもやっぱり限界はあってと思います。
なので使い方次第だよねっていう話となりまして使い方も結局出してきたものを批判的に考えてやっていくと。その時に考えるってことが何かわからないっていう方もいらっしゃると思うんですけどまさにその考え方っていうのが
出されたものをどういうふうな視点で見るかってことになってきて視点とか切り口とか自分の体験経験とか身体的なものとか感情とか実践ですよね。それをどうしたいのかっていうのもなっていくとやはり手段にはなっていくかなと思います。
例えばもともとこういうこと言うと結構自己啓発本みたいなものとかビジネス書みたいなものって結構一緒になっていくわけですよね。意識を高く保つとかね。もしくは意識を低くする意識みたいな。でもそんな意識なかったらするわけですよね。でもそうやって言われるとああそうなのか意識が高いのか低いのかとかね。
だけど結局それもう意識どうでもいいから結局そのどういう状態であれその人が壊れない程度にね。おかしくならない程度に何かできたらいいわけじゃないですか。って思うとやっぱりそれも手段なわけですよね。どこまでたっても手段になり得るしどこまでたってもそこでいいやっていうふうにも言えるので後はもうどういうふうに持ってきたいかになり得ませんか。
って思うんですよね。だからプログラミング一つ取ってもいやプログラムとして何か動けばいいやっていう人はAIに出させてそれをやった方が多分いいと思うんですよ。でももちろんそれでうまく動かないことが絶対にありましてあと想定したいような動きにならなかったり保守とか運用とかバグが出るときに修正できなかったりするときに多分コードとかを勉強しなきゃいけなくてそれを厭わない方がいいかなと思います。
でもどこまでそれをエンジニアになりたくないわけじゃない人が仕事をやりたくない人がゲームとしてAIを使っていながらやるっていうのは全然いいわけで。あとは作ったものを楽しんでもらうというレベルにしていくにはプロ的と言いますか仕事的と言いますか極めるとは言わないんですが学習してより楽しんでもらうということをやっぱり学んでいかなきゃいけないじゃないですか。
そうなると自分で試行錯誤したり誰かとやったりとかになっていくと結局AIだけでいいとか本だけ読んでいいってことは絶対に僕は絶対ないというふうに考えています。
実践と意識の関連性
一つ僕の中でしっくりきたってことはAIを本読書みたいに使えばいいんじゃないか。これそうなると結構スッと理解できまして僕の中では。だから本ばっかり読んでると頭でっかちになった感じが僕はしますしAIばっかり使ってると世界を知ったようになるかもしれないんですけどそれは全くないですよね。
1ミリも変わってなかったりする。ただ自分がそう思ってるだけ。だからそういうふうに思った時に勘違いモードってやつです。勘違いになったら多分それはやりすぎなんでアウトプットをした方がいいと思います。
自分の考えを誰かに言ってますか。行動して自分を変えていこうとしてたりしますか。自分がそれこそ生き方に僕はどういう立場にないんですが自分のやりたいことをやれてますか。生き方としてねこういうふうなものがあったらいいなってことを少しでもやれてますか。
それがまさに社会の自分の生活の中の充実度になっていくのでぜひやっていきましょうと。今回も以上となります。しゅんくりラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
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