1. シゴクリラジオ!
  2. 自分の頭が動くAIの使い方をし..
2025-02-19 19:08

自分の頭が動くAIの使い方をしていくといいのかも

spotify apple_podcasts
AIへの過度な依存は「考える力」弱める?最新研究が警鐘
https://japan.cnet.com/article/35229476/
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/618b94773db982af52639b7a

サマリー

このエピソードでは、AIの利用が思考や批判的思考に与える影響について議論されています。AIに依存することへの懸念や、AI検索の使い方、要約の問題、読書中の思考プロセスが考察されています。また、AIを用いた思考の構造やその影響が語られ、批判的思考の重要性が強調されています。ソクラテスの考えを引き合いに出しながら、AIへの依存を避け、自分の頭を使うことの意義が述べられています。

00:08
シゴクリラジオ
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
AIの影響と依存性
今回はですね、AIの利用ですね。AIを利用する依存というとですね、ちょっと大げさかもしれませんが、
AIに仮に依存してしまうと、思考の批判力が低下するのではないか、みたいな記事を見かけました。
概要欄にリンク貼っておくのでよかったら見てみてください。
でですね、それ本当かというのは検証しがたい、そこまで断定はしていないレポートのようなんですが、
ただですね、感覚的に頭を使うってなんだみたいなところ、
AIを使うと頭を使うのか、使いにくい傾向になるのか、ちょっとそのあたり一緒に考えていければいいかなと思います。
今回もどうぞよろしくお願い致します。
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回ですね、AIの使い方といいますか、思考ですね、AIと思考、
AIで人間がどう考えていくのか、そのある記事、レポートのまとめみたいな、ようやくみたいな記事にはなるんですが、
概要欄に貼っておきます。
それによれば、AIに依存してしまうと、AIが大丈夫というか回答がいいよねって思っていると、ちゃんと見なくなるみたいな話ですね。
ちょっとそこら辺ね、ふわっとしていますが、だから逆なんですよね。
AIの精度が悪いとかこれは違うよねっていうふうに、要は批判的思考と本当にあっているのかっていうふうに見ていくというような考え方でいいのかなと思いますけれども、
その時間が減るわけですよね。こういうことってあるよねっていう話もしていて、結構面白い記事なので、少し長いかもしれませんが、よかったら見てみてください。
これを見て思ったのが、よく言われるじゃないですか、仕事が奪われるんですよね。人間だから奪われる。AIが仕事を奪ってくるということですね。
あとは人間が考えなくなるじゃないか、すぐ文章とか生成してくれるしねっていうことがあります。
ふとこれをいろいろ考えていて思ったのが、結局使い方じゃないよっていうね、元も子もないというかね、そのままだと思うんですが、
じゃあ使い方って言ってるけど何なのっていうことなんですよね。
これはですね、単語もしくはイメージ、もしくは利用している人とイメージですね、僕が今伝えることもずれてしまうっていうのも、
それもね、考慮というかできない部分もあるんですが、一旦そこは誤解を恐れずにいくとするならば、
AI検索の利用法
例えばですけど、AI検索というのがあります。つまりこれは何を言ってるかというと、
Google検索のようにキーワード検索を重ねて自分が欲しい情報を得るようなものではなく、従来。
だから最近Googleはなくなったっていう人も多いかもしれませんが、代わりにAI、HRPT、クロード、Google Geminiなど使うわけですね。
SAIは何でも構わないと思うんですけど、そういったものがメジャーであり、メジャーじゃないものを使っている方もいるかもしれないけど、
メジャーなものを使う人が多いですよね、人数的にって話ですね。
そのときにAIで対して打ち込んで、もしくは文章で書くということですね。
このAIでの検索というのは、いろいろパターンがあるんですが、何を求めているかによるかなと思ったりします。
考えたくなるというのは、そこに考えとか正解とか、それを求めてしまって出てくるものが正解という感じですかね。
でもそれ、Google検索とかでも一緒ですよね。
Google検索で出てきた結果が全てであり、大げさに言っていますよ、そこにないならないです。
例えば、新規授業なんか、ビジネスなんかやりたいなっていう人が、あんこが入ったたこ焼きをやったらいいんじゃないかみたいなことを思ったと。
たこ焼きってたこだけじゃないか、あん入れたらいいんじゃないか。
オチとしては単にたい焼きじゃないけど、大判焼きみたいなもんじゃないみたいなね。
言ったら怒られますかね。
多分そういうような味になると思うんですけど。
そういうのがないから、あんこ入れたこ焼きとかないし、もしくはあんこ入れたこ焼きを代々的に売ってるとかないから、Google検索で調べたらなかったと。
じゃあやろう。
新規制っていうのは、今までないっていう意味では評価されるのかもしれませんが、それが売れるわけじゃないじゃないですか。
あえて食べたい人がいたりするかわかりませんが、売れないと。
それってでも概念として、さっきの大判焼きでありたい焼きであり、似たようなものないですかっていう。
調べる人がたこ焼きではない、たこ焼きではないですよねっていう話。
その通りですよね。
これは具体的な中傷の話になってくるんで、たくさん言わないですけど、たこ焼きっていうカテゴリーで考えてたら一生出てこないっていうのもあるかなと思います。
例えばコロナでしたっけ、温かいパンに冷たいアイスを食べるみたいなのもあったりしますが、
そういういろんな温度で見るとか温度の違いで見るとか、さまざまなものがあるはずなんですよね。
ということを探求をやめてしまったり、中傷具体化の作業として他にあるんじゃないかっていうような探索ですよね。
が、やめてしまうっていうのであれば、これは良くないなと思うんですよね。
だからここで今明確なのは、Google検索だろうがAI検索だろうが一緒ってことですよね。
だから良くない、そういうのは良くないよね。
じゃあ例えばAI検索じゃなくて、ようやくはどうなのか。
これはようやくを今までしてきたんだけど、それが手間なのでAIに文章を投げるとようやくしてくれると。
これは精度もなかなか高いっていうのが評価かなと僕も思ったりします。
一方でようやくを普段している人だったらいいけど、そんなしない人が使うのがどうなのと、
ようやくの前ですね。それの文章は誰のものなのってことで、
自分が書いた文章とかあれば別にそれで自分が書いたら考えてるじゃないですか。
じゃなくて人の文章とかいろんなものを情報を得たいからようやくってなると、
今度は原点に当たらなくなるっていうことになりますよね。
ようやくで良さそうなものを持ってきてソースに当たるというか、元のようやく前の文章に当たると。
検索とは言えないんですけど、調べるというときではよくある話なんじゃないかなと思います。
ただこのようやく問題は今度は別にあると思ってまして、ようやくしたもので面白いと感じる。
もしくはようやくしたら面白いポイントがあった。
けど元に戻っていくとそれは時間がかかる。
それもAIでできるのかもしれませんが、ちょっとそこまではわかんないです。
ただそこで面白いポイントがあって、それを見に行ってソースの中から探って、
じわじわ開拓して探して見つけるものの面白さはそのやり方では失われているような気がしますよね。
これはどういうことかというと、Amazonで本を買うのは指名買いというか既にあるものを買う。
リアル書店で買う、リアルの本屋で買うのは自分が欲しいものではなくて、
実は興味があったものを開拓するという開発する感じですが、
この開拓という行為が失われるじゃないか。
実はこの開拓って想像性に直結するかなと思うんですけど、
実はそれは面白いんじゃないかという予知予約遊びみたいなカテゴリーという領域で僕は捉えていますが、
それが失われるのじゃないか。
もっと言えば脳の活動みたいなの、神経細胞シナプスみたいなのわかりませんが、
いろんなつながりを増やしていって、
ニューロンじゃないけどシナプスかわからないですけど、
活性化させていってどんどん増やしたり刺激を与えていくというのが脳にとって、
もしくは想像性にとっては重要かなと思うんですよね。
そこを重要視するのであれば、
AIに依存するのもGoogle検索に依存するのも一緒ではあると思うので、
ただそれが見方としてAIだとそれっぽく言ってくれたり、
回答っぽく言うからちょっと丸め込まれてしまうかもしれませんが、
そこを批判できるかというのは、
ちょっとわりかし求められるものが高いかもしれないなとは思ったりしています。
読書と批判的思考
もう一個提案するならば、脳が動くという、
頭が動くような感覚というのが僕は最近思っているのがありまして、
例えば本を見て読んで、
これってこんなこと言えるな、なんでそんなことになるんだろうと思ったら、
メモをするんですよね。
メモをすると、たまに本を読むとか文章を読むとかというときに、
メモをしたりすることで勢いが止まると、
小説とかそうかもしれないですけど、
イメージとかリズムとかが止まるじゃないですか。
切り離すから、著者の文章から切り離すから止まるじゃないですか。
止まるんだけど、逆に主導としては、
著者の主導じゃなく、読んでいるときは著者のペースですが、
こちらの主導でメモを取る、要は自分のターンみたいになるわけですね。
それこそまさに批判的思考に近いんだろうなと思っているんですけど、
感覚的な話ですよ。論理的に言えるわけじゃないですけど、
感覚的にその瞬間がまさに批判的思考スイッチであり、
批判的思考モードであるので、
そのメモを書いて本を読んでいくということは、
最近は結構意識してやっていることなんですよね。
それをやると確かに頭が動いて、
メモが充実してより読んだような感じになる。
著者と著者の考えが深まったような感じになる。
深まったかどうかという審判みたいな、
ジャッジはないんですが、
自分はよく吸収できたような気がする。
吸収というのは、正確にはその本の面白いポイントを
ピックアップしているというところなので、
全体を把握しているか、
もしくはその全体を把握したいという本なのかはまた別なので、
ここはケースバイケースで何とも言えないんですけど、
ただ本を読んだ文字を追って読みました。
その本は何が書いてあって、
どういうことが面白いと思ったのか、
もしくは何が書いてあったのかというところですよね。
もしここで何が書いてあったかであれば、
要約とか既にあるあらすじとかで終わりじゃないですか。
そうじゃないですか。
リスナーの方はどういうふうに本を読まれるかによる、
本の種類もありますけどね。
写真集みたいになったらパラパラ見て終わるとかね。
でも全然いいですし、全部読まなくても全然いいですが、
少なくともある一冊の本というものを焦点を当てたときに、
その本を200ページあって50ページぐらいしか読まなくても、
その50ページの中で学びがあったり、面白いなとか、
その人の言っていることが面白いなと思ったり、
記憶に残ることがなければですね、
あまり有効ではなかったというふうに僕は捉えているんですよ。
だからそこで得られるものがなかったら、
その人にとっては別にそんなにというのってあるじゃないですか。
思考と記憶の関係
本に限らずね。
ということでもあると思います。
そのときに、読んだけど何も残らなかったけど読んだというのって、
読んだ意味あるのかという話になるわけですね。
ポジティブに捉えるなら、読んだけどわからなかったみたいなのもあるし、
読んだけどそこまで印象に残らなかったというのもあるじゃないですか。
アイデア出しとか材料を引き出していくときに、
引き出しとかフックになるものが必要で、
ここで50ページくらい読んだけど何も印象に残らなかったものは、
ほぼほぼですね。
絶対に残らないといけないですけど、
何もなかったなというふうになるんですよね。
これは記憶の構造の問題だと思っていて、
脳の会話ですか。
短記憶長記憶を間に門番がいて、
脳の会話に対して重要だと言えなかったというものなんですよね。
でもそんなことをイメージしながら実際に読んでいるわけじゃなくて、
読んで何だろうな、引っ掛かりがなかったなとか、
何でこれはそこまで自分にとってピンとこなかったんだろうな、
ということは別にあるわけですね。
それをなるべく慰めたほうがいいし、
刺激を与えていったほうがいいというふうになるわけでありますけど、
戻っていくならばやはりメモをしながら読むとか、
よく言われることかもしれないですけど、
その意味って結局批判的思考であったり、
さっきのさらに戻していくと、
AIの依存しないというふうに依存力を低くする、
もしくは人間の自分の思考のほうを重視すると。
だから人間の思考が絶対優れているとかということはないんですけど、
批判的に読むというのは別にAIが持っているわけでもなく、
AIに依存したら得られるものでもないし、
依存するなら自分にも依存して、
AIにも依存して、
いろいろ依存する状態が、
要はバランスが取れているということですね。
依存ということを扱うなら、
にはなるかなと思ったりしました。
AIの使い方の考察
つまり脳が動く、頭が動くようなAIというふうに使っていれば、
僕は楽観視していて問題はないのかなと思ったりしています。
いかがでしたでしょうか。
この記事で面白かったのが、
ソクラテスという有名な哲学者がいますよね。
ソクラテスは物を書き留めることに反対したというのがあって、
そうなんだということで非常に面白い指摘ですけど、
それはまさにAIを使うことをどうなんだという人はいると思うんですね。
それが思考の話で、
つまり書いたものを書いたら、
それを考えたものだというふうに思っちゃうと。
僕は考えたものだと思っていますが、
でもそれを通じてソクラテスのざっくりしたことを
把握している感じでいれば、
それを書いて、物を書いちゃうと、
考えを書いちゃうと、
私の考えはこれだとやっちゃうと、
それでもう理解されているし、
理解できているし、
自分は読んだら理解できていると思ってしまうという、
いわゆる錯覚ですよね。
そうじゃなくてソクラテスは多分、
対話とか話をして、議論して、話しかけて、
何かやっていくみたいなことを重視されたから、
そういうことをしないなら書くっていらんのじゃないか。
なるほどなあって、
それも一理あるかなと思ったりします。
一方で今ってそんな合理的で効率的で、
AIがあっていうふうに言っているんだけど、
実際はもうちょっと複雑かなと思っていまして、
雑談というものが僕は重視しているし、
雑談って大事だなと思っているんですよ。
だからポーズキャストのしゃべりとかも大事だと思っています。
なぜかというと、そこに余地が入るわけですよね。
好きと言ってもいいし、
遊びと言っても、遊びのほうがいいですかね。
遊びと言ってもいい。
今回の話を要約して産業でAIでしゃべってください、
やってくださいって言ったら多分できるんですよ。
その産業に何か心が動くかって言われたら、
情報として処理されてしまうんじゃないかな。
僕が一番熱を入れたかったのはどこかっていうところが、
実は頭を使うようなAIを意識したらいいんじゃない。
頭を使ってAIを使えば別にAI依存にならないよ
っていうことを今回は一応自分としては主張としては今述べているし、
それがテーマではあったんですけど、
実はそうじゃないところで、
AIの使い方って色々あるんだねっていうようなことが
一番響いた方もいれば、
そこまでAIについて考えていなかったっていう人もいれば、
実際にAIを普段使ったり何かして、
何か自分の思考に変化がもしかしたらあるかもしれないとか、
このやり方をすると、
言葉選ばずに言うと頭悪くなるんじゃないかみたいな、
やり方もしかしたらあるかもしれないので、
あくまでも僕自身は別に頭悪くなろうとかね、
サボろうっていう感じでは使っていなくて、
学ぶために、より深めていくためにAIを使うかなっていう風になっているので、
そうじゃない使い方はしていかないし、
それはですね、いわゆるサボるっていうね、
ただサボるっていう態度の方になっていくと。
でも人間じゃあ、
タイダーになりたいし楽しようとしてるんじゃないのって言われたら、
何も言えないし、
そういう部分もあるなっていう風に受け入れちゃうんですけど、
その辺り、人間の哲学であり、
それこそね、
人間とは何かとかにもなりますし、
AIとは何か、
答えはもちろん、
リツアーのあなたも持っていないと思うんですが、
僕も答えはないと思うんです。
ないので考える。
だからそれが批判だったら違うんじゃないかっていう風になっていくし、
発展していくんじゃないかなと思いました。
今回簡単にまとめますと、
AIっていうのを依存しすぎるとね、
何でもそうです。
依存しすぎると、
よろしくないんじゃないか、
批判的思考という人間らしいものかな、
思考に影響を与えるんじゃないか、
迷わせなくなるということですね。
低下する力が衰えるんじゃないか。
なので、どうなんですか。
もしくはそういう傾向があるかもしれないし、
断定はできないけどっていうところの話題でした。
だからこそ僕はAIの使い方として、
頭が働くような感覚がするというやり方をしよう。
例えば読書であればメモをしながら書いていって、
どんどんその思考を高めて深めていく。
なぜかと。
探求するとか開拓するという感覚ですが、
そういうのが起きていくのであれば、
AIとの対話とか、
AI検索であろうが、
要約であろうが、
どのようなAIの使い方であっても、
僕はプラスになるんじゃないかな。
要は頭が動くから批判的思考の方にも
つながるんじゃないかなっていう風に思いました。
今回は以上となります。
四国理ラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上失礼いたします。
19:08

コメント

スクロール