AIと創造性の関係
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。 今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
今回のテーマは、AIと創造ですね。 作る方の創造、クリエイティブの創造です。
何度も話してはいるんですが、何度も確認していこうというわけで、AIと創造ですね。
同じこと言ってますが、話していきたいと思います。 今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回ですね、テーマとしては、AIと創造ですね。 正確にはですね、人とAIとの創造ですね。
一応、建前として、AIが、AIサービスを提供する人が、とても善良な人で
善良な人と言ったら怒られますが、AIですね。 オープンAIとか、特定の企業に対してではないですが、
AIを開発している人というのは、多分いい人なんじゃないかなというのがあります。 なんでかというと、みんなに使ってもらって、世の中、社会が良くなっていったらいいな、
実際に良くなっているのかは、ちょっと置いておいて、 それでですね、できなかったことができたりするというのが、
一人でもいらっしゃってね、それでできたよと。 できなかったことができたよという。
それでいいじゃないですかと。そういうサービスを提供しているので、社会に役立てていると思っている。
一方で、道具じゃないですかということで、 最近ではですね、フィッシング詐欺でも、証券会社の
証券会社を装ってとか、さらにですね、イタチごっことずっと言われていますが、 対策をしたらさらにその対策をしてくると。そんな昨今ですと。
その事例が少ないよねとか、それは人が悪いよね、騙される人が悪いよね、なんてことを言っているレベルではなく、
誰でも騙される時代になってきていると思います。 僕自身も騙されるんじゃないかなって思いますし、見極めが非常に難しいわけですよね。
メールとかもね、文面から非常に難しいので、リスターのあなたもね、
ちょっと遠い方が聞いているかわかりませんが、自分は大丈夫だろうなーって思わないことが唯一の対策なんじゃないかなと思っています。
騙されるんじゃないかなって思っている人は、客観性主観をうまくバランスとっている方なんじゃないかなと思います。
あなたはどうでしょうかと。 今回はAIと想像ということで、道具であるAIだと思いますが、
道具なんだけど、結論的にはよくある話ですが、カードに使う、もしくはカジオムに使うと人の感覚というか、持っていかれるんじゃないか。
持っていかれるというのは要は、自分が作ったという感覚がなくなり、最終的には作れなくなる。
愚痴と行動のセット
これ話したか忘れましたが、あるレポートによれば、最近、リスターのあなたもやっているかもしれませんが、相談をする人が増えているわけですね。
チャットGPTなどのAIに、自分の相談をしている悩み事を、仕事で例えばうまくいかないんだけどとか、何々さんと関係がうまくいかないんだけどどうしたらいいとか。
こういうことを思っているんだけど、ちょっと愚痴じゃないけどね、相談させてほしいとか。
それはですね、まだいいなと思うんですね。別にそれがやるなとは言っていないです。
やっている方がいらっしゃるかもしれない。
だけど、その有益になるかが結構よく分からなくて、一人で愚痴るよりはいいかもしれません。
ただ愚痴るって、毎回愚痴って言ってもダメですけど、要は愚痴と行動がセットだったらいいと思っていて、
この状況がこうなんだよね、よくないよね、じゃあこうしていこうかなということを言っていかないと、もしくはやっていかないと、そういう考え方を切り替えていかないと、
ただ愚痴って言っているだけで進まないですからね。愚痴が悪いわけじゃないですよ。
ただ言っているだけというのが100%だったらやはり物事って進まないので、僕も自戒を込めてこうだよね、ああだよねとは言っていますが、
それが口先だけで全部終わっていたらさすがに説得力がないですよねっていうのは、これは僕の心情でもあるので、
心情とも言わないのかもしれませんが、そこは哲学というかよくわかりませんけど、そういう話になっていくんじゃないかなと思っています。
いつかちょっと忘れましたけど、文章をAIに書かせてもらうと、そのときに箇条書きは自分で考えるんだけど、アイディアを出すんだけど、
それを整えて、テーザーを整えて文章にするのはAIだよねということをやっていました。
今はもう別にやっているんですけど、これあまりやりすぎるとおかしくなるなと思ったんですよ。
おかしくなるというのは、要は箇条書きを書くことが自分であって、あとはAIに書かせることができる。
AIを用いた創作体験
つまりAIという道具をですね、文章をテーザーに整えるある種の機械であり道具であるという感じですね。
で、きゅうりってご存知の方が多いと思いますが、野菜ですか。
まだあまりおいしくない。おいしくなっていく。
最近だと暑いので、冷やし中華とかも食べたのかな。ちょっと覚えていない。
いや、食べた。もう食べました、冷やし中華で。
そういえば。まだ夏じゃないですけど。
で、きゅうりあるじゃないですか。それを道具、つまりハサミで切るということもできますよね。
包丁で切ったりしますが、包丁で切って食べやすいように調理するということを想像してもらえるときに、
ハサミで切ってます、包丁で切ってますというときに、
もちろんきゅうりって包丁とかそういうものでハサミで切るよねって思ってるし、そういう認識の方が多いと思いますが、
分かんないですよ。別に丸ごと食べてもいいわけじゃないですよ、かじってね。
あとヘタを取るとかでも、刃で噛んで切る、取るというかハギ取るみたいなのができますよね。
噛み取るみたいな。で、食べるみたいな。
丸ごとヘタからいってもいいですけど。
で、そのときに手刀とか手で折るみたいな。
ポキって手で折る。チューペットみたいなのがありますが、
そういうやり方ってあんまりしないわけですよね。
別にきゅうりをバキッと手で折ってもいいんですけど。
で、そういうときにさっき言ってたように、
道具を使う前提ですと。
要は文章というのを書くのはAIという道具を使って書くんですよという前提であれば、
何にも違和感はいらかなかったんですが、
今まで文章を自分でアイディアを出して打ち込んでいくということで考えていたわけですよね。
それが省略されるわけです。
そうするとアイディアを出して書かせるっていう。
さっきのね、AIに書かせる。
そうすると、AIが確かに書いてくれるんですが、
自分の文章じゃないなっていうのがまさに合理的には言えないんだけど、
まさに感覚的にあると。
自分がアイディアを出してるけど、
自分が書いた文章かと言われると正直言えないっていうのがある。
これもAIを使っている方だったらどの程度、どこまで感じるか感じないかは人次第だと思いますが、
もしかしたらそういう方もいらっしゃるかもしれないし、
そうじゃない人もいるかもしれない。
文章を書くのが苦手な人は多分それで書いてくれるから楽なんだよなとかは思ったりします。
僕は文章とか書きたいし、書いて何かやりたいなと逆に思いました。
改めて。
自分書きたいなっていう。
そういうのないですか。
何かやってみて気づくことってありますよね。
まさに気づいたっていうのがありますね。
それも別に1年とかやってるわけじゃなくて、半年もまだやってないかもしれない。
11月か12月ぐらいからそういうのをやり始めて意識してやってきたんですけど。
だから最近何やってるかっていうと、
文章を書かせなくて自分で書いてたりしますよ。
あえてその場合ね。
今までのやってたことを別にAIにも書かせられるんだけど、
自分で書いてたりしますよね。
なんでかっていうと、
自分で今書いてる、タイピングして書いてるっていうのはまさに自分が書いてることで、
タイピングさせられてるわけではないし、
この言葉を紡ぐというか、
組み合わせていこうとか、
こういう風に伝えたいなとか、
そういうことをやってるわけです。
表現であり、文章を書いている過程で変化していったり、
気づいたりするっていうことがあるわけです。
創作っていうかですね、
創作ってほど大したものではないんだけど、
創作ということがつくようならば、想像でもいいんですけど、
やっている過程の中にさらにアイディアが出たり、
もしくは気づいたりするという学びとかです。
気づきという過程があるんですよ。
これもやってる方にはすごく伝わるんじゃないかなと思いますし、
取り組んで集中できているというのはそういうことだと思います。
その時にまさにAIにそれを投げてしまうと、
確かに書いてくれるんだけど、
書きながらやっていた、まさにジョブ理論なのかな、
わかりませんか、ジョブというか。
書いていることとかアウトプットさえできればいいんじゃなくて、
その書く行為ですよね。
書いている時間という中に身を委ねるというかですね、
集中して高めていくというかですね、
高めてないな、
書くという行為の中に書いていると出てくるよね。
アイディアとか気づきとか学びがあるよねっていうことが
非常に大事なんじゃないかなと思いました。
それが仮にAIに書かせることで、
確かに書かせるからチェックはするんだけど、
ただリスナーじゃないかもしれないけど、
読者としてそれを自分で書かせたものを読むっていうことになると、
立場が読者なんですよね。
わかります?
自分が書き手なんだけどAIに書かせることで読者になっちゃうんですよ、自分が。
自分が書き手だっていうのが生まれづらい。
それがですね、二つの意味ぐらいですか、今のところ言語ができるのは。
自分が書き手なはずなのにAIがそれを出してしまうがゆえに
自分が書き手だと思えないという感覚で実際にチェックすると思うんで。
変なこと言ってなかったりする、チェックすると思うんで。
確かにそれらっぽいこと言ってるんだけど、
その言い回しは僕はしないよなというのはもちろんあるわけですね、当然ね。
それがなかったらちょっと怖い、完全に言っちゃ怖い。
だけどやっぱり違うと。
それはチェックするときに読み手で見ているから
なんかこの表現違うからなということで書き換えるんだけど
結局それでAIのものを叩き台にして書いたから
自分が書いた文章ですよってもしかしたらリスナーのあなたは思ったかもしれませんし
それが別にダメとかいいとかはなくて
その通りなんですけどそれがたぶんまかり通りつつあるのかなと思うんだけど
でも違和感があると。
まさにそれが書き手なんだけど読み手の部分が多くて
書き手になりきれてないかなというところですよね。
創作と学びの関係
じゃあそれは旧来というか従来の考え方でおかしさも古いですよと。
書いてアイデアを出していれば別に書かせることは全然よくて
それがもうスタンダードですよっていう風にもしかしたらなってるかもしれないし
そのプログラミングコードの世界ではもはやそういうものになっているのかなと思ったりしています。
書いてないですけどね僕はね。
で、プログラミングコードの話ですね。
で、もう一個がさっき言った
自分で
忘れちゃった。まあいいや。
書かせていくじゃないですか。
で、その時に思い出した。学びですね。
学びとか気づきとかということですね。
まさに書くということを時間をやることが奪われるというか取られるわけじゃないですか。
AIに取ってかわられる。
じゃあその学びとか気づきってどこでやるのになりません?
書くということによってできていたものがそれを代替されてしまったと。
それはこれも古臭い考え方かもしれませんが
古臭いかどうかわかんないです。
古臭くないかもしれない。
むしろ新しいかもしれませんが
要はそこに没頭することでそこに費やすことで得られるものがある。
これは短期的に得られるというよりも中長期的な考え方だから
毎回書いたら得られるとかでもないんだけど
でもその回数とか頻度とか時間を増やしていくことで
気づいたりすると。
そうなんです。
今書くって言ってますけどこれ話すのもよくて
毎回こうやって話してるんですけど
話すことで自分はこういうことを考えていたんだなと気づいてますし
もしくは自分はここの部分が言えないしわからないなと思うことが明確になりますし
改めてとか再確認としてということで気づいているわけです。
その気づきが楽しんでいただけないと
なかなかこの番組の中国リラジオの価値がね
中国リラジオの価値がね出てこないんですが
そこが面白いと思っていただけるのであれば
多分大丈夫。このラジオは大丈夫だと思います。
無くならない。
あと僕が飽きない限りは大丈夫だと思います。
続けています。
で、じゃあこれもAIに
それこそ例えますよ。
AIに喋らせてこんな台本もしくは台本制でやってください。
で、AI大橋みたいなのがいて
AI中国リがいて喋らせて
それっぽいんだけどなんか違うなと。
そうです。
なんか違うなって気づけるかどうかの話になるんですが
多分文章って結構厳しくて
わかんないかもしれない。
少なくとも判断できないというのが今のところですよね。
でも判断できないからそれでいいのかというと
ここでも何度か話していますが
何だっけ
書き手側、要は伝える側がですね
ナマルというのがありますね。
それで先週レポートみたいなのがあったときに
想像ですよね。
もうちょっと前のアンケートとか調査でも
想像するときに、クリエイティブするときに
そのAIの手を借ります。
全然それはいいんですけど
それだけをやっていると
要はインプットしたり自分で考える
自分で作るということをやらないと
ナマっちゃうわけですよ。
AIに頼る危険性
さっきの今ここだけで取り上げても
話すも作る
もしくは表現するという風に言ってもいいかもしれないです。
何でもいいんですけど表現って。
それが表現だと言ったら表現ですから。
その表現という行為をやらなくなると
何が起きるかというと
やらなくていいと思う人が出てくるし
やらなくてもAIでできるというのがあるんですね。
そうなるとキュウリの話でいけば
キュウリはハサミで切ったり包丁で切るから
いらないよね。別にバキッて手で折らなくてもいいよね。
わかるんですけど
バキッと手で折るということ自体を忘れてしまうというのは
どうなのかなという話なんですよね。
もしくはキュウリの例えが微妙であれば
自分が書くということで
何を得ていたのか
もしくは何がそこで満たされていたのかという
要は書かないといけない
要は想像したり表現したりすることでしか得られない
やはり成分というのが
要素というのが
要素というのは
ごめんなさい成分の方と一緒なんですけど
もしかしたら
価値と言った方がいいでしょう
その価値というのは
誰かに言える価値じゃなくて
まさに主観的価値というやつで
自分が情緒ですね
自分でしか得られない何か感覚ですね
情緒と言わない方がいいですね
いいなとか
楽しいなとか
満たされているな
もしくは幸せだな豊かだなとか
愛されているなとか
いいなというような感覚が
まさにそこにある気がしています
想像をする人が
想像という物を見て
感じて
楽しむ人も
もしかしたらそれを
恩恵を得られているかもしれません
この世界観がいいなというのが
まさにその感じです
それが伝わるから
読者というか読み手というか
書き手と読み手が
いい感じで
応援し合うというか
継続し合えるんじゃないかなというのが
一つあります
創作活動の未来
それが書き手側の問題として
AIに頼ってしまうと
なまっていくんですね
このなまるというのが
どこまでいったらなまるかというのが
正直分からないんですが
僕の取り組みで
そんな大した文章じゃないでしょう
ブログ記事の1000文字もないのかな
800字ぐらいのやつを
過剰書きベースで書かせる
過剰書きベースというのは
そんなにないです
5から15ぐらいのものを出させて
それを書かせるということですよね
文字数とか変換からすると
大した世界じゃないかもしれないですけど
それだけでもあっても
その行為しか
自分の表現がないとしたら
そんなことはないです
そんなことはないんだけど
もし仮にこういうAIに書かせる
ということしかやってなかったら
なんかつまんないなと
僕は思ったんですよ
僕の感覚ですよ
別のあなたはどうかわかりませんが
そういうのをぜひやってみてください
どういう感覚になるか
わかりませんか
それはまずいなと思ったんです
僕は光栄というか
ありがたいことに
こういうのがあったよ
仲間というか友人がいたり
アウトプットは
別にこのラジオじゃなくても
ブログとか
違う文章とか
Kindleの本とか
何でもいいんですけど
さまざまなところでアウトプットしてるし
公開しないものでもメモとして
書いているわけですよね
言ってはないですけど
書いているんですよね
そういうのがあるので
自分の文章がメモが
そういうのが全部
書くという行為をなくして
もしくはAIに全部それを書かせている
ということは全然ないです
特定のアウトプットということに関して
この場では
AIに書かせてやりましょう
ということを
意識的にプロジェクトとして
やっているという感じですね
やってきたんだけど
アウトプットがなかったり
他のところでやってなかったら
これは黙るなって明らかに思いました
この黙るなという感覚は
かなり身体的というか
主観的な話なんですけど
何かないですか
体が黙っているなとか
感覚の話です
ギシギシしているとかでもいいし
運動していないなとかでもいいですよ
その感覚がすごい大事だと思っていて
その感覚が鈍るんじゃないかな
というわけです
漫画家とかイラストレーターとか
映画とか写真家とか
何でもいいんですけど映画監督とか
それをやらずに
ある程度できるとするじゃないですか
そうすると仕事が変わるじゃないですか
映画監督はアイディアとか素材とかを
集めてきて
それをAIに投げるというのが
もしかしたらこれからになっていくかもしれない
仮にそうなったとしても
映画というのを撮る行為というのは
その映画監督がやらなかったら
その映画監督自体の
スキルというか
アイディアというか
そのスキルというか
そうすると
少なくとも
絶対的に言えるのは
その映画監督が
映画を撮るということを
やめることはないと思うんです
その人はね
なんでかというと
維持できないから
その感覚として
AIに仮にそれが主として
任せて動画を撮らせたり
映画を作らせるということが
決まってしまうから
なんていうんだろうな
AIに全部任せることはないんじゃないかな
という話です
仮にそれを任せたはいい
今度はアイデンティティを失うわけですね
要は仕事というものに対しての感覚が
掃除でフラットになる
レジを打つという行為だね
仕事として価値がないなんて
全く思ってないんですけど
レジを打つというのは
レジ打ちでできる仕事だと思います
これは別にそこまで怒られないと思いますが
別にレジ打ちをやっている人を
貶める意図はないんですが
そのレジ打ちみたいな感覚で
来たものをバーコードに読み込んで
打つということは
できるわけですよね
それがまさに
映画監督も
素材を集めることが
もしかしたらできないかもしれないけど
素材を集めるみたいなことができてしまったら
あとはそれをAIに投げるだけ
ということで
AIに投げるのも
プロンプとか銅とか言われますが
それもかなりこなれてきて
初めての人もできてしまう
要は初めてのように
5分、10分トレーニングということで
レジはこうやって打つんですよ
もしくはレジを打ち方を見ていてください
もしくは動画
もしくはアバター
もしくはVR
そういう体験を通せば
ほとんどそのレジ打ちのように
映画映像作りもできてしまう
というわけですね
なっていったらどうなるかって話なんですよ
AIの影響と創作力の低下
なっていったら
何が残るか
ということになっていくので
これはAIに仕事を割れる恐怖の
結構根幹なんじゃないかな
と思ったりします
その時に
レジ打ちのように
映画監督のように
その差もなくなってくるので
レジ打ちと映画監督は
映画監督って映像
映画監督でいいのか
映画を作る人は
さらに一緒になるわけですね
僕が書いているような
文章とかもそうですし
アイデアを出すとか
アイデアを出すのはさすがにまだ
そこに並べられるのは
やめときましょうか
企画を作るとかも
商品開発をするとかもそうだし
ビジネスを作るとかも
もしかしたら
並ぶ可能性があるかもしれません
並んだ時にどうするか
レジ打ちのように
そういうことができる
理屈でできたとしたときに
あと何が起こるんでしょうね
ということになってくるんですよね
まさに今何度も申し上げているとおりで
その事業を作るということを
AIがやってくれるから
やらなくていいよねってなっていたときに
人ってもうサボるなと思ったんです
やらなくなる
それをAIがやってくれるから
いいでしょうってなるんですが
やってくれるからいいでしょうは
多分効率化の方向では
企画とか分析とか
膨大な作業ですよね
単純だとか単純的な作業を
やらせるのはありかなと思います
全然
否定はしないですよ
ただそれで想像の部分とか
クリエイティブなことを投げると
まず自分がやらなくていいな
映画撮らなくていいな
企画考えなくていいな
任せたらいいなってなるんですね
なるんですよね
なってますよね
文章を書いた
小さなプロジェクトからも
もはやそれも明らかで
これ自分で書かなくていいな
っていう風になるんですよ
その部分だけね
それでやって僕が出てきたのが
これ書かないと自分黙るなっていう感覚です
それだけだったらね
実際に僕自身は
黙ってるとは思わなくて
それ以外やってるからですね
だからそれ以外やらなきゃいけない
むしろ逆になるんじゃないかなと思って
要はAIに任せて
黙ってもいいやっていう人は
なんだろう
もういいやってなる
映画好きでもっとやりたいんだ
映画監督もっとやりたいんだっていう人は
むしろAIにも任せるけど
自分でも映画撮るから
映画監督の仕事自体が
もっと楽しくなるかもしれないですね
AIを活用する新しい視点
わかります?
AIという道具を上手く使って
やっていこうとすると
より映画を自分で撮るということが増える
文章ライターとかでやってる方で
もし自分が書くのが好きなのであれば
AIを使うことで
より自分のやってることが好きになって
AIとは違うんだよね
もしくはAIに任せられるものは
任せようということで
よくある話で
浮いた時間どうするのが
まさに自分の仕事をより高める方になっていく
ただそれは
みんなが
何度も僕は申し上げているんですが
みんながみんなそうなるかというと
だいぶ前傾がありまして
そこでさぼらないという感覚というんですか
他にやりたいことを言い出すとか
やりなかったことをやってみるという方向を
とっておくんじゃなくて
じゃあやりましょうってなるので
例えば
夢というか
やりたいことがあって
それを
やりたいことを
やりたいことを
やりたいことを
やりたいことを
やりたいことを
やりたいことを
これは何か言ったような気がしますけど
それをやらないことで
もしくは
やりたいんだけどでもやらないことで
それに着手しない
みたいなことがあるじゃないですか
これはこじらせているという意味の
僕の真理であるし
人間ってそういうもんだと思うので
それが絶対悪とかじゃないですよ
でも真理としては
例えば企業をしたいです
でも企業のためにやりたいことが
できませんというか
やっていませんというのが正しいですか
別にその人を否定しているわけではないですよ
そういう人がいたときに
その人の真理って
一つですよ
これはこのケースとしてあるのが
企業というものに着手しない
やらないことで
その企業をしたいなという夢は
そのまま冷凍保存というか
何もそのままじゃないですか
うどんを冷凍保存したら
うどんのままみたいな話で
食べたいなら解凍しなければいけない
そのまさに解凍したり
冷凍庫から引っ張り出すということをしなきゃ
いけないんですよ
そこでは企業という概念が
どういうものでもいいんですよ
それこそメルカリで
フリマみたいにしてやるとか
アフィリエイト始めるとか
自分でやりたいことは何かなってことを
考え始めたり調べ始めたり
そういうことをする
いいんですよ
もうから副業みたいなやつを見に行って
それを見てやってみようと
全然いいんですよ
世の中に何があって
自分の今の状況を変えて
企業をするための
何か準備であり
やっていることです
ということなので
企業ってあと何かというだけの話なので
事業をやって収益を上げて
それで成り立たせるという
だけといえばだけじゃないですか
ロジックで言ったら
それが結構難しいんですけど
でもそういうことですよね基本的に
そういうのが
それもいきなりできないと思うので
そういうのを何も着手しないことで
企業という夢を保存して
何で守るか
そんなことあるのかって思われる方に
いらっしゃるかもしれませんが
僕は結構あると思っていて
そこで守ることであれば
何が起きるかというと
自分は何かを挑戦して
ダメだったっていうことの
失敗の痛みとか
できなかったっていう
自分が能力がなかったよね
ってことで傷つかないじゃないですか
要は失敗の恐れですね
それが不安ですよね
それをやらないことで
自分は
やってないっていうのはあるんだけど
でも傷つかないし
守られるわけですよ
こじらせてるかもしれないけど
ありうる
よくあるんじゃないかなと思います
そこまで分析しないと
わからない世界かもしれないです
自分が何かを挑戦しないことで
行動の重要性
自分が不安になったり
もしくはやれなかったという後悔であったり
もしくは時間が無駄だったり
お金が無駄になるってことを
避けるわけですよね
そういう思ったりします
でも全然推奨とか
奨励しないですよ
少なくとも僕は嫌ですね
そういう生き方は嫌なんで
自分がうまくいかないことは
あえてやれとはもちろん言わないですが
うまくいかないかもしれないことに対して
やらない選択肢ばかりであって
全部ね
やめろやめろ
やめるやめるって言ってたら
何にもできなくないですか
っていうだけです
自分がうまくいかないのかなと思うので
一個ぐらいやりましょうよっていう
一歩をやってみるっていう
お勧めでもあります
そういうことを仮にしないと
話って進まないじゃないですか
っていう話が脱線したかもしれませんが
同様に言えて
結局その行動をしたり
自分で絵を描く写真を撮る
文章を描く
映画を撮るでもいいですし
何でもいいですよ授業をやる
休業する
そういうことをやらないっていう風になっていくんじゃないのかな
例えば
人をAIで起業したいって言って
相談に乗ってもらって
AIに言われたことを
実際のあなたがもし起業したい人であったら
やりますかって話になるんですよ
人から言われたからやるのかやらない
もしくはAIに言われたからやるのかやらない
何をしてもやらない
ってときに
結局その人がどう生きるかであり
結局前も言ったんですけど
社会っていうのは
人が作ってるものなんで
人の中に社会に合うように
AIに任せてしまって
自分は考えなくていい
とかやらなくていい
特に創造においては
非常に危ういなっていうことですね
やらなくなっていく
人が考えなくなっていく
起業のことを別にやらなくてもいいや
っていう風に思う
そうすると起業経験
なり起業体験が減ってきますよね
イラストもそうですけど
イラストも描いてくれるから
やらなくていいなっていったら
単純に描くっていうスキルが
描いてないから
普段描いてないライターとかって
嫌じゃないですか
僕だったら普段アイデアを出してない
アイデアを考えてないアイデアマンみたいなね
嫌じゃないですか
企画とかも普段こういうことを考えてるから
出せるっていうじゃないですか
同時にそういうことが言えるかどうか
っていう風なもの
つまり僕がそうやって考えたり
話したり
メモしたりとかしてるってことは
ある種ですね
エビデンスというか
この人は考えてるんだなとかね
もしくは
こういう考え方なんだなっていう
考えてるんだなっていうところは
いいかなと思います
でもそれが全然よく分かんない話で
言ってたらしょうがないですけど
さすがにそんなめちゃくちゃずれてる
言ってることとタイトルが全く違うとか
釣りとかね
あと言ってることが全然脱線しまくって
全然入ってこないとかね
脱線の甲斐はあると思いますが
少なくともタイトルとその話には寄せてるんで
これはあとは僕のスキルなり
伝え方とかそういうことを学びつつ
かなとは思ったりしています
そういうときに
創作における経験の重視
エビデンスって言いましたけど
それをやってない人が
何か言っても説得力が欠けるわけですよ
こういうことを言うと
実績重視とか経験重視みたいになるんだけど
経験重視は確かにあると思います
経験重視というよりも
何もないんだったらやってください
何かやってください
近いことをやってください
って言うしかないんですよね
要は未経験とか実績問題ってありますよね
やったことがないんだけど
のにやったことがある人しか
募集してない場合できないじゃないですか
っていう話なんですけど
なんでもう何か近いことを
やっぱりやっていくしかないんですよね
想像できることを自分でアイデア出してやるか
もしくはもらってやるか
そのやって何が違うかどうかを
やっぱりそこで積んで考えていくしかない気がします
ものすごい当たり前のことかもしれないですけど
結局やらないと
自分でやって考えないと
深まっていかないし
AIによる文章生成の影響
最初の冒頭で話した通り
AIに文章のアイデアを投げて作ってもらう
ということを書いているということに
してもいいでしょう
それを書くという行為にしてもいいでしょう
ただそれはアイデアを出す
過剰化にまとめるところまでしかないから
例えば
大言止めが多い
だからしつこい文章がしつこい
そういった解釈
全部まとめて
大言止めばかり使っていると
嫌になってきません
というときに
それにまず
あなたが見て気づけるか
気づいたとしても
すごい長い時間をかけて
すごい時間をやっている人だったら
さすがにすぐになくならないんだけど
それが1年2年とか
もしこのAIで文章作成みたいなことを
ずっとやり続けて
文章を書くのはそういうことなんだよね
というときに
大言止めが多いって言ってて
言った場合
ある程度スケールがある人でも
何か忘れちゃうんじゃないかなと思いました
感覚として
そうなると大言止めが多い文章を
自分でAIに作らせて見ているんだけど
何かおかしいなぐらいは気づくんだけど
どう指摘していいか分からない
ってあって
AIも別に
それに対して指摘はないから
それでいいと
そうして
あなたから書き手ですね
そうしてできた文章が
あなたの文章と思われて
それを読み手側が読むんだけど
大言止めが多いなとか
思って
これはAIっぽいなと思われたり
もしくは
どんどん文章が劣化していく
という感覚ですかね
自分が表現したいものも
うまく表現できなくなっていくとか
伝えられなくなっていく
何でかというと
人間ってAIじゃないんですからね
考えて
こうがああだってことで
脳にそれこそ電気信号
シナプスじゃないですけどね
真剣最後に刺激を与えて
考えているから
そういう風になっていくんですよね
分からないことがあれば
それを分かろうとするし
もしくは分からないことがあれば
放置するかもしれないですよね
それは一旦置いておいてとか
でもこれどうなんだろう
ああなんだろうって考えていく
自分でやってみて
好きなことをやりたいことを
やっていくということが
とても人間らしいんじゃないかな
というところまでは
僕の中では今来ています
すいませんちょっと長く言いましたが
まとめますと結局
AIに委ねて投げてしまう
特に創作であったりするところで
今回書くということですよね
投げてしまうと
失われるものがかなりあります
特に創作力とか創作意欲も
言っていいかもしれないですね
が出てくるかなと思いました
創らない仕組みだったらいいんですよね
つまり何か文章を書かせるんだけど
他で自分は文章を
人間が書いているから
文章ってこう書きますよね
こうですよね
というふうに
なまらなかったらいいと思います
それがなまる程度のアウトプットの量とか
それしかやっていないのであれば
僕はなまっていくんじゃないのかな
というのに一旦加速して入れています
実際に僕の体験として
半年分ではないんだけど
4ヶ月とか5ヶ月か
2ヶ月とか分かりませんけど
これは何か
自分は全然面白くないな
人が面白いかどうか分かりませんが
何か面白くないなと
なぜならそれは書くということが
単にアイデアを形にして
文章にして伝えているというのを
ロジカルな部分で
そういう作業ではないんですよね
全然そういう作業じゃない
もちろん聞いている方は
書くの苦手だから
書くの苦痛だし
作業でしかないよと
僕にとって嫌な作業だよ
という人ももちろんいらっしゃると思います
だけど僕にとっては割と
やっている特定のことに関して言えば
記事にすることに関して言えば
アイデアがあって
それをどう伝えていったらいいか
どういう対象の人に今回は伝えたいか
表現はどうしたらいいかとか
もしくは書いていくことで気づく
自分はこういうことを考えているんだなと
気づいたり
これやっぱり大事だなと改めて確認したり
あとは書いていくので
表現の仕方とかを
やり方がいろいろあるんですけど
そういうのが楽しいわけですね
表現をしたり
アイデアをどう表現するかを考えたり
自分で気づいたり学んだりすることが楽しい
それがまさに書くということで
得られていたのが
それをAIに投げてしまうことで
なくなるじゃないですか
チェックの時間になるので
それは省略して
そういうことを3分クッキングじゃないんですけど
こういうのが準備されているので
はいこれでやるとはいできました
ということを
考えることになっちゃうわけですよね
そうすると
今までその時間に費やしていた時間
書くために費やしていた時間
書いているということ自体が
一連の流れでいくと
アイデアを出してそれを考えて
書いていく中で出てくる何か
ある種発行に近いですよね
寝かせて出てくる何かというのを
省略しているんじゃないかというと
まさにそれは多分正しいと思っていて
省略されるんです
自分の中でそれが出てこなくなる
それをずっと繰り返し何度もやっていると
書き方がわからなくなる
それによって築いてきた
再確認できたことがわからなくなる
学びが出てこなくなるということに
僕はなるんじゃないかなと思っています
なのでここから展開されるのは
クリエイターとか創作する人というのは
多分そこに敏感だと思うので
起業と自己成長の重要性
AIを使わないとか
AIを使うにしても
かなり意図して限定的に
スコープといいますか
範囲を決めて使う方が
多数になっていくし
それで
一見すると
作っていないという人から
ユーザーからとか
読み手とかそういった人が見ると
なんでこの人はAIなのに
すごい手で書いたり
手で文章書いたり
打ったり
何かやるんだろうという風に
もしかしたら思われる方が
いるかもしれないんだけど
それはその人のトレーニングであり
それをそのAIに回らない
もしくは何か
AIって便利だから
ある種の脱
ITじゃないけど
脱SNSか
じゃないけど脱AIみたいな感じで
もうやめて
その時間はもうAIを使わないとか
それこそスマホを見ないとか
そういうのと一緒で
AIとの距離を保つという時間とか
休息にはAIを使いませんとか
もうその辺りは
かなり進んでいくんじゃないのかな
と思いました
なのでもし
創作とか何かやっていきたいな
とか思ったりする人は
その辺りを気にされると
面白いかもしれません
もしくは企業とか
事業を作りたい
まさに仕事を作るということを
やりたい人は
今言っている通りで
AIに投げて何かできるんだ
ということはほぼないわけですね
もちろん何度も言いますが
自分でやっていることを
ロジカルにまとめて
それをAIに投げて
他のことをやりたいから
それを任せるわけです
それは全然OKというか
素晴らしいと思います
だからそこまで行かずに
やりたいことがなかったり
もしくは今やっていることを
全部代替させると
何が起きるかというと
今までできなかったことが
できるかというと
僕はそれはあまりないなと思っていて
現時点でやりたいことがないのに
AIに任せて他のことができるかというと
単純にそこで時間がなくて
やりたいことができることも
あるんだけど
多くのケースは
そっちってあまりなくて
多くのケースは
今できていないのは
時間がないからじゃなくて
時間は今あるんだけど実は
それをやっていないだけで
言い方はよくないんですけど
起業をするということを
冷凍保存してやらないことで
自分を守る
自分を惨めというか
できなかった自分に
人にもよると思います
それを見たくないというのも
やっぱり人間らしいなって
僕はすごい思うんですよ
思うので
だからみんな起業していないし
日本じゃなくてもね
チャレンジするということも
人によってだいぶ違うんだけど
何かやるとやっぱり
ミスったり何か言われたり
ヘコんだりとかするわけですよね
うまくいかないから
そればっかり見ちゃうんで
実際はそうじゃなくて
いろいろ学びとか
人が広がったり出会いが広がったり
そういうのが楽しいわけですよね
新しいものが見えたり
それが僕は
AIの創作への影響
今まで見えなかったものが見える
宗教ではもちろんないですが
今まで考えていなかったものが
できるようになるという意味では
それもうまく踏まえて
AIを使って想像するということだったら
全然ありだなと思いますし
そういうふうにやっていけば
外すことはないかなと思ったりします
なんでごめんなさい
AIを使うことによって
今までできなかったことができるというのは
AIが勝手に導いてくれるわけでは
全然ないわけですよね
自分でこうじゃないか
ああじゃないかということを
割と深く突っ込んでやり取りして
もしくは自分の経験をさらに高めていって
やり取りをしていって
ことじゃないとできないかなと思います
それがよく言われている
AIを使う側なのか
使われる側なのかというところでいくと
明確に使う側というのは
使ったら失われる何かリスクを考えて
さっきの創作意欲とか創作力ですよね
自分にとってのものが
従来の自分と
AIを使った自分というのを
比較していただいて
それがリスクだな減るなというのは
まさに僕は思うので
自分の力としては
創作としてやっていくということを
やらなきゃいけないですよね
自分でやっていく
一方でリスク・リターンの話で
これは何か
作業っぽいから
任せたほうがいいなというのであれば
それをやらせるということができますよね
この辺りで
今
学習として
AIをうまく使うことで
学習できたという例はありそうで
でも
それは
普段学習をしている人が
うまく使ったりとか
何かアイデアを転用したりとか
うまくAIを使えている人の
事例なのかなと思ったりします
伝わりますか
だから
AIが入ることで学習が変わって
それによって鍛えられたというのは
あんまり実はなくて
それはプラス
付与効果ではあるんだけど
学習と人間の経験
やっぱり学習の部分は
人から習って
学んで
一番言いたいのは
人と習うことで何が促進されるかというと
体験とかモチベーション
動機づけの部分が促進されるはずなので
そこがポイントなんじゃないかなと思いました
でも
AIが使えばできるという部分が
全部あれば
知識のインプットだったら
それでいいかなと思います
そのAIが言っていることが正しいかどうかは
また別なんですが
知識のインプットというのは
それでもう断れてしまうような気がします
でも知識のインプットは
モチベーターというところで話をしましたが
教師とか先生とか教える人は
やっぱり
自分の
勉強したいこととか
やっぱりできる
というわけではないかなと思います
むしろやる気が出なかったり
なんでこれができない
やれるのかがわからないようなことを
先生とかたちはこれから教える側ですね
僕も教える側ということはあるので
伝えていかないといけないなって思います
まさに感情であり
気持ちの部分ですよね
がやっぱり大事になっていくなということを
改めて感じました
長くなりましたのでこれぐらいにしたいと思います
ぜひAIに想像
AIとの想像の関係ですね
その想像がどうなっていくか
ぜひ考えるだけでもいいんですが
ご自身で何か作ってみたりして
やってみて
これをAIに変えてみたらどうなるか
思い入れがあるかないかも
チェックできるかもしれません
僕にとって大きな気づきは
書くとか話すもそうですが
それを代替させることも
面白いんだけど
含めてね
だけど全部それを任せたら
嫌だなということを思ったんですよね
もちろんAIが
そういうこともできますよね
できるんだけど
自分にとって大事なことを
見直したり見つめ直してみて
まず自分の仕事を
AIに任せたり投げたりしてみると
それをやらないとまずダメですよね
第一ステップ投げると
そしてできる部分を確認する
もしくはできるっぽいんだけど
実はできてなかったり
もしくはそれをやり続けると
自分が劣化していくというか
楽しくない
それはAIに任せるべきじゃない
そのためにもぜひ
AIを使っていない方は
AIを使ってみてください
というわけで今回も終わりたいと思います
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました
以上失礼いたします