1. シゴクリラジオ!
  2. いつでも辞めれるし始められる
2025-05-20 42:55

いつでも辞めれるし始められる

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サマリー

本エピソードでは、「いつでも辞められる」というテーマを通じて、辞めることの意義や新しい始まりについて探っています。大橋は、自主的な活動や習慣を考え、自己の感覚に基づいて選択することの重要性を強調しています。また、辞めることや始めることができる自由の重要性についても語られています。特に、自己裁量と楽しさの感覚が、ブログや仕事などの活動にどのように影響するのかに焦点を当てています。このエピソードでは、何かを続けることや辞めることの意味について考えながら、自分自身の生き方や価値観に対する問いかけがなされています。楽しむことの重要性や、始めることや辞めることの自由さについても触れられています。さらに、やりたくないことを続けることの必要性や、楽しさを感じることの重要性についても話し合われています。

ポジティブな辞め方
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオ、始めていきたいと思います。今回のテーマは、いつでも辞められるというわけです。
ネガティブな話というよりも、ポジティブに辞めるという話をしていきたいと思います。
辞めるといっても、卒業みたいな感覚ですか。何かを辞めるということは何かを始めるということで、辞める部分にフォーカスを当てると終わる感じですが、始めるという部分にフォーカスを当てるとポジティブ。
そんな話を少しだけしていきたいと思います。今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回は、いつでも辞められる、いつ辞めてもいいのだというところで話をしていきたいと思います。
あるブログというか、前は書いていたのですが、メインのブログではないのですが、それは昨日、今日はもう書かないですが、辞めました。
辞める辞めないというのは、リサのあなたが僕のブログを見ていて、言える立場ではないというか、それはあなたの勝手でしょという感じになると思うので、僕の勝手でやっているのですが、
いわゆる自主活動、自主企画みたいなやつで、クライアントワークでもなんでもないのですが、そういうのってあるわけじゃないですか。SNSをやるとか、そうじゃなくてもイベントを定期的にやるとか、コミュニティでもいいですけどね。
そういう中で、自主的にやっているものって、継続が難しかったりとかってあったりしますよね。今回は継続が難しいということではなくて、2年ちょっとやっていましたけど、このポッドキャストみたいな感じで、
ちょうど同じ時期にやり始めたんじゃないかな。そうですね、同じ時期にやり始めましたね。ポッドキャストは残り、ブログは消えたという感じですけど、2年ってどう評価するかは人によるかもしれません。
10年やって1年前だよっていう人もいると思うので、3日で終わるよって言う人もいるから、2年ってすごいねって言われますよね。リスナーのあなたとしてはどうでしょうか。ブログを書くというのを平日毎日やってたら、やることはできますか?みたいな。
褒めてほしいと言うことはないんですが、僕自身はよくやったんじゃないかなということと、その力を別のところに、それこそ自分のブログの方に、しごくりブログとかに書いた方がいいし、その書くパワーをもうちょっと違うところに使っていってもいいよねとかね、そんな風に思いました。
嫌になったとかっていうのはないんですよね。だから嫌になるっていう感覚って、強いて言うなら飽きるぐらいですけど、飽きるも嫌になったというよりも、もう違うかなっていう、そういう感じですよね。
違うかなってめちゃくちゃ大事で違和感ってやつですけど、その違うかなを抱えていてですね、うまくいった試しが僕の中では全くなくて、あります?そういうのね。違うかなっていう。
たぶんそれは違うかなでうまくいった例を挙げたとしても、リスナーのあなたと僕は違うのでなんともってことなんですし、僕の感覚もリスナーのあなたと違うので違うかなぐらいはあると思いますが、しょうがないよねって感じです。
自分の感覚をですね、信じられるかどうかっていうところでいくと、別に僕は絶対だと思ってないし、間違えてばっかりですけど、少なくとも自分が嫌なことをやり続けるっていうのはドMな人でもないんで、
M系の人でも嫌ですよって思ったりしますけど、それは置いといて、自分で区切りをつけていこうよねっていう話でもあります。
いつでも辞められるっていうのは捉え方によるんですごく難しいところであるんですけど、例えばブログを継続していかなきゃいけないっていうのは別に誰かが言ってるわけでもないし、誰かが言ったから僕がやってるわけでもないし、
僕の中でルールがあってそれをやらないと僕としてのアイデンティティーがなくなるとかね、そういう類でもないわけですよね。
ブログを書くこと自体は辞めたりとかそういうことではないし、やりますしね。一部それをなくすというか辞めるというだけなので、すごい影響を与えるとかはないんですけど、
いつでも辞められるという感覚って、いつ始めてもいいし、いつ辞めてもいいっていう態度というか、別に自分に対して自分の活動がやってもいいですよ、辞めてもいいですよみたいな状況なわけですよね。
これを自主的というふうに僕は感じてます。自発的とかね。ってことは自発的にやれるってことは自発的に辞めてもいいですし、自主的に辞めてもいいですよっていうことだと思うんですけど、どうも世の中的には始めるってことに対してはポジティブだけど、終わることにはすごくネガティブみたいな感覚は強いですよね。
慣れてないと終わるから終わりみたいになって、次の始めるっていうことに対しての方にあまり目が向かないというか、始めていくんだよねっていうポジティブな方向にならない感じもします。
一方で何かを始めずにただ辞めていくってことで、辞めて辞めて辞めてってことで選択肢を、選択肢っていうのはちょっと違うんですけど、やることを辞めていくじゃないですか。
集中ってありますよね。やることを減らして集中する。そういうのもあれば時もあるんでしょう。あと逆でいろいろやってた方がいい時もあるんでしょう。
なんかそういうのってありませんか。時期によってね。今これは集中した方がいいとか。人によってはいろいろ並行してやれませんよとか言う人もいるし、いろいろ並行しておかないとダメだって言う人もいると思いますが、
僕はどの類になるか正直よくわかってないですけど、分析がめんどくさいっていう感じで思考放棄してますけど、そんな感じでとりあえず辞めますよっていう感じで辞めて、
そこまではないんですけど、会社員やってた人が会社辞めて明日何しようみたいな。そんな感じなんじゃないですか。1ヶ月も経たないくていいかな。2週間、3週間くらいですか。
何もしないことに飽きるとかもあるんでなんかやりたくなってくるんで。充電ってことですね。疲れたから休めみたいなのは非常に重要なことかなと思います。
そういうふうにですね、結局習慣化してたんでそういうルーティーンじゃないですか。変えていくというところもあると思って。
自己の感覚と始まり
例えば僕がこのポッドキャスト辞めるとまた違う感じになるよなってことで、ポッドキャスト仮に辞めたら、ポッドキャスト今は辞めるつもりはないですけど、変化するじゃないですか。
要は自分の栄養素じゃないんだけどルーティーン変えるから、やってたよなっていうのを変えていくと。
つまりどこかで話すとか何かやらないと、僕の中ではどこかでバランスが取れなくなるんで、またどこかで話し始めるだけなんですよね。
新しいまたポッドキャスト番組やるとかもあるんでしょうし、その辺りなのかなと感覚的には思ってます。
だからブログだったら書いているっていう、何かその抽象度を高めていくと書くとか何か動作に繋がっていて、それをある程度自分の中で成分としてやらないとおかしくなるっていうことなんでしょうね。
本当にその通りです。
なので、別にポッドキャストをやらなきゃいけないという意味ではなく、どこかで誰かに話をしたり、誰かに何かを伝えるということを原始的というか、何かやっていることが大事なんでしょうね。
だから別に発信とかをしていなくても、フィジカルで誰かにすごい話をしていたりとか、イベントをローカル、全然知られずにこっそり。
こっそりというのはちょっと良くないな。
別に発信しなければやっていたりすると、そこで満ち足りているわけですよね。
例えばYouTubeをやって満ち足りているとか。
だからいろいろな手段はあるわけで、でも発信するっていうことがあったときに書く、発信、音声で話すとかいろいろなやり方がありますから。
そういうののバランスって、結局は具体的に何をやるかというよりも、自分の中でね。
具体的にPodcastやるとかYouTubeやるとかすごくどうでもなくて、僕の中でブログやるとかね。
それをやる手前のところで何をしたいんですかというね。書きたいのか話したいのか伝えたいのかというそのホワイの部分ですよね。
なんでやっているんだろうねという。
しかもそれも自分でやっているだけなので、いつでも主導権はある種自分なんですよね。
そうやって言うと趣味みたいな話で、いつでも自分が辞めたいときに辞めるし、誰かに対して責任があるわけじゃないみたいなね。
まあ責任はないですよね、別にね。
そういう意味では趣味と言われても仕方ない部分はあるとは思いますけど、
誰かを不快にさせるとかね、誰かを攻撃するとかっていうのはしていないつもりですが、
なんかね、攻撃されたみたいなのって、ぶっちゃけそんなのやろうと思えばいくらでもできるじゃないですかね。
そういうのはコースもありますけど。
辞めていくと、いつでも辞めますよねっていう話ですよね。
継続の話も一応しておくと、そもそも大橋さんと、私はそれで続けられないですよねっていう人もいらっしゃるかもしれませんけど、
なんか別に続けないとダメっていうわけでもないですからね。
なんかやり続けろっていうふうに僕が言ってると思われてたら、ちょっと申し訳ないですけど、その主張をしたいわけじゃ全然なくて、
自分の感覚ではそれをやり続けたいからやってるんじゃなくて、いいですか、これ結構ポイントだと思ってて、
続けたいからやってるわけじゃないです。やってたら続いてるってことなんで、
やりたいっていう最初の初動だし、その初動というか毎回それやるっていうのが、
もうめんどくさいな、やりたくないなっていうことが頻度がね、たまにあってもいいと思うんですけど、
今日書きたくないなとか、今日喋りたくないなとか、疲れたとかは知らないですよ。
他で疲れてたからやりたくないとかはもう目休んでください。
そういう時に、もう別に続けなくていいとか、それをやらないことでなんかもういろいろ失われる気がするみたいなのあるじゃないですか。
それはやった方がいいと思う、そういう感覚。つまりそれって感覚が入りません?
自分の、これは確かに大変だけどやっておいた方がいいなみたいなやつってあるじゃないですか。
ただ大変だよねっていうやつって、もうやらなくないですか、もうするわけないですか。
だからその、確かに誰かにとか人からとかどうでもよくて、自分がどうかっていうのをだけはやっぱり
消しちゃいけないような気がしますよね。
そこを消してしまったら、もう誰かに指示された通りにやってくださいって言って終わりじゃないですか、話として。
それはちょっとしんどいなっていう話でもありますね。
で、自分がそうやって何かをやめることで、もしくは自主的に何かを続けられる状況の時に
別に自分が続けなくてもいいよねっていうふうに、まさに振り返りってことでもありますけど、
そんな都度都度振り返らなくてもいいんだけど、いやもうやめたいっすって時に、もういいっすって時にやめるというのは
僕は非常に大事なことなんじゃないかなと思います。
こういう時によくあるのは、やめることで何か違うことが始まったり何かが入ってくるってことがよくあります。
まあって言っても何も入ってないこともあるんですけどね。
そこは期待せずに大いに現状を整理したりとか、何ていうんだろう、さっきちょっと話しましたけど、
いつでもやめられるっていうことをある種やっている感覚、いつでもやめられるわけですよ。
別にその何かやめるぞやめるぞって自分に対してね、誰かをとかもそうですけど脅してるわけでも全然なくてね、そういう意味じゃなくて、
別にゼロベースで始めていってるからなくてもいいというか、
例えば分かんないですけど、事業とか会社でもいいですけど、成長させていくじゃないですか。
そうするとそれに対してしがみついちゃう。金融資産とかでもいいですよね。
自分でお金貯めたから、自分で資産作ったからそれをしがみつくという言い方は良くないですけど、守らなきゃいけないみたいになるけど、
別にそんなにいらないんじゃないって言われたらもう話は終わりません。
だから何かに固執するということを否定するわけでもなく、欲が出ることを否定するわけでも全然ないんですけど、
自己裁量の重要性
もともとなかったのにそれに対してしがみつくってちょっと面白くないですか。
それぐらいの感じです。
で、しがみついて、いやしがみついてこれ大事ですよ、守るの大事。
そこはいいんですけど、何て言うだろう。
思考ですね、考え方ですよね。
しがみついて、それであれ今まではやれてたのにやらなくなったなっていう方が怖いかなと僕は思います。
二段階ですね。
何か自分が生み出したものにしがみつく。
で、自分で守る、大事にする。全然いいと思うんですよ。
でもそれを守ることによって、自分が作ったものにしがみつく。
全然いいと思うんですよ。
でもそれを守ることによって、自分が今までやれたこととかやろうとしてたことが変わるってことです。
例えば、今回で言うのはブログを続けてきたから、それをやめることは悪とは言いませんがダメなのだと。
で、これが大事なのは誰かから言われたとかね、そういう話は全然なくて僕の中で勝手に考えてるだけなんで、僕の中の思考の話なんですね。
で、そこでぐるぐる回すことはなくて、じゃあ別に誰かから言われたわけでもないし、やめると思えばやめる。
超自己わがまま裁量みたいなのがあって、それに対してあなたは無責任だみたいなことを言われたことはないですけど、
そんなあさっての話があったとしても知らんがらで終わるじゃないですか。
知りませんよ、そんなのってなるんで。
僕の中でも根拠を言えばそういう風になるんだけど、続けてきて、ちょっとこれぐらいでいいかなっていう感覚ですね、本当に感覚で。
で、実際にやろうとしてたことってことで、たまにないですか。
楽しいことの探求
リスナーのあなたがあるか分かりませんけど、ちょっと問いかけとして、なんでこれ自分やってるんだろうなみたいなやつですよね。
っていうのがたまたまそのブログですね。ブログ全般じゃなくてそのやってるブログにあって、もういいかなみたいな、そういうのです。
で、でもこれって最初にいきなり出たわけじゃなくて、なんでやってるんだろうねっていうときに言えないってやつですね。
今ちょうどですね、ベイビーステップっていうですね、スポーツスポコンみたいなやつですけどね、テニス漫画っていうのがあって、
ちょっと前の作品なんですけど、一回読んだんですけど読み返してまして、それやっぱ面白いなっていうときに、
あんまり言うとネタバレになっちゃうんでっていうのもありますけど、
見ている内容を言ってるわけじゃないと思うんで一部ですけど、
その主人公が楽しいのかどうかみたいなフレーズを、主人公の友達が言うんですよね、主人公に対してね。
で、それって重要なフレーズだと僕は思ってるんですけど、楽しくない、自分が何でもいいですよ、仕事でもいいですし、
人生ですかどっちかというと、テニス楽しいのかっていうことですけど、勉強楽しいのかと、何でもいいですけど、
楽しいのかどうかってめちゃくちゃ大事だと僕は思ったんでそれに引きかかったんですけど、楽しいことをやってる人って、
楽しくないことをやってる人って、どちらでもいいですけど楽しいか楽しくないかってことをやってるときに、
楽しかったらやると思うんですよねって思ってるんですけど、ここが壊れてたらもう知らないんですね。
楽しくないけどやるっていうような感覚。楽しいからやる、楽しくないからやらない、何でもいいですよ。
とりあえず楽しい楽しくないに関わらずやるんだけど、やらないかやってることが今あるじゃないですか。
それに対して考えるわけですね。それ楽しいのか楽しくないのかというときに、分かります?
リスナーのあなたもぜひ考えていただきたいですが、それ楽しいのかな?
例えば僕だったらブログ書いてて、それ楽しいのかな?って。楽しいのか?って。自問自答みたいな感じになりますよね。
正直それが楽しいのかどうかってよく分かんないんじゃないのかな?散々ね、楽しいかどうかが大事ってやる人に言ってますけど、
僕も分かんないと思います。感覚に近いんですよね。
それこそ血流みたいな感じだと、興奮すると血流が良くなるというかね、
血の巡りが良くなって、今しゃべれたら興奮すると話すスピードが上がり、ボリュームが上がりね。
お酒飲むのもあってそんな感じじゃないですか。ボリュームの精量とかどんどん上がってってみたいになるじゃないですか。
それという感じのメカニズムで説明しなかったら何が決めるんですかっていうね。
そんな楽しそうじゃないけど楽しいですよっていうふうにボソッと言う人もいるじゃないですか。
だけどものすごい楽しいっていう人もいるじゃないですか。
だからいろんな楽しさがあっていいなって思う中で、
じゃあブログ書いてて別にやってきたけど、じゃあこれ楽しいのかなって言われた時に結構困りません?
仕事とかでもいいですし、じゃあその仕事作って楽しいんですかとかアイディア作って楽しいんですかって言われた時に、
楽しいなぁとは思いますよね。思いますよね。
でも思うんだけど、じゃあそれを続けなきゃいけないのかって言われた時に、
僕の場合はマロジャクとも思わないですけど、マロジャクなのかな?わからないですけどね。
社会との関わり
続けろって言われたら続けたくなくなるっていうのはわかります?
だから人から何か言われるのがものすごく好きじゃないんだろうなってことは思いました。
それは思いました。特に勝手に何か言う人がものすごく苦手かなっていう気もします。
どういう人だよねってラベリングぐらいは全然いいんですけど、
これをやった方がいいみたいなのって結構僕苦手なんだろうなっていう風に思ったりします。
自分で取り込んで何かやるっていうのはいいんだけど、その取り込むことをさせないというかね、
とりあえずやっときなさいっていうのはもういいじゃないですかってなりません?
まずとりあえずやっといて何かいいこともあるからそれはいいんだけど、
損とくだけじゃないじゃないですかっていうのがあります。
そこで一つだけ思い出したのが、人の紹介の仕方っていうシーンで、
例えば僕と誰かがいて、Aさんって紹介するのは全然いいんですよ。
紹介するのはいいんだけど、そのAさんと絶対気が合うからみたいな人ってたまにいますよね。
どうですか?いますか?そういう方。もしかしたらあなたがやってますか?
やってたら直接否定みたいになっちゃうので申し訳ないですけど、
僕は全然お勧めしちゃいという意味で、ごめんなさい、悪い事例としてあげるんですけど、
要は自分が、ごめんなさい、僕とAさんっていう人が会ってないけど、
その方が、Cさんでも何でもいいんですけど、その方がAさんと僕は多分会うから話ししないよみたいなそういう感じ。
このシーンって結構何度かあるんですけど、うまくいった試しがないですよね。
わかります?この感じ。わかってたらうんうんって頷いてもらえればいいんですけど、
わからなかったらごめんなさい。
これなんていうかというと、バイアスというか、それはあなたの期待値じゃないですか。
別にそういう意味で言ってもいいですよね。
僕とAさんがうまくいって話が合うってことを期待したいから、期待してるよっていう気持ちを表明してるっていうんですか。
気持ちを伝えてるんだ。私はあなたへうまくいくことを期待してる。
でもそれだったら英語っぽくじゃないんだけど、うまくいくことを期待してるよっていうぐらいで良くないですか。
多分ね。でもそういうふうに言いまして、日本人の人ってあんまり知らないんですよ。
知ってます?そんな人あんまり会ってやってることはなくて、たまたまそうなのかもしれないですよね。
じゃあそうじゃなくてっていう人は、そんなことは言わなくて、
じゃあちょっとセッティングしておきますね、そういう感じでやって、
実際にセッティングしてどうかっていうだけなんで、
あとはその人がどこまで仲介してか入るかで、
行動で示すって感じじゃないですか。
口とかどうでもよくて、その場合って。
心のあたりは文化とかね、慣習感?慣習?あるんでしょうね。
口で別に言うのを否定してるわけじゃないですけど、
絶対うまく合うよみたいな人が、そこに介在してうまくいくようにしてくれる感覚はないわけですよ。
してくれるって言うとすごい待ってるみたいな感じですけど、
言うほどやらないといけない。
もっといやらしい深読みかもしれないけど、
言ってしまうと、たぶんその人が誰かをつなげたいと、
もしくはつなげることで、つなげたっていう感覚で気持ちよくなりたいみたいな。
つなぎことができるから自分の使命はつなぐ人をつなぐことですっていう人がいて、
そういうことをやってる人もいると思うんですけど、
でもその人がつなげることで、つなげたっていう感覚で気持ちよくなりたいみたいな。
そういうことをやってる人もいると思うんですけど、
でもそれはつながることがあったとしても、
別にそれはね、その人がつなげたっていうスキルというよりも、
合う合わないはしょうがないじゃないですか。
だから自分とAさんっていうのは、Aさんに全然罪はないんですけど、
コマみたいな感じで、食材って言ったら失礼ですけど、
人間なんですよ。わかります?
人間なんだ!って感覚わかりますかね。
ここだけ伝わってくれたら嬉しいです。
別に愚痴ではないですけど、なんか自分は将棋のコマじゃないけど、
会社の歯車でもないんだけど、別に意思持ってるわけじゃないですか。
アイス食べたい時もあれば、お腹冷えてて、じゃかったら食べたくないじゃないですかね。
わかります?
お腹減ってたら食べたいけど、お腹いっぱいだと食べたくないじゃないですか。
ブログ用の話じゃないけど、今日はすごい書きたい気分だけど、
いろいろ書いてたら飽きて嫌になりません。
そういうのに近いかもしれないですね。ちょっと書きすぎたみたいな。
でもそれだけ別に書いても別に書くし、喋っても喋り続けますけど、
アイデア出し続けますけどね、企画し続けますけど、
続けたいんじゃなくて、続けているだけなので、状態を定義しているだけで、
こうしたいからという意図はそこまでないんですよね。
やってた方がいいかなという感じで生きている感じがします。
ミッションとかビジョンとかいいんだけど、いつもしっくりこないなという感じがしますよね。
なんでかというと、別に社会がどうって僕は言っているんですけど、
政治家みたいになるじゃないですか。あと企業家とかね。
あと社会企業家もそうです。活動家みたいな。
もちろん社会として課題があって、社会課題があって解決していくとか全然素晴らしいことなんですし、
それは全然否定することはないんですけど、
自分がやりたいかとか、自分はそこまで掲げて何かやりたいかということに対していったときに、
別に自分は自虐的とか低く自己否定するというのは全くないんですけど、
思わなかったらやらなくていいじゃないですか。
というのは、大学生くらいにも全然感じていまして、
社会企業家の人を見たときに、キラキラするというよりも、
基礎体温じゃないけど、基礎熱量みたいなのがあると思うんですよ。
基礎カロリーじゃないけど。
が、もしくは高い。
か、そこは全然変わらないんだけど、そこにリソースを持っていける
自己裁量配分、パラメーターがあるみたいな感じがします。
これはですね、たぶん僕に関してもそういうふうに思う人いるんじゃないかと。
なんでそんなのやれるんですかという人ってたぶんいらっしゃると思うんですよね。かなり。
続けることと辞めること
なんでそんな話せるんですか。なんでそんな書き続けるんですか。
なんでアイデア出し続けるんですかという。
思ったことはあります?リザーのあなたね。
わかんないですけど。
至極にフリークの人は思うかもしれませんけど。
いや、なんかそういうのありますよね。
だからそれが個性だと言われたら個性だし、
まあ別にやり続けるでしょう。
別にここにもいるから別に大したことないよねっていうのもあるかもしれませんし。
まあそういうのも比較面倒くさいなって僕思っちゃってるんで、しないですけど。
だからじゃあ自分のやり方ですべていいんだなんて思ってないですよ。本当にね。
思ってないです。
で、そういうのってどんどん引き算していった時に何が起こるんだろうなっていう時に、
まあ割と本当に基礎動作しか残らない。
これね、前に話したような気がしますけど。
基礎というか、自分が普段やってたり、こういう風にしていきたいなみたいなものしか残らないかなって思います。
まあそのご機嫌社会とかもそうなんですけど、もっと手間がかかるようなものを作りたいなって思います。
自分の周りのところで行くと、なんか今日一日楽しかったよねみたいなね。本当に。本当にそこですよね。
とか、やっていた仕事とか、なんかちょっと大変だったけど、
うつとかブラックとかはちょっとダメですよ。
だけどそうじゃなくて、ちょっと追い込みでやったけど、なんか良かったよねみたいな。
わかります?ちょっと微妙な感じだったけど、やれて良かったよねみたいな。
あとの高揚感みたいなのが起こる感じとか、楽しいとか嬉しいとか幸せみたいなのってめちゃくちゃいろんなものないですか?
突き詰めていったらそんなパターンないかもしれないですけど、
それを感じてもらえる、もしくは感じられる社会の方がいいなとは思います。
ただそのために、掲げてミッションを掲げてやるっていうのは、
ダメじゃないけど、ほどほどかなって思ったりします。
一人歩きしがちですし、一人歩きしていったときの回収って大変ですよね。
別に回収しなくてもいいですけどね。
だから、やられることって小さいことでいいし、
それを誰かに影響を一人でも与えていることだけでも素晴らしいっていうぐらいで、
いいんじゃないかなって感じはしました。
脱線しましたね。
さっき言ってたAさんで、行動で示すってことを話して、
社会の方に話がどんどん添えていきましたけど、
そんな大したことを掲げて何かやらないみたいなのってプレッシャーじゃないですか。
これがプレッシャーじゃないんですよと、焦りとかなくて、
自分はこれを掲げて、これをやりたいんですっていうのを出して、
それが別に特に違和感なく、自然に自分の中で歯を磨くかのように、
自然にできるようになったらそれでいいんじゃないかなと思います。
別に偉そうな感じになったらごめんなさい。
だけどそうじゃなくて、違和感が残って、
社会がこれにしたい、ビジョンだ、ビジョンだ、私はこう生きるんだっていうのが、
しっくりこない人の方が多いんじゃないかなって僕は勝手に思っていて、
それって無理してないですかっていう。
社会と自分の価値
肩の力、肩を揉めましょうかっていうね。
いや別に揉めないですけど、なんかバーチャルで、
今肩を揉んでる感じで、自分の肩を自分で揉んでみて、
肩硬いなみたいなね、力入ってません。
深呼吸します、みたいな感じで。
癒し系ラジオとかにしちゃいますか。
まあまあ冗談です。それは冗談ですけど、
力入っちゃってて出せないっていうか、やりきれてないっていうか。
なんか違うなっていう思いながらやるっていう。
僕はですね、微妙だなと思いながらやることももちろんあるんですけど、
それはどちらかというと、研究とか探索とか、
試行錯誤の一つの中でやってるだけであって、
自分はやりたいこととかっていうところでの
なんか違うなっていうのは違うなと思いますから、
やらないですよ。
だからそう難しいですよね。
これはやる、やらないとかっていうのを
一個一個判断はもちろんしなきゃいけないし、
とはいえもうめんどくさくなって、
疲れてたらやらないじゃないですか。
じゃあ疲れてないときにすごい健康で、
もうすごく気合が充実してて、
なんかすごいやり気にあふれてるときに、
っていうのが来るかどうか、
そういうのが感じてる人がどこまでいるかわからないんだけど、
何やります?って。
結構大変というかね、決められます?
っていうところで、
僕って別にそういうね、
弱さではないんですけど、
別にそこの決めきって、
これだっていうのって、
なんかあんま向いてないなっていう感じはしてますね。
そんなの聞かされてもどうしようって思うかもしれないですけど。
ギャップはあるんでしょうね。
いやなんかこうやってやってますよ、
こうですって言って、
仕事くれたですとかって言ってると、
なんかもうバシバシってやってる感じはないですよ。
ないですけど、
とりあえずそういうふうにですね、
ゆるゆるっと生きていきたいですよね。
なんかその、
社会がね、
効率化とかね、
AIの話もそうですけど、
別に効率化したいとか、
なんかね、
生産性化とかっていうのは、
別にいいんですし、
別にやるっていうのもあるし、
それも出てくるし、
嫌いじゃないですけど、
何だろうねって思いません?
だから僕は割と虚しくなるというか、
まあ前も話しましたけど、
AIに書かせてたらなんか腹立ってきたっていうか、
思うんですけど、
腹立ちませんかっていうのは問いかけたいですね。
自分が多分、
AIに対して腹立つのも、
自分がやってることに対して、
なんかケチをつけてくるとかってことに対すると、
腹が立つんでしょうね。
だからこれは、
全然他の人のパターンもあって、
他人が、他人の人、
全然知らない人が、
なんか自分でそういう、
頑張りましたとかやってるかってことに対して、
ケチをつけようと思ったことも全然ないし、
いいんじゃない?って、
そのレベルとかも知らないですよ、全然ね。
で、それが人に機会を加えてたら全然違うんですけど、
いいんじゃない?と思うんですけど、
それを攻撃する人いるじゃないですか。
例えば、
あんまり上手くない絵があって、
それをそんなの出すなっていう人いません?
いや、
なんで攻撃するんだろうなって感じです。
だから僕もね、
アプリとかゲームとか作ってますけど、
攻撃されてはないですけど、
そもそも見られてないっていうのはありますけど、
そういうので、
攻撃してくる人っているんだろうなっていうね。
ちょっとヤバいですよね、そういう人ね。
なんか、
いろいろね、
なんかやられてるのかな、
ちょっとよく分かんない。
でもそういうのって思うんですけど、
その人がっていうのもありますけど、
その人も被害者みたいなのがあって、
多分ね、
分析としてね、
なんか、
自分がやられて、
自分もやったら攻撃されたから、
誰か攻撃してやろうっていう、
なんか、
すっげえ、
あんまりね、
格好良くないですよね。
心理とか思考パターンになっちゃったのかな、
とか思ったりしてます。
ちょっと雑然気味になるので、
今回はこれぐらいにして、
締めるとして、
今回ですね、
要はなんか、
辞めてもいいよねっていう話でした。
肩の力抜いて聞いてもらえたかもしれないです、
今回特に。
いつもゆるゆるですけど、
いつ辞めてもいいっていうか、
自分自身にね、
例えばゴールを掲げるじゃないですか、
なんかね、やって、
いや全然いいんだけど、
始めることと辞めることの自由
なんでそれやってんだろうねっていうのに
答えられます?っていうね、
やり続けなきゃいけないからっていう風に
言う人いると思うんですけど、
え、なんでそれやり続けるの?って言われた時に、
え、なんででしょうねって、
なりません?僕はなると思ってて、
特に個人ですよね、
会社とかでも怪しいですけど、
その人個人もしくは、
あなた自身ですよ、
って思ってて、
なんで生きるんですか?
ちょっと激しすぎるからやめといて、
じゃあなんでその仕事をするんですか?
なんでそのプロジェクトを活動するんですか?
なんでポランディアするんですか?
なんでそれをやるんですか?って
子供みたいに聞いてくださいと、
自分に問いかけてもらって、
なんでなんでなんでっていうね、
チャットGPTとか使ってですね、
なんでなんでって聞くようにさせてください。
できますからね。
質問してくださいって言われてやってくれますから。
で、なんで?って言った時に、
多分その理屈とかって正直どうでもよくて、
楽しいから面白いから好きだからっていうのは、
何かもっともらしいじゃないですか、感覚として。
でも感覚だから別に論理じゃないんですよね。
いや面白いと思ったからやってるんですけど、
文句あるんですか?っていう。
あ、ごめんなさいみたいな。
で、僕もその話で、
じゃあ誰かが何かやってる時に、
それが面白いんだわからんなっていうのは
めちゃくちゃあるわけですよ。
言ってないだけですよ、そんなのね。
でも別にじゃあやってるんだ、いいですねって言ってるだけで、
別に本当にその人の活動を私に分かるように説明しろとか、
私が面白いと思うように言えとかっていうのはおかしくないですか。
おかしいですよね。
絶対それはおかしい類だと思うんですけど。
指導をしてるとか教育してたら全然立場は別ですけど。
ごめんなさい、違いますけど。
だからその人が面白いとかっていうことは非常に大切なことなんじゃないか。
楽しいと思えることは非常に大切なことなんじゃないのか。
って言えるわけですよね。
なんかいい感じでまとめになりましたね。
で、楽しさの一部がある1ミリ、1ミクロン、1マイクロミリメートル、
1ナノメートル、分かりませんが、10億分の1。
それがあるならば大事にした方がいいんじゃないかなぐらいです。
だけどその楽しさの雫というか駆け集めても何かあんまりだったら
やらなくていいんじゃないかなというふうに思います。
少なくともリスナーのあなたが特に、
リスナーのあなたが特にでもないですけど、
1つお伝えしたいというか言いたいのは、
始めるということはやめられるということだし、
やめることができるということは始められるということ。
始まるとやめるというのが、
いろいろあっていいんじゃないかなというぐらいです。
少なくともやめていいよということと、
始めたかったら始めていいよという、
フラットな感じが伝わるといいんじゃないかなと思います。
やめることの大切さ
そうすることで続けなきゃいけないみたいなので、
圧がかかって、なんかやらないといけないみたいな、
圧がかかってなんかやらなきゃなというのが、
いいふうにやらなきゃいけないのが、
やりたいことなんだけどやるんでしょうぐらいの話だったらいいんですけど、
やりたくないんだけどやらなきゃいけないなっていうのは、
やめたほうがいいですね。
やめるというともう終わるという感じになりますけど、
SNSやめるとかもいいですけど、
休憩するというのもありますよね、お休みする。
でまあよくありますけどお休みして休憩して戻ってね 充電して戻ってくる可能性もありますが
で休むってことはもう続けられなくてパワーが充電しそれに対してできなかったりする こともありますけどねあります
では続けましょうがないかなと思いますというわけでまあ いずれもやめられるという話をしましたけどとりあえずあの
なんかね休んでないなとかいう人は休みましょう 休んでその記録の充実なやつですね
楽しさの重要性
なんかやりたいなこれやりたいなって思うものをぜひ 出会うことを楽しみにしながらいろいろやられると良くて
でそのいろいろやられるっていうかやる時に続けようとかあんまりそういう考えすぎずに その楽しいなぁとか面白いなぁっていうその感覚っていうのをね
を感じていただきたいですそれは人によって違いますけどね だけどその感覚は多分誰にでもあると思ってて僕はですよ
その感覚をあまり殺しすぎて効率だとか役に立つとか 儲かるとか得するとかばっかり考えていると本当に頭が本当に頭が欲しくなる
これは本当に頭が欲しいって言うんです つまんないですねロボみたいになるし合理的になるし
でそれであのそうそうそのベイビーステップという伝説漫画で言うがそれで面白いのって いうことになるんですよねって僕は思いますこれは僕の解釈です
楽しいってことに対してそこまでなんか言えないです大笠さんみたいに言えないですよ っていう人もいると思うんですけど
楽しさってでもそういう時に本当に大事だと思うんですよね本当に大事だと思います 本当にはい
楽しいことを100%心から楽しいことをする っていうことをやれとは全く言わないんですけど
その楽しさを感じてないな日々今日1日振り返ってみて楽しさを1ミリも感じなかったら そのね原稿ができないとかあのあったけど思い出せないとかもね
いや実際にあるんだけどやって楽しいんですよねっていうので言えないですとかでもはいい と思いますだけど振り返った時に何もなくてなんでやってんだろうね
っていうレベルだったらちょっと重症だかなと思います それぐらい楽しいことって
ものすごいことなんだなと改めてね話してて思いました なんであなたが面白い楽しいことをぜひやってください
それがですね 仕事を作りとか仕事繰りになるかっていうのは後付でいいので後なんですよ
あとアイデア出しでもそうですけどアイデアを出してそれがどうこうするのは後なんで 1回
楽しいことやって後で論理的に言うっていうのが一番いいと思います だろう論理とかロジックとかね合理をして全部指定してるわけじゃないですかね
バランスが悪すぎるって話ですね社会的にその そっちに寄りすぎてて
感覚 感性
ですね もっとやりましょうよね
出てった方がいいんじゃないかなっていう話となりますこれぐらいにしましょう はい今回は以上となりますシゴクリーラジオ大橋でした
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました以上失礼いたします
42:55

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