魂ポイントの重要性
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。今回のテーマは、自分ですね、自分の自らの魂ですね。
自分の魂ポイントを貯めると、それが大事じゃないか、若干自己啓発感もありますが、
特に何か作るとか創作する、まさにシゴクリもそうなんですが、その自分の魂ポイントを貯めようと、そんなことについて話していきたいと思います。今回もどうぞよろしくお願い致します。
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思いまして、自分の魂ポイントを貯めよう、貯めろ。
貯めろというとですね、ちょっと大げさですが、貯めると何が起きるかということですよね。貯めると結局ですね、創作とか遊び、もしくはシゴクリも入ってくるんですが、
仕事を作るということも増える、やれる気がします。結論的には。
あとですね、ここを知りたい方がいらっしゃると思うんですが、別に僕が答えを持っているとか正解でもないんですけど、
自分が面白いと、自分が魂を揺さぶられるよね、というようなことが、他人がですね、
面白いと思うのかというと、答えはイエスです。つまり、自分が面白いことをやると他人も面白がるということなんですよね。
これを原則を逆にする、要は他人が面白いことをやって、それが自分が面白がるというのもありなんですよね。
特に今、新社会人の方とか、もしくは転職の人はあまりないかもしれないですけど、
転職もあるのか、要は職場とか、自分の今までいなかった所属とか、新しい仕事みたいなものをやるとするじゃないですか。
勉強とか学問とかですね、学術とか、その作法みたいなのが違うから、ここでは違うんだなというやり方を変えようみたいな時があるじゃないですか。
という時に、他人というかその評価軸に合わせて動きますはありますよね。それがすごくわかります。
ただ、それもやっていって、自分が面白いなと思えるポイントがないと、つまらなくないですか。
これは僕の考え方ですけど、そういうのもあるんですが、基本的には自分が他人か、もしくは社会かということをしましょうか。
自分か社会か、もしくは社会か自分かという時に、社会から求められることをやって、それが自分がしっくりくるというパターンでもいいんですけど、でもいいと。
自分がしっくりくるから社会にも提供できる。これ順番はぶっちゃけどちらでもいいんですけど、僕は自分がいいなと思った方で社会的にいいなというふうにしたいと。
それは手順の違いなんで、レシピとかで手順を逆にするとよろしくないケースがあると。
だけど、最初に豚肉と玉ねぎを炒める時に、別に同時に炒めてもそこまでで、豚肉って言いましたけど、
厚切り肉とかだったらそれはダメかなと。肉を先にやってくださいということになりますけど、結構相対的なものになるかなというところがあります。
なので、今回結論に寄せてますが、自分が心から揺さぶられるようなことが自分の魂ポイントと言っているんですけど、それを溜めていくことが結局、
遊びや創作の維持に繋がっていくんじゃないのか。そのポイントが実はないと、
すいませんね、鼻声。
ライスワークとライフワーク
創作とか遊びとかできない、そんな話になります。
創作とか遊びだというと、仕事とかお金を稼ぐというのは関係ないと思う方がいらっしゃるかもしれませんが、
その考え方は、実はいい悪いを置いておいて、ライスワーク、ライフワークみたいな考え方があります。ライスとライフですね。
ライスワークというのは米じゃないけど、ご飯を食べるための仕事だと。なんでそういうふうに言っているか知りませんけどね。
ライフワークというのはお金とかご飯を食べるとか関係なく、生涯自分がやってきたような仕事。どちらかというと自己実現に近いようなものかもしれません。趣味性が高いと。
そういうライスワークとライフワークというものがあるときに、これが分けた方がいいか分けるなともいませんが、そういうふうに考えられる方も結構いらっしゃるんじゃないかなと。
創作遊びみたいなものをライフワークにしたいというのもわかるんですけど、実はどちらも重要で分ける必要もないのかなと。
これは余談ですが、ライフワークとライスワークって分けられる人の方が器用なのか、自分の人生に対してね。分けられない人の方が器用なのか、分けられないけど生きられる人の方が器用なのかは正直僕もわからないですね。
他人の芝は多いんじゃないんだけど、自分ができないことをやっている人を器用だと思うのかもしれません。それは余談ですね。
創作というものが遊びということなんですけど、僕の中では。遊びというものがどういう重要性になっていくかということなんですけど、結局自分の魂ポイントというのは何を追っているかというと、
自分が心から動くような感情でもいいし、感覚でもいいし、これは良かったなって心がまさに動くようなこと、もしくはやりたいと思うようなことですね。
この話をするとですね、そういったことがないから自分ダメなんだってもしかしたら思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そういう人を責めているわけでは全くなくてですね。
自己満足の追求
自分がやりたいレベルって人によるわけですよね。何となくこれがいいかなとかでもいいですし、こうしたら誰かに喜んで、ちょっと喜んでくれるとか、自分が嬉しいとかでもいいんですよね。
自分の魂みたいなものがあるとして、要は自分の魂というと大げさですけど、自分が心から動いてやりたいか、心が動くというとそれも大げさなのかもしれませんが、小さな感動、小さな優しさとかね、小さなエピソードみたいなものでも全然良くて、そういうものをしっかりと蓄えていきましょうみたいな話になります。
論理とか他人の評価力、物差しとかですね。それが自分の物差しで主観で自分がいいなと思ったことをやれているか、まさにそれが創作とか遊びに繋がってくるんじゃないのかなと思います。
常にですよ、常に自分、もしくは作ったものとかが、それは別に漫画とか文章とか写真とかイラストとか、何でもいいんですよ、実際プロダクトでもいいし、サービスでも全然、ウェブアプリとかの開発でもいいんですが、そういったものがですね、誰か、自分じゃない人に評価されなければそれは成り立たない、特にビジネスでは成り立たないのは明確だと思います。
ただ、他の人に成り立たせようとしてやるんだけど、多くのものというのは、これはしごくりラジオでも何度も言っているんですが、自分がいいなと思ったものが即評価されるということはまずないんですよね。むしろ多くはまず届かないのかな、届かないですね。
自分がやりましたというのは誰にも届かない、もしくは理解されないんじゃないかなと思います。それがすごい悲しいようなことが思うかもしれませんが、これがですね、やり続けられるというのは、さっき言った自分の心が動いていて、要は自分で、悪く言うか、自己満足という言葉を悪く使われがちなこともありますが、ここではすごいポジティブに捉えていて、自分が満足するレベルのことができるというか、
やっていますよということで、自分の魂ポイント、自分の感動ポイントと言ってもいいですが、が溜まっていくという感じですね。ポイントが溜まっていったときに、さっきもお話ししましたが、自分がどうか、人がどうか、もしかしたら他人の物差しじゃなくて、自分がどうかということで蓄えていくということになります。
じゃあですね、冒頭少しお話しした通りで、自分が面白い、自分が先に面白いと思ったことをやって、それを社会他人が評価してもらうのがいいか、他人社会がいいなと思っているものに対して、自分が面白いと思っていく方がいいか。
まあぶっちゃけどちらでもいいんですけど、僕の感覚ですよ。僕の感覚では、やっぱり創作とか遊びというのは、他人がどうといっても遅いというか、その人のためにやっているんじゃないよということになるかなと思います。これは別に決まっているわけじゃないですよ。
他人のこういうのがあったらいいよねというのを聞いて、自分で変換する、もしくは咀嚼して、紹介して、じゃあこういうのどうだろうかなと言ってやって、それで社会に評価されるというのもありますから、
どちらか、AかBかみたいな二言論的な二択で言いたいわけじゃなくて、パワーとして、これはすごい主観なんですけど、自分がどちらが心が動くかといったら、自分が面白いと思った方が力が出るという感じがしています。
リスナーのあなたがどちらのタイプかとか、どちらでもないのか、それともすごくどちらでもないんだけど、そういうのはないんだけど、どちらかと言えば自分かなとか、どちらかと言えば社会かなとか、それはわかりません。
多分、理屈っぽいというか、分類して分けて論理的に考えたい人って、ライスワークとかライフワークみたいな分類というのが結構好きなんじゃないかなと思います。
だから別にそれを悪く言うわけじゃないんですけど、そこで失われるものというのが、実は論理的に分けると失われるものというのがあると思ってまして、それが今言っている主観のまさに見えない、いわゆる定量的じゃないやつですね、定性的な自分がこれ面白いと思っているという方向というのはまさに出てこないんですよね。
ライスワークの方が面白いよという人も全然いると思いますし、別にいいじゃないですか、お金を稼いでやる方が面白いという人もいてもいいと思いますし、別に今創作の話をしているからライフワークよりに載せたいというわけでも全然なくてですね、別にどちらでもいいかなという感じがします。
唯一、ライスワークよりでもライフワークよりでもいいんですけど、どちらかに寄っているかなぐらいの一瞬認識というのが客観的に何か見える、すごく客観的に見なくていいんですけど、認識できる、どちらかに偏っているかもなぐらいのジャブというか、軽い認識があったほうが僕はおすすめかなと思います。
次に、そういうポイントを溜めていったときに、順番としては自分が面白いということをやっていったほうがいいかなということで、自己満足じゃないけど、自分のまずいいところを見つけて、小さなチャレンジじゃないけど成功していくというほうが僕はいいかなと思います。
でないと、他人のもの差しに合わせていった場合に、結局それが評価されるまでいったとしてもいくまでが大変ですし、まずその道のりが非常に面白くないんじゃないのかなと思います。
例えば僕がイラストを描こうとしていて、このイラストできたよといったときに、自分なりに上手くいったなというのがないと続かないと思いませんか。
リスナーのあなたもどうですか。何かを学習するでもいいし、要は新しいことをやるということですね。何かチャレンジするときに続きますかという話なんですよね。
多分続かないと思うんですよね。自分がやって上手くなったみたいなのとか、面白いなって思うのがないと。
そのために、じゃあその典型的な失敗例というと、怒られるかもしれませんが、例えば資格ですよね。何かこの資格を取るとまさに儲かる、仕事になるですよね。
儲かるとは言わないかな。仕事になるみたいな。仕事になる、もっとかもしれない。それぐらいですかね。仕事になるかもしれないみたいな資格があって、それは自分の中ではほとんどなくて、
でもそういう資格を取ったら仕事になるかもしれない。その資格、ビジネスみたいなのもありますから、ぜひ置いておいてあるわけですから。
で、それに対して、やっぱりですね、リスナーのあなたがそういう経験があるかどうかはわかりませんが、その資格にとってやれば仕事になると思って、その方が受講するなり勉強するというわけですよね。
それは何ですかって話なんですけど、まさに自分がやりたいって思っていることではない。その人は多分お金が欲しかったり仕事が欲しいだけであって、
その何か、もうぼかしてますが、その何かXかわかりませんが、何かをやりたいというわけじゃないんですよね。
それが例えばイラスト講座みたいなのがあって、世の中のイラスト講座を否定しているわけじゃないんですが、本当にイラストがうまくなりたい人が別のやるなら全然いいと思いますが、
どちらかというと、今言っているのはイラスト講座というよりも仕事を得られるイラスト講座みたいな、仕事に寄せたりお金が得られるよみたいなことを暗に示す、暗示する、もしくは匂わせるというわけですね。
暗に示すということですね。ほのめかすということです。ほのめかしているというような講座のことですね。そこだけはお間違いない。純粋にイラストがうまくなりたいというようなものもありますが、
そこで仕事だとかプロになれるとかを入れていくと、だんだん怪しくなっていくわけですよね。全部が怪しいわけじゃないですよね。
魂ポイントの重要性
そこは見極めになりますが、そういうのを学ぶ人が全員悪いとかそういうことじゃないんですけど、その人がやりたいと思ってやっているのであればあまりどうもないんですけど、
その人がやりたいんじゃなくて、自分がどうこうじゃなくて、他人ですよね。主催者側が教師とかそういうことをやっている人が仕事になります、プロになりますということを言っていて、
そういうことを言っているので、それでお金が稼げると思うと言っているから、それに合わせていくわけですよね。そういったことが全部100%、すなわちダメとか役に立たないということは全く思わないですし、
それによって自ら開発というか見つけてやられる方もいらっしゃるから、別にそこに対して何か絶対ダメだということはないんですけど、
多くは、確率的に8割9割ぐらいですか、僕の感覚では。うまくいかないというか、自分のやりたいこととかということには繋がらないし、当然仕事にもしづらいわけですよね。
で、なんでそういうのって仕事にしづらいとかお金に稼げないかと言ったら、ものすごいシンプルで、それしか別にやりたいと思っていないわけですよね。
って思いませんか。だから僕は、人が、社会が求められることをやるというのは、すごいかっこいいと思うんですよ。言葉としてね。
でも、そんなことないんじゃないかなというふうに思ってまして、自分が好きとか、自分が得意はわかんないですけど、自分がやれるからとか、自分だったらこれをうまくいかせるんじゃないかな、もしくは自分がやりたいんだと。
で、思う熱量は様々です。やりたいレベルも毎日やりたいから1年に1回でもいいっていろいろあるじゃないですか。
なんで、いう話になってくるんですよね。自分が、もっと言えば、渋谷というか濃い話をすれば毎日やっても飽きないか、もしくは24時間やっても飽きないか。
飽きるんですけど、置いておいて、かなりの濃さ、自分の中の最も濃いみたいな部分でやりたいところは何なのかなということをやらないと、結局ですよ。
結局、さっきの仕事になりますイラスト講座資格みたいな話でいけば、次の第2、第3のまたそれを探すとなる。
それは、自分がやりたいと思ってやっているということがなかったら、また同じことを繰り返すわけです。
そういう方は、もしかしたら自分がやりたいことがわからないから、いろいろ探ってやっているということかもしれないんですけど、それはそれで全然いいかなと思います。
ただ、仕事になるとかお金になるみたいなものっていうのを、そういう評価があるから、もし選んでいるのであれば。
それは僕から言うと、やめといてはいいんじゃないかなと思います。
純粋にこういうことを言うと、スピリチュアルというか気持ち悪いかもしれませんが、心が自分が動いて、これは面白いと思えること、もしくはそちらの方が面白いのでやるということを一度でもいいからやってみると、
創作するというか、遊ぶとか面白さというのが何か見えてくるんじゃないかぐらいは言えますが、
これも創作とか遊びとかにおいて、必ずうまくいくやり方を教えてくださいとか、こうすれば遊びって面白いんですよねってわかるやり方を教えてくださいみたいなのはないというか、
それはちょっと疑問というか、そんなんないんですよね。
人によって遊びって違いますからね。
ただそこらへんを言語化していくと、やっぱり自分が心で動いて、魂ですね。魂的に動いて、魂もあんまり言うと気持ち悪くなってくるから、あんまりやめたほうがいいかもしれないですけど使っておいてね。
自分が心が動いていくものをどんどん貯めていくこと、それが創作の土台じゃないんだけど、遊びですね、土台になっていって揺るがないものになっていくんじゃないのかなと思ったりしています。
他人の期待と遊び
万人に言えることじゃないかもしれませんが、僕の感覚では他人が社会があって求められることももちろん仕事においては大事なんですが、
じゃあわかりやすいかもしれません。もしかしたらこちらがわかりやすいかもしれませんが、そういう他人に求められることをやり続けていくとどうなると思います?
リスターのあなたはどうお考えですか?
一つあるのが、AIじゃないんだけど、他人が求めることをやるので自分がやりたいことは関係ないじゃないですか。
じゃあ他人が次もやりたいことが求められるからやります。そうすると今度は他人が求められることがないと動けなくなるんです。
ちょっとこれ怖くないですか?怖くない。怖くなかったらもうそれでOKです。
付き合いしてるわけじゃなくて怖くないんだったらそれでいいんだと思います。僕は結構怖いなと思ってまして、
要は人が求められていることをやると確かにそこは成り立つんです。でもそれって自分じゃなくないですか?
これは例えば小学校とかの遊びみたいなところで、今小学生がこれは聞いてるわけじゃないと思うんで親御さんとか聞いてるかもしれませんが、
その小学生とかの遊びっていうことで僕の感覚でいうと、当時懐かしいところでファミコンとかスーパーファミコンがありました。
今だったらスイッチとかで、スイッチはあるのかわかりませんが、スイッチ2とプレステ5みたいになってて、
プレステ5はなかなか買えない。高いですよね。小学生は買えないけど、親が持っていてやっていると。
友情と面白さ
ある友達はプレステ5を持っている。友達が持っているわけじゃなくて友達の親が買っているんですが、プレステ5を持っているところのプレステをやりたいので遊びに行くと。
その友達ですよね。プレステ5を持っている友達としましょう。その友達と遊びたいわけじゃないんだけどプレステ5をやりたいから行くんですよね。
そのプレステ5を持っている友達も自分と遊んでいてもそんなに面白くないんだけどプレステ5があるから行くんです。
プレステ5があるから来てくれる。そういうのってないです。純粋に。なんか面白いものを持っているから行くっていうね。
分かります?それはあるんです。でも僕が当時ファミコンとかスーパーファミコンとかっていうものがあって、スーパーファミコンを持っている友達で全然仲良くなかったんですけど、
見たいというか遊びたいからたまたま友達との関係で行って見てて面白かったですけど、まあ面白くないですよね。
要はすごい魅力的なゲーム機があって、それはそれで魅力があるんだけど、今だったらビジョンプロでしたっけ?アップルのやつとか。
最近見てないから名前忘れましたけど間違ってたらごめんなさい。なんか魅力的なね。昔で言えばマッキントッシュですよね。
Windowsがまだない頃ですか?終わりませんが。マウスとかGUIみたいなものが出てきた時って言ってもいいかもしれませんが、
すごい魅力的な道具とかツールがあって、それを持っているのでその人と遊びたいみたいな。
なんかそれってインフルエンサーとか有名人とかもそうで、まさにそれは広告なんで、えぐいと思われるかもしれませんがまさにそういう世界ですよね。
その人が有名だしそのフォロワーが多くて影響力あるからその人とやりたいのであって、その人の魅力なんかどうでもいいやって言う人もいるわけですよね。
広告としたらね。でもそういうのって面白くないですよね。魅力が活かされてないから、多分なんか宣伝させられてるのかなみたいな感じになるから、
まあ良くないとは思いますよね。まあそこは置いておきましょう。で、一方でファミコンとかスイッチ2でも良くないかもしれないですけど、
当時はファミコンとかスーパーファミコンというね、若い方はちょっとご存じないかもしれませんが、ファミコンとスーパーファミコンと比べたらものすごい進化してたわけですよね。
で、ファミコンで遊ぶと。もしくはファミコンじゃないもので遊ぶ友達の方が面白かったりすると。
なんでかというと、魅力的なゲーム機はないんだけど、その友達と遊んでるのが面白かったと。
まあ友達と遊ぶって言っても色々あるわけなんで、その時々話して遊ぶと。
遊びって何かって言ったら、僕はですね、魅力的なゲーム機で遊ぶことではないと思うんですね。
この場合ね、魅力的なゲーム機を否定してるわけじゃないですよ。それは誤解しないでくださいね。
家庭用ゲーム機って面白いものがいっぱいありますから、それは否定してるわけじゃないんですが、
この場合にプレステ5とスイッチ2とかスーパーファミコンとファミコンみたいな話して、
要は魅力的なゲーム機があるからその友達と一緒にいて遊ぶっていうのは正直面白くないんですよ。
何もないけど、そいつと話してて面白いとか、なんかやろっかって、もしくは話してるだけで面白かったりするみたいなね。
のがあるから面白いですよね。
で、僕は思ってますがリスナーのあなたはいかがですか。
ここでさっきのイラストのイラスト仕事できます講座みたいなことを言えば、
シンプルにそこを選ぶ人はプレステ5のような面白いゲーム機を探してるんじゃないかなと思います。
そのゲーム機を手に入れたら自分は人気者になれると。それは分かるんですよ。
お金を持ってたりとか、裕福なお家だったらいっぱいゲーム機があったりしてないですか。
年が当てたらプレステ買うし、新しいゲーム機が出たら買うし、
なんで買うのかって言ったら友達が来てくれるんですよね。
その話聞くとなんか切ないとか悲しいともしかしたら思う方がいらっしゃるかもしれませんが、
その子にとっては多分必死で自分が少しでもその友達に来てもらって遊んでもらいたいっていうのがあるからやるんじゃないのかなと思います。
実際に別にお金があり余ってるわけじゃないかもしれないけど、
お子様に対して親が買って与えてそれで友達が来てくれるというような循環。
もしくはそれを買ってくれることをお願いしてくれるから、
じゃあしょうがないか買うかってことになって、その子が喜んでるから与えてるんだと思いますよ。
教育がどうこうまでは僕はもちろん言う権利はありませんが、
そこには何が残るかというと正直よくわかんないわけですよね。
つまりそこに何かここで話を戻しますと、
他人の物差しとか他人軸っていうのはまさに今のゲーム機の話で、
道具があるから面白いよねっていう。
道具は否定しないですよ。
ここで遊ぶっていう時には道具はたぶんいらなくて、
ないところで一緒に遊んで何かどう楽しもうっていうことを言えればよかったんですけど、
その発想がないのがそもそも、
例えばそれも同じファミコンとかでゲーム機であっても、
こいつと一緒にゲームやっても面白いんだけど、
こいつとやると面白くないっていうのがあるわけです。
例えばこれはもはやちょっと今の小学生事情わかりませんが、
スイッチであろうが何かゲームをすると。
ゲームをするってことは一緒にこうやり取りしたり対戦したり、
何かやるから面白いんじゃないですか。
遊ぶって時間っていうのが作れるってことは、
そこで何かやり取りするから面白いわけですよね。
って僕は思ってますよ。
そうじゃない人はいらっしゃるかもしれません。
その時になぜかドラゴンクエストのようなロールプレイングゲームですね。
要は一人でやらずに対戦とか二人以上でやるんじゃなくて、
一人がやっててそれを見るっていうようなものがあったりするかもしれないです。
これは僕当時何かゲームか何か一人プレイするようなゲームを見てるみたいなのがあったりして、
そういうことをやると何この遊びつまんないねってなって、
自分でやりたいなら自分で一人でやればいいじゃんみたいになって、
遊ばないですよねそういう友達と。
友達っていろんな人がいて一回遊ぶんだけど、
特に学校そうじゃないですか。
僕はそういう記憶があるんですけど、
遊んでみて全然何か合わないなと思ったら遊ばなくなってきませんか。
もしくは声をかけたりなんかするんだけど、
相対的に会話とかやり取りする。
もしくは遊ぶっていうのはかなり密なことなんで、
放課後か。
遊ぶっていうことってなかなかないんですよね。
だからその直後に遊ぶって言ってる話をずっとしてますけど、
これはまさに今の何か創作するとか遊ぶっていうものと全く一緒でして、
原理的にね。原始的にも原理的にも一緒で。
そこが非常にポイントになってくるんじゃないかなと思いました。
すみませんもうだいぶ話がそれたようですけど、
話戻すと今の話ではゲーム機っていうので、
自分の魅力を高める遊び
他人の物差しというよりも何かツールとか自分にないものを使うことで、
魅力を高めようとしているってやつです。
でもそれは自分の魅力が高まってないんじゃないですかっていうのが一応ツッコミなんです。
僕の中の遊びっていうのは自分の魅力ってことですね。
まさに自分の創作とか自分が遊びをとして生み出す。
もしくは誰かと一緒に生み出すってことが、それは道具なくないですか。
もちろんこういう遊びを聞いたからやってみようっていうのもいいんですけど、
それは聞いたものを自分たちで少なくとも創作して考えてやるから、
新しいゲームとか遊びが生まれるわけですよね。
わかりますか、その辺り。
それをゲーム機持ってきて、ゲーム機をやるからこのゲームでやると面白いっていうのをやる。
確かにゲーム機を持っている友達のうちに行って、
新しいゲーム機を持っている友達のうちに行ってやると。
そこでポイントは1回2回面白いんです。
僕も面白いんです。1回2回面白いんです。
でも飽きるんですよ。
ただ企画力って言ったら怒られますが、小学生に対してね。
それをただやってるだけなんですよね。
やってるだけだし、やれるっていうことがすごく、
例えばみんな来ててやるからなかなか順番が回ってこないとかね。
それだったら自分が動かせて、気使わずにやれた方がいいし、
どうしたの?みたいになっていくんですよね。
で、あります。
だから自分が作り出せて、これがいいよねっていうことが、
まさに創作とか遊びなんじゃないかな。
そこにそっと仕事クリエイト、仕事クリを入れていきたいという感覚であります。
またくどいんですが、何度も言ってますが、
自分が面白いと思ったもの、自分が面白いと思った創作、遊び、仕事作りの仕事ですよね。
あったらいいんじゃないかっていうね。
例えば釣具があって、釣竿があって、それを磨くっていう仕事が、
自分は面白いと思うし、あったらいいなと思ったとするじゃないですか。
それわかんないですよ。ニーズとかね。わかんないです。
で、それだったらやってみたらいいんですよ。
少なくとも。調べてもいいし、やってみたらいいっていう方向性として。
で、仮にその釣竿を磨くっていうことがめちゃくちゃ面白いとするじゃないですか。
だったらやればいいわけですね。
その時に、じゃあ他人が、社会がそれを欲するのかっていうニーズとか需要っていうのは、
大幅さんどこで見極めるんですかとか、もしかしたらそんなこと言う人がいるかもしれませんが、
そんなんわかんないです。わかんないんだけど、
少なくとも自分が面白いなと動かされるってことは、人間ですから。
自信を持っていただいて、自分は人間なんだと。
日本社会に生きた日本人ってことが多い方が多いんですけど、
人間だしと、人なんだと。
It's a human じゃないんですけど、
自分が自信を持ってというか、人なんだよと。
だったら誰か一人ぐらいには共有できたりするかもしれないなっていうわけですね。
ここでですね、別にテクニカルなことじゃないんですけど、
じゃあ釣竿磨くって何があるかなっていったときに、
例えば博物館とかでピカピカに展示するとか、美術館でもいいかもしれないですけど、
釣竿を展示するとか、そういうややマニアックなニッチなものがもしかしたらあるかもしれません。
僕は知らないですよ。
ただ確実に言えるのは釣具メーカーとか、島野とかそうですよね。
そういった企業とかが自社のショールームとかに展示してたりするから、
そこで多分磨いてるような気がするんですよね。
もしくは磨いたものを展示する。
いわゆる学芸員とは言わないけど、自社のショールームですよね。
自社の商品の歴史を語るようなものってあったりしますよね。
多くて企業になってくると。
そういったところがもしかしたらあるかもしれませんよね。
だから別にその磨いたもので確実に仕事にしようというわけではないですけど、
仮にそういうのがあったときに、やっぱり磨くの面白いなと思ったら磨いたらいいんですよ。
磨いていって、それで自分は飽きないなとか面白いなと思ってるのに、
他の人はなんで面白くないんだろうなぐらいのスタンスでいて、
じゃあさすがにツリー具磨いていってもなかなか見えないから、
じゃあ他の磨くことをやるのか、ツリー具じゃないものを磨くのか、
磨くというものが結局何になっていくのかなということで、
少しずつずらしていったり、
遊びのスキルというか、スキルというのもちょっと大げさですけど、
遊びをどんどん開拓して土台を広げていくという感覚があります。
そうすると、これはもうきっとという言葉になってしまうんですけど、
社会や人が物差しとしていいなって思うのが、そこから見つけていけばいいという感じなんですよね。
これが逆で、要は社会とか人の物差しベースでいくと、
さっきのゲーム機で友達を呼ぶみたいなことになっていて、
それは絶対悪とは言いませんが、
それによって友達が来て話ができて友達ができるケースもありますよね。
だからツール的な意味での人の物差しとか道具を使うとか、
他人の物差しありきということを全く否定はしないんですけど、
でもそれが一ついいふうに形になるのは必ずですよ。
必ず例えばプレステを出して、
友達が来て、それで話したら実は面白いやつだったんだなということを、
実はそれってプレステをやっているときに見つけるよりも、
プレステをやっていないときに話したときの話で一緒に意気投合するとか、
そんなような気がするんですよね。
僕の感覚ではそんな感じなんですけど、
そういったときにプレステじゃない、ゲーム機じゃないところで話をしたのは、
その人だったりするからプレステを持っている子じゃなくて、
実は面白いよねっていう子になるというのがポイントなんだろうなと思います。
戻されるのでその人にフォーカスが上がると、
そいつは面白いやつなんだなというふうになっていくと。
まさにそれが人間関係の構築とか友達の作り方の話をしたいわけではないんですけど、
自分のほうに矢印が向いていて自分が満足するとか、
自分がやりたいなと思うのの一つの型みたいな、もしくは手続きというか、
そんなことを今話してみたという感じになります。
創作活動の意義
ここで自分がやっていることが認められなくて孤独ですわみたいな人ももしかしたらいるかもしれません。
例えば小説家を目指す人だったら、いわゆる新人賞みたいなことを目指すので、
その新人賞を取れるまでが勝負だし、それを取ろうとしたんだけど無理だったということで、
明らかに見極めるということで辞める方も大勢いらっしゃると思うし、
誰もが誰しも新人賞を取れるわけじゃないのは明らかじゃないですか。
ここで問いたいのは新人賞を取らなかったら創作とか文章を作るということをやっちゃいけないかといったら、
そんなことないじゃないですか。
僕はここで思うのは、もしそこで新人賞を取れなくて、もしくは作家になれなくて、
新人賞を取って作家になるということはなくても違うルートはないのか、
もしくはそれこそライスワークというものをやりながらもライフワークとしてやり続けることで、
その人が満足して創作活動を続けられるなら、それは僕は幸せなことだと思うんですよ。
って思うんですよね。本当に思います。
そこにみんなが一部のポイントで、
作家になってそれを本業みたいな、作家でも本業じゃない人もいっぱいいるから、
専業じゃなくて副業としてやる方に学んで、その本業説もちょっと怪しいんですね。
まずね、それを専業でやってるからいいっていうのは僕は怪しいと思ってますね。
怪しいっていうのは、それだけじゃないと仕事っていうふうに言っちゃいけないっていうのは、
もしくは小説家に名乗っちゃいけないっていうのもちょっと窮屈なのかなって思います。
最近は変わってきてますよね。
一方で、ライスワークとして別の仕事をしながら、
別の仕事をしながら小説を書き続ける。
でもそれは別に文学賞とか取ったわけでもないし、
社会的に認められたっていうことは言えないんだけど、
でもそれをやり続けてやってることで、その人は創作をしてるし、
表現をしてるし、遊びというかね。
やってるんで、それいいじゃないですか。
言えない人がいると思うんです。
もしくはリスナーのあなたもしかしたら言えないのかもしれませんが、
その言える言えないって何かっていうと、
まさに今回のポイントである自分が満足してやってるか、
もしくは自分に矢印を向けて自分がこれでいいっていうのは良くないんですけど、
自己満足でいいっていうわけじゃなくて、
自分がその創作をしてこういう物語を作っていいよねと思っているかどうか
っていうところですよね。
その出し具合ですよ結局。
その新人賞を取るっていうところが、
ダメだからダメっていうわけじゃなくて、
でもその物語を読んで誰か喜んだりほっとする人がいるかもしれませんよね。
少なくとも自分が面白いと思ったならいいと。
まずね。
それでそれこそ趣味性が高いと思われるかもしれませんが、
毎日生きていく上で自分の物語を書いていくことが
自分の中ではすごく癒やしというかね、
元気になってくるエネルギー活気ですよね。
が満ちるみたいなことがあればそれはすごくいいことじゃないですか。
っていうことが他の人にも言える可能性はやっぱりあるわけで、
それはどういう風に出すか、もしくは見られるかっていうところになってくるんで、
それは次のステップなんだろうなと思います。
少なくともその人にとっては新人賞とかそういう分かりやすいものは少し違ってて、
もうちょっと違うものがもしかしたらあるかもしれない。
そこですぐSNSとかって言いがちですけど、
SNSじゃなくてもいいけど、
同人誌として出してもいいし、
家族だけに公表してもいいし、
やり方いっぱいあるわけですよね。
そこがアイディアなんで、
今ある考えられないから既存のルートでやってダメだからもう全部終わりだみたいなのは、
他者との関係性の構築
諦めるのが早すぎるという感じですよね。
ここでさっき言ったように、
人のために評価されるためにやっている人であれば、
すなわちすぐできないし結果が出ないから諦めてしまうと思うんですよね。
諦めるというかやれないと思うんですよ。続けられない。
けど自分が満足していたり、自分の方にやり方が向いてて、
自分はこういう風に表現して、少しでも自分もだし、
他の人もいい風になっていってもらいたいみたいな感覚があれば、
それ続くじゃないですか。
だから結局ですね、自分の創作とか遊びとかっていうところは、
自分が面白いと思っていること、
その心から面白いと思うということが、
どの程度割合としてあるかということですよね。
たぶん100%はごめんなさい、
そこでお母さんそれ全部100%なんですかって言うんですけど、
言われるかもしれませんが聞いている方。
いやそれはないですね。
100%はさすがにないんじゃないかなと思います。
100%だと本当に自分が満足するものなので、
言語とか記述とか表現が変わってきていて、
もう自分のためのものっていうだけになっちゃいますよね。
さすがにそれは他人から見てとか、誰かに見てってことが全くないと、
それはさすがに自己満足が過ぎるかもしれませんね。
でも創作とか遊びって別に誰かのためにやらなかったら、
自分のためにでいいわけですよね。
それをもしかしたら他の人が見出せるようにしとく必要はありますよね。
種まきみたいなのが必要はありますが、
そこからその人が見出してくれる可能性もないわけじゃない。
むしろそれがあるから、
魂ポイントの重要性
創作とか遊びが面白いんじゃないかなっていうふうに思ったりします。
それこそまさに自分がそこまで気負って書いたわけじゃないんだけど、
誰かに評価された、思わない評価をされた、
一人でいいんですよね。
一人のコメントとか、一人のいいねをもらって、
それですごくやる気が出たみたいな話につながっていくんじゃないかなと思います。
ちょっと長く言われましたが、
今回は自分の魂ポイントを貯める。
それによって遊び、そのポイントを貯めていくことで、
ポイントは見えないですよ。
何も見えないし、どこかでピッてあって何か買えるわけでもないですよ。
なんだけど、創作ポイントとか遊びポイントが貯まっていくと、
自分も満たされるし、
それがエネルギーになって活気となって、
他人とか他者とかに対して投げられるというような、
ベースというか土台を作ることができるんじゃないかなと、
僕は考えています。
逆に言うと、
他人のためにとか、
他人の魂ポイントのためにみたいな、
他人のためにっていうのは、
社会のためにって美しいようですし、
僕も別に社会のためにって言葉を言うんですけど、
それは最初の順番として、
社会は他人のために生きているってことはなくて、
まず自分があって、
自分が満足したり、
自分はこういうふうに考えているんだけどねっていうことがあって、
その上で社会がある。
相互性だから、どちらかというのは若干ナンセンスなのかもしれませんが、
やはり感覚としては自分がどうってことの方が早いと思いませんか。
自分が面白いと思ったもの、
見て面白いと思ったものじゃなくて、
社会や他人が見て面白いと思ったものってずれませんか。
同じものを見ててね。
これは他の人が見て面白いんだよなってことを想像しながらってことはやっぱり遠回りですよね。
ただスピード感の問題だったかもしれないですね。
スピードが自分が見て処理することが早い。
他人がどうこうっていうのは若干それに関しては遅い。
それを他人軸ばかりやるともたついて、
結局自分のポイントというか活気というかエネルギーが満ち足りていかないので、
他人のことを満足させて満ち足りるっていう人ももちろんいると思うし、
僕ももちろん仕事においては、
他人を依頼者の人を満足させることで満ち足りるっていうのはわかるんです。
でも多分それはその成分だけではやっぱり創作とか遊びみたいな部分って
やっぱり足りないんじゃないかなっていうふうに思ってまして、
ここがわかりづらくなるのは特に仕事においてクリエイティブなものが入ってくると
ごちゃごちゃになりますよねっていう感じがしています。
このあたりですね、まだまだ言語が足りていないところですが、
今思ったことを話してみました。
今回は以上となります。
中国理ラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上失礼いたします。