貢献の重要性
はい、シゴクリラジオ大橋です。よろしくお願いいたします。このシゴクリラジオは、パーソナリティである私、仕事クリエイター大橋が、仕事づくりに関して話をしていく番組となっています。よろしくお願いします。今回テーマですね。
評価じゃないんですけど、認められること、自分が認められること、あと、これは自分の話、自分の矢印を見ていますが、後、貢献したいというか、自分がやりたくなるということですよね。
その人とか、そういう場とか、団体企業でも仕事でもいいですが、特定の人でもいいですけど、貢献したいな、この人のために何かしたいなって思えること。
両方、貢献したら返ってくるし、自分の認められることで相手に貢献することもあるじゃないですか。総合作用でね。そういうのが大事じゃないですかねって、気づきなり、精神面というか内省的な話になりますが、そんな話を今回はしていきたいと思います。
ご興味あれば聞いてみてください。今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、中国リーダージョー大橋です。今回はですね、ちょっと短めにいきたいと思います。
前回お話しした部分が若干、かぶっている気がしますが、やるとかやらないとかって話もずっとしてますけど、今回はですね、まずですね、貢献したいかみたいな話です。
貢献というとですね、社会貢献とか人への貢献とか、ボランティア活動をして地域に貢献とか、ふるさと、地元に戻って地元のためにとか、そういう感じっていうんですか、雰囲気があるかもしれないですよね。
どうですか。リスナーのあなたはどうですか。そういう感じじゃなくてですね、もっと絞り込んでまして、例えば、いいか悪いか分かりませんが、大統計と言われている、ジャグリングというんですか、物というか、お手玉みたいなものを投げたりとか、
キャタツじゃないけど、上で逆立ちしたりとか、あと、別に演奏でもいいですけど、ギターとか楽器で何か動いたり、パントバイムですか、パントバイムあってます?動いたりね、体を使って動かしてロボットみたいな動きするとか、そういうのでもいいんですけど、そういうのを見てどう思いますかって話で、
いろいろな芸というかがあって、見た時に応援したいとか応援したくないとかってないですか。その時に、後見とはちょっと違うんだけど、応援したくなる人を応援しませんっていう。
言語化は知らないんですけど、見ていいなって思って応援する。何か頑張っているから応援する。でも何か頑張っているようだけど、実は何かわざとやってたっていうね。わざとっていうのはちょっと良くないですけど。
賞としてどこまでいるかもありますが、そういうところがあると。応援というか後見ですよね。後見という意味でいくと、仕事とかじゃないのがいいと思うんですけど、
例えば道案内とかね。そういうことになるんですけど、言われてお金なんかもらわないわけじゃないですか。多分社会通年状、日本ではと思いますが。道案内したらお金もらったってあんまない。
符号だったら知らないですけど。要は気持ちってことでありがとうございますとか言われるとは思いますが、案内したので。だけど案内している、例えば僕が案内したらありがとうと言われたいからやっているかというと、ちょっとわかんないわけですよね。
ありがとうと言われたいなら、言われたいがためにやるのって、いいかどうかがわかんないですよね。前悪じゃないんですけど、そういう部分もあるんだろうなと。
でも、その人にお手伝いしたいとか、応援というか道案内、もしくはその人に尽くすと言うとちょっと言い過ぎですけど、道案内ということをやりますよというのがある種の貢献だと思うし、それを求められて、わからないでというときにこうしませんかというのが、
一般的にそれは優しさとか丁寧さとか心の余裕みたいなことを言うと思うんですけど、間違ってるかもしれませんけど、それだけじゃないんじゃないかなっていうのを持ってて、
要はその道案内してくださいという人と対峙というか面と向かって話したときに、別にいいですよという人とちょっと嫌だわみたいなのが分かれるわけです。
って思うんですけど、道案内の例で言ってるから、道案内の具体の話を想像してくださいということではないんですけど、そういうケースもあれば、相談を受けて、その人のために課題解決じゃないけど、2つありますよね。
課題解決、相談しているのは話を聞いてほしいという共感なのか、本当にその課題を解決するアイディアとかアドバイスが欲しいのか、これでよく揉めたりすると思うんですが、それって別にどっちかに決まらないじゃないですか。
話を聞いてほしいという部分があって、解決しようかというところでも話を聞いてくれて楽になったというのはあるわけで、と思うんですけどね。どっちかって決めてやってるわけじゃないですよね。
言い方とかもあるんじゃないですか。アドバイスを求めてないんだよねっていうところですごいアドバイスしてきて、それじゃダメだよみたいなダメ出しだけされて、そんな求めてないんだよなとか、逆もありますよね。
話を聞いてほしいとかじゃなくて、具体的なのが欲しいんだけど、なんか大変だよねとか、うんうんみたいな話を聞いてくれたっていうところに立ち寄ってしまうと、アドバイス具体的なものはないよねってことで、ミスマッチですよね。
そういう状態で相談っていうのがあったときに、その人をどうにかしたいというか、こちらもなんかやりたいですってなるのかな、ならないのかなって話なんですよ。
これは大前提というか、ここからだいぶ変わってくるんですけど、仕事でも仕事じゃなくても、ある程度この人に何かやりたいなっていうのがないと、やる気というかそれでいいの?って思うわけですよ。
つまりお金がもらえるからそんな関係ないですっていう人がもしかしたらいらっしゃるかもしれないし、別にそういう考えを否定してるわけじゃないんだけど、僕に関して言えば、なるべくその人のためにやりたいですっていう人にお客さんなり、一緒に仕事する同僚とかでも何でもいいんですけど、上司でもチームでもクライアントでも何でもいいんですけど、そういう人とやりたいですよねっていうのがまずあるんです。
だから逆に言うと、このやってても何か貢献してないのとか別にどうでもいいよねっていうのって極力避けたいというかやりたくないわけです。
もちろんこのやってることが意味があるのかねっていうものも無数にあるわけなんで、それを避けても意味がない。だけど少なくとも目の前の人とかその人の感覚から何かやってもいいですよっていうふうに言っていって、なるべくその人がいいふうになるようにしたいと前提ですよ、僕の。
では願うわけです。できることは限られるけどねっていう。そのまず認識があるんですね。ちょっと長くなりましたけど、貢献っていうのはそういう何だろうな、端的に言えば目の前の人に役立ちたいねっていうような、なんか姿勢なり気持ちなり、教授って言うとちょっと違うんですけどプライドですね。
自負とか、そうしていきたいですっていう感覚です。初対面の人だろうが、親しい友人だろうが、っていうのはあります。
ただちょっとよくわかんないとか、なんだろうこの人みたいな迷惑メールとかスパムとか悪そうな人とかはさすがにね、弾くっていう。そんなふうにですね、ざっくり人は生きてるんじゃないかなって勝手に思ってます。僕はそう思ってやってる。だからその前提の部分は違ってくるのもあるんで。
解像度と言いますか、世界の見方はね、その人それぞれ違うんで、皆さんあなた一人一人がご自身が全然違うっていうふうに生きてるっていうのももちろん想定していますので、絶対こうじゃないですよね。だけど僕はですよ、そう考えてるんだという話ですね。
そういう時に自分が認められることっていうのがあったりすると、でなかったりするというか、貢献というのもそこから話をつないでいくんですけど、自分が誰かに貢献する何かの人に役立てたいみたいなことっていうのは、地域や社会だとちょっとフワッとするんで、特定の組織の人とか、もしくは応援したいその人っていうのが、例えば大道芸で応援という意味でお金を出すとかもあるし、頑張ってくださいっていう。
道案内と相談の意義
お金を本当に出さなくても良かったですよ、頑張ってくださいっていうのも嬉しいわけですよ、多分。それはお金もらえた方が嬉しいから、100円でも入れておくべきだと思います。別に学生さんだったらお金ないからとかもあると思いますけど、そういう時に金銭金額じゃないよねとは思います。
それで芸で身を立てる人にとってはお金が欲しいとはあるんで、それは金額に応じて嬉しさはあるけど、でもそこでありがとうって言われてることに対して価値の増減は、お金という金額は増減というのは違いはあるんだけど、大きかったり少なかったりするってあるんだけど、ありがとうの価値っていうのはそこで別に一人一人変わらないんじゃないかなって僕は思ってます。
分かんないですよ。実際にやってる人に聞いたわけでもないですけど、でもそうじゃないと、100円のありがとうと1万円のありがとう違いますみたいなことになるわけじゃないですか。金額としては1万円のほうが嬉しいんだろうけど、でも100円のありがとうを100人なのか、1万円のありがとうを1人なのかってことでも、ありがとうに対する数っていう意味では、僕は精神性は100人のありがとうのほうが満たされるんじゃないか。
これは比較する意味ないですよ。ないんだけど、そういう感覚はある感じですね。
応援というか、貢献というところでいくと、まず僕から言うと、誰かに貢献したいです。もしくは、誰かに貢献したいです。ちょっとおかしいんですけど、自分がここで役立てたい、役立ちたい、役立ててほしいというか、生きていきたいですよね。そういうのができる気がします。
そういうところで、言うところじゃないとつまんないですよね。シンプルにね。当然だから、自分がこうしていったほうがいい、ああしていったほうがいい、もしくはこれは課題だ、これはちょっとわからんみたいなことを言っていったときに、適切なフィードバックがないと、これは今はちょっと違うとか、もしくは今はいけるとか、そういうのはありがたいということがなければ、やらなくないですか。
最近それを、やり損という言葉で、いい言葉かわかりませんが、やったり考えたり、アイデア損とかですね。積極的に動くことがバカみたいという状況が、まあまあ生じると思うんですよ。よく生じる。
気づいた人が、散らかってるんでゴミを拾ったら、そのゴミを拾うこと自体、自分は別に気になるから拾うし、別にそれを言われてるわけじゃない、仕事ではないんだけど、なんかやってるよと。でもそれをやることで、評価にもなりませんと。
評価のトンク的じゃないんだけど、でもなんだかなっていう、いわゆる燃やるってやつですね。燃や燃やするっていう。多分それだけだったら燃やらないんだけど、多分そこに組織なり会社とか企業なり団体なり、わかりませんが、別に公務員というか自治体とか行政でも何でもいいんですけど、働くというところに行くと、もしくは学校でもいいんですけど、
そういうのを見て、陰口を叩くとか、そういうことをやっているのは、いいこぶるとか、評価を上げるためだとかっていう人が出てくるんですよね。そのまま直接やらなくても、例えば手柄を取るみたいな人が出てきて、どういうことかというと、
例えばですよ、リスナーのあなたがすごく善人でいい人だったら想定できないと思うんですけど、僕は悪い人なんで、例えば考え方として、掃除してます、その掃除は別に会社とか組織で決められたことじゃないんです。それは自分ではそういうことができないゆえにネタ見になるんですよね。
そういうことをやっている自分はできない、やっているのは偉い、文字通りできない、自分から自主的に掃除することはない。だから別にその人と一緒に掃除し始めればいいんだけど、そういうことができない人がいるわけです。いるんだと思います、僕は。
みんながみんなそんないいねって感じじゃないと思うんで、もっとダークというかドロドロしてるんですよ。社会というか実際はね。みんながみんなドロドロしてるわけじゃないんで、これから社会に出る人は、そんな社会ってダメなんだって思わないでくださいね。現実はそういう人もいるよねぐらいの、青蛇心地図があって、あったれってことですよね。
で、その掃除しているのは、悪いことをしているための、弁財布って言うと難しいですが、逃れるためだみたいなね。
そうやってありもせぬことを噂したり、わざと散らかしたりしておいて、別に掃除するからいいでしょみたいな。そこに行くと相当嫌なんですけど、そういう人っているんですよ、きっと。
で、何の話かわからなくなってきて、自分がやるとか考えたりするとか、提案するとかが認められなかったりすると、その自立性みたいなのが無駄になるというか、嫌になりません?
これはですね、学生さんだろうが、リスナーさんだろうが、どういう状況に置かれていようが、家庭で家族でもね、言ったら怒られたとか、そんなことするなって言われたりとか、そういうのがあったりすると。
そういうのもね、一つの話というか、あるんじゃないかなって思ったりします。で、そういう中で、損だなって思ったらやらないじゃないですか。僕もその通りなんですよ。
報酬の概念
損というか、無駄なというか、報酬というのが、金銭的報酬というだけじゃないですよ。報酬というのは、金銭的じゃないもので、やりがいとか、学びとか、全部含めて報酬と言いますね。
だから、そういうのが得られないなら、やらないですよ。っていうのだと僕は思っています。だから、もしかしたら僕のことを勘違いされている方がいて、前任でボランティアでとか、もしかしたら持っている方がいらっしゃると思うんですけど、社会貢献だとか、社会だって。
そういうことでもないですよ。そこはですね、僕を課題評価というか、成人とか、成人ではないですけど、思われているんじゃないかなと思います。
でも、僕が思っているのが最近、そう思われるということは、相当何も考えていない、やっていないか、他者への貢献の感覚がずれているというか、これ言ったら怒られますけどね。
リスナーの方がそうだとは言っていませんけど、もしかしたらそういう人に直接言わないですけど、なんかずれてるんだなっていうことを思うわけです。だから、さっき言った前提というところの、人に役立つみたいな感覚がだいぶ違っていたら話し合わないから、そんな人多分聞かないよなって思っています。
話し合わないですね、そういう人とね。いいんですよ、それは。話し合わない。で、そういう時に僕の話を戻すと、そう言って貢献したり、さっき言った提案とか何かやったりして、報われない。無駄なことやってるね、みたいなことを言われたら腹立ちません?
いや、本当に怒るかどうかってことですけど、別にいい社会人になってるんで、なんだこの野郎とかね、そんなひどいことは言わないですよ。だけど、沸点が低い、ようがすぐいかってある人だったら、そこで口論になりますよね、すぐ。なると思います。
でもさすがにそれは、どうなの?ってことでならないけど、そういうのってでも蓄積するわけですよ。そうするとどうなります?去りますよね、その場をね。か、そんなことはしないようで行こうって。
で、多くの人ってのは去ることが選択肢がないならば、なんか社会とか働くとか、組織にいるってことはそういうことなんだと。自分を殺し、その組織に合うように蓄積することをやることですと。
だからそういう方に、それが強くなる。強くなりすぎると、忖度が強すぎると、結局忖度の本当の言葉ではないんだと思うんですけど、相手もしくは組織のルールに従うってことで、マシン化すると。
それって怖いことなんだけど、往々にして起こることです。
で、さっきの認めるとかもそこで一緒なんですけど、自分が何かやると、それをいいよね、大和さんそういうことやってくるのいいよねっていうふうに認めてくれる部分、だから全部認めることじゃないですよ。認めてくれる部分があんまりない。
1ミリも認めてくれない、もしくはやってることの大半がスルーされるみたいな状況だったら、その人に何かやらないし、その組織にもやらないじゃないですか。でもそんなもんじゃないですかってことをまず今回確認というか、考えてみたっていう話ですね。
認められることの重要性
認められるって言うと、ものすごい実績があってものすごいことやってないと認められないってもしかしたら思われてる方いらっしゃると思うんですよ。ノートで記事一本書いたから、すごい認められたね、バズったねみたいな。そんなのないんですよ。認められるも何かによるから。
これは言いましたよね、SNSの承認、いいねとかっていうのがどうなんだみたいな。そっちよりも自分が知ってる友人があの記事読んでよかったよねっていう方が、僕はエモいというか、いわゆる感動というか心が動いたり、認めてくれてありがたいなっていうことを心から思うわけですよね。嬉しいとかもそうですけど。
それって言ってくれる人がいないとダメだし、言ってくれる関係性が築けてないと言えないじゃないですか。本音と立て前っていうのが好きな言葉じゃないんだけど、会った時に、友人は本音で言えるけど、そうじゃない、それは立て前だって言った時に、本音っていうのを全部の人にぶつけて、初対面の人にバンバンぶつけていくってことを僕がやってるわけじゃないんですけど、
心の鎧みたいな話をね、だいぶ前にやったかな、心の鎧でやったら出てくるかもしれないですけど、簡単に言えば、自分の悩みとか、自己開示ですよね。
自分はこういう人間だったり、自分はこういうことなんで、例えばそれは良くないわけですよ。コンプレックスがあったり、不器用だったり、恥ずかしさだったり、そういうのがあるから、それを守るために言いたくないと。
わかりますよ、そういう自分が言いたくない。僕全部自己開示してるわけじゃないですからね。だけど、それをやりすぎると、スマートに綺麗にクールにやることが全てだよねっていう。
かっこよくやるっていうね。でもかっこよくやるのはいいんですよ。かっこつけるロック。ロックンロールがかっこよくなっておいて、ロックに生きるのもいいし、なんかやるのはいいと思うんですよ、全然いい。
そこが神一重だと思われるのが、かっこいいと思われるためにやるのはギリギリいいかなと思うんですよ。ギリギリいいというか、やってるしね。でもかっこいいと思われたいがためにやってるとなると、
自分の起点ですよね。起こす点ですね。起きるとか起こす点。スタートの時点ってどこなの?他者ありきなの?みたいな感じで、かっこいいと言われたいからやっているってことですよね。で、かっこいいと言われないならやらないみたいになってくと、
人がいいと思う、人が言ってくれる評価ってものに合わせてやっていくことになりますね。それはどうなの?っていうことになってきて、それが非大化してしまうと、自分が生きている何か、自分が感じたこれっていう主体的な自律的なものっていうよりも、人がいいよねって言ったものに合わせちゃうんですよね。
これは創作とかがそうで、ニーズに合わせるっていうのをあまりにもやると、前言ったのが異世界ものだとかね、もうだいぶ廃れてきたっていうか定番化して法化してるような気がしますけど、それやりたいんだっけ?みたいな。ただに編集者の人がやりたいって言ったとか、周りで誰か言ってるだけで、あなたは本当にやりたくないんじゃないの?って。
仕事だからやりますって言う人もいると思うんですよ。例えば写真を撮る人で、自分が表現したいものはこれじゃないけど、お客さんとかが指定してきたからそれやると。
ウェブ製作とかもね、自分が作りたいのじゃなくてお客さんが望むものを作る。だけど、それも対外じゃないですか。お客さんが素人であれば、それは表現できなかったりするよね。もしくはそれを表現するのであれば、それなりにコストがかかると時間がかかりますよ。もしくはそれをやったところで、多分ほとんどの人はわかんないんじゃないですか?みたいな。
そこらへんまで詰めないと、いわゆる良い仕事というのはできないと思うんですけど、逆に言えば良い仕事をやっている人はそこまで詰めて考えているわけです。何事もね、どんな仕事でもですね。
自分が認められるということがなければ、その場にいる意味はないよね、ということになるわけです。
主語くりという意味に寄せていくと、だから自分が認められるところにいる方がいいし、金銭もそうだし、やりがいとか学びもそうなんですけど、より高いとか大きい方を、これは欲というか考え方によるんですけど、絶対に報酬の大きさだけではないということですね。
非金銭的報酬というのもそうだし、摂取的報酬と言ってもいいんですけど、やりがいがより大きい方を選ぶというのもいいわけなんで、そのときにそれをより高めていったり、より大きくいただけるとか認めてくれることが多いとか、貢献をしたらちゃんと返ってくれるフィードバックとかがあるところを選んでいくし、
探索と自己認識
そういうところにアップデートしていった方がいいし、そういうところに常にやっていった方が僕はいいと思います。そうすると、自分を認めてくれるところを探索し続けるみたいな感じになって、終わりがないと思うかもしれませんが、僕は終わりないと思ってます。
で、探索とか認めてくれるとかっていうのは自分ありきじゃないですか。じゃなくて、貢献するという、自分が相手にどうする。それゆえに相手がこちらを見て、この相互作用というのは変わらないんで、ニワトリが先が卵が先がの話になるんですが、要は自分を認めてくださいと言っても、何ですかあなたになるじゃないですか。
だから自分がまず提供する。これはいわゆるギブアンドテイクで言えば、ギバー的な考え方で、まず自分がその人に何をやれるかを考えていくしかないのかなと思います。で、商売とかビジネス、私国においても、まず僕が何を、違和感発想だったら違和感発想っていうのが通常を提供してやろうとしますけど、
それで対面した人、対峙した人、関わった人が何をできるか。何でもいいんですよ。YouTubeでもいいし、例えばこのポッドキャストだったら、ポッドキャストを聞いた人に対して僕が何をできるか。それを考えてやると。
考えることもやることも対象とする人も本当バラバラじゃないですか。だから具体例を挙げてしまうとその具体性に、具体的なものになって分かりづらくなるかもしれませんが、そういう決められたパッケージとかってことじゃなくて、自分が持っているものとかができることの中で、その中でまずやること。
前も言ったかもしれませんけど、自分のやっている仕事があるとする人がほとんどだと思うんですが、あと勉強をしている学生とかね。学生だったら勉強頑張る。何でだろうと頑張っていくっていうのもそうだし、より広げていくっていうのが大事ですし、社会人でその仕事をしている人だったらもちろん自分の仕事っていうのを一生懸命やるとか、とことんやってみるっていうのは大事ですよね。
さっき言った、貢献とかやってるんだけど認められなかったら、当然その場を変えるのもいいし、持っていく人を変えるのもいいし、その幅っていうか選択肢っていうんですかね、多いほうがいいわけですよ。
例えば、一つの例で、新しい企業でもいいし副業でもやりたいですっていうのを、職場の人に言っても、当然何やるのみたいな、いつやるのみたいな感じで、話が盛り上がらないというか、からかわれて終わるみたいなところはあるんじゃないかと思います。
それは誰に話すか、どういうところで話すかにすごく余裕かなと思います。そういう仕事の話とかって、結構したい人が多いんじゃないかなと僕は思っています。だけど、それを話す雰囲気、もしくはそれを話す信頼性、関係性がない、もしくはそれを話せるだけの知識、経験がないっていうのもありますね。
知識っていうのは、世の中でどういう仕事があって、どういうことを考えてやってる人がいるのか、もしくは情報としてこういうビジネスがある、こういう仕事ですよね、やってらっしゃる方がいる、僕みたいな人も含めている、そういうことがなかったりするんじゃないかなと思います。
だから、だるさというか、お酒飲んで、知らない人、今の人のコミュニケーションの仕方は全然知らないんですけど、お酒飲んだり脳を大まきさせて、自分が言いたいことをトロするみたいな、あんまり生産性が高くない。別に酒飲んで話すことを否定してるわけじゃないですけど、そうなんだっけみたいなね。
それはコミュニケーションの得意不得意ばかりで一概に言えませんが、仕事の話したいとか、ビジネスの話したいとか、自分がやりたいことを話したいんだけど、なかなか職場ではできませんよね、みたいなときに、僕だったらそれを聞いて何かしら言えることはあると思います。
だけど、別に僕が署名相談師みたいな感じで、いいアドバイスをするとか、相談した人に何かを提供する自信がありますとか、そういうことではもちろんないんで。
だけど、それは一例です。そうやって変えていくことで、別に相談しろってことじゃないんですよ。聞いてる人がこのポッドキャストに相談しろってことを言いたいんじゃなくて、ご自身がいるところで何か報われるなとか、何かちょっと違うなと思ったら、話す人を変えたりアウトプットする先を変えてみるとか、何か変えてみるしかないですね、本当に。
アドバイスっていうよりも、本当にそれしかないんですね。ちょっとでいいんで。そうしたら何か変わるかもしれないですね。もちろん変わらないことも多いですよね。変わらないなら何でかなって言ってまた繰り返していくしかない。
そうやって考えると、仕事とか人生自体が修練というか、何か鍛錬みたいでしんどいなって思う人がもしかしたらいるかもしれませんけど、結局その認識世界を変えていくっていうことしか、これは前も言ったかもしれませんけど、ないんですよね。自分が見えている見方を変えるという。
例えばゲームで、ゲームっていうのがあって、ゲームは娯楽だとしか思ってない人が、ゲームでプロゲーマーっていう人がいて、それで政権を立ててる、要は食べてるっていう状況がある中でっていうのを見たときに、あなたはどう考えますか。何かゲームやっててお金得られるってすごい良いなって思う人がいそうなんですけど、そんな甘い世界じゃないわけですよ。
結果を出さなきゃいけないから。多分多くの人はゲームを楽しめなくなるんですよ。気楽にできないですからね。そこが多分プロとアマチュア、僕は別にプロゲーマーじゃないですからアマチュアですけど、違いですよね。
趣味と仕事の関係
それをもって趣味を仕事にしないっていうロジックもあるんです。この四国ラジオでは割と初期の頃に釣りの例えをしまくってた気がするんで、また釣りの話をするんですけど、日常に夜釣りとか、海とか川か、夜暗いときに行って釣ると。
釣りが趣味です、楽しいです、じゃあこれを仕事にしようって言って、例えば釣り座を作りますとか、釣りスポットを紹介しますみたいな。
最近面白かったのは釣りの漁業券みたいなのを買って、ちゃんと釣り人がお金を落とす仕組みをしたみたいなのがあったりしますけど、それは余談ですね。いろいろあると思うんで、その人が考えたアイデアをやると。
釣りスポットを紹介するっていうのをアプリとかサイトを作るみたいなので、ビジネスの何かを置いておいて、そういうのをやろうとするじゃないですか。そして、くしくもというか、奇跡的にうまいこと言って、ユーザーがいっぱいついて、数万人ついて、サブスクじゃないけど広告つけて、授業として成り立ちそうだみたいになったとしましょう。
一年で大成功だと思います。でも、そこでご自身というか、実際のあなたがやってるとして気づくと思うんですよね。あれ、なんでこんなことをやりたかったんだっけみたいな。自分は趣味として釣りをして楽しみたかったんだけど、今は釣りに行く時間もないし、サイトの運営とか情報が間違ってるとか、追加の対応を追われたりとか、手動で写真を撮ったりとか確認して承認してたりするから、大変だよみたいな。
漁師とコンサルタントみたいな空話みたいなのがあるんですけど、まさにそんな感じですよね。絶対そうなるとは限らないですよ。だけど、釣りを趣味として本当に楽しみたかった人が、その仕事にして釣りスポット紹介サイトをやるべきかっていうのは、わからなくないですか。わからないですよ。
何がやりたかったか、何が楽しいか、何をしていきたいかになるんですよ。だから人によっては、これ言い方はいろいろあると思いますけど、会社員やりながら趣味で釣りをやるってことが良かった。だけど自分の趣味っていうものがなくなった。
ここで僕なりのいろんな人の話してきた中で思うのは、そこの認識の仕方だけなんですよね。だから絶対2つに分かれないんですけど、趣味で釣り、趣味でやるからいいんだよ。つまり会社なり、公務員とかわかりませんが、平日に働いて仕事をしているところで趣味で仕事をするっていうところが良かったんですよっていう話が出てくるんですよ。
つまりメインじゃない。その余暇活動であり、その息抜きっていうのが良かった。だからもっと極端なこと言うと、釣りじゃなくてもいいんですよ。本読みでも、動物園行くでも、ちょっとわかんないですけど、ご飯食べに行くでも、そういうのが趣味なんですよね、多分ね。
そこで趣味っていう感覚ってどういうことかというと、消費なわけですよ。つまり、しらたく言ってしまえばお金を使う、時間を使う。釣り座を買って試す、餌を買って試す、釣れなくてもいいけど釣れたらいいよね、みたいなことを楽しむ。
だからごめんなさいね、その釣りの趣味自体を否定してるわけじゃないですよ。その人にとっての釣りって何だってことを詰めていくと、ぶっちゃけ何でもいいと。だけど楽しくやってるからいいと。
で、その仕事と趣味の関係性みたいなのがあったときに、その趣味の釣りっていうのは取り上げて、取り上げてっていうのは浮き彫りにして、それをもっと食べれるようにしよう、それを仕事にしようと思うか思わないかがまずありますよね。
熱量というとちょっと悪いんだけど、そこまでやりたいかっていう。意外にそこまでやりたい人っていないんじゃないかなと思うんで、そういう人がまずその趣味を仕事にしようとして、釣りスポットサイトを紹介するようなアプリとかサイトをやると、今のようなうまくいったとしても1年後に、あれ、趣味で釣りやりたいんだけどやれてないよってなると不満になるんじゃないですか。
コミュニティの重要性
でも一方で、ごめんなさい、ネガティブな話しましたけど、一方で、いや、なんかその趣味、このサイトを作るといろんな釣りをやる人がいるから、釣り人仲間が増えて、釣りコミュニティが生まれてめちゃくちゃ楽しいですよみたいな。
僕にとって、自分にとって、私にとっては釣りをやるってことは生き抜きでやるっていうよりも、生き抜きの部分はもちろんあったんだけど、よくよく考えてみたら、釣り人と話すことが楽しいし、人がつながっていくのが楽しいから、もちろん釣りじゃなくてもできるんだけど、自分が釣りっていうものに縁があったから、釣りっていうものでやってますよね。
だから楽しいですよって。どんどんやってきますよってことで、新しい、またさらにビジネスということで、その釣り人同士のコミュニティなり、それこそ出会い系じゃないですけど、マッチング、価値観じゃないけど、釣りを趣味とする人の結婚相談所とか、デートアプリみたいなのを作りましたとか。
それ別に悪くないんじゃないですか。本当にやりたいならね。っていう風に展開することができるんですよ。この話をリスナーの方が聞いたときに、ご自身はどっちなんですかっていうことなんですよね。だから趣味を仕事にしろとか、趣味を仕事にするなとかね、そういうことではないんですけど、
つまりやっていることっていうのは、一つ抜き出してしまうとバランスがおかしくなることなんで、めちゃくちゃあるんですよ。そのいわゆる日常生活の中とか人生の中とかの中で、その人が掴み取っているかどうかを置いておいて、選んだり何かしている、選ばされているのはあるかもしれないけど、状況として何か今あるわけですね、現状はね。
そのときのバランスというかいろんなものの要素があったときに、1個だけ仕事と釣りと言ったときに、仕事趣味の中で趣味を取り上げたときに、釣りっていうものがどういうものかっていうのは、何でもいいよね、そういう感覚でやっていたら別に映画でもいいわけですね。映画でやっていたら、映画を見ることを仕事にしようと言っても、なかなかできないわけですね。
で、今話で気づいたのは、趣味の場合消費なわけです。生産しないんですよね。生産するというのは、情報を発信するとか、コンテンツを作るとか、その課題を見つけてこういうことやりませんかっていうのを想像するとか、作っていくことのまさに仕事繰りなんですけど、そっちなんですよね。そこに明確に違いはあるかと思います。
映画を見てても、見てたらこれを仕事にできるかは難しくて、もちろん映画レビューとかもあるけど、それって発信することじゃないですか、見てね。誰かに役立つとか、活躍させてその人に何か届けるっていうのが仕事なんですよね。
趣味っていうのは、もちろん趣味でECサイトをハンドメイド作って売ってますみたいな趣味もあるんだけど、それって多分趣味って言ってるだけで、実際に混在してるわけじゃない、ミックスなんですよね。自分は作るのが好きっていうので作る。作るのが好きな人も、作って自分で売らずにそこで作って自分で使うだけでもいいじゃないですか。
自家…なんだっけ。自家製…あ、自家製じゃない。自家薬労中のものじゃないや。ま、忘れました。自家消費か、ごめんなさい。自家消費のもので自分で自己で使うってことで終わりでいいじゃないですか。
その編み物して、服作りましたとか、マフラー作りましたとか、ハンドメイドカバン作りましたとか、財布入れ作りました、名刺入れ作りましたね、髪飾り作りました、何でもいいんですよ。ブローチ作りました、何でもいいんですけど、それを売るってなるとまた別じゃないですか。
それは発信するし売るから混在してるなぁと僕は思いますけど、でもそれって趣味要素は強いかもしれないしその人の認識次第なんだけどでもやっぱり仕事だと思うんですよね。それ売ってるしね。
っていう風に自分が発信したり作って出していけるっていうのがたぶん仕事っぽいかなと思います。っていうのが趣味の段階でもしかしたら趣味やってる時にそこまでないのであれば、たぶんそれは趣味を仕事にするとたぶんしんどいんだろうなと思ったりします。
ギブとテイクのバランス
それが好きなこととかやりたいことっていうところをそのまま鵜呑みにしてやるとおかしくなるよねっていうことでもありますよね。そこって考えていったらわかるような気がします。やりたいことやるって言ってそのまま自分がやりたいことをやるっていう風に反射的に考えてもいいんですけど、そのやりたいことって何になりますかね。
このしごくりでは何度も言ってますが、基本的に自分のためってのもありますが、誰かお客さん、どういう人に向けて発信するか、届けるか、受ける人がいるわけですよね。だからそういう意味ではコミュニケーションなし双方向性が求められる。
その人の課題というか解決したい、いわゆるゲインと言われますが、得たいものとかより高めたいものなのか、ネガティブなペインと言われたりしますが、痛みとかものを解決する。痛い部分ですよね。言語化が得意じゃないから言語化を高めたいっていう人。
みたいな課題。それを解決策、まさにどういうもので解決するか。ナチュラーレッスンみたいな講座を作ってもいいですけど。それでお金を取れるかっていうマネタリズムの部分でお金が取れるかどうか。そこまでやりたいか。
最近は未然レベルということを多用していますが、時間をそのためにやってもいいと思うのか、メールアドレスとかを登録してもいいと思うのか、例えばヒアリングっていうところをやったときに時間を取っていただけるのかとか、報酬にかけ出すですね。
そこでぜひとも使いたいっていうような予約をしてくれるのか、いくらっていうのもその人が本当にやっていることから本当に思ってくれるかってことでお金を出して買ってくれるかってことですね。お金を出して買ってくれるっていうのは相当強いわけですね。
っていうのでその価値、マネタリズムできるかを検証するしかないんですが、お金が出してくれるかどうかの手前のところでありますね。未然レベルというものを検証していくんですけど、そのお客さん、その課題、アイデア解決策とマネタリズムですね。
お金になるかってことを意識しないといけなくなるわけです。それを全く意識せずにただ書いてお金にならんなとかっていうのと、僕も言いなさそうなことは言いませんがっていうのを言い訳にしたところで、なかなか難しいんじゃないかなって思うんです。
一方でいきなりお菓子屋さんそういうのができるんですか?いきなり奇跡的に何かうまくいくってことじゃない?例外を除いたらうまくいくんですか?って言ったら、うまくいかないです。なぜならまず誰に届けたいかが明確になってなかったらメッセージがぶれますし、その人の課題じゃなくて、そっちじゃないんだよなみたいなのもあるわけじゃないですか。
強豪というか似たようなサービスもいっぱいあるし、認知されるかもあるし、アイデア自体が最適な、もしくはその人たちができるような解決策がどうか。さっき言った言語化が苦手だけどどうしたらいいっていう人にテキストの言語化されたものを届けても、言語化ができないから動画でやるしかないとか。
そのお客さんが想定の人ができるようにしなきゃいけないんです。それは別にバカにしてるわけじゃなくて、文字通りその人たちが分かるように提供しないとその人、想定する人たちは振り向いてくれないし、自分たちのものだと思ってくれないし、関係ないよねって思いません?っていうだけなんで。
そこに深い税額はないってことですね。で、提供します。で、提供したところでありがとうって言われたり言うんだけど、それでじゃあもうこれはお金を払ってでも是非やってほしいってことになるかどうかっていうのがポイントになりますよね。だいぶ短くなかったですが、今回はそんな感じでババーッと話してみました。
要はまとめてしまうと、自分が貢献というか何かやったところをやり損じゃなくて、ギブですよね。ちゃんとそれが認めてくれるところ、もしくは最低でも誰か認めてくれる人がいるぞと。それは信じられるところですか?即実践的に言えば。じゃなかったらもう変えたほうがいいですよね。
で、同時にそれは自分が認められないっていうんじゃなくて、こちらがギブしてて、相手がテイクして吸われてるだけって、ストローみたいに自分の貢献とかを全部ストローみたいに吸われてるだけだから、バカみたいじゃないですか。だからそういう人にはやっちゃダメだし、そういう組織野蛮にはいてはいけないような気がします。
これは言い方がちょっと難しい、厳しくなるかもしれませんが、自分の評価値を下げてることになるわけですよね。これは僕もね、人に偉そうに言えることではないんだけど、評価値を下げるからとは言って、ギブをしていくことをやめてしまったら全部なくなってくるんで、まずはこっちからギブはするんだけど、でも提供してくるんだけど、だけどそれが全部100%返ってくるわけじゃないっていうところを、ある種の損なのですよね。
貢献を認める環境の重要性
端値ですね。こちらから発信していって、相手がどこの位置にいて、どういう人かを検知していって、それで自分ができることをやっていく。全部戻ってくるわけじゃないんだけど、そういうのをちゃんと認めてくれたり、そういうのいいよねっていうふうに自分のことを認めてくれる人とか、ちゃんと価値あるよねとか、いいよねっていう報酬ですね。金銭的報酬だけじゃなくて、やりがいとか学びがいみたいなものが僕は面白がれるところですけど、そういうのはないとやっぱりきついですね。
てか僕は無理だなと思います。それが今現在本当にないぞと、ゼロだぞっていう人もいらっしゃると思うんですよ。もしくはあるぞっていう人だったらそこを高めていけばいいし、なかったらそういうところがあるのを探っていくしかないですよね。
探ってて毎回同じような感じで上手くいかないという人は、踏ん張ってみて、今やれる状態のところで粘ってみて、何か変えられるか、突破口を見つけるしかないですね。でもそれって状況が悪い時にどうするかとかも全部一緒で、良いから何か行動を変えているわけでもなく、たまたまそれが上手くいっているだけでも死にないですからね。
というわけで、まとめてしまえばそういう自分がいいふうに動くためにも、ちゃんと認めてくれたりとか、自分が何回だったらちゃんとフィードバックしてくれるとか、そういう関係性なのに場とか人とか、それこそ取り組みですね。仕事とかやり方をやっていったほうがいいですねっていう抽象的になってますけどね。話をしてみました。
はい。すいません。長くなりましたが、今回も以上となります。四国理ラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。以上を失礼いたします。