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はじめ
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北海道犬 冬一郎
スピーカー 1
このデジタルな人生っていうのは、これまでいわゆるインターネットとかSNSの私の遍歴、過去についてちょこちょこ話してきたんですが、
それとはまた次元の異なる、いわゆる情報化と昔言われてた取り組みにいろいろ巻き込まれてきた歴史がありまして、
具体的には、私大学に勤めてたんですが、そこでインターネット環境がなかったんですね。1990年代、インターネット環境がなくて。
これから1992、3年くらいからかな、大学でもいわゆるインターネット配線をして、研究室からインターネットに接続できてみたいな時代が始まりはじめるんですが、
そこに結構初期から関わってきて、ある大学に勤めたんですが、最初国立大学で助手をやってて、国立大学のほうは結構研究室にインターネット配線とか張り巡らされて、
それでアカウントが割り振られてね、使えるようにだんだんなってきた。
でも最初は研究室には配線引かれてなくて、情報室に行かないとインターネットにはつなげないみたいなね、そこから始まったんですね。
それがどの部屋にもインターネット配線がされて、パソコンをみんな持つようになって、という時代が始まったのが1990年代半ばなんですね、日本の大学ではね。
私は1996年に別の私立大学に、音楽大学に移ったんですけども、そうしたらね、インターネット環境がないんですよ。
これじゃあ研究できないだろうということで、とにかくインターネットの配線をしてくれと言ったんですが、
ちょうど始まったんですが、なぜか希望者にしか配線しません、というわけのわからないことをやっていて、
何だ希望者とか言って、研究室入れ替わったらどうするんですかとかね、
とにかくこれは標準で全部張り巡らすのが当たり前の時代になるんで、
もう全部張り巡らしてくださいと。ちまちまやってると、かえって無駄なお金と労力かかりますよなんて話をね、したんですが。
これが長い長い長い戦いでした。
なんとか勤めて2年目ぐらいからかな。
勤めて1年目の終わりですね。
とにかく大学もホームページを作らなきゃっていう、そういう時代です。
ホームページがなかったんです、1997年。
大学もホームページを作らなきゃっていうことで、学園レベルでインターネット推進プロジェクト?
その前にホームページ委員会みたいなのが作られて、そのメンバーに私なってホームページの作成。
当時は業者に外注する大学がほとんどだったんですが、そうすると作ったはいいけど更新できないわけですよね。
ホームページっていうのは常に更新して情報の鮮度を保たないと意味がないと。
形だけ、2年も3年も更新のない、あるいは1年に1回しか更新のないようなホームページ作ってもしょうがないだろうと思ってたんで、
なんで作るんですかとホームページをそもそもね、
っていうことで、これはもう毎日情報発信できるサイトにしなきゃいけないっていうことで、
私は業者発注に反対して全部手作りでやったんですね。
だからホームページ作成関わったというね、直接ね、職員と協力しながらね。
当時職員の部屋には1台しかパソコンがなかったという。
あとはみんなワープロ専用機。
これも本当に困りましたけどね。
とにかく全教職員に1台、1人1台パソコン時代になるんだから早めにそれやりましょうという話もして。
さらにインターネットの配線を、だからそのためにはインフラとして整えなきゃいけませんという話をしてね。
これがなかなか理解が得られなかったんですが、私はとある業者と一緒にもう、
トイレの配管とかね、天井裏とかね、
ここをこう通せば何とかいきますねとか言いながらね、
全部ここにハブをくっつけとくとかね、やったんですね。
作業着、着ながら。
しかもイエローケーブル、当時はイエローケーブルなんですが、光ケーブルはまだなかったんですが、
イエローケーブルは自分たちでこうパッチンパッチンと作ってね、
それでもう手作りでやったという、そんな時代だったんですね。
それから時代はどんどん進み、コンピューター教室ができ、
このコンピューター教室もね、設計から何からいろいろやったんで、
この話はまたいずれどっかでしたいんですけど、とても面白い取り組みだったんですね。
日本の音楽大学ではコンピューター教室がなかったんです。
これを教授会で提案したら、そんなものを何に使うんですかというね、
大反対にあったと、それでも無理やり作ったというね、そんな時代だったんですが、
これも取り留めなくなるんで、またいずれまとめてお話しますが、
そんな中、時代は進み、ようやくインターネット環境、
そして一人一台パソコンの時代に入っていくわけですね。
そういう中で今度はサーバー室をどうするか、サーバー増強という問題が出てくるわけですよ。
サーバー増強ということで、サーバールームを作るということ自体にも
お金をかけたくないみたいな話が当時はあって、だけどこれはもう、
ちゃんと空調も入れてね。なんで空調なんか、コンピューターのためになんで
冷房を24時間効かせなきゃいけないんだとか、いろんなこと言われるわけですよ。
電源もね、ちゃんと落ちないように、いろいろ電源設備もお金かかるわけですよ、これね。
そんな話もまあ、最初はほんとに目に見えないものにお金かけたくないという感じで、
いろいろ理解を得るのは大変だったんですが、それでもなんとか進めて、
サーバールームを作り、私もサーバー、だからちょっと触ったりした時期もあったんですよね。
学生にアカウントを発行し、とかね。そんなことをやって、
そんな中で新しい図書館を建てるっていう構想があったときに、
そこにもちゃんとした情報センターを立ち上げようと、サーバールームをそこに全部、
高校と大学と全部含めて、学園中のサーバーをそこに全部集中しようという話で、
しかも図書館っていうのは紙のアーカイブなわけですけど、紙じゃなくてデジタルアーカイブと紙のアーカイブを複合的に運用できる、
そういう図書館にしようと。情報センタープラス図書館ですね。
これをもっと融合させていこう、なんていうことの構想も立ち上げて、そんなことをやってるうちに、
結局私、情報センター長、初代の学園の情報センター長になったりとかね、いろんなことをとにかくやりました。
その後、そのときにやったインフラで、多分あんまり先進んでないと思いますけどね。
側から見てると。さらにもっと進めなきゃいけないんですが、
例えば図書館と情報的なデジタルアーカイブとの融合っていうのはほとんど進んでないですね、その後ね。
私離れてしまってからね。
こういうのもどんどんやればいいと思うんですが、なかなかそういうのは止まっちゃいますね。
ということで、どこまで伝わったかわかんないですが、
トイレの配管を這いずり回って、イエローケーブルをパチパチ作ってた時代から、
ホームページを手作りで始めて、コンピューター教室を作り、
そして情報センターの立ち上げに向けて、サーバー室を整え、空調、電源板を整え、
そして情報センター立ち上げ、図書館との融合を図るみたいなね、結構壮大なプロジェクトにずっと関わってきたんですよね。
15、6年関わりましたかね。
そんな形で。