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2025-08-09 06:12

#90 聖咲奇さんの訃報で思い出した話

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ピョン吉の航星日誌「#1259 「宇宙船」編集・ライターの聖咲奇さんの訃報が届き、思い出した話」をNotebookLMでポッドキャスト化したものです。「聖咲奇(ひじりさき)」さんのお名前をどうしても「せいさき」と読んでしまいます。英語ではHijiriなのが、なぜ変わってしまうのか難しいです。

サマリー

聖咲奇さんの訃報が報じられ、日本のSF特撮文化における彼の偉大な功績が再び思い出されます。ピョン吉さんのメッセージを通じて、聖咲奇さんの影響力や個人的な思い出が深く掘り下げられています。

聖咲奇さんの功績
ピョン吉さん、今回は聖咲奇さんに関するメッセージ、本当にありがとうございます。
SF特撮界のレジェントと言われる方がまた一人という感じで、本当に残念です。
そうですね。8月1日に不報が流れたそうで、3年前からガンと糖尿されていたと伺いました。心からご冥福をお祈りいたします。
はい。ピョン吉さんからいただいたメッセージを拝見しまして、聖咲奇さんへの思いがすごく伝わってきました。
今日はそのメッセージをもとにですね、聖咲奇さんが日本のSF、それから特撮文化に残された本当に大きな足跡、それとピョン吉さんご自身の個人的な思い出についても少し掘り下げていければなと。
聖咲奇さんといえば、SF映像とか特撮が好きな方だったら知らない人はいないというくらいの方ですよね。
ですよね。特に1970年代、80年代、雑誌のアウトとか宇宙戦、ここでの活躍は本当に大きかった。編集者でありライターであり。
SFX評論家、特撮研究家としても。
まさに日本のその分野の文化の土台を作られた方といってもいいんじゃないでしょうか。書籍は少ないですけど功績は計り知れないですね。
ピョン吉さんのメモにもその功績が主に3つ挙げられていましたね。まず1つ目、特撮専門誌宇宙戦の創刊と編集。
はい。
これは大きいですね。1970年代の後半に企画構成されて、日本で初めてのちゃんとした特撮専門誌だったわけです。
で、20年以上編集に携わっておられた。
海外のSF映画とかかなりマニアックな作品、あとはメイキングの紹介とか。
そうなんです。それで多くのファンにものすごく影響を与えた。当時のファンにとっては本当に貴重な情報源だったと思いますね。
うーん、多少に。そして2つ目が海外の特撮文化の紹介とSFXという言葉。これを日本に定着させたこと。
あー、これも重要ですね。
スターウォーズの日本で最初のムック本、あれもセイさんが作られたとか。
そうなんですよ。当時の日本だと特撮っていうとやっぱり怪獣映画、ゴジラとかウルトラマンとか、そういうイメージがどうしても強かった。
はいはい。
そこにセイさんは海外の視点、SFX、つまり特殊効果っていうもっと技術的な側面からの捉え方を持ち込んだ。
なるほど。
これで作品を見る目が広がったわけですよね。文化として深まったというか。
視点を変えたと。で、3つ目。これが次世代のクリエイターへの影響。アマチュアの造形師をプロの世界に導いたりとか。
あとガレージキット、いわゆる瓦礫ですね。
はいはい。
あの呼び名を広めたのもセイさんだったと。
えー、これも大きい。まさにオタクの元祖みたいな。
はは、そうですね。
その熱意が後の特撮界を支える人材を育てたと言えるんじゃないでしょうか。
個人的な思い出
そんな伝説的なセイさんにピョン吉さんは2016年に一度だけですけどお会いした経験があるんですね。
えー、メモにありましたね。福島のコミュニティFMの番組で。
ご当地ヒーロー企画の相談というのがまだ。
なんかセイさんご本人は、いや、分野が違うからって断ってたらしいんですけど、周りに押し切られちゃったみたいな。
ピョン吉さんも今考えると完全に畑違いだったなぁと。
たとえが面白くて、絵本について宮崎朱恵監督に、侍について黒沢明監督に聞くようなズレだったって。
なるほど。でもそれでもセイさんは奇策に向かえてくださったと。
そうなんですよ。ご自宅には貴重な資料がたくさんあって、怪物園っていうその同人誌時代の資料とか写真とか。
特に世界的SFコレクターのフォレスト・J・アッカルマンさん、そのお宅を若き日の楓裕二さんとかが訪れた時のホームビデオ、これはすごい。
うわー、それは貴重ですね。
そのビデオを見てピョン吉さんが感じたこととして、昔のようなエネルジッシュな動きが今は少なくなったように感じたと。
海外から情報を貪欲に吸収しようとするあの熱量、80年代の。
そうですね。インターネットもない時代ですからね。
その熱量っていうのはなんか今とは違うものがあったのかもしれないですね。知識を海外からこう掴み取ってくるんだみたいな。
ピョン吉マン、ド自身はアウトとかシマイシのランデブー世代で、宇宙船はあまり読んでなかったから適応した質問ができなかったのが心残りだとも書かれてましたね。
でもその場にいられたこと自体が本当に貴重だったんだろうなぁと。
あと以前に濃厚促を患われて手が不自由だったにもかかわらずサインをしてくださったっていうエピソードも。
ありましたね。
これもなんかセイさんの人柄が忍ばれますよね。
本当ですね。結局そのご当地ヒーロー企画はとんざしてしまって、セイさんとの縁もそれきりになってしまったのは残念だと。
でもこのピョン吉さんのメモを通してセイ佐紀さんの本当に大きな功績と、あとその温かいお人柄の一端に触れられた気がします。
本当にそうですね。ピョン吉さん貴重な思い出を共有してくださって本当にありがとうございました。
セイさん、たくさんの楽しみワクワクを教えてくださって本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。
さてそこで一つ、ピョン吉のメモにもあった80年代の若者たちが海外の情報を貪欲に求めた熱量、発見のエネルギー。
今ってインターネットで情報は何でもすぐ手に入りますけど、あの頃のような発見の宝探しみたいな感覚って今もあるんでしょうかね。
形を変えて存在しているのか、それともやっぱり何か質的に違うものになっているのか、ピョン吉さんはどう思われますかね。
というわけで今回はセイ佐紀さんをしのんでお送りしました。
ピョン吉さんメッセージ本当にありがとうございました。
次回の配信もお楽しみに。
さようなら。
06:12

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