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2025-10-02 08:04

#143 科学系ポッドキャストの日のメモを読ませたが

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ピョン吉の航星日誌「#1313 科学系ポッドキャストの日:「これができたらノーベル賞!」に参加した話」をNotebookLMでポッドキャスト化したものです。人名が多いので、いつものようにダメダメになっています。毎回、いろいろと工夫するのですが、どうしても誤読してしまいます。どうしたらいいでしょうね。

サマリー

日本の科学史における重要な人物である北里柴桜、山上勝三郎、野口英生のノーベル賞候補としての歴史と背景を探ります。彼らの業績は世界レベルであったにもかかわらず、受賞を逃した理由や文化的な要因についても考察します。

北里柴桜の業績
こんにちは。こんにちは。ピョン吉さん、こんにちは。今回はですね、ピョン吉さんからいただいた資料をもとに、ちょっと日本の科学史の、まあ、興味深い一面を深掘りしたいと思います。
ええ。あの、湯川博士が日本人で初めてノーベル賞を取りましたけど、実はそれより前にすごい業績を上げていたのに、こう惜しくも受賞を逃した方々がいたと。
そうなんですよ。資料で名前が上がっているのが、北里柴桜、山上勝桜、それから野口英生、この3人の先生方ですね。
はい。
彼らがなぜ受賞できなかったのか、その背景を探ると、当時の日本の状況とか、ノーベル賞そのものについてもいろいろ見えてくるんじゃないかなと。ピョン吉さんと一緒に考えていきましょう。
まずは、やっぱり北里柴桜ですよね。今の千円札の顔でもありますし、近代日本医学の父。
ええ。北里先生、資料によると1901年、本当に最初のノーベル生理学医学賞の候補者リストに入っていた。
すごいことですよね。第一回で。
まさに。特に、あの、ハショウ風菌の純水培養とか、ジフテリアとハショウ風の血清療法、これはドイツのベーリングとの共同研究でしたけど、画期的でした。
血清療法っていうのは、病気に打ち勝った血液の成分を使うみたいな?
あ、そうですそうです。簡単に言うと、回復した動物の血液から病原体への抵抗力、まあ抗体ですね。それを取り出して治療に使うという。
なるほど。画期的だ。でもそれだけすごいのに、なぜ受賞できなかったんでしょうか。
うーん、資料を見るといくつか理由がありそうで、まず共同研究者のベーリングにはドイツから推薦状が5通も。
5通も。
ええ、一方北里先生にはたって1通だったと。
ええ、そんなに差が。
やっぱり国を挙げての応援体制みたいなものがかなり違ったんでしょうね。あと当時の選考委員会が受賞者は1人っていう、そういう方針だったみたいで。
ああ、そういうルールというか方針が?
それもあって、結局ベーリング単独受賞になったということのようです。
うーん、研究だけじゃなくて、そういう周りの要因も大きかったんですね。でも日本人で最初の候補者っていうのは、当時の日本の研究がもう世界レベルだったってことですよね。
まさにその通りだと思います。北里先生の例は、素晴らしい才能があってもそれを国際的に評価してもらうための支援とか戦略がないと難しい場合もあるんだっていう初期の教訓かもしれませんね。
山上勝三郎の悲劇
なるほど。北里先生がいわば外的な支援の問題だったとすると、次は山向勝三郎先生ですね。この方はまたちょっと違う感じが。
ええ、山向先生。東大の病理学者で、資料だとノーベル賞候補に4回も名前が挙がってるんですね。
4回!それはすごいですね。
1915年に、樹脂の市川さんと一緒に、ウサギの耳にコールタオルを塗り続けて、世界で初めて人工的に癌を作った。
人工的に癌を?
そうなんです。癌ってのは外からの刺激でも起こるんだってことを証明した。これはもう癌研究の歴史を変えた大発見です。
当時、ノーベル賞に一番近い日本人って言われたのを頷けますね。でも受賞できなかった。何があったんですか?
ここがですね、なんともドラマチックというか。1926年の選考で、ある報告者は山向先生とデンマークのフィビゲルっていう別の研究者の共同受賞をしたんです。
はい、共同受賞。
ところがですね、別の有力な推薦者が山向先生自身の論文にあった一説を引用したんですよ。フィビゲルの輝かしい業績に励まされて研究を進めたっていう。
ああ、日本人らしい謙譲の表現というか。
そうでしょうね。普通に読めばそうなんですが、ノーベル賞っていう、ある意味競争の場ではその言葉がですね、フィビゲルの方が先なんだって。山向自身が認めてるじゃないかと。
えっ、そんな解釈に。
そういうふうに解釈されてしまって、結果山向先生は候補から外れて、フィビゲルが単独で受賞することになったと。
うわー、それは皮肉な。しかも、確かフィビゲル先生の研究って、後々ちょっと評価が変わってしまったんですよね。
そうなんです。再現性が低いってことになって。一方で山木先生の研究は、今も眼研究の基礎としてもう揺るぎない評価です。
なんとも言えない話ですね。謙譲の言葉がまさか受賞をはまむなんて。ぴょんきすさん、これどう思われます?良かれと思って書いたことが。
ほんとですよね。文化の違いというか、評価の文脈というか、難しい問題です。
野口英生の挑戦
さて、3人目は野口英勢先生。野口先生も候補に3回。有名なのは、筋熱病の研究ですけど、これは少し複雑なんですね。
1918年に、筋熱病の病原体を見つけたと発表されたんですが、これは後でワイル病という別の病気の原因体だったということが分かったんです。
ああ、そうだったんですね。
資料が指摘しているのは、当時野口先生がいたロックフェラー研究所からの早く成果を出してくれっていうかなり強いプレッシャーがあったんじゃないかと。それが、まあ、欠損を急がせたのかもしれない。
うーん、研究者へのプレッシャーか。これも今でもありそうな話ですね。でも、野口先生の功績ってそれだけじゃないんですよね。
まったくその通りです。彼の本当にすごい業績の一つは、1913年に、心肝麻痺、これ、命毒の末期の症状なんですけど、その患者さんの脳から命毒の病原菌を直接見つけ出したことなんです。
へえ。
これ、当時原因不明だった重い精神神経の病気が、実は感染症が原因だったんだってことを、世界で初めて証明した大発見で。
それは大きいですね。精神疾患と感染症を結びつけるなんて。
ええ。他にも、南米のオロヤ熱とペルーユブっていう病気が、実は同じ菌によるものだって突き止めたり、重要な発見はたくさんあります。ただ、やっぱりキー熱病の言及中に亡くなったっていう悲劇とか、さっきの誤報の印象が多くて。
なるほど。行跡全体がちょっと見えにくくなっている面もあるのかもしれないですね。
野口先生のケースから見えるのは、やっぱりどんなに優れた研究者でも、過剰な期待とかプレッシャーっていうのは、判断を誤らせる危険があるってことでしょうかね。
北里先生の支援不足、山岳先生の献上の言葉、野口先生へのプレッシャー、3者3様なすけど、共通して見えることってありますか?
うーん、私がこの資料全体から強く感じるのは、まず皆さん、ゆかわ先生よりずっと前に、本当に世界レベルの研究をされていたっていう、これはもう間違いない事実だということです。
ええ、それはそうですよね。
そして彼らの物語が示しているのは、やっぱりすごい研究成果のためには、個人の才能だけじゃなくて、それを支えるお金とか時間とか、あと研究者を守る環境ですよね。
そういう余裕みたいなものが、いかに大事かってことじゃないでしょう。
なるほど、余裕ですか。確かに、もし彼らの時代に、今のようなサポート体制とか、国際的な発信力とか、研究者を守る仕組みがあったとしたら。
そうですね。日本のノーベル賞の歴史も、もしかしたらもっと早く、違う形で始まっていたかもしれないですね。
そこで最後に、ぴょん吉さんにちょっと考えてみていただきたいなと思うんです。
こういう過去の事例って、今の私たちに何を教えてくれるんでしょうか。
現代の研究環境って、未来の素晴らしい発見をするための余裕をちゃんと提供できているんだろうか、と。
深い問いですね。これは私たち自身が考え続けるべきことかもしれません。
ええ。
次回の配信もお楽しみに。
さようなら。
08:04

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