1. 口は背中よりモノを言う。
  2. #51 怒れるぐらいのこだわりが..
2024-01-12 21:06

#51 怒れるぐらいのこだわりが必要かもね。

怒ることが正義ってわけじゃなくて、それぐらいの熱量を向ける物事はあるべきかもね、という話。
こういう作品に触れた時に「考えさせられる」という言葉では済ませないようにしよう、とこだわっている自分を発見しました。

サーティサムシング・カープール様のブッククラブ回:https://open.spotify.com/episode/3H0E3ZJvKEt6R275VbEl2Q?si=EUnIEkmFQ5WK40rXICEYTw
82年生まれ、キム・ジヨン: https://amzn.asia/d/0F4FLZv

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サマリー

82年生まれキムジオンという小説を読むことで、フェミニストたちの怒りが表明されている様子を思い出し、私は自分の中の怒りについての考えを改める必要があると感じました。ポッドキャストの中でのこだわりは、怒りの表明であるか笑って話すことであるかに関係なく、あらゆるコンテンツが興味深くなるのだと思います。

00:05
こんにちは、こんばんは、おはようございます。カフェインよわおです。
ひっそりとカバーアートを更新するなどを行いました。
なんでかっつうとですね、僕、前のね、人がバカでけえコーヒーカップを持ってるみたいなカバーアートの、
あの素材をCanvaっていうね、いい感じの画像を作れるウェブサービスみたいなものがあるんですけど、
そこで、そこにあったテンプレートから引っ張ってきたんですね、あの画像を。
で、文字のところだけちょちょっといじって、カバーアートにしてたわけなんですが、
つい先日、全く同じテンプレートを使っている他の番組様を発見しましてですね、
これはあかん、と思って変えることにしました。
特段なんかすげえ思い入れがあって、カバーアートにしてたわけでもなかったんでね。
っていうことで、あの天下の聖聖愛様の力を使って、
手に持っているタンブラーからコーヒーを盛大にこぼしている人、みたいな感じの聖聖フレーズによって、
今のカバーアートが生まれたわけでございます。
これもなんか別にすげえいいもんできたわっていう風な感じでもないので、また気分によって変えると思うんですけれど、
なんかいいですね、やっぱ。
新しいものにするっていうのは気分が変わって、なんとなくカバーアート変えたよっていうだけでも撮りたくなりますね。
さてさて、それではね、ちょっと他番組様の話になるんですけれども、
僕、サーティーサムシングカープールというポッドキャスト様をよく聞いておりましてですね、
おみつさんとお花さんという2人の僕と同年代くらいかなの女性を2人が雑談をしているポッドキャストなんですけど、
その番組の中での企画で、ブッククラブというものを開催されておりましてですね、
何かしら定められた課題図書をみんなで読んで、感想をお便りして、それをまとめて1本のエピソードにして話そうみたいな、
そういうのをやられてましてですね、すごいいいなと思って、この前参加したんですけど、
これですね、エピソード102ブッククラブ、82年生まれキムジオン・バイ・チョ・ナムジュを読んでという回、
これに参加したんですね。
詳しくは聞いてくださればと思うのですが、
女性差別に対する怒り
読んだんですよ、この82年生まれキムジオンという本を、
まあ、気分が悪くなる話ですね。
言い方がすごく悪くなって申し訳ないんだが、本当にね、気分が悪くなる話だったんだよなぁ、これが。
Amazonに載っている紹介文をさらっと読みますね。
このタイトルに載っているキムジオンというのは、どうやら韓国における82年生まれに最も多い名前だそうなんですけれど、
ある日突然自分の母親や友人の人格が憑依したかの様子のキムジオン。
誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児。
キムジオンの人生を国名に振り返る中で、女性の人生に立ちはだかるものが浮かび上がる。
すごく端的に言うと、これぐらいの時代の韓国における女性差別みたいなものをテーマにした小説でして、
女性差別が深く定着した韓国社会をこのキムジオンという女性が生きていくことによって、
だんだん心が壊れていってしまうみたいな、そういう風な感じの話なんですね。
全然救いがなくてですね、
すごくざっくりと言うと、一番最初にキムジオンが壊れてしまったよっていう風なところから話が始まって、
そこから過去に遡って、学生時代だ、就職してからの会社員時代だ、結婚してからだっていう風な時代ごとに話がどんどん進んでいって、
その過程でいろんな差別にキムジオンという女性が直面して、
心を痛めて、差別に直面して、心を痛めて、こういう風にしてキムジオンは心を壊していったんですね。
みたいな感じなんです。何の解決もしない、どうすればいいとか、どういう風にキムジオンが救われたとか、そういう風な話もなく、
ただただ差別を受けた女性の話が書いてあるという感じなんですね。
僕はこの本に出会うまで、いわゆるフェミニズムと言われるものにほとんど触れてこなかったんですね。
触れてこなかったというか、目を向けようとしていなかったというか、
フェミニズムというのは、女性差別を取り除こうとする思想みたいなことであっているかな。
ちょっと調べよう。こういうの大事な気がする。
ウィキペディアによると、フェミニズムとは女性解放思想及びこの思想に基づく社会運動の総称である。
政治、制度、文化、慣習、社会、動向などの下に生じる性別による格差や性差別に影響されず、男女が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想又は運動である。
うん、なるほど。
まあ、なんか雰囲気はだいたいあってそうですね。
そうそう、なかったんですよ。
なんでかっていうと、それは僕が男だからということももちろんあるのだが、
それ以上に、かつてのツイッター上とかで取り立たされる、いわゆるフェミニストと言われる方々がのきなみ怒っているのがめっちゃ嫌だったんですよね。
よくも悪くも悪目立ちする人が僕の目には止まりやすかったんだとは思うのだけれど、
とにかく、女性差別がある社会に対して怒りを表明している。
それは国に対してであったり、政治であったり、あるいは世間の男性に対してね、怒りを表明しているツイートとかを目にして、
ああ、また何か起こってるわ、大変だなみたいな気持ちで当時は見ていたわけですよ。
当時の僕からすると、そんななんか怒りに任せて感情的に言わずに、冷静に話し合いの場を持てばいいのにとか、そんなことを多分思っていたんですよね。
女性差別の普遍性
ただ、このね、82年生まれキム・ジヨンという本を読んで、これはあくまで韓国の話ですけど、韓国でその女性差別というものがどういうふうに形成されていったか、
女性差別が根付いている幼少期学生時代、社会人生活というのはこういうものだ、みたいなものをずっと書いてあるわけ。
これはロジカルに話したところで何も解決しようがないなっていうふうに思ったんですよね。
これは別に女性差別に限らずだと思うんですけど、その1個人がね、その1個人が仮にこうロジカルに話して問題が解決に進む可能性がある範囲ってさ、
いいとこ1対1じゃん。言ったら、その目の前の人に対してあなたの考え方はこうこうでこうで差別的だからやめたほうがいいっていうふうな話をして、
はぁなるほどわかった確かにそうだなぁと思ってもらえるぐらいじゃないですか、そのロジカルな意見を表明するのって。
でもそういうレベルじゃないんですよね。
なんていうかその目の前の個人が差別をしているのが悪いとかいう話じゃなくて、
少なくともこの小説に出てくるその韓国における女性差別というのは、
もうその社会全体、国家全体に根付いている風潮というのかな。
国家全体がその女性を差別することをちょっと良しとしているみたいな雰囲気が感じ取れたのね、僕からするとね。
でそうするとさ、その目の前の人にあなたは悪いからこうした方がいいよっていうふうに言うのをさ、
じゃあ関わる人間全部にするんですかみたいな話になるじゃん。
そんなのとてもとてもやってられないじゃないですか。
ってなるとさ、なんかもう冷静ではいられないよね。
そりゃあね、怒るしかねーわみたいな。
そうだから僕はこの本を読んで、
あ、世の中にはそのとにかく怒って、
そういう風な問題でこれだけ怒ってる人がいるのだみたいなものを世の中に知らしめて、
でその世の中全体が変わってくれることをどうにかこうにかうなかつしかないみたいな、
そういう手段しか取れない問題もあるんだなぁということを思ったんですね、私。
っていう前置きの下にですね、何が言いたいかというと、
怒りの意義とこだわり
怒るって何だろうみたいな話なわけですよ。
僕はこれまでね、その怒ることに得はないという風に思って生きてきたわけ。
まあ振り返ればいっぱいその自分が怒った瞬間はあったし、怒られた瞬間もあったし、
まあ今でもね、その子供に対して怒るだ、叱るだ、これはどっちだみたいなことを考える瞬間も多々あるけれど、
基本的に怒ることによる得なんて未尽もないという風に思って人生を送ってきたわけですよ。
でもこの82年生まれキム・ジヨンを読んで、
でその過去を僕が視界の端にちらっと捉えたフェミニストたちのその怒りをひたすら表明している様を思い返して、
それは怒らざるを得んよなという風に思って、
その僕の中でのね、怒るイコール悪いものであるみたいな定義をちょっと改めなければいけないのかなという風に思っているみたいな話ですね。
だからなんだろうね、怒った方がいいとかじゃなくて、怒ってでも守らなければならないものがあるみたいな話なのかな。
僕、昔、僕が就職したてぐらいの時のその直続の上司にですね、そのこだわりがねえ奴が強えよみたいな話をされたことがあったんですね。
それは自分はなるべくこうしたい、こうありたいみたいなこだわりがあればあるほど、
その社会に出て、上司であったりお客さんだったり、僕の場合は患者さんか、患者さんだったりいろんな人たちと関わる中で、
自分がこうしたいというこだわりがあればあるほど衝突を生んでイライラすることになるから、
なるべくこだわりなんか持たない方がいいんだよみたいなことを言われたのを覚えているんです。
当時は確かにそうだなと思って、実際になんかめちゃくちゃこだわりない奴が僕の後輩として入ってきたんですよね。
今思い返すと彼は彼でいろいろな、彼はきっとこういうことだったんだろうなとかいろいろ思うことはあるんだけれど、
その表面上彼はこだわりがなさそうで、周りの人々の意向に合わせることに何ら抵抗を感じていなさそうだったのね。
ことはその分だけ圧力を生まないわけだから、なんとなくうまく人間関係が回っているように見えた。
なるほどこだわりって持たない方がいいんだって当時の僕は思ったわけです。
でも特にこのポッドキャストの世界ってさ、こだわり持ってる人の話ほど面白いものはない…じゃない。
異論はあると思いますけどね。
ポッドキャストのこだわりと面白さ
知識強要系のポッドキャストでもさ、やっぱりその方面に特化して、こだわっていろいろ調べ尽くしたりとか、
深い知識を持っている人のお話の方がやっぱり面白いし、
雑談系のポッドキャストであったとしても、
なんかこの人この方面にだけめっちゃこだわってすげーグイグイって話してくるなみたいな人がいた方がさ、
のらりくらりと当たり障りなく話すだけの番組よりは、僕は面白いと思うんですよね。
そりゃその番組には熱量が宿っていると思うから。
で、そのポッドキャストの中でね。
ポッドキャストの中でそのこだわりが行き着く先がちょっと怒ってたりとか、
キレてたりとかしても、なんかそれはそれで面白く聞けるんだよな。不思議なことに。
ちょっと具体的にどのどこの番組のどのエピソードでみたいなのはなんか全然こう記憶にないですけれど、
そういうその人のこだわりが行き着く先がその落ち着いて話すことであろうが、
あの笑って話すことであろうが怒って話すことであろうが、
何でも根底にこだわりがあれば面白いコンテンツなのではというふうに思うわけ。
という観点で、そのかつての怒りをひたすら表明していたいわゆるフェミニスト界隈の方たちというのは、
シンプルにロジカルに話して解決できる範囲の問題ではないから、
感情的にならざるを得なかったっていうふうなこともあるだろうし、
そういう差別的な物事に対してとにかく私たちは悲しんでいるんだ、
怒っているんだ、苦しんでいるんだというのをその怒りという感情に乗せて表明していたのだと思うと、
なんかなかなか意義深いことをされていたんだなというふうに思うようになれたのかな。
そう思うと怒る、怒るという感情もそんなに悪いもんじゃないですね。
なんかあるかな、俺。その怒ってでも怒ってでもこだわりたいもの。
なんか子供に対して怒るとか叱るとかっていうのはなんかちょっと違うんだよな。
教育的な観点がそこに入ってきてしまうから、
なんかちょっと今話題にしている怒る怒るとはちょっと違うような気がするんだけれど、
なんですかね。
ありますか?皆様怒ってでも怒ってでも守りたいもの、こだわりたいもの。
なんとなくだけどある方が正常というか、なんか人の営みをちゃんと歩んでいるような気がするなぁ。
まあでもそうか。なんかそのパートナーとか子供たちのことをなんかバカにされたりけなされたりしたら、
それは怒るかもしれないなぁ。怒るのかな、俺。
なんか怒らずに、まあまあ、ははははみたいな感じで、
受けなさかすことを選んでしまいそうな気もちょっとするけれど、怒れるかな、俺、そういう時に。
なんかこういう怒りの瞬発力みたいなものは何とか身につけたいですよね。
僕はどっちかっつったら、他の人が怒ったり怒ったりする場面で、その場の平穏を優先してしまう立ちなので、
なんていうか、自分の不快な感情とかに蓋をしてその場の平穏を取るのが、もう第一選択になっちゃってるんだよな。
それがこう最短で行動できる選択肢の一つみたいな。
どうですかね。いざ自分の家族が傷つけられた時に、僕は果たして最短で怒ることができるのだろうか。
どうかなぁ。わかんないっすね。
そういうこう、怒るだ怒るだが関係ないしょうもないこだわりだったらいっぱいあるんだけどなぁ。
僕、最近ね、このポッドキャストを聞く媒体を、GoogleポッドキャストからSpotifyに変えたんですよ。
Googleポッドキャストって、僕がこれまで話した中で、僕以外に使ってる人マジで見たことないんですけど、
Androidのね、Androidのスマホにはデフォルトで入ってるポッドキャストのアプリみたいなのがあるんです。
だからiPhoneにおけるアップルポッドキャストみたいなね。
で、去年おととしか、おととしの年末のタイミングで、そのSpotifyを使ってポッドキャストを聞いてる人たちが、
今年のSpotifyまとめ、私はこの番組をこれだけの時間聞きましたみたいなのを、当時のTwitterのタイムラインに流してるのを見て、
あ、Spotifyそんなんあんのかよ、めっちゃいいやん、変えようって思って、一回切り替えたんですね、そのタイミングで。
で、なんかがどうしても気に入らなくて、戻したんですよ、Googleポッドキャストに。
そこから僕は間違いなくそのこだわりを持ってGoogleポッドキャストを使っていたんですけど、
いつだったかな、去年の夏か秋ぐらいに、そのGoogleポッドキャストそろそろ終わりますみたいな、そういう告知が出たんですね。
どうやらYouTubeミュージックとか、そっちの方に統合されるみたいな話らしいですが。
で、いよいよね、ああそうか、じゃあまあSpotifyに変えるかって思って切り替えたの。
切り替えたらさ、なんか全然抵抗がないんですよね、今不思議なことに。
何にこだわって、あの時Spotify一回使ってやめてGoogleポッドキャストに戻ってきたかが、今全く思い出せないの。
それがね、すごく悲しい、僕は。なんか全然違う話になっちゃった気もするけど、すごく悲しいんですよ。
あの時のさ、あの時の僕は確かに何かしらのこだわりを持ってSpotifyではなくGoogleポッドキャストを選んだはずなのに、分かんないんだよね。
何だったんでしょうか。
Googleポッドキャストを他に使っている方が、ちょっと僕は存じ上げないので、誰も分かんないと思うんですけど。
もしかしてそうなのかな。こだわりをどんどん失っていってるのか、俺は。悲しくない?それってめっちゃ。
こだわって生きていきたい。なあ。
これだけは捨てられんみたいなものが、さあ、その他の人から見たらどうでもいいと思える物事でもさ、
それこそなんかそれに対して存在の扱いをされたらちゃんと怒れるぐらいのさ、
怒るんじゃなくてもいいんだけど、いろんなこだわりを持って生きていきたいものですね。
こだわりを持って生きる
毎度まとまりがないですが、こんなところで本日は終わります。
番組への感想・質問・意見などなど何かございましたら、番組概要欄にあるお便りフォームか、Xの方にハッシュタグ口物をつけてポストいただけると嬉しいです。
口は漢字、物はカタカナのハッシュタグ口物でお願いします。
ということで、またそのうちにお会いしましょう。ではでは。
21:06

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