育児の日常
小島ちひりのプリズム劇場
この番組は、小島ちひり脚本によるラジオドラマです。
プリズムを通した光のように、さまざまな人がいることをテーマにお送りいたします。
ユズはスースー寝息を立てながら、お腹を上下させている。
長かった。本当に長かった。
1時間以上かかったのだろうか。
助産師さんに、寝かしつけに1時間ぐらいかかるんです、と相談したら、
正常の範囲内ですよ、とにこやかに言われた。
そうではなくて、毎回毎回寝かしつけに1時間以上かかるのは正直しんどいという話だったのだが、
助産師さんからすればそんなの当たり前の話で、しんどいからなんだということだったのかもしれない。
ベビーベッドから静かに離れ、ぐったりと椅子に座り、
スマホを手に取る。
前はもっと、新聞や雑誌を読んだり、資格の勉強をしたりと、
隙間時間に有意義なことをしていた気がする。
今やもう、その日その瞬間を乗り越えるので精一杯だ。
SNSを立ち上げて、スルスルとスワイプしていく。
スタッフとして関わらせていただいているプロジェクトが、
今年のITプロジェクトアワードで優秀賞を受賞いたしました。
私たちのトライアンドポジティブという理念に共感してもらえたこと、
今後100年を見据えた持続性のあるプロジェクトであることを評価していただけました。
私たちが仕事をしていく上で大切にしている部分を踏まえてくださった受賞なので、
とってもとっても嬉しいです。
すごい、いずみ、また何か受賞してる。
みんなイキイキしてるな。すっごく楽しそう。
ユズ、起きちゃったのか。
ユズを抱き上げ、トントンと背中を叩く。
耳元ではユズの鳴き声がグワングワンと響き渡っている。
これは当たり前のことで、正常の範囲内のことで、
永遠に続くわけじゃないってわかってる。
わかってるけど、私にとっては今この瞬間が全てなのだ。
あれ?リエ、寝てんの?
はっとして目を覚ますと、マサルが私を覗き込んでいた。
お帰り。早かったね。もう11時だけど。
嘘?
慌てて起き上がり時計を見ると、確かに11時を過ぎていた。
ごめん、ユズを寝かしつけてて私も寝ちゃったみたい。
ユズちゃん、パパですよ。
マサルはユズの寝顔を見ながらニコニコしている。
そうだ、飯は?
あ、ごめん、ご飯作ってない。
おお、そうか。ユズの世話、大変?
まだ慣れなくて。
そうだよな。じゃあデリバリーで何か頼むよ。
ありがとう。
起きちゃったか。
私はユズを抱っこして小さく揺らす。
ユズ、よかったな、ママに抱っこしてもらえて。
ユズはすぐにフニャフニャと泣き止み、まどろんでいる。
やっぱりママが一番だよな。
うらやましいな。ユズのママは世界一だぞ。
マサルは満足げに私とユズを眺めてニコニコしている。
そんなことより、たまには抱っこをかけている。
そんなことより、たまには抱っこを変わってもらいたい。
来た来た!
マサルはデリバリーを受け取り、ライニングテーブルに着く。
見るとロコモコ丼が一つとフライドポテトとチキンが入っていた。
他者とのつながり
私の分は?
え、リエも食べてなかったの?
そうだよ、自分の分だけ作ってマサルの分だけ作らないわけないじゃん。
俺はてっきりリエはもう食べたのかと思ってた。
そんなわけないじゃん。
あー、ロコモコ丼食べる?
ううん、いらない。
いいよいいよ、もう一回頼めばいいだけだから。
いいよ、だってマサル仕事で疲れてるでしょ。
大丈夫だよ、すぐ届くって。
あー、もういらないって言ってるじゃん。
私の声に驚いてマサルは固まっている。
ごめん、ロコモコ丼の気分じゃないよね?
そういうことじゃないけど、もう寝る。
私はユズを抱え、逃げるように寝室に入った。
薄暗い部屋の中、世界中に私とユズしかいないような気がした。
よし、忘れ物はないな。
抱っこ紐に収まったユズは足をブラブラさせている。
私の歩くリズムに合わせてユズも踊っているつもりなのかもしれない。
バスに乗ると優先席が空いていたから座らせてもらった。
正面の一人席には小学生の女の子が本を読んでいた。
お次、降りる方いらっしゃいませんか?
いくつかバス停を過ぎた頃、ユズがフニャフニャと言い出した。
さっきまでご機嫌だったのに、嫌な予感がした。
ユズ、大丈夫、大丈夫よ。
私は一生懸命あやしたが、全然効果はなかった。
うるせえな。
バスの奥から声が聞こえた。
背筋がゾッとした。
何か危害を加えられるのではないだろうか。
早く泣きやませなくちゃ、早く泣きやませなくちゃ、早く泣きやませなくちゃ。
お母さん、私に抱かせてくださらない?
顔を上げると、笑顔の女性が立っていた。
年齢は、50代から60代くらいだろうか。
急にすみません。私、鳥谷保育園で教頭をしているんです。
どこかの保育園の教頭先生が、自然な動きでユズを受け取ろうとするので、
なんとなくそのまま渡してしまった。
教頭先生は、私の隣の席で、ユズを上手にあやしていた。
元気ないい子ね。何ヶ月ですか?
3ヶ月です。
あら、じゃあお母さん、今日は久しぶりな外出だったんじゃないですか?
私は小さくなずいた。
涙がこぼれないようにするのに必死だった。
大変ですよね。
でも、こんな小さな命を毎日ちゃんと守って、ご立派ですね。
教頭先生は、降りるバス停までそのままユズをあやしてくれた。
世界には、私とユズしかいないのかと思っていたが、
どうやら変わり者もいるらしい。
いつか、ユズが私の手を離れた頃、
私もあんなふうな変わり者になれるのだろうか。
いかがでしたでしょうか。
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それでは、あなたの一日が素敵なものでありますように。
小島千尋でした。