努力の意義と無常
今回はですね、人生終わったらすべて無になる、そんなふうに思っていない人もそういう感覚って誰でもあると思うんですよ、そこへの恐怖っていうのは。
それなのに人が努力できる理由を話していきたいと思うんですが、処方無常っていう言葉も聞いたことあると思うし、
命を無くす、以前からこの人生においても栄えてたものも衰退していくし、
特に倉木凪が学生時代、みんな大学行って勉強したってどうせ仕事で使うのなんてその一部の知識だし、
高校でこんな国数エリーシャ勉強したってね、大学で使うのなんてほんのその一教科のその一分野だけだし、
常にね、努力家ではあったんだけど意味ないんだよなぁと思いながら生活はしてました。
だから疑問でした。世間の人はなんでこんな努力できるのか。
これは自分においてもそうですよ。いまだにそうですよ。あまり考えないようにはしてるけど。
このエピソードを撮ろうと思った時、こうやってポッドキャスト頑張ってもいるけども、
でも倉木なんか誰よりも人生終わったら全て無になるという意識ですから。
まあ最初に、これ今ちょっと思ったことなんて話しておきたいのが、
普通に人間が頑張ってる時に、こんな意識して何かが積み重なってる、
そんな意識はないのかもしれないですね。実際何かに集中してる時って没頭しちゃって、
これは何かのためになってるなんて意識が基本的にないからこそ、
冒頭お話したことに気づいてもあまりそこまでダメージはないのかもしれない。
普段からこれは何かのためにやってるんだと意識が強く、だから強すぎるとやっぱりあれなんですよ。
3年後のために受験免許が余ってるけど、でも最終的には人生終わるんだよなとなってしまうんですよね。
クラゲの場合、人生いつか終わるなんてことを考えなくてもね、とても虚無感に押される時はありますね。
でもこんな疑問を持っておきながら、ふと気づくんですよ、こういうことを考えてたら。
でも目の前にある幸せを得るのって別に理にかなってるなと思うんですよね。
だけどそれって、やっぱり人間も動物の一種であるという考えが前提なんですよね、やっぱり。
人間的な感覚というか、人間はこの人生を生きてるという、そういう長い目で見ると、そんな幸せに感じたことすら無になるわけだし、
だし、快感のために何か頑張ってるのであれば、それはたなる動物だし、ビール飲んだり卵吸えばいいだろうという話になっちゃうし、
そういうことじゃなくて、もっと人間的な、例えばボランティアやるでもいいし、
ご大欲求で、処人欲求って高いから、例えば、何かの成績がつくようなことをやればSNSをやる。
でも自分が亡くなった後っていうのは、意識がなくなるわけですから。
だし、SNSも凍結してしまうっていう物理的な分かりやすさもあるし、
そうなる未来を想像してね。
っていうか、ポストできなくなる。
自分とは縁がなくなる。
自分が努力してきたこともね、どんな成績も、どんなトロフィーをもらっても、どんなに仲間をたくさん得ても、
自分が死んだらもう関係ないわけじゃないですか。
友達が言おうと言いながら、頑張って友達の信頼感を得ても、すべてパワーになるわけですよ。
でもね、そもそもこんなことを考えてすらいないか、考えないように都合よく人生を捉えてしまってるか、っていう場合も多いでしょうね。
だとしたら単に努力をすることが好きだ。
生存本能と動物的な視点
そこまでしてでも努力をしなきゃいけないっていうのは、
努力をすること自体が好きなんですよ。
あと、農学的には努力遺伝子があると。
そういうものを使った努力があると言われてるんで。
だから働きありがいるっていうのと同じで。
これも生物学的なことでしょうね。
あとは今言った通り、
動物的な理由で、
他の動物だってそうでしょ、だって。
いずれ話すけど、クラキは他の動物も、自分が死ぬことが起こるにはわかってると思うんだけど、特に猿なんかは。
餌を取るのなんかは、別に努力しようなんて意識ないだろうし、
他の動物と同じことなんですよ。
だから生存本能、単なる本能なんですね、努力してるのは。
もちろんね、時々そうやって哲学性なことを考えても、結局は人間も動物でしかないわけですよ。
そもそもその餌を取るっていうのは生存本能だし、生き延びようとするのも、結局動物的な感覚なんですよね。
だとすると、今回の話で言うと切な主義、主義ないのかなと思いますね。
努力するのって美化されるけど、死ぬこともわかっていないで、頑張っちゃってるんだから。
確かにわからなくはないですよ。
諸行無常だからこの世界は、基本的にあらゆるものは消滅すると思ってた方がいいし。
ただこの諸行無常ってもっと深い意味であって、
今回の話で言うと、芸術家が作るもの、情報なんかはずっと残ってくだろうし、
話に戻りますけど、諸行無常。
でもこれあくまでも変化するってことであって、全てのものはなくなるとかそういう意味じゃないんですね。
だから花なんかはね、芽が出てきて、蕾を膨らまして花が咲いて、
そういう糧もあるわけですよね。
だから人間においてもね、見方上がりになって栄えるっていう変化もあるわけですよ。
こんなのは暗きは、諸行無常とは違うし非常に人間的な捉え方だな、
つまり自我の都合のいい捉え方だなとも思うんだけど、
これもある意味諸行無常だとすると、
いずれそうやって亡くなったり、自分の命が途絶えたり、
自分の命が途絶えても、受け継いでくれて何か残っても、それでもいつかは亡くなる。
とは言ってもそうやって、運が良かったらうなぎ登りだったり、
人生の充実と哲学的矛盾
生き生きどんどんな時も人生にはあると。
そういう未来を想像して、努力してるんだという理屈は一応成り立つには成り立ちますよね。
まあこれが黒木が言う切な主義なんだけど。
今回話してたら、だから人生死ぬとはわかってるのに、
今回話してたらというか、たまに解けると思うんだけど、
ライフワークだって言ってね、黒木の担任もブログ頑張ってたけど、
長いスパンで何か残す、あるいは後世に伝えるようなものって不毛だなと思ってしまうんですが、
切な主義だなと思ってしまうんですよね。
生きてる間だけでもっていう。
だからなんだろうな、人間生きてる時は充実させるんだろうね。
何にもやんないのはそれでそれで暇だし、
かといって一生懸命やるのも馬鹿馬鹿しいのもわかってるけど、
でもある程度は人生充実させなきゃいけないとなった時に、
今回話したようなおかしな矛盾が生じてしまうんですよね。
でもこんなことを話す時なら普段こういう理解の仕方もしてて、
目の前の少しの喜びのために頑張りたくなるし、
ただね、ここで大事な話ですけど、
やっぱり普段こうやって生きてたらこうやって連続していく毎日なんで、
いちいちこの哲学性のことも考えてられないし、
となるとやっぱり生物としての生存本能で生きていくために
努力せざるを得ないんですね。
いくらおかしなことだとわかってても、
どうしても今回の話に矛盾が生じてしまうんですよね。
人間を動物と捉えるか、
動物ではあるんだけど、
この動物と違って、
努力する存在とも言えるか。
クラケはもう人生というのは暇つぶしでしかないと思ってて、
だから努力っていう暇つぶしをしてるだけとも言えるんですよね。
だって食べていくとか排泄とか以外、生きていくのは必要ないんだから。
もう一度言いますが、生物学的には目の前の快感を得るために
必死に何か頑張るって普通だし、
他の動物とは何ら変わらないっていう捉え方をしたら、
そもそも今回の疑問は出てこないんだけど、
でも何ら変わらない動物だとは見せたくはないですよね。
だったらいずれ死ぬってわかってるんだから、
努力することなんて放棄すればいいんだけど、
それはそれで無理ですよね。
でも他の動物も獲物を獲るし我慢もしてるわけですよ。
人間だけじゃないんですね、努力してるっていうのは。
それでは、したっけ。