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2025-11-23 14:55

第5235回 哲学回静けさや岩に沁み入る…これを哲学的に考える&過去というものを考える

特別支援学校に転校して大学に行った彼女、普通学校から引きこもりになった俺。

発達障害当事者です。そして宗教2世でもあります。ハイブリットなこの生きずらさによって起きた過去にあった学校や家庭での事件や悲喜こもごもな話を赤裸々に語ることによって、特性や特異な考え方をすることを知ってもらいたいです。

発達障害の特異な感性ゆえに世の中の理解できないことや、宗教をやめてから哲学的に考えてきたこと、そして音声配信者としての苦悩などの話もPodcastでしています。

発達障害専門家、当事者、興味がある人が発達障害を考える材料になればと思い、日常の考え行動を細かいところまで話しています。番組登録よろしくお願いします。コメント待っています。

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サマリー

このエピソードでは、自己と他者の関係性について、現代哲学と仏教哲学の視点から考察しています。また、過去の存在や記憶の捉え方についても論じており、過去が幻想である可能性について考えています。

自己と他者の関係性
今回は哲学立つ段階になっております。 まず事故と他者の話からなんですが
事故と他者っていうのは、基本別なものだと現代人は考えているわけですよ。 この他者っていうのは
自然にあるものすべてを含めて考えたいんですが
こと人間に関しては別のものだって意識ありますよね。 たとえ家族であっても
ただ家族の場合、空気みたいな存在って言いますけど、こういった場合やっぱり 自分と同一視している、つまり境がない
ような感覚になることってあると思うし 特に人の話に
没頭している、没入している状態とか あとドラマに没入している状態
なんかもう 別のものというか、もう同一なものになっているような
感覚、だから意識っていうのは やっぱり
以前話した通り関係性でできているとも言えますよね
他者との関係の間にある だから
もちろん 脳の中水に
意識ってあるのはあるんだけど 以前ね、これわかりやすく話すためにぬいぐるみ
と意思疎通できるっていう人は、たとえに出したんだけど この人とぬいぐるみの間ね
つまりその関係性に意識で存在する この人がぬいぐるみに意識があると思えば
この二人の間に意識があるとですね
この自己と他者っていうことで考えると ブッダなんかは
自己と他者は別だとは考えないんですよ 自己と他者が別だって考えると、つまりそれぞれ単体なものだって考える
考え方だけど
自己は他者があるから自己があるというか
難しい概念なんだけど 存在はそもそも空であるっていうのがブッダの考えだから
ただ西洋哲学は存在ありきでなんだけども そこから関係性は生まれる
でも関係性があることによって存在が 認識されるというか
だから自分と父親
まあ母親でもいいけど この関係性、親子という関係性があるから
その関係性の娘として自分というものは認識できる 息子であるとか娘であるとか
兄弟との関係性で言うと妹である兄である 弟である姉であるっていう風に
自分が定義付けされるわけですよね でこれ西洋哲学でも
自己と他者は別だと考える哲学者ももちろんいます これは単体だと考える
要はその人間に実体があるという考え方ですよね ブッダの考え方と相反する考え方
そうじゃない考え方っていうのは
他者が教えることによって自分も分かると思うんですよ だから
さっきのブッダのことを言うと 兄が
兄を兄と
そうですね兄がいるから自分は弟だと認識できる 自分のアイデンティティが分かるとですよ
これ別に人間じゃなくてもいいんですよ 自分
あの外国というものを認識することによって自分は日本にいるということが認識できる
これはブッダのとか東洋哲学的には 関係性によって自分が成り立つ
で西洋哲学的に言うと身分ということですね 分けられないんだと
だから 自分と自然とも分けられないし自分と
友人でも 親友でも親でもいいけど
仏教と西洋哲学の対比
分けられるものではない
まぁちょっとイメージしにくいと思うんですけど
ただ少なくとも どうしても人間って普段生きてると
分けて考えてしまってるわけですね さっき言ったように家族は
そこらへんちょっと曖昧な部分はあると思うけど
でも 身分な
状態 つまり分けられない状態
でなんとなく イメージもしてもらえると思うんですよ
例えば 日本人がオリンピックに出てて
まさにこれは自分が戦っているのを感じますよ だからこそ勝った時嬉しいんですよ
日本人というところで共通点を見出して 同じものと捉えたわけですね身分なものだと
この考え方当たり前なんだけどこれ面白いもんで だから
他者ありきなんですよ自分って だから
他者によって自分も分かるし 他人
だからといって人とたくさん関わりなさいとは思わないけど なぜかというと こういうことをよく言う人いますよね
自分を知るには他者を知りなさいと でも
別に人じゃなくていいわけですから 存在すべてのことを言ってますからね
まあだから自分 っていうもの
自分自分って言ってたら
逆に自分でなくなるわけですね
自分を探そうとすればするほど わからなくなるわけです自分が
なぜかというと関係性でできてるから人間って 人間というか存在っていうものは
だから自分ってものは何か 例えば北海道民である兄であるとか
結局自分を説明しようとしたら自分以外のものを 持ち出すしかないんですよね北海道は別に自分じゃないし
自分が弟だとして兄だとして
弟がいるから 自分は兄なわけだし
〜高校出身〜高校って別に自分じゃないし
やっぱり他のものとの関係性だけ自分との認識できないんですよね
でここで その身分について話したいんですけど
わかりやすい例があるので 松橋の静けさや 岩に染みる
泉の声って これまさに仏陀の関係性の話なんです
さっき言った倉木が話した ドラマを見てる時は仏を没入してしまってるってのと同じで
一体化してるわけですよ まあ合わさってるっていう捉えるイメージでも
同じものだと捉えるイメージでもいいと思うんだけど 蝉の声この場合だと
蝉だろうが何だろうが何でもいいんだけど 虫が鳴いてるなんてうるさい限りでしかないんですよね
この上なくうるさい場合もあるわけです 蝉なんか特にそうですよね
でも静かだって言っちゃってるわけですよ この場合岩にと自分が同じになってるから
蝉と一体化してるのかそれは置いといて 蝉と一体化っていうよりは蝉も自分も自然のこの宇宙の一部だと
まあ 厳密な宇宙であると捉えてる それでもどっちでも同じことなんですよ
岩でも何でも 宇宙の一部ですから
人間で基本別なものだと考えてるけども 仏陀で言うとこの
自我をなくせば自我はない状態 っていうかまあ
本当はっていうのかな 本来はっていうのかな
人間も宇宙の一部でしかないわけですよね 宇宙でしかないわけです
だから蝉とも岩とも 境なんかないわけですよね
形なんか本来はないわけですよ つまりは実体がないってことなんだけど
その感覚では 蝉の声なんかうるさくないってことですよね
まあでもそういうことってありますよね 例えば時計の音気になってたけど無意識になってくる
過去の幻想
これなんかも
そういう生物科学的な作用なんだと言ってしまえば 脳のそういう機能なんだと言ってしまえばそうなんだけど
脳科学的に言うと誰なんだろうけど 蝉も自分もそれぞれ
この世界に生きる別のものだと捉えてしまってる時点ではただのうるさいもの なわけですよね
でも西洋哲学的に言うこの 身分な状態
つまり境がないという状態 形がないという状態
結局境なんて人間が作ってるだけですからね これを取っ払えば
静かだなという認識が生まれるっていうことですよね
最後の話です 以前話した
旧約聖書のエデンの森 エデンの園 これよく哲学で持ち出されるんですけど
これクラケもいまいちわからなかったんだけど ちょっとわかったことがあったので話したいんですけど
これエデンのその出るアダム までアダムとイブは
楽園にいた これもねこの話を作った人が楽園だと勝手に名付けてるだけであって
そもそもこれが楽園だとはクラケはあんまり思わないし 結局アダムとイブという観測者が
まず話しちゃうとこれ 出た瞬間にあれは楽園だったと分かるけれども
ということだけれども
ただですね 結局結果論なんで
時間が経てば またあれは
結局今の状況が良ければ あの時はちょっと辛かったと思うだろうし
あるいはあの経験があったから今があるみたいな考え方すればあれは
良かったと捉えるかもしれないし あまりに辛い状況になったら楽園だったと思うかもしれないし
時間軸によってもね楽園と捉えるかどうか定義付けできるかって変わってくるから
絶対的な問題はないんですね でそれとですね今回話したいのは
まあ結果論って言ったけども もちろんだから過去の捉え方は変えられることはできるんだけど
ただ
過去なんてないとも言える 幻想でしかないとも言えるわけですよ
だからちょっとこれ空想の話なんて分かりやすく捉えたら 例えば小学校 自分が出た小学校
この時のことはああいう教師がいた変な教師がいたっていろいろ解釈後からできるけども
もう小学生の時に戻ることはできない
小学校っていう学校に戻ることができても小学生であるあの時代に戻ることはできないわけです
過去には戻れないわけですから
そういう意味じゃもう実質
この学校なんてないと言ってもいいです だからエデンのそのままだって
もうないようなものなんですね
物理的にその小学校があったとしても その人にとってはもう
もう過去の話と言ってもいいぐらい
懐かしんで見に行くことはできるかもしれないけど
ほぼ関係ないからもうないようなもんですよね
何を言いたいかっていうと
例えば実家を出て
実家ちょっと分かりづらいか
例えば
故郷を離れて
で戻れないってなった時にですよ
もう故郷なんてないようなもんなんですよ
故郷っていう概念自体がちょっと
故郷なんでねちょっと今例え悪かったけど
もう戻れないんだとすればいい
将来戻れる可能性があるならば話別だけど
当分戻れないあるいは戻れないとして
年に1回も戻れないとしたら
もうそんな故郷
故郷出た時にね
地元の良さって分かるけども
もうその時にはないようなものなんですよね
けどないならないでいいんじゃないかと思うんだけど
例えば
彼女と別れることになって
別れた時にありがたみは分かったり
後悔が出てきたり
でももういないようなもんなんで
後悔しても意味ないんですよね
そこを考えるとね
だけどそもそも
ここで言えるのは
ありがたみっていうのは分かれないと分かんない
これがちょっと
辛いお知らせ
良いお知らせは
でも後悔しても意味ないようなものなんだから
気にする必要もないとも言えるわけですね
それでは明日っけ
番組フォローよろしくお願いします
14:55

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