今回はですね、今まで話した仏陀の話の総集編みたいな形になるんですが、
なるべく分かりやすく話していこうと思います。
今まで9回に渡って、散々いろいろ…10回に渡って話してきましたが、
まず人間って、こうやって原始仏教を勉強してもそれでも、感覚的にはどうしても執着してしまうんですね。
だから商業無常の考えって現代人、少し頭に入れておくだけでだいぶ違うと思うんですよ。
まあそんな話もしましたね。あと、ゼロと空は同じだと。
すべての存在は空だと言うなら、すべての存在は点でもあるわけだし、
すなわちゼロだと。
そういう話もしましたが、前回話した通り、空ってのはさらに抽象化させた概念なんですよね。
色即絶極の空ですよね。だからゼロイコールではない。前回はそんな話しましたね。
まあそういうことについていたいのですけど、
自分が存在しないなら何なんですかと。単純な話で、宇宙の一部ですよね。
そう捉えるのがいいんじゃないかと思うんですよ。
誰も異論を唱える人はいないだろうし。
まあでもこんなことは忘れがちですよね。
あと、この前五大欲求の話をしましたが、一番上に自己実現が来るんだけど、
そのために自分を理解する必要があって、
自分を理解しようとすると、
そもそも自分なんか存在しないけど、自我が自分を理解しようという意識を常に持ってるんですね。
で、その時に一番大事なものは先に来るんですね。
自分が大事にしていることが来る。
それは優先順位でもあり、価値観でもある。
自分を理解するために物事の優先順位をつけている価値観が存在する、なんて話もしました。
諸法無我と対極にあるのはやっぱり人間的な捉え方ですよね。
どういう捉え方かというと、人間は物事を理解しようとするとき分けるんですね。
だから動物をいろんな種類に分けますよね。
本当に細かくいろんな何々科の何々族のとかを分けるでしょ。
そうやって理解しようとするんですよ。
だからもし一旦自我を手放して、諸法無我ということを生きようとしたら逆を生きればいいんですよね。
特に人間は大事なものと大事なものを分けるようにできているわけですよ。
親は大事だけど、テレビに映ってる人は大事じゃないですよね。
あと仏教ではいろんな説があるんだけど、
ブッダは死後の世界も魂も否定してますから、この人は。
神はわかんないけど。
冷たい方針に感じる人も多いと思うんですよ。
宗教と比べたら冷たく感じる人も多いと思うんだけど。
ブッダが言う諸法無我は実体がない。
すなわち魂なんか存在しないということですね。
あと老いるとか衰退するとか、これ何度も言ってきたけど。
世の中の道理であり、諸行無常とは結びつけちゃ考えてはいけないと思うんだけど。
断言できるけど、お坊さんたちはね。
あと諸行無常は響ありなんかも、あれはいいですけど別に文学だから。
お坊さんがこういう考え方をするのはどうかと思うんですけど。
わかりやすい例として、それでもどうかと思います。
だから人は縁によって生きてる。支えられて生きてるんだと。
これは別に日本人的なただの価値観だろうと思うんだけど。
諸法無我って関係性によって成り立ってるってそういう意味じゃないですからね。
関係性によって、例えばストーブなら物とも言えるし、
人を温めるものとも捉えられるし、部品一つ一つに着目すれば、
そういういくつものものがあると。
一応集合体って捉え方でいいのかどうか。
あるいは家っていう家の一部と捉えることもできるかもしれないし。
そういう話であって、別に多くの人の支えがあってとか、
一つ一つのこういった製品もいろんな人が運んだり作ったりしてるからとか、
そういうことを言ってブッダが言いたいわけじゃないんですね。
あと、ブッダの言うことは真理だと言うしてるけど、真理でなく事実ですね、正しくは。
真理なんてものは存在しないし、だから処方無我だってそういうことじゃないですか。
物事の実態はないって言ってるんだから。
あとずっと疑問視してるのが、
まあ仏教は知らないけど、ブッダの言うことをね、
ブッダの考え方らしくて、その苦しみをなくそうなくそうとするような教えじゃないと思うんですよ。
苦しみをなくそうとすることが苦しみの1ページ目ですから、ブッダが言ってるのは。
あと変化するのであるから、人間もね、今は才能なくても才能があるかもしれないって、
それはね、生物学とか行動遺伝学の分野の話であって、
そんなことに諸行無常を照らし合わせて考えちゃダメなんですよ。
じゃあ変化しないものもあるんじゃないかと、言うことではないですからね。
まあこうやって言うと、実生活に応用できないなと思う人もいるかもしれないけど、
それでもやはりね、ブッダの言うことは、時折心に置いておく、立ち返るべきものだと思うんですよ。
ちょっと話変わるんだけど、クラキが前の話で宗教に入っちゃった時ですね、
あの細胞から宇宙にスケールアップして、
まあだからこれは、人間も地球の一部でしかないという映像なんだけど、
これなんかもね、ブッダの言うとこは諸法無価ですよね。
それを小さい頃から英才教育されてたなって気づきましたね。
で、ちょっとさっき思ったんだけど、
まあ諸法無価で実態がないんだから、さっき言ったようにストーブも物でもあるし、
人間もね、一人の人物と捉えることもできれば、動物と捉えることもできたり、
だから実態がないっていうのは、何だろうな、
まあ外から放された単体、単体のものであるというわけではないということですが、
まあマクロな視点でいくとね、
人間は腕とか目とか、そういうストーブで言うといろんな部品に分けられる、
さっき言ったように人間って分けたり抽象化させて、物音をいろんな捉え方するわけですけど、
ある意味ブッダの諸法無価っていうのは、この世界の法則ではあるんだけど、
人間はそうやって捉えてるけど、
人間の頭を通して見ても、こうやって物事って抽象度によって全く別物になりますよっていう、
惜しいなようにも聞こえるんですよね。
あと、ついでに話し合うと、さっきね、生活で応用できないようなこと言ったけど、
逆にね、すごい具体的なことで、それこそ人生哲学っていうよりも、
食事中ね、この諸行無常とか、すごい参考になることがあるんですよ。
例えば、全く一回一回一口一口、こうすれば味わえるとかそういうことってないんですね。
あとね、こういう風に味わおうって執着すると、絶対うまくいかないんですよ。
だから逆にスポーツ選手とかは、ブッダの学べば活かせるような気がするんだけど。
で、話戻りますが、
だから諸法無価ってのはね、
これは今日もこの考え方あんまり好きじゃないんだけど、
これは今日もこの考え方あんまり好きじゃないんだけど、
細胞の一つ一つ、
これもね、この取り方はどうもね、しっかり来ないけど、
っていう風に、が別々にあるとも捉えられるし、
で、それが集合体が、
自分であって、
普段この自分は自分であると捉えられてるけど、
抽象化させたらこれはただの動物でしかないし、物でしかないし、
逆に細分化すると、腕とか目とかがあるっていうだけなんですね。
ブッダが言ってる自分がいないというのは、自分なんていないというのは、
そういう捉え方もできるかもしれない。
だからね、病気治せないから、
あとは体痛くてもすぐ治せないから、
でもそれはね、簡単に、
自分の脳の働きでオペレート、
その感覚ができないっていうだけであって、
それは無理があると思うけど、そうやって言ってる人もいたけど、
だから自分自分って言うけど自分でないんだとか言う人いるけど、
一理あるかなとは思いますね、今の考えからすると。
ある意味では別の器官なわけですからね、脳とは。
でも生物学的に言うと、脳と神経でつながってるわけですからね、
そういう痛いのを治せないのはまた別の話だと思うんだけど、
でも人間ってのはこの直があるから、
この直があるから、この手足、顔、すべてが、
これで自分だと、単体のこの自分なのだと、
意識あるのは間違いないですね。
あとブッダが直がなくなった、それが悟った時だって言う人いるけど、
人間なんで直ずるは絶対ありえないですね。
それに近づくことはできたとしても。
だからね、二半着状の物をある周り食べないってやってた時も、
ゼロには絶対なんないんですよ。
それブッダも言ってます、食べてる。
食事をするってことはそれは、絶対欲が出ることだし。
あとお坊さんでね、処方向かっていることは関係性だったから、
ある時はお兄さんになり、ある時は弟になり、
これもね、感覚的にね、さっき言ったように、
ストーブは物であるとか、実体がないっていう意味でね、
でもね、お坊さんが言うのはね、
だからこうやってお兄さんになったら弟になったり、
だから、それだけならばいいかもしれないけど、
その後に何かね、クラキニア達族だなと感じることもあって、
まあ宗教と結び、だから、しょうがないのが仏教徒だから、仏教信者だから。
あくまでもブッダが言ってることはそういうことじゃないと思うんですよね。
お兄さんなるとか、ある時は父親だとか、
それは現実社会の立場的な話でしょ、だって。
あとついでに話しちゃうと、
関係性、関係ありきで、
いろんな存在があるっていうのは、あくまでも東洋哲学か西洋哲学の話であって、
日本人はね、苗字が先に来て、
で、その人の家柄とか関係性を大事にして集団主義だとか、
これは文化的なことであって、
ブッダが言ってる諸法文化とは関係ないんですね。
まあでもそれが宗教になり、こうやって文化的な価値観になり、
だいぶ曲解されて、
まあそれもしょうがないのかな、そういうこともあると思いますけど。
あとはブッダの言ったこと、ここまでの長い歴史の中で、
ブッダの言ってる諸法文化は、
何年経ったって、この世界の事実を表していることであり、
宗教的なことではならないんだけど、
それでもそれを解説する人もいますし、
ブッダ自身人間ですし、ブッダを悟ったとはいえ、
悟ったとはいえ、
悟ったことがテレパシーでそのまま伝わるわけじゃないですから、
言葉を返して伝わってるから、どうしてもね、
しかも人間が理解してるわけだから、どうしても矛盾が生じてしまうんですよ。
だからそこで無理に、自分に都合よく捉えようとすると、
あるいは真相真理を求めようとすると、宗教になってしまうんですね。
先ほど言いましたけど、そもそも真相真理ではないですから。
事実ですから、社会の。
あと科学が追いついた。
そして人間は細胞が入れ替わることがわかって、
やはり処方無我だって伝える坊さんとかもいるし、
そういう人いるんだけど、
それは生物学的なことであれ、
細胞が入れ替わるのと処方無我は全く関係ないですから、
細胞が入れ替わらなくても諸行無常で物事は変わるのは変わりませんからね。
だってそれ言い出したらね、
DNAに書かれていることは変化しないわけだし。
ついでに話しようとある文化人がね、
情報は変化しないんじゃないかと、暗きもそう思ったんですよ。
例えば、情報無常は響きあり。
これ変化しないんですよね。
千年以上前から。
科学時代から魅惑魅惑と伝えられてきて、
これこそ変化しないんじゃないかというのも一例あるんですよね。
一例あるとも捉えることができる。
だからさっき言ったように、
いちいちこういう矛盾で尖っていたらダメなんですよね。
その教えを受けるという意味では。
あと仏陀の教えってね、苦しくない時に出会ってもあんまり響かないんですよ。
苦しい時に一度出会っていくっていうのがやっぱり大きいと思うんですよね。
あと自我っていうのは結構大きいんですよね。
苦しむときに一度出会っていくっていうのが大きいと思うんですよね。
あと自我っていうのは記憶ですよ。
だから記憶が人間を苦しめるんですよなんて話もしましたよね。
暗くては思ったんですよ。
記憶なくすってどういうことかなと。
集中することなんですね。だから仏陀は瞑想ってことをして、
今でも仏教でやりますよね、瞑想っていうのは。
記憶をなくすことだけじゃなくて一時的に記憶を排除することができるんですよ。
あとは
刻一刻と変化しているイメージだけでも、
そうやって言うお坊さんもいますけどね。
一秒前とは違う人間なのだと。
でも仏陀が言う諸行無常ってその時間とか空間とかを超えて
説明しているような気はするんですけどね。
あと、諸行無常を学べば価値観にとらわれなくなる、比較しなくなる。
だからそれをやりましょうみたいなマニュアル的なことを言われるとね、
なんかどうもピンとこないんだけど。
結果的にそうなるかもしれないけど、これ感覚的な
丹良っていうことによってそうなるわけであって。
だから仏陀の教えを学ぶといいですよっていうのは
どうも違うと思いますね。
人によっては結果的にそうやって価値観にとらわれなくなる。
でもその人によっても何をもって価値観にとらわれないかというのも違ってくるし。
どうもこの説明の仕方嫌ですね。
あとね、本質的なことを
本質はないという教えですからね、諸法無我って。
だから割と物事を探求している人に響くと思うんですよ。
そうでない人にとってはね、
ちょっとねじ曲げて取られてしまう可能性もある。
あと、呼吸をしないといけないから人間は不完全だ。
だから一切化学なんだ。
食事をしないといけないから人間は不完全なんだ。
だから一切化学なんだという人がいるけど、
これは生物学的なことであって、
たとえ生物の生地上、呼吸をしなくてもいいとしてもね、