1. 哲学以前の違和感
  2. 第5889回 終わらない観測
第5889回 終わらない観測
2026-07-18 57:09

第5889回 終わらない観測

この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。

哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。

「何を知っているのか」

「それは本当にそうなのか」

「確信はどこから生まれるのか」

人はなぜ何かを信じるのか。

なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。

私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。

信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。

意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。

人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。

意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。

結論よりも、考えている途中の揺れ。

完成された思想よりも、変化していく認識の記録。

自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。

虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

このポッドキャストでは、人生における「意味」や「確信」の根源について深く掘り下げています。話者は、何かを極めようとする情熱や、ストイックに限界まで努力することの美徳といった、一般的に良しとされる価値観に疑問を呈します。体を壊してまで努力することや、完璧主義に囚われることの危険性を指摘し、それらが幻想や自己欺瞞につながる可能性を示唆します。また、人間が過去の出来事を現在の価値基準で再評価し、後悔や成功体験といった物語を作り出す心理についても考察します。さらに、変化への対応の難しさや、微調整のストレス、そして「無神経さ」への恐れなど、日常における様々な葛藤や矛盾に焦点を当て、絶対的な正解が存在しない世界で、人間がいかにして意味を見出し、生きていくのかを探求します。最終的には、虚無を前提としつつも、無理やり基準を作り、悩みながらも前に進もうとする人間の姿を描き出しています。 話者は、完璧主義やストイックさといった価値観が、しばしば自己欺瞞や幻想につながることを指摘します。体を壊してまで努力することや、完璧を求めるあまりに現実の複雑さに対応できなくなる状況は、称賛されるべきではなく、むしろ危険な兆候であると論じます。また、過去の出来事を現在の価値観で再評価し、後悔や成功体験といった物語を作り出す人間の心理にも触れ、絶対的な正解が存在しない世界で、人間がいかにして意味を見出し、生きていくのかを探求します。変化への対応の難しさや、微調整のストレス、そして「無神経さ」への恐れなど、日常における様々な葛藤や矛盾に焦点を当て、虚無を前提としつつも、無理やり基準を作り、悩みながらも前に進もうとする人間の姿を描き出しています。

「極める」ことへの疑問と虚無感
これから、倉木さんのラジオ収録始まります。
ケンザヒルです。極端な人は、
あ、間違えました。意味を強く持ってた時は、何かを極める職業でない人に疑問だったんですね。
例えば、内科医と外科医で、もう違いますよね。
で、検査するだけの、
課だと淡々とこなすだけだし、
そうやって何か自分でも極めようとしてた。進路においてもそうだし、職業選びにおいてもそうだし、
意味の地縛と戦ってたと思いますね。
すぐ次行きますか。
あ、その前にですね。意味の地縛に囚われるというのは、これが正しいとか、
という凶悪観念に近い理想があるんですよね。
何か成し遂げられなければならないという、重圧が常につきまとうんですよ。
これって幻想を現実に、無理やりねじ込むという力仕事なんですね。何でかというと、
極める先に何かあると思っている。
だから結果が出ないときとか、理解されないときは消耗するだろうし、
淡々とこなすことっていうのは、
虚無感を見ることになる。
けどもその時は、
宗教をやってたのもあるし、虚無に対する対抗意識が強かったんですよね。
今とは正反対っていうか、別人格というか。
でもその一方で、当時からいつも言いますが、
宗教には熱心ではいたんだけど、
虚無感も実はあったんですよね、以前から。気づいてないだけだったんですよ。
今ちょうどこれ悩んでいるのが、極める情熱がないと、
やりがいもないだろうし淡々とするだけだと、
意味がない気もするし、
でも少しだけは意味を持とうと極めようと
足掻いている自分すらも、結局ここで
記録できればいいという俯瞰して見ている部分もあるんですよ。では次。
限界への挑戦とストイックさの誤解
限界までやるのはいいと思うけども、
体のことも考えずやるのは全く称賛してはいけないと思うんですね。
でも筋トレやってる人とかもそうだし、
そういう風潮ありますよね、限界までやるのはそれは違うと思うんですよ。
そもそも自分はストイックなんだけど、ストイックなことに特に
そこへの美意識だったり、何か意味だったり感じているわけじゃないですけど、
でも限界まで自分はやるんですよ。
例えば何が思いつくかっていうと、まずこの家に17年間ずっと家にいることがまず一つありますね。
で、筋トレも失明するまでやるなんていう人もいるんですよ。
でもそれって、例えば野球でもですよ。
ボール遠くに鉄の方が飛ぶわけですけど、
でもプロは木製のものを使うわけですよね。
遠くに飛べれば何の道具を使ってもいいわ。
どんな材料でもとにかく遠くに飛ばせばいいわっていうにはならないわけですよ。
やっぱりルールってあるわけですよ。
限界までやるストイックさ、体壊してもいいっていうルール違反なことをして
それで称賛するのって全くおかしな話だと思うんですよ。
ストイックな人は精神の追求をしたり、
あとは別のレイヤーとして体壊すこと、この2つ別なんですよ。
生命の維持と別の話ですよね。
なんだけど混ぜてしまってるんですよ。
体を壊すほど頑張ればいいと思うんです。
だからですね、よくいますよね。
頑張っていろんな音を既成にして、
夜も寝ないでやるのを美徳とする日本人多いですよね。
それは絶対違うんですよ。
それってルール違反じゃないですか。
そんなのもう体壊してもいいし、寝る時間だって使ってもいいってそれルール違反ですよね。
じゃあ誰が作ったルール違反をしてるかっていうと
自分に対する自分への違反なわけですよ。
自分で決めた音はできてないわけですから。
だから何かのために体を既成にするのが本物だっていうのは美学という幻想なんですよ。
あと単純に体が壊れてしまえば筋トレだってストレックのことだって何でもできないはずですよね。
あと極端であることと自傷は別のことなんですよ。自分をいじめることは。
でもよく言うじゃないですか。自分に夢中ですとか、自分をいじめるとか言うじゃないですか。
それ混ぜちゃってるんですよ。別のレイヤーを。
でも身を傷っている人を没頭する人はすごいと称賛しますよね。
病気になってるのに偉いとか言うじゃないですか。
完璧主義と現実の複雑さ
では次。完璧死だからルールをものすごく妥協したりですね。
葛藤狩りながらそのルールを決めても守れるほどこの世界は単純じゃないんですよね。
かといってルール適当にしたら完璧主義が暴走するし。
だからルートが二つあって、まず完璧主義なのにそうやって妥協しながらルール決めること自体つらいんですけど。
それでどんなに苦労してルール設定をしても、こうやってポッドキャストやるにもルールがやっぱりありますから自分なりに。
あれだってあれと思うんですよ。何時までに家を出る。
一日に何曲ぐらいしか音楽を聴かないとか。
砂糖の量はこれぐらいしか料理に使わないとか。
ルールだと思ってないだけでルールがたくさんあるわけですよ。
自分は設定をしても現実の複雑さ前に必ず破綻するんですよ。
その破綻で完璧主義が耐えられないんです。
ルートはもう一つ。複雑な現実には対応できるけど、今度は完璧主義が露呈してくるんですね。
やっぱり完璧主義を抑えるルールが必要なんですよ。
完璧主義が暴走してしまうのと、
複雑な現実に対応できるようになるんですけど、
それじゃいけないなって気づくんですよね。
でもですね、Podcastを撮ってからはルール取りに行かずに葛藤して妥協して、
うまくいかなくて苛立ってる自分ってものを完璧に抽出してきましたね。
順番付けの幻想と嫉妬
では次。これもできないのに。
こっちやるなんて生意気だ、みたいに言われることってよくあるんですけど、
自分もよく言われてきていました。
この二つどちら先にやればいいという順番付けられるものではないし、
つまりこの二つ関係ないっていうことがよくあると思うんですよ。
社会が階段を一段ずつ登るべきだという幻想を押し付けてきている典型なんですね。
別に順番同時進行でいいと思うし、順番なんてどうでもいいと思うし。
嫌味ですよね。AもできていないのにもうBもやるのかというのは。
競争ができていないのは応用をやるなって意味だろうけど、
でも応用の端っこをかじっていく方法だったりするわけですよね。
以前、自己啓発本を学生時代に見た時ですね、
パラシュート勉強法だっけな、そういうのがあってですね。
最初から難しいものをやっていって、
そしたら必要な基本が見えてくるという方法でしたね。
本当に勝手に順番なんて付けられる必要ないと思うし、
そこにもし順番を付ける、順等立ててやる必要、
そういったものがあるんであれば話は別ですけど、
生意気と悲惨するとしたら、なんでお前苦労して自分が守っている私たちを飛び越して、
そんなに早く本心に触れているんだという嫉妬なんですよね。
似た言葉があって、
俺たちはなんで苦労しているのになんでお前は
簡単にそんなことできてしまったみたいな、
関係ないだろうということがあるんですよ。
個性と偽の同調
では次。あまりにも人とずれてるから自然にしてたらですね。
あまりにずれすぎてて進まないから
偽の同調をする。周りに合わせる。
あまりにも人とずれてて自然にしてたらですね。
ずれすぎても全然進まないんですよ。
だから偽の同調をするんですけど、
そんな気はゼロなんですよ。
でもやってる風な人間に見せるんですよ。
逆に周りに合わせようとしたことはない。
意識して周りに合わせることはしない。
人と違うことをしようとすると、
そんな気持ちが芽生えたらですよ。
ただでさえずれすぎてる人が個性を出そうとしたら、
結果どうなるかというと、
基準を見失って何もできなくなるんですよ。
自然体で言うと周囲とずれすぎてシステムが回らない。
あるいは人と違うことをしようとするということは、
人との比較が入り込みますよね。
その結果なのかな、自分の基準そのものが崩壊してしまうんですよ。
簡単に言うと仮面をかぶって、
その仮面の内側で自分は何者かという問いが渦巻いている状況です。
結果動けなくなることもあったし。
自分が個性を意識していた瞬間、
人と違うことをすると、
他の人と比較するわけですよ。
普通という記事を見るわけですよね。
でも本来の自分は、
誰とも比較できるようなものではない。
自分の特徴というか、自分というものは。
簡単に言うと、個性なんて出そうとする必要ないということですよね。
でも人と違うことをしようとしたくなるんですよ。
でも人と違うことをするって、
目に見えてはっきり分かるようなもんじゃないんですよね。
でも目に見えて分かる、はっきりしたいことをしちゃうんですよ。
編集による嘘とメディアの関係性
では次。テレビを見ているとき、
この司会者はどんな気持ちで曲を聴いているかなとか、
ゲストの人、出演者の人、
よさが分かってくれてるかなとか、
言うように見えてしまうんですね。
一番辛いなと思うのは、
せっかくその人の魅力をテレビという枠で
加工してしまっていること。
編集という作業もありますし、
はじめはポッドキャストで、
だから編集はしていないわけですよね。
でも他のポッドキャスター、
編集はあまりしていないという人もいるけど、
それなりにしているという人も、
結構いますね。
もちろん編集できたとしても、
というか、できればやりたいんだけど、
自分の場合こだわってしまうし、
やれたとしても多分やらないと思います。
だからそれも、編集ってすごい、
この前もポッドキャスター言ってましたけど、
例えばその人がどんなに、
しっかりまとめているようでも実際は、
歯切れがそんなに良くない人の可能性だったり
それを編集で変えちゃうことができるわけですよね。
編集で全く違う人に見せるのは、
エンタメとはいえ、
それは嘘と言っていいんじゃないかと思ってしまいます。
あと最近は、
ポッドキャストでなくブログの方が良かったのではないか、
英語回やらない方が良かったのではないか、
という読みがあったんですね。
でもですね、英語回やはりやりたいし、
でも英語回やるならポッドキャスト、
ポッドキャストの方が良いっていう風に、
だから物事なんて関係性でできてると思いますね。
だからどっちも、
ブログの方が良かったとか、
英語回の方が良かったと思ってるけども、
実は英語回やってたおかげで、
ポッドキャストの意味も感じられていた、
ということなんですよね。
お互いを支え合ってるというか、
関係し合ってる、
悪くない、悪い、
だから支え合ってるとかいらないんですよ。
時には支え合ってるように感じるかもしれないし。
今思ったんですけど、ブログっていうメディアって、
意味の固定化と漂流する意識
今思ったっていうか、分かってはいたんですけど、
その言葉が整えて意味を固定してしまうという性質が強いんですね。
でもポッドキャストは、
だからこそ自分に合ってるなと思うのは、
本当に自分は結論がないし、
気欠したり、
人によっては結構、
物によっては致命的なんだろうけど、
自分の場合は、
常になんか、
漂流してるっていう言い方すると合ってんのかな。
時には漂流してる時もあるでしょ。
でも基本的に固定しないようにしてるんですね。
意味を固定しないようにしてる。
意味づけもしないようにしてるし、
幸福の錯覚と目標設定
幸せでって、
多くの人がですね、
持続する実態っていうものよりは、
つのつの現れてくるものって意識はあると思うんですけど、
でも実際どうですかね。
幸せになりたいっていう場合、
一生会ってくれるものだという錯覚がありますよね。
一瞬だけのものだったら終わらないし、
目標イコールもみんな幸福ですよね。
不幸なものを目標にしないですよね。
目標の先にはその幸福があるわけですけど、
例えば受験受けた時だけでなく、
その先もと思うだろうし、
特に一生に影響するものと思ってたし、
一生その幸せ続くもので、
意外に目標にする意味ないと思ってたんですよ。
行動の連鎖と整合性の圧力
自分は何か始めると基準がずれるんですね。
それだったらこれもやらないといけないなとか、
何か一つやめると、
ではこれもやるのおかしいってなっちゃうんですよ。
何か始めると、
それに整合する追加行動が見えてくるんですね。
整合性を保とうとする自分の心理的な圧力なんですよ。
自分に対して全体を矛盾なく見せたいっていう働きですよね。
で、行動が増殖していくんですよ。
何かをやめた場合、本来は不要だったのではないかと、
これも整合が起きてしまうんですね。
自分は完璧主義だから、
この体系を組み直すっていうのは非常に困難極まりないんですよ。
だから何か一つを減らすことができないんですね。
では次の話。
過去の再評価と後悔の無意味さ
何かを始めるともっと早くにやっておけばとなるんですよ。
それまでも時間が空白になってしまう。
再解釈されてしまうんですね。
本来だったら使える時間だった。
だからもっと早くすべきだったってなるんですよ。
だから人間の現在の価値基準を使って再強化してるんですね。
でもその価値って過去には存在してないから、
もっと早くやればよかったのは今の価値でしかない。
でもその時に、普通だったらもっと早くやればよかったという考えは
現在の価値を使って過去を評価してるだけ。
現在から見たらそういう風に早くやればよかったと見れるだけ。
だから後悔が不要。
普通ここで終わりますよね。でも自分はですね、気づいてしまうんです。
じゃあ過去の価値からすると今やってることは価値ないとなるじゃないかと。
早くやってればよかったどころか、今もやる必要ないとなってしまう。
では次。
採点しても意味ないと思うんですね。絶対的な正解がないから、
そうやって物語を描いて生きてる過去を振り返ったりしますけど、
成立しないと思うんですね。評価基準がない限りは。
でも人間って正解を見つけるためじゃなくて、
成功的な物語を作るために。
だからあれがあってよかったと、
あの選択がよかったと思うためですよね。
だからあの時早くやればよかったってのも、
成功性を保とうとした時の感覚なんですよね。
だから今やってることにあまり意味を持ちすぎると、
未来できなくなったらどうしよう、もっと早くやってればとなるんですよ。
だから今やってることに価値を置くと、その基準からすると、
やってない未来は成功性とれてないわけですよ。
絶対的なものを認めないのであれば、
というか絶対なんてものはないと考えますよとしたら、
物語の創造と価値の相対性
本当の正解がわからないので、最低あれは何点だったって言っても、
その評価としては成立しないんですね。
だから別の役割があるんですよ。
だから例えば40点だったら、
だから今こうなってるんだというストーリーを描くことになるんですね。
とにかくいいストーリーだろうが悪いストーリーだろうが、
ストーリーにしたいんですよ。
過去を良くしたり悪くしたりして、
今やってる意味を持ちたいんですね。
ちなみにさっきの話ですけど、
人は現在の価値基準を使って過去を評価しますから、
じゃあ逆に過去から現在の価値基準も、
したら今度は逆の評価になるってやってるとですよ、
じゃあいつの基準が正しいのかわからない。
ということは全てのもの、
価値がその時の価値であって、価値でしかなくて、
だから後悔する必要もない。
ということはつまり、
後悔する必要がないと考えるのであれば、
価値を持つことを否定することにつながると思うんですよね。
それが一時のものかもしれないけども。
これが虚無なんですよ。
虚無って恐ろしいですよね。
実はこの世界、価値なんてないってことに気づいてしまうわけですよ。
その時の仮の価値を作ってるだけで、
でもそれが本当の価値だと勘違いしてる。
もし絶対的な基準が存在するとするならば、
完璧主義者のバランス論と原因の押し付け
正解不正解がはっきりしてしまうんですよ。
それは単純ですけど、ちょっと考えただけでゾッとしません。
では次の話。
私、完璧主義の人にバランス取るのが正解だみたいな決めつけ方、
努力化に無理はいけないみたいな勝手な正解出すやつは何なんだと思いますね。
だから完璧主義を批判する時に、
バランスが正しいっていう絶対を使ってしまってるんですよ。
本来相対的なもののはずなのに。
では次。話し合いをしてておかしいのを人のせいにするやつ。
言いたいけどこいつみたいに言われたくない。
でも親は何百回も同じ失敗をしてくる。
確かに自分に火はあるかもしれないが、正解分からないからといって親を許してはいけない。
こんな風に正解まだ分からないけど、でもこうするしかない。
みたいなことってあるんですね。
正解分からないけどだからといって親を許してはいけないし、
同じ失敗を繰り返されるのは悔しいし。
正解が分からないけど影響は続くわけです。
放置したらまた同じことが起こる。
でも正しいかは分からない。
でも止めないと苦しい。
だから防御したい気持ちと不確かさがあるんですね。
曖昧なままでは解決できないし、
少しでも相手に火があるのであれば、
少しでも自分に火があるのであれば何言っていいのかわからなくなる。
でもそもそも全くどちらが原因か分からないか、親が百悪いかのどちらかなんですけど、
ゴムゴムなら何も注意できないわけです。
うちの場合、何百回と致命的な失敗を繰り返してるんですね。
だから注意しないとと思うんですよ。
分かってもらわないといけないんです。
しっかり強く言わないと向こうに問題だと言わないと突き入れられるし、
解釈のせいにされたり、説明の仕方正しいけど自分はこんな風に受け取ったみたいに言い訳されるんですね。
逃げるし、責任がぼやけるし、
こちらがフルになる気がするし、
曖昧だと負けるし、優しく言うと無視されるし、
強く断定するしかないし、
解釈のズレを利用されるのが困るんですね。
問題が大きくなりますから。
今までやってきたことを否定することになるから、
正解のない状況での判断と影響
という意味で続けるのは単なるプライドだと思うんですね。
プライドかこだわりなんか捨てたほうが自由。
でも過去を否定する代償ってあると思うんですよ。
過去なんて捨てようなんていう考え方ってあるんですよね。
今のエネルギーを爆発的にできると。
過去を否定してしまうことの代償ってのは何で判断してきたか、
何か信じてる人にとっては何を信じてきたかが曖昧になるんですよ。
過去を捨ててしまうと現在未来が生きづらくなるんですね。
基準が曖昧になる分。
だからこそ、自分が言っても言ってるじゃないですか。
何でこれ始めたのかよく覚えてないと。
でもそんなものは過去のものだから今の動機に、今の考えに従えばとも言えるわけですよ。
それも成り立つわけですよね。
では次。
人は正解らしきものを例えば社会的に言ってみたいな。
ある時とない時。
社会的にだけで言っても、正解がある時とない時がありますよね。
正解があるかないかどうかもわからないし、
正解がない場合はそもそも全く方向がわからないし、
正解があったとしても、あってもないかもしれないとしたら困ると思うんですよ。
変化への対応と基準の揺らぎ
では次。変化すると言われない時。
変化するけど、これはいつも通りで。
ではこれからそういうことが起きたら必ず変化するでいいのか。
あとは大きな変化に伴って変化した方がいいかもしれないことが出てくるわけです。
変化する流れで出てくるものってあるわけです。
基準がブレブレになるし。
しかし大事なのは変化する流れを追えないことがあるっていうこの皮肉さですよね。
変化する必要がある時に同時に出てくるのは、
じゃあどこまで変えればいいかわからない。
全部変えるべきか一部変えるべきかわからない。
今までの基準も崩れる。
状況に合わせて調整するということはできないんですよ。
そんな矛盾している状態に疲労困憊ですよ。
どう理解したらいいのか。
固定ルールであったらいいんですけど、その程度判断になるから不安定になるわけですよね。
その不安定さが異常だってことなんですよ。
状況に合わせて調整するけども、死に物狂いでしてるわけですよ。
いつ崩壊するかわからないんですね。
だから安全域が見えてないんですよ。
だから自分にとっては小さな調整が大失敗のリスクなんですね。
試行錯誤は一発勝負なんですよ。
あるにている二つあるとき、どちらか採用するならもう一方となってしまうんですね。
少しの違いの場合、戸惑うんですね。
しかし採用できない場合、もう一つの方、それなら採用しない方がいいのかとなってしまうんですよ。
ほぼ似ているということは、Aを採用する場合、でもBもよく見える。
だからBを捨てるのはおかしい。
もったいないというよりはおかしいというふうになるんですね、自分として。
やっぱり論理的に言って、Bを選ばないのはおかしいなと思ってしまうんですよ。
というか、論理的に通じてもあってないと思うんですよ。
両方ともそれっぽく正しい、でも両方扱えない。
だから決める基準がない感じになってしまうんですよね。
弱い立場への攻撃と無意識の連鎖
教師にいつも怯えてたんですけど、親に対して逆に強く当たっていて、
しょうがないけれども不憫だし、親が弱いものに行く人のみっともなさってありますよね。
親に対してそういうことでないとは思いたいが、こうしなければいけない切なさですよね。
逆に教師たちも弱い立場の人に強く当たっていた可能性が見えてくるわけです。
学校では教師が上で自分が下。
家では親に強く出てしまっている構図が見えてきてしまう。
でもこれ理性でどうにかなるというか意識でどうにかなるものじゃないし、もしかしたら自然とそうなってしまっているのかもしれないし。
結構恐ろしいなと思います。弱い立場に行ってしまうのは無意識に起こることですから。
無意識に弱い立場に、そしてその人もまた弱いという連鎖ですよね。それが怖いですよね。
息取り感じますね、それは。
悪意なき悪行と矛盾の無視
彼らは悪いとは思わないけれども、教師とかですよ、同級生。
ただ、自分に対してそうしてきたことに関しては許せないし、
だからこれからは絶対そういう周りの大人に舐められないようにしようと決心します、慣れるとき。
これは親との会話で、大豆を同じ調べ方だとダメだと自分は言ったんですね。
そしたら昨日いろいろ調べたと言うんですよ。
バトハズレなことを言ってきて、もっと根本的なことは間違っていたんですね。
また話を聞いていなかったんですよ。しかし途中で気づくはずだし、
後から記憶を作っているのか、途中から混乱しているのか、後続きの辻褄を合わせようとしているのか、
聞けていなかったことにしたいのかわからないですけど、
あと考えられるのは途中で理解が変わったその場で考え直して修正した、
そして自分の記憶が整理された後から変わってくる。
でも記憶が変わったことに気づいていない。
途中で理解が変わったなら言うべきじゃないですか、そうやって。
でも押し通そうとする、それ最初の言うこと。
話を聞いていないとバレたくないからと言わないんですよ。
まあでも、とにかく何が問題かって、この人悪気がないから悪気なく悪いことをするのが問題なんですよ、この人。
最初は網前に理解して、後で意味を作り直して。
人間であれば当然なことではあるんですけど、それを言い訳にするんですよ。
ちょっとそういう他の人と同レベルとして扱ってはいけないレベルなんですよ。
明らかに矛盾があるのに気づかなかったことにするんですね。
では次、どうしようもなく爆発しそうな時にヒルニになってどちらが正解でもないとする時、
虚無と生活基準のジレンマ
すると決められても生活基準の正解はあるわけです。
しかしそれも一時の思い込みだった。
一時の思い込みだったら、基準なんて全ておかしいだろうと思うんですよ。
そもそも自分は虚無に生き続けるのがモットーなのだから、それはできてるのかなと思うんですよね。
普通は正解はどっちだって探してるんですよ。
でも虚無側によるとそもそも絶対の正解なんてわからないから、AでもBでもEになり決定できるんですね。
でも生活では困る。成功しやすい失敗、行動と失敗しやすい行動ってあるわけですよね。
だから生活レベルでは基準が必要になる。
でもその基準も思い込みかもしれないという疑問が出てくるんですよ。一瞬でですよ、それも。
社会の常識も人生の価値観も生活の基準も変わってしまうものです。
諸行無常ですから。だから絶対ではない。
それは全部同じを意味するんですね。
でも普通であればどっちでもいいってなるんでしょうけど、どちらでもいいと。
ちなみにこのEっていうのは許可の意味ではないですね。どちらも同じっていう意味。
だからどちらでもいいとは言ってられないので、
正確には本当にそうか、これでいいのかとは疑い、絶対疑い続けている姿勢を保っているが近いと思います。
では次。より良い方を探している時ですね。
あと1ヶ月探せば良いの見つかる?そういう時困るんですよ。今までも改善少しずつしてきて、
しかしある意味泥沼にこうやってやっているということ自体が泥沼かもしれないし、改善していたとしても。
もっと良い方が見えるのでさらに改善したくなるとすると、今決めた方法も仮のものになってしまうんですね。
1ヶ月後もっと良い方法が見つかるかもしれない。だから探した方が良いのではとなってしまう。
1ヶ月先でもさらに1ヶ月後見つかるかもしれないが発生する。改善が目的になってしまってるんですね。
でもそれが決して間違いじゃないことがこの世界の辛いところですよね。
それが不正解だと決めつければ良いけど。
正解がないことってこれだけ本当に辛いことだからこそ仮の正解を、というかこれが固定した絶対の正解を置いてしまうんですよ。
虚無にいるからこそ正解を求めても意味ないのは分かっているが、虚無だけでは生活できないから無理やりない。
悩もうとしているところもあるんですよね。どっちでもいいっていうんじゃなくて無理やり悩んでいる状態。
虚無だけでは生活が回らないんですね。
絶対の正解をね、基準は変わってしまう。じゃあそんなので悩んでも意味なくないか。が虚無側の立場ですよね。
でも生活は止まらないわけです。朝起きるわけだし、親と関わるわけだし。
だから無理やり基準を決めるんですね。絶対じゃないとは思ってますけど。
とりあえずこっちを採用する。すると採用するけどでも本当に正しいのかどうか、そうですよね。でまた考える。
悩むイコール疑うことですから。
悩んでいればまあ、とりあえずそうやって疑いながら採用できてるんだろうという感じ。
改善の泥沼と希望のせっかちさ
でもなるべく悩まずに進むために起立とかルーティンが必要。変化するときにこれがこの生活は止まらないわけですから。
それでも同じでは進まないわけですよ。
変化するときにどういう変化をするかという選択肢が出てくるから、正解を求める必要が出てくるんですね。
別に改善しようとかしてるわけではないんですよ。
希望があると早くそこに行きたくなっていても立ってもいられなくなる。
だし今やってることを軽く感じられてしまうんですね。
でせっかちモードになるんですよ。
希望がないと今やってることしかない。
だから1日1日はそのまま過ごすんですね。
不満があっても急ぐ理由もあまりない。
希望が見えたら不満は軽くかなるかもしれないけど、もっといい状態がなるとなった瞬間、意識は今でなく未来に向く。
だからそこに早く行きたい。
まだ着いてない。今の場合は不十分でなるとする。
例えば目的地まで歩いてて何も知らなければ目的地になるってことは。
歩いてることが全てになりますから。
淡々と今に集中することができるんですね。
でも目的地が見えた瞬間まだ着いてない今が生まれるわけですよ。
だからイチローなんかも何か、もちろん大きな目標を立てるんだけど、とにかく目の前の一台に集中するわけですね。
光が見えてるわけですよ。希望目標を持つと。
早く行きたくて行っても立ってもいられないんですよ。だから今に集中できないんですよ。
皮肉ですよね。希望は本来人を前に進ませるものだけです。
現在は価値の低いものに変えるわけですから。
では次。すごい店で働いてたっていう人。
独自性と過去の否定
例えばフレンチ料理三ッ星2つとかで、親の店ついで個性出せないのって悔しくないのかなと思うんですよ。
独自性や自己実現を重視する価値観だとそうですよね。
店を守ること、影を続けること、価値を感じると受け継ぐことを選んでる。
だけどそれまでやってきたことを否定することになってないのかなと思うんですよ。
フレンチ料理店で修行してきたわけですから。
でも目指してるところが違うのか。
こんな正解なんてものはないと言っておきながら正解を持ってしまってるのか。
では次。大きな変化により優先順位が変わってしまう。
大きな変化による優先順位の再構築
精神的に大きな入れ上げになるんですね。
誰でもそうだと思います。仕事が変わる。考え方が変わる。
大きな発見がある。人権関係が変わる。
こういうことが起きると今までの優先順位の前提が崩れるわけですよ。
これが大事、これは後回し、これは不要といったのが崩れるんですね。
一番大事が揺れるわけですよ。
他の選択肢にするべきか、本当にこのままでいいのかと周辺まで揺れ始めるんですね。
人の考えってネットワークみたいに繋がってるから、
一つの柱が動くと、その柱に立てられていたもの全て動くわけですよ。
一つの土台が崩れるとそうなってしまう。
何を優先するかを全部見直す必要が出てくるわけですよ。
整合性を持たせるために。
大きな変化って新しい可能性を見せてきますけど、
自分にとっては今までの秩序を壊すものに他ならないんですね。
新しい可能性なんてどうでもいいんですよ。
そんなものには期待しませんから。
だから、崩壊してる感覚にしかないんですね。
一つの基準だけが揺らいでるとは思えないんですよね。
限界の曖昧さと行動基準
行動の変化するか無視するかの基準はですね、限界なのかどうかなんですよ。
限界がどうかで決めてるんですね。
限界なら行動を変えるし。
不満があっても様子を見たり、ちょっと我慢したり、少し調整をする程度。
限界を超えると同じ失敗が続きますし、
ちょっと苦痛に耐えられるものではなくなるし、
維持するコストが高くなるし、他にも影響が出てきますよね。
だから、自分にとって問題は限界が変化する基準が曖昧なこと。
でも限界って曖昧なんですよね。
骨が折れたとかでもない限り、もう少し耐えられるような気もするし。
そこはでも割と大丈夫なんだよね、自分は。
もちろんなぜか分かりませんよ。
でも単なる逃げなのか単なる気分の可能性ももちろんあるし、
そこはまあ難しいところではあるんですよ。
あと限界に近づいているイコールをもっと早く変えるべきだったんじゃないかという場合がありますよね。
スポーツ選手なんか見ててそう思いますよ。もっと早くやめてたらですよ。
もっと世間でも人気ある間に他の仕事も舞い込んでくるかもしれないし、人気があるわけですから。
体力もあるわけですから。
微調整のストレスと安定維持の重要性
では次、微調整はできないですね、季節の変わり目。
微調整しだすと少しの変化に対して対応しなきゃいけない。
これはもうかなりノイズになるんですよね。精神の揺れにつながるんですよ。
微調整の変化しても大抵うまくいかないのは。
で、何の意味があるんだとなってしまうんですよ。
微調整モードで入ると心が振り回されるんですね。
少し暑い、少し寒い、少し疲れてる。
そのために体を変えると毎日基準が動くんですよ。
今日はどうなる、明日はどうなる、前回は失敗したで埋まってしまうんですよ。
判断回数が増えるんですね。
大きな変化なら一回決めれば終わるんですよ。
微調整しても別に良くなるわけじゃないんですよ。
服を一枚増やした、寝る時間を30分変えた、別に大した変わんないんですよ。
ただただストレスなだけなんですよ。
ただ自分の場合は置き換えるって、
ランニング一枚からヒートテック、長袖、フリースカーディガンっていう変化なので異常なんですけど。
微調整は大事って言われますよね。
うちの親もどうせそう思ってるだろうし、以前確かそうやって言ってきたし。
もうちょっとなんとかならないのかいと。
でも精神的なコストが高すぎるんですよ。
常に環境を監視し続けなきゃいけない。
とはいえ窓と風に関して、
今日の温度は何度だ、来週は何度になる、だから着替えるためにどうするか、
こういうことは季節の代わりにめっちゃ決まってるんですよ。
では次、普通は小さな変化するけど、
例えば効率化改善のために時々変える部分、
勉強の準備時間とか、文房具を変えるとか、
学生であればそういうことで、
自分は改善の変更よりも安定の維持を大事にするんですね。
だから改善した方がいいのも分かるけども、維持を大事にしてるんです。
両方共存はしないですね。
自分の場合は一度作った流れが崩れると基準が揺れて、
また他の部分の再建とか、コストが高いんですよ。
そこで整合性が崩れて無尽を許して、
自分は整合性が取れてないところに意識が行くんで、
変化する前も整合性が取れてないんだな、
別に今までのままでいいんじゃないってなるんですよ。
例えば朝やってみようって普通の人がするところ、
無神経さへの恐れ
朝に変えるなら他の予定との関係は、
今まで夜にやってた意味はどうなんだ、
この変更を認めるなら他も変えるべきではってなるんですよ。
いつも言ってる通り、一つの行動を変化すると、
生活の節々、あらゆるところまで、
それに伴う変化を見なきゃいけないわけですよ。
その変化しても別に問題ないだろう、
今のままでいいんじゃないという無神経さを持っちゃいけないんですよ。
今の話から一番恐れているのは無神経さになることっていうのが見えてきますよね。
一番恐れているというか、恐れているものの核ではあるんですよね。
単に怖いっていうのもあるし、
これで大きな問題が起きてもそれで家から出れるわけじゃないし。
57:09

コメント

スクロール