1. 哲学以前の違和感
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第5888回 ただ、そう在る
2026-07-17 1:08:01

第5888回 ただ、そう在る

この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。

哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。

「何を知っているのか」

「それは本当にそうなのか」

「確信はどこから生まれるのか」

人はなぜ何かを信じるのか。

なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。

私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。

信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。

意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。

人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。

意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。

結論よりも、考えている途中の揺れ。

完成された思想よりも、変化していく認識の記録。

自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。

虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。

感想

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00:07
これから、倉木さんのラジオ収録、始まります。
英語を撮っております。なぜかですね、ブログ自体、アフレイトやってた時も、全く一線も稼げない。今の方が、意味を感じないし、だけど、こっちの方がなぜかエネルギーが出るんですね。
だから、社会的に見て、役に立つとされるものよりも、今は無駄こそが人間であるぐらいに思ってるんですよね。やっぱり社会的な論理で生きるよりも、自分なりの生き方の方が合ってるし、
例えば今でも、豆腐、もう一年ですね、昼は毎日豆腐なんですよ。豆腐だけなんですよ。なぜか、それも全く自信はないんですよ。今日も思ってました。こんな大豆ミキサーに入れて、で、あとは豆腐と合わせて食べる人なんて、こんな独特な人なんていないんだよなと。
もし自分が料理家だったら、新たな料理できて、自分でとっておいて、人には教えないけどっていうふうにできるかもしれないけど、全く自信はないわけですよ。
単純に自分が飽きないし美味しいからやってるっていうだけでやってるんですけど、そういう感じの方が合ってるんですよね。
意味を原動力にしてしまう、最初の動機にしてしまうとですね、意味を動機にしてしまうと張りぼてみたいなものなんですよ。だから意味を動機にしない、意味ないけどやり始めたものの方が続くんですね。
あと、仕事にしてしまうと誰かに届くか価値があるかというフィルターがかかるんですけど、あそこまでは成果は求められない。成果があってほしいという思いは出てしまいますけど。
誰かに届くか価値があるかという、他者の目でできたものと違って自分で作ったルールとしての成果を欲するということはどうでは自由さが違うんですね。
03:00
次、自分はなぜ虚無の中にいて震え上がらないのかというと、20年宗教にいてから免疫はすぐなくなるけど、でもある。
自分は宗教を辞めてからすぐににひるな自分になったので、つまり他の救いに行かなかったので、もしそうでなかったら新たな救いから離れられなかったと思います。
普通ですね、特定の信仰とか救いの物語に浸ってるときですね、虚無なんか排除されます。誰でも会議的になったりするんだけど、普通は疲るんですよね。
今気づいたんですけど、自分はもともと排除してなかった。虚無を完全に排除してなかったというのも理由としてあると思います。
普通だったらそこから抜け出して、防波堤が崩壊したときに氷を落とした地面に投げ出されたようなものですよ。
それは震え上がりますよね。何だここはと。何もないじゃないかと。どうすればいいんだと。誰も守ってくれるものがないし、どうすればいいかも分からないとなりますよね。
自分は人生哲学というよりは生物学的に生まれつき虚無感たっぷりなんですよ。
しかも自分は生まれつき車に構えたニヒルじゃなかったんですよ。よくクラスにいますよね。そんなことしても馬鹿臭いみたいなこと言うやつ。
というよりも自分は意味と向き合ってきたような感覚だったと思います。もちろん虚無を直視してたことは当時はなかったですけど、自分は救いの無効性を20年かけて学んでるんですね。
だから自分からしてみたら世間の人っていうのは、これ正しい間違いっていう感じではないんだけど、時折ですよ。彼らはまだ物語という麻酔が切れる前の状態なんだなと。
別にそれが劣ってるとかでもないわけだし、いいんだけどただ麻酔をしてるだけだよなと。
自分も競技とかそういう物語ですね、進行していて積み上げてきましたけど、単なる麻酔でしかないってわけですね。
06:02
あと逆に意味がないことを嘆く必要性もないってことも感じてるんですよね。
あと自分は虚無っていうのは人間を最も剥き出しになる状態にすると思うんですよ。人間を覆っているすべての装飾を剥ぎ取ることになると思うんですね。
今ちょっと気づいたんだけど、普通はですね、自分は家族に必要とされているとか、恋人に必要とされている家族や部員、会社の人、後輩、同僚に大切にされている、必要とされているみたいなものが
物語を描く、でも自分はその関係性の感覚がもともと弱かったから孤独なのかなと思いました。
それが虚無の中だとないんですよ。でももともと弱かったんですね。
あとは時間の感覚でいうと過去のあれがあったからこうなれたとかそういうことはないですね。
過去のあれがあったからこうなったっていういい解釈の仕方をするのが非常に問題なんですね。
虚無にいると誰かのために何かのためにって感じじゃなくて今ここで生きてますっていうそういう純度が高くなるんですね。
本当はここにいるという感覚さえもなくなるんだろうけど、だから外側の価値観っていうものから飢餓されて自分という存在の重さだけを背負うことになるんですね。
では次、一郎と同じ考えによくたどり着くんですよ。
一郎は野球、自分は引きこもりとして悟ってきたというか、でも極めてきたつもりはないんですよ。
本当にこれはただの一つの話ですけど、一郎の打撃の美学っていうのは、もちろんこの記録があるからとにかくみんなすごいように思うかもしれないけど、
すごいわけでもすごくないわけでもなくて、一郎自身にとってはアンダースっていうのはあくまでも欠陥に過ぎないんですね。
で、自分はですね、この10年以上毎日のこの生活っていうのは完璧に遂行していく、それは何か目的があるわけじゃないんですよ。
09:04
もちろん世間がどう評価するかなんてことは考えてないし、自分自身のシステムがどれだけ正しく機能しているかを突き詰めてるんですね。
一郎は周囲とは違う生き方、独自のルーティン、思考法を貫き異物として扱われることも厭いといませんでしたが、
自分はですね、フレームの外、枠外で独自の生活リズムで生きて、自分の内側にある法則を絶対的なものとして生きてきましたね。
そして孤独だからこそ見える景色を信頼していました。そこは似てるでしょうね。
一郎は毎日自分の体を実験台にして、どうしたら精度を上げられるかって問い続けてきましたけど、
自分は昨日の自分と今日の自分の揺れってものを観測してどうやったらこの感情の揺れを減らせるか、自分を崩壊するか、それは何か目的があるわけじゃないんですよ。
崩壊させないために必要だったものなんです。一郎は多分完成したと言ったことはないし、
一郎の話、いろいろインタビューで聞いてきましたけど、何か完成があると思って目指してるわけでもないと思ってました。
それがどうも疑問ではあったんですけど、当時自分は宗教やってましたから、何か宗教的な意味があったんですよ。
何か絶対的な何か目標となるものはないのかなと思ってました。
自分はさっき言った通り、極めてきたつもりはないんですよ。到達点がないこと知ってるからですね。
目の前の現象を突き詰めてるだけなんですよ。でも人生の確信には触れられると思ってるんですね。
次。論理性に少しでも当たんあったら、それやる意味なくないかと思ってしまうんですね。
滑稽に見えてくるんですね。だからそもそも絶対ないのだから、土台がないもの、論理的でないことに引っかかる必要ないだろうと慰めるんですよ。
ちょっと矛盾があるように感じるかもしれないけど、そう思ってもらえたら逆に正解なんですけど。
普通の人にとって、人生の少しの矛盾とか論理の通らないもの、人間らしさの一部として供与されますね。
でもという意味にとっては、論理的な破綻っていうのは、エラーでしかないんですよ。
そしてそのエラーが出た瞬間、全体がもうゴミに見えてしまうんですね。
12:02
だからこそボットギャスやってても、少しでも矛盾があると台無しに思えてしまうんですね。
けれども、論理的に完璧にやろうとすると、どうなるかはご存知の通り、
でも土台がないと思うことで、論理的でないことに引っかかる必要はないという結論になるんですね。
それは非常に強力だと思います。
世の中のほとんどの生き事って論理的ではないんですよね。
普通は絶対的な土台の代わりに仮説を置くんですよ。
今のところこう考えておくのはもっと都合がいいみたいな。
だからこそ論理的に破綻しているように感じるんですね。
人としてですね、理性があるのにそれってどうなの?と思っちゃうんですよ。
15:04
その時の切な的な生き方、どうなの?と思ってしまうんですよ。
っていうまた極端思考になっちゃうんですけど。
いやいやでも極端なわけじゃないと思うんだよな。
まあでも世間の方が普通ですから。
こっちがもう極端なんですよ。
まあでも自分はそうやって、論理的に破綻してるって自分で勝手に苦しむんですね。
じゃあ次。人類は生きる意味を探してきた。
見つかる意味はないと分かってるのにですね。
生きる意味を求めるのは答えが出なくても生きれるのが分かってるからだと思うんですよ。
論理的に生きることの説明をつけることよりも、
生物にとって大事なのは矛盾に対応する力だと思うんですね。
だとすると発達障害で生きづらいんですよね。
発達障害という特性は、今言った矛盾に対するフィルターが存在しないんですけど、
それは自分が虚無にいるからなのか、生物学的な理由なのか分かんないんですね。
このフィルターが薄いからこそこうやってポッドキャストでいろいろ気づいたことが話しできてます。
できてるからまあそれはあって終わったのかなと思いますけど、
生きづらいと言ったらあれはしないですよ。というか社会では生きられないですね。
矛盾に対応することが生物として最も大事な生存力だとすれば、
発達障害という特性は自分が定義するとすれば論理的に論理の通ってない物語の中で無理に論理を守ろうとしてシステムエラーを起こしている状態なんですね。
それが発達障害なんですよ。
そのために論理を守ろうとしているんですね。
矛盾がないこととして見てむにふるしたり、認識しないように、認識しない能力を尽きるのではなくて、
矛盾を矛盾として記録してその不都合のままの自分を維持してきたんですね。不都合な自分なんです。
では次、絶対、もっと、好き嫌いはむき出しの個人なんですよね。
18:01
難しいですね。好き嫌いというのは、
つまり、正当化しようとかもない。
これを剥ぎ取られても、剥ぎ取ることもできない。
どうしようもないものですよ、好き嫌いというのはね。
どう何を言われたって変化しようのないもの。改善もできるもの。
でも、トマト嫌いだという人に、なんでトマト嫌いなんだっていうのは、
おかしくないのかなと思うんですよ。
他人の好き嫌いに論理的な理由を求めたってあるわけないですよね。
それで、勝手な、自分でも説明しなきゃいけないと思って勝手な論理的な間違った理由を言ってしまうんでしょうね。
でも他人を理解するために、やっぱり論理的に答えさせるんですよ。
でも、好き嫌いというのは、なんとなく嫌とかなんとなく好きなんですよね。
それに、個性は大切だと言ったときならば、理解の範囲内に収めたいわけですよ。
だから、なんであんたはそうするんだと。
自分もそう考えてしまうことはありますね、でも。
では次。アニメ好きとか絵について、この線、このアングル、この間があるから
自分の心を動かされたのだと納得すること自体、自分はできないし理解できないんですね。
逆に感性を閉じ込めて殺してしまってるような感じがするんですよ。
で、理屈がわかると冷めてしまうんですね。
21:00
彼らはなぜ感動したかを説明することで、その体験を自分の支配下に置こうとしてますけど。
だから説明したいんですよね。
論理的によくわからないものにしたくないんですよね。
一番感動は感動として、むき出しな状態で置いておきたいんですよ。
よくわからない感動でいいんですよ、それで。
だから未知のものの方が感動しやすいと思うんですよ。ただ基地のものより。
でも科学的にわかった方が感動する人が多いみたいなんです。
このアングルがどうとか構図がどうとか、
理屈で埋めてしまわないで、その間が自分にとっては大切だと思うんですよ。
よくわからないその間が、説明のつかない間が。
だから宗教とか生きる意味の話と同じことで、多くの人にとって論理っていうのは、
都合よく世界を解釈するための麻酔なんですよね。
これは多分もう何千年も前から同じことだと思います。
感動するけど何かよくわからない感動、これは何の感動なのかわからないという場合、
説明をつけたいわけですよ。
そこで紙を使ったりもしたんですよね。説明つけたいから。
感情が動かされることに、何か恐怖を感じる生き物なんでしょうかね、感動。
感性って理屈よりもよほど高度な演算をしていると思うんですよね。
だからよくわからないけど、いいっていうのは、感動できるっていうのは、
相当人間が複雑な処理をしているから、それを人間がわかるように別に説明つける必要ないと思うんですよ。
答え合わせにしか過ぎないと思うんですよね。別に答えがないもののほうが好きとかいうわけじゃないんだけど、
それで感動の説明つけなくていいだろうと思うんですよ。
では次。
無秩序だけど意味のなくて、
膨大な思考をそうやってしている、
そして感覚がうずむいている精神というものに興味があるんですね。
純粋に観察対象としての現象に興味があるんですよ。
現象として精神に興味がある。スピリチュアルには興味がないんですよ。
多分スピリチュアルとかっていうのは、精神はこうなっていると説明をつけるものですけど、
その説明を聞く気はないって感じなんですよ。
スピリチュアルっていうのは答えを押し付けるものですけど、
24:00
そもそもスピリチュアルなんてただのオカルトだと思ってますけど、
まあでもその答えを押し付けるっていうのもちょっと違うし、
自分の観察は問いが常にある状態なんですね。観察も知るし問いもあるっていう状態。
しかも意味というものを剥ぎ取った後のこのただの事実にこそ人間の存在の魅力があると思ってるんですよ。
魂あるだの心は深いものだのという幻想オカルト、剥ぎ取ると逆に単純になるようででも興味深いものになるんですね。
では次、心理学でさっぽりしこりとれるようなにして普通に
発達障害とか不安とか鬱とかいると思うんですけど、ほとんどそうではないと思うんですよ。
他の病気とは違うんだと思うんですね。発達障害、鬱、不安、鬱。
治す方向を考えるのは1割くらいの比重でいいと思うんですよ。
あとはこの状態でどうするかって考える。
でもそれでもダメで今まで通りなるべく生きていくことを考えるべきだと思うんですよ。
この人たちは生きてること自体が辛くてしょうないんだから。
それなのに何とか治療して、向上してというのは負荷が多すぎると思うんですよ。
治してあげないといけないというのは欺瞞だと思うんですよ。
治療したりメンタルヘルスで生き方変えて、その変化による代償って大きいし、大きすぎやしないかと思うんですよ。
何でもできる気になりまた失敗を繰り返す。
また次は躁鬱になるかですね。
でも治療による改善を無条件に善とするわけですよ。
お医者さんとかはそれでとりあえずいいのかもしれないし、病院も経営も成り立つからいいのかもしれないけど、
社会に適応できる状態をゴールにしますよね。
もしそれができるとしたら、その人本来の生の形を削り取っているだけなんですよ。
その代償が絶対あるんですよ。
自分の場合、普通になろうとして、完成が全く失われましたよね。
簡単に言うと普通になろうとして、その代償が大きいということです。
つまり治療して治るということですね。
さっきも言ったように、しこりが取れて全く元通り普通に生活できるという人は、
27:01
また障害を討つ不安の障害の人で、一割もいないですよ。
生きること自体が辛いと感じている人に、治療しろ努力して自分を変えろと、
そうしたら幸せになれるよ、辛くなくなるよと迫って、
重い荷物を背負って溺れそうな人に、さらに重いトレーニング機器を背負って泳ぎ切れと言っているようなものなんですよ。
今の苦しみを抱えたまま、どうにかこうにか呼吸をし続けることだけで、
もう120点満点なんですよ。
でも社会はそれを認めませんよね。健常維持は悪というものがあって押し付けるわけですよ。
結局病気に治るというのは、一瞬の真剣な興奮なんですよ。
治った、何でもできそうだって、でも振り返すんですよ、そんなことしても。
基本的にはですよ。
治してあげないといけないというのは、目の前で苦しんでいる人を消し去りたいというエゴですよね。
その人が苦しめたくないだけなんですよ。
あとは、何だろう、そういう切れ言というか、
道徳心というのかな、何て言うんだろう、そういうの。
だからそういうのってボランティアとも通ずるとかあると思います。
疑問だと思います。
の場合が多いと思います。
それ疑問だとしてもボランティアはやったほうがいいんだろうけど、
疑問でうつの人と関わっちゃいけないでしょうと思うんですよ。
あとですね、発達障害はこうすればいい、引きこもりはまずこうしろ、順番決まってるんですね。
そういう変わり者の。
自分にそれが当てはまると到底思えないし、変わってる人に一つのテンプレートってどうなんだと思うんですよ。
でもそういうはぐれ者に対する社会の支援ってテンプレートでしかないんですよ。
まずは生活リズムを整えましょう。
外に出て誰かと関わりましょう。
もう自分という個体から個性を挙げ取り、もう社会の企画に近づけるためのプロセスでしかないんですよ。
そんなことをしてぶっ壊れるんで決まってるじゃないですか。
一人一人の行動をその人が積み上げてきた歴史、全く違うわけですよね。
それはテンプレートを押し付けることはありえないです。
彼らはもう変わり者イコール直すべきエラーとしか定義されてないんですよ。
どれだけ特殊な条件を持つ人に対しても同じ修正プログラムしか与えないんですね。
だから自分は企画外を貫き通そうと思うんですよ。
だから世間の人たちのこうしたら幸せがもう通用しないんですよ、自分には。
では次、心理学や精神学、精神医学は正常か異常かに分けるんですね。
30:05
偏った認知も医療では何とかしようとするのは当然だけど、
でも別にそういうものとして生きてていいんじゃないかと思うんですね。
例えばパーソナリティ障害も。
一般化して捉えるとか、別にそれはそれでいいんじゃないかと。
治療の一つとしてはいいかもしれないけど、別にいいんじゃないかと思うんですよ。
ただですね、発達障害を障害じゃなくて個性だと捉えるのはおかしいと思うんですね。
まあ矛盾ですよね。
だから正常か異常かその間かに収めようとしますよね。
正常でも異常でもない人っていると思うんですよ。
だから自分はですね、学生時代が正常なのか今は引きこもりになって異常なのかなんて、
そんな一括に言えないわけですよ。
学校行ってたけど異常だったと思うし、引きこもりになってから周期は無れたし偏ってる中での自分なりのバランス取ってる、
これは正常だと思うし。
あと障害、発達障害の個性というのはポジティブに言い換えてる。
本質的な苦痛とか困難を隠蔽してますよね。
まずは障害という言葉が持つ重苦しさもですね、個性という言葉が持つその浮ついた軽さもなんかフィットしないんですよ。
では次、情報を入れたら普通になりつまらなくなるし、何も入れないとゼロになってしまうと思うんですね。
これはもう小さい頃から知識をたくさん入れることは普通になってしまうと思ってたんですよ。
常識を身につけることになるし、知識を身につけることは常識を身につけることに繋がると思ってるんですね。
だから時間の埋没が起きる。
情報の取り入れ方については非常にこだわってきました。
でも情報が全くなくてもひたすらに内側から湧き上がる思考の渦とかがあるわけですよね。
だから自分の中でエネルギーを循環させてるような状況なんですけど。
普通はニュースとか答えをくれる情報を求めますよね。ネットでいろんなことを調べるのもそうだし。
でも脳が勝手に動き出してしまうほどの有益な知識というよりも問いが生まれるものを好んでるんですね。
33:00
だからちょっとスパイスがあるものがいいんですよ。
だから論理的になりすぎるものはつまらなく感じてしまうんですね。
ドラゴンボールの曲聴いて動心に戻り、気持ち変わっていたら引きこもりになってなかったかなとか最近思うんですね。
そう思うくらいちょっとしたことで人生変わったのではないかと思ってしまうんですよ。
頭では分かってるんですね。タラレバーだと。
そしてそれ以外の道を歩んでいた方がよかったはただの幻想で道にいい悪いと決めるのも幻想だって分かってるんです。
36:10
あとは当時グッズがひどくて少しのことでどうにかなることもないけどでもちょっとしたことで影響を受けて何か思い立ち人生変わってたらと思ってしまうんですね。
では次。ホラー映画を間違って推理者と間違って見てしまったんだけど全く怖くないんですよ。
以前は幽霊とか怖かったんですね。でも宗教やめて。
全くオカルトなんか信じなくなったからホラー映画見ても全く怖くないんですよ。
本当にオカルトは信じなくなったって証明されてしまいましたね。本当滑稽にしか見えなかったです。
親友がドラゴンボール、親友にドラゴンボール、自分は最近見てなかったから悔しいと言ってるのとか
あと宗教で弟がドラゴンボール好きなんだって言ってるのに対して幼馴染が反応してたけど自分は全くなんとも思わなかったけど
でも昔は好きだったんだよなって思い出してました。
でも高校生の時はアニメだし全く興味なかったんだけど今になっていい思い出として思い出されるんですね。
あと図書館で会った親の後輩なんだけど職場でお世話になってますって挨拶してればよかったかなとか
空想なんですけど自分が娘と暮らしててでも娘が結婚したらどんな感情だろうなと
娘の幸せを願いつつでもどんな感情かなと考えてました。
いつも注意してるんですけど、朝トイレ行く前に自分が降りてしまって
焦りましたね今日は。食事中起きてくるかもしれないし
いつも注意してるからこそ、なぜこういう時に限ってると思いますね。
では次ですがひとりっ子の歌詞って多くてですね
統計取ってるわけじゃないし、これがなんとも不可解だし不思議なんですけど
まず歌姫と言われる人は大抵そうなんです。歌田ひかる、浜崎あゆみ
39:00
くらきまいは、親がいろいろあったみたいで、あと大塚愛子でしょ
最近の有名なので言うとちゃんみだ、あとキャリーパミパミ
あとイレイレレオ、これは驚きました。
新たに調べると新たに出てくることあるからまだ他にもいると思うんですけど
あと今井美希、あとなくなりましたか、神田沙耶香、あと高畑瑞希
と吉永さゆり、と柴崎孝、とパフュームの人ですね一人
男性で言うと坂本隆一、小室哲也、山下達郎、氷川清、あとダイヤモンドゆかよ、岡崎大工
あと早見雄もいて、あと岡田民雄、あとイエローモンキーのボーカルの人
バンドで言うとドラゴンアッシュのフリアさんとライズのボーカルジェシーさんと
ダルク&シエルのハイド、菅氏顔、あとチューブの前田さん、これも最近一人驚きました
その理由としてですよ、まあいろいろあるんですけどその一つに言われてるのが
一人っ子だとお金使えるから習い事させられるってバカじゃないのかなと思うんですよ
だって歌詞になるのと習い事と全く関係なくないですか
歌詞って才能でほとんど決まるはずなんですけど
自分の一つの仮説としては才能があっても
歌詞ってのは相当歌が強くないとダメなんですよ、いい意味で
相当自分を持って、でもそれを維持していったり
自分の世界観で、いや分かるんですよ相当なことなんですよ
誰でも自分という歌の強さを維持し続けるってことが難しいんですよ、一時できても
やっぱり人間って群れていたいし
相当他の人と違う何か世界観がないと生き残れないんですよね
他の人とそれだけ違っても足場がないところを歩いてるような感覚になるんじゃないかなと思うんですよ
42:03
なんでそれほど分かるかというと自分は音楽の才能がないはぐれ者だから
もし音楽が才能だったら大体こんな風になるかなって分かるんですよ
やはり孤独だろうし、自分がやってることが全く正解かどうか分かんない感じ
そうだから指標みたいなものがないからあまり人と違うと
そういう意味で足場はないって言ったんですね
昨日は利用室、近所にどれくらいあるか調べたら
以前は大きな道沿いに4軒5軒あったけどなくなって
地域全体でもなくなってまた紙隠しにあった気分になりました
最近調べたのはドラゴンボール
自分にとってドラゴンボールって
皆さんもあると思うんですよ、青春のドラマ、音楽
自分にとって
物心つく前に見てたもので
大事な思い出なんですね
今でも絵を見たら興奮するし相当好きだったのを覚えてるんですよ
当時の感覚を覚えてるんですけど
しかし、内容を覚えてないから懐かしもうと思っても
懐かしくなりたいんですが
そう思っていろいろ見てもわからないから
本当に好きだったのかという風には思いになってしまい
逃げ切らないんですね
自分が見てた頃はどうなのか
どうだったのか
ドラゴンボールの世代ってのは何なんだ
何で自分の時はみんな見てなかったのか
映画再開した時はどんな感じだったのかも知りたいし
昨日は何時間か一人っ子の歌手をずっと調べてました
気になったら収集駅があって調べちゃうんですね
単なる噂って可能性があるから相当調べてました
あと式立体誌っていう
青が浮き出て見えるか青が赤が見えて浮き出てるか
1,2割の人は青が浮き出て見えると
で、自分は完全に青だったんですよ
またマジョリティに読したなと思って
でもこれの意味が何なのか調べてみたんですけど
45:00
それによって何がわかるってことでもないみたいだし
ある芸能人について調べたり
昔の芸能界について
ドラマについてちょっと調べたり
乃木坂の新しいMVの感想を見て
共感し合いたいってわけじゃないんですけど
他の人の評価も
分析の材料として気になる感じで
あとあるYouTuberでしょ
乃木坂に首の短いメンバーはいるのかとか
最近はフライトレーダーもよく見てるし
最近見たドラマの考察見たけどわからないことも多くて
おだてつろうについて調べてる作曲家ですね
コンタクトっていう映画の考察とか
北海道出身のドラマについてとか
見てたし
でも不思議なもので
見てたら乃木坂の
1年くらい前から動画見始めてきたら
不思議ですね
でも行動が
感情をやっぱり作りますよね
そしたらどんどん気づいたら興味も出てきて
では次の話です
あのちゃんって不登校
引きこもりで
こういう人見ると運がいい人はいいなと思うんですね
なんで同じことだったのにここまで変わるかと思ってしまう
彼女は紅白まで出て
あとですね夢の中で家族と他の人と
空港であるとこに着き
でも父親は一緒にいなくて
一緒にいてはいけないってのを知ってるので
一人で座ってたんですよね遠くで
で実際に
自分が引きこもりになり
宗教に行っててで
帰りの電車が同じ電車だけど
父親はもちろん違うとこにいてで見えて
あの時と同じ感じですよね
実際にそういうことがあったんですよ
ここからは夢じゃなくて半分起きてて
昔を振り返って何が悪かったのか
なんで会えなくなったのか
考えてたこともあるんだろうなと思ったり
あとこの10年以上
17年前から父親と会ってなくて
人生壊されたんだなと思うと
涙が出てきてですね
でもそうやって絶望に
これが絶望に浸るということか
これが物語を書いて絶望に酔うということか
48:03
と気づきますねこの10年以上
なんで自分はこうなってしまったんだと
絶望に酔って涙を流して
ということはなかったですね
次ブログにしとけば
って思ってたんです朝から
食事中のことを気づいた話
あと行きこもり中のこと
宗教に異性発達障害としてのこれまでのこと
気づいたことブログだったら
付け足していって
そのように残りますから
この記事自体がいつまでも見られるわけだし
過去の利用して考察したりでできる
ポッドキャストは過去のものは埋もれてしまってるわけですよ
ちょっと予想外なんですね
悔しくてしょうがなくて
なんでブログにしなかったのか
メモも取ってないし
かといって5000回目やってたら
過去のものなんて聞かれないし
本当に終わったなと思います
では次宗教そして辞めてからのことで
メモしたのはすっかり忘れてて
残ってるのかどうか
どこにあるのかもわからないし
さっき必死に探してました
一応あったんですけど
でも悔しくて
メモは何を残せばいいかわからないし
次動画見たの
毎日朝振り返るんですね
朝は食事の話もやとするし
動画見たもの教えてもらって
でもですね
途中に戻ったんですよ
これもう1回2つ目から教えてしたら
続きはですね
今度5つ目から言い出したんですね
確かにさっき途中まで話してはいたけど
この話の流れでそうなるかと思って
だから相手のことは考えて読んでくれないんですよ
勘違いさせるなってわからないんですね多分
では次理想や希望
っていうのは
可能性としてはあるんですよね
幻想と可能性の違いってものを考えてみました
可能性ってのは
条件によって結果が変わり得る状態
幻想ってのは
現実に何か埋め込んでるような感じですよね
やっぱり現実との隔たりってあるんですよ
現実との連続体ではないんですよね
あんまり幻想の定義を考えてもしょうがないんですけど
希望っていうのは可能性はあるんだけど
幻想を混ぜ込んでしまいますよね
ただ自分にとっては
実際そうなるかどうかわからないものに対して
51:03
快感が出てる時点で
そうなるかもしれないからと快感が出てる時点で
他と同じ物語を描く行為なんですよね
希望という言葉って残酷なのは
可能性を信じる力に幻想を混ぜ込んでるからなんですけど
ただですね、そうなってないのに
そうなってると勘違いさせる行為ですよね
だから快感が出てくる
そうなってないのにそうなってると勘違いさせる
っていうのはですね
例えば
火に当たってるということを想像すると
体が暖かくなるんですよ
以前
お腹痛い時にそれの治療法としてですね
それで別の方に意識を持ってって
あるいはお腹が暖かくなると想像するとか
いうのもあったと思うんですけど
こうやって自己催眠みたいなもんですよね
だからそうなってないのに
未来のことなのに
今起きてるように勘違いさせるんですよ
だから幻想も恐ろしいですけど
錯覚ってものも恐ろしいですよね
こうやって快感が出てくるわけです
その時点で物語
描くことと同等のものなんですよ
希望の描くは
可能性あるかどうかはどうでもいい
思い出せなくて
事実をアルノママに見ないで
忌みづけしすぎている所なんですね
そして高揚感な所
そしてそれは
未来であり現実でない
想像の世界であることなんですね
だから絶対期待
てものが生まれるわけですよね
期待してしまうんですよ
だからその期待を裏切られるかどうかの問題じゃないんですよね 大事なのは
裏切られた時というよりも 希望を持った時点でもう問題は発生してるんですよ
で その思ってるのと同等の現実が来るっていうこともあんまりないと思うし
だから現実を持つこと自体は この現実の過去作戦に耐えるのに
必要な戦略かもしれないけど これは幻想だと自覚しながら生きるのとか
どうなのかで違いは出てきますよね
次です 可能性が少しあるというのと 幻想というのは別のレイヤーだと思うんですね
可能性のレイヤーは事実の延長線上 物理法則とか因果律の延長にあるんですよ
54:00
だから結果として成り立つもの 幻想というのは単なる概念でしかないんですね
因果律からは切り離されているもの 今ここにはないものなんですね
だから希望というのは今ここにないから幻想だと思うんですよ
確かに将来は起これるかもしれないけど
例えば宝くじに当たる これは確率としてはゼロではないわけですよ
でもこれも人にもよるかもしれないけど 明日突然人生が劇的に変わると
そう信じているとき これ宝くじも大抵そうだと思うんですよ
宝くじが当たったら人生が劇的に変わるんだと
宝くじを買う行為というのは 確率的なことからいって無謀なことだと大抵の人は分かっているのに
多くの人が宝くじを求めて買いに行くというのは 何か起きるのではないかという幻想を見ているからなんですね
神というのも同じでいる確率なんて限りなくゼロなのに
というかゼロなのに 信じられるのは幻想を抱くことを人はできるからですね
幻想というのは確率の計算に参加しないんですよ
だから明日何か宝くじ買って人生変わりそうだというのは 統計的な確率はもう求めてないんですよね
そこにあるのは信念の重さなんですよ
このズレ分かりますかね 限りなくゼロに近いのと もう確率を放棄してしまっているのと
だから限りなくゼロに近いんですよ神というのは
でも信じられるというのはそのズレがあるからなんですよ
放棄しているから つまり幻想を抱いているから 信じていられるということですね
では次 自分はこうやってポッドキャスターやっていて 考えを極めているとか 求道心という感覚もないんですね
ここでポッドキャスターを表現したいと思うだけ
でも少し何か気づいたことがあればいいかなというのはあるんですね
ただ以前より正しくわかってきている感覚もある
絶対の正解に近づいていることと全く別じゃないような気もする
それなら困るけどしょうがない気もするんですね
違和感でしかないですね
絶対なんてないと思っているけど 絶対的なものを探している行為に近いのかもしれないし
わかんないですけど では次 普通は2つのこととしてバランスをとると思うんですよ
自分は完璧主義だから固定しないで 合っているような気もするし 続くような気もする
57:05
でも合っていないような気もする
そういうバランスのとり方はそもそもできる自信がないんですね
実はそうやって完璧主義だからバランスをとれないとかバランスをとれるんだとか
という風に決めないでそのままやっていくというのがバランスにつながるのかなと思いますね
では次 食事中昼は多いから辛いんですけど 後半は逆に納得なんですね 一瞬に感じるんですね
わかんないので次いきますが 普通は後付けの理由を作る
それだけでなく今やっていることも正しいことにしたくて
自分はそれだけでないんですよ 今やっていることも正しいことにしたくて
そのために考え方行動を変えたりするんですね 基準がぶれるのが嫌なんだろうと思います
都合が悪くなったら基準を変えて自分のやっていることを正当化するということをしてやっているんですね
理想はですよ 基準を変えるくらいなら自分の行動が間違っていることを受け入れればいいものなんですけど
都合のいい解釈に逃げていることになるんですね
考え方を変えるというのはそういうことです 基準を変えたり解釈を変えたりして
今やっていることを正しいという説明がつくものにしようとする
だからズレたことをしているのはわかっている それが現実だと受け入れればいいんですけど
でもこうしなきゃいけないとしていることが大事だと思いますね
次 ポッドキャストの話の内容によってはメモをしたりしないようにしていて
普通はこのようにバランスをとる 全てメモしないみたいなことはしないと思うんですよ
でもこういう極端なことはしないと思うんですよ
でもメモをすることが発生した時点で
メモしない方の価値を勝手に下げてしまうことになるんです
頭では平等にしていたとしてもどうしても差をつけてしまうことで軽く感じてしまうんですね
1:00:09
みんな気づかないんですよ みんな同じことだと思うんですけど
わかりますかね
メモを取った瞬間その出来事は保存されるべきという格付けがされるわけですよ
一方でメモしなかったものは流れていってしまうんですね
無意識に識別ではあるんですけど
だからメモするかメモしないか極端にいけないんです
価値の格付けをしたくないわけですよ
メモを中途半端にすると無価値なものになってしまう メモしないものは
あと全てメモするというのは物理的に不可能なんですよね
何もしないというのは放棄してしまっていることになる
誰でも格付けを行っているわけですよ 気づかないだけで
あと普通は自分の人生に意味があると思い込むために
都合の良いことだけ記憶しているわけですよ
メモをしたりするかもしれないし
自分はそんなことはしないですけど
人生に意味があると思い込ませることはしないけど
ただそうやってメモをしたりしなかったりすると自分の中で
自分の人生には意味があると思い込ませる人と
全く同じ行動をしていることにはなりますよね
だから機械的にメモをするしかないんですよね ルーティンとして
案外自分はその方が続いたりするんですよ
とにかく意味を感じないで行動した方が自分は続くんですね
だから自分の一つの戦略としては
一応メモをしておくけどどうせ見ないんだと
それぐらいのスタンスでいるっていうのがいいと思うんですけど
いやでも絶対見ないものを記録するのもそれは難しい話で
では次 完璧主義ではいけない 極端なことではいけない
この日打ちは何だろうなと思うんですよ
そもそも遺伝で決まってくるからどうしてもないと思うんですよ
中央こそが社会の最適解であるっていう
アジアのものなのかなこれは分からないけど日本なのかな分からないけど
極端は嫌われますよね
摩擦なく集団主義の国ですからそこで
効率よくさせるには極端っていうのは効率が悪いんでしょうね
だから日本の文化といえば文化かもしれない
逆に極端な方向が認められる国もあるし
芸術なんかも極端な方が合ってる気もするけど
でも商業的なことを言えば芸術さえも日本では
1:03:00
極端なものは知り憎かれるような気もしますけど
あまり適合していないような気もしますけど
でも理想は理想であって完璧主義な人ってもう遺伝なんですよね
細部まで気になってしまったり
物事をゼロか百科で捉えてしまったり
これらはもう何かの修行で
治るものでも身につくものでもない丸持ったものなんですよ
だからなんでお前は猫なのに吠えないのかって言われても
無理な相談ですよねそれと同じなんですよ
で教育でなんとかなるという幻想を抱いてるんですね
でバランスを取れば幸せになれるっていう
そういう言葉というか固定観念を持ってる人多いですよね
バランスが大事なんだと生活していく具合で
バランスを取れば幸せになれると言ったり
それではダメだと言ったり
いいという人いたり
ダメという人いたり
つまり人によって違うし
特定の人一人においても変わるわけですよね
それはちょっと今回あまり考えないですけど
あと別に完璧主義だから十何年間この生活続けてこれたし極端だからこそ
誰にも真似できない密度で
色々観測してきたっていう
防衛本能みたいなものなんですね
この不快感っていうのは
そうだから社会の風潮に収まってはいけないんですよ
では次 遺伝で決まってくる生きにくさってものなのに
解決しようとしてこでらせてる人って多いなと思うんですよね
社会の求める仕様と脳の特性とのズレを努力で無理やり埋めようとして
おかしなことになるってよくあるパターンなんですよ
負荷がかかってこじらせることになるんですね
なぜそういう改善しようと多くの人するかというと
自分の性質のままで生きるという可能性を
社会が許してくれてないとそう思ってるから
完璧主義では社会でやっていけないと思ってるんですよ
だから完璧主義では社会でやっていけないを間違ってて
自分は社会でやっていけないが正解なんですよね
1:06:02
語ってるから語ってるから社会でやっていけない
だから改善するっていうのはおかしいな
おかしいと思うんですね
何がおかしいかというと改善できると思ってることと
社会の中でいないといけないと思ってること
偏ってるから社会でやっていけないと受け入れるのが正しいんですよ
では次極端な人は
極端な方が逆にバランス取れてると思うんですよ
遺伝だという立場からすれば
極端な人は極端に振り切れることでしか均衡を保てない
と思うんですよね
普通は0と100の間でバランス取ろうとしますよね
あと振り切ってしまえばそれ以上動く必要はないから
成した安定が手に入るとも言えるし
偏ってるからこそ普通なら迷うとこで正解はっきりしてることもあるんですよね
遺伝的にですよ
探求心とか敏感な感覚とかこだわりとかがあるのに
それを無理に半分に抑えようとするのは
エンジンがすごい
もっとスピード出るのに時速20キロで走らせるようなものなんですよね
もったいないというか
もったいないとまでは言わないけれども
逆に極端な出力のままでした方が
エンジンはそのまま壊れずに保たれるような気はするんですけど
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