ブッダとライプニッツの哲学
今回はブッダの諸法無我というと、なんか宗教っぽい話に聞こえそうですけど、今回も哲学の話をしていきたいと思います。
では早速ですが、以前撮った時は、ライプニッツという哲学者なんだけど、
これ数学誌でもあって、微文ってね、過去に習ったと思うんですけど、
この世界のすべてのものは、どこまで分けようと思っても、なかなか分からないんですよね。
線の端っこで、これも分からないんですよ。
どんなに線を切っていって、これは端っこだって言ったって、永遠に切り取ることができるんですね。
原子だって、分子から原子に切り取って、原子もそれを分けることができるわけです。
だから微文って無限にできるわけですけど。
また小難しい話が始まったかと思うかもしれないけど、大丈夫です。
でもライプニッツの考えからして、精神だけは分けられないんですよ。
なんでかというと、でもその通りなんですよ。
精神は空間的な広がりがないから、分けることができないんですよね。
昨日ね、ふと平穏きました。
天から降ってきましたね。
そんなことはあり得ないんだけど。
ブッダは、すべてのものは単体では存在していない時点ですね。
でもさっきの理屈だと単体で存在するものが唯一、人間の精神。
人間は特別視しすぎですよ、だって。精神って人間なものですよ。
ライプニッツもそう考えたんですね。
最初はこの哲学者のこと確かだぞと思ったんだけど。
つまりですよ、ブッダはこの世界のことを悟ってますから、
あの人はこの世界の事実を言い表しているわけですね。
たとえ他の仏教でいろんな宗派で意見が食い違えたら、
この諸法無我という言葉は変わらないわけですね。
本人は諸行無常だって言ってるんだけど、
この教えに関してはある意味変わらないんですよね、現代まで。
引き継がれてきていますが。
ブッダはそうやって言っちゃってるんですよ、単体で存在しないと。
ということはですね、精神がもしあるんだったとしたら単体で存在することになる。
だから人間がそういった間違った概念を生み出してしまったんですね。
だからブッダの考え方からすると精神なんてものは存在しないんですよ。
精神の存在と概念
でもブッダは諸法無我ってことで自分はいないと言ってますからね。
精神イコール自分だと思ってる人もいると思うんですけど。
だとするとブッダが言う通りではあるんですよ。
何が何だかよく分からなくなってきたと思うんですけど、
ライブニッツの考え方からすると精神。
ライブニッツの考え方からっていうより、精神っていうのは単体でできてると考えざるを得ないんだけど。
まあいいのか、精神なんてものはないわけで。
概念としては成り立ってていいのかなと思ったんだけど。
あと、さっき言ったように線をいくら切っても点になることはないっていうパラドックスの問題があるんだけど。
だから点でしかないってことですね。
これは理論上の問題かなと思ったけど、ただブッダもね、だって全てのものは実体はないって言ってるんで。
これは正しいと思うんだけど、この捉え方で。
いまいちね、全てのものは点であるっていうのは理解しがたいですよね。
点っていうのは理論上存在するけど実際はないってことなんだけど。
つまり数字のゼロなんかも同じで。
ブッダがそんなこの世界全て幻想だと、幻想って言葉を使ってるけど、そんな風に思うかなと思ったんだけど。
ただやはりね、ここに人間がいるとか、リンゴが目の前にあるとか。
物自体はあるんだけど、ただその単体で何か他とは違うリンゴで食べ物で認識してるのは人間なんですよ。
ただね、思ったんだけど、宇宙っていうのも結局人間の作り出した概念でしかないとも言えるんですよね。
ただ、宇宙じゃあ存在しないかっていうと、その捉え方がやっぱり間違ってて、こうやって目に見えてるものは存在してるんだけど。
でもその捉え方の問題ですね。宇宙というのは一つの概念でしかないわけですよ。
特に宇宙はどこまで広がってるかなんて考えるときに、
物理学の中での理論上の話というかね、これも難しいんだけど。
それではしたっけ。