苦痛の増幅の理論
今回の苦痛は、もっと大きな苦痛でやらあげる方法でどうなのかという話をしてきております。
これ、あまり効かないと思うんですけど、そういう方法のことを堆肥と言うんですけど、
だから酸っぱいものよりしょっぱいもの、しょっぱいものと甘いものを対象に食べたら甘さがより引き立つ。
だから、スイカに砂糖かけるのなんかそうですよね。
あと、白だし入れるとね、卵焼きってすごい甘くなるんですよ。不思議ですよね。しょっぱくなるんじゃなくて甘くなるんですよ。
ご飯に入れてもそうなんですよね。こういうの堆肥って言うんですけど。
これで重要な点が、しょっぱさが甘さによってより引き立つし、甘さもより強くなるってことなんですよ。
だから、どこが痛い場合、例えば肘が痛い場合、膝がもっと強く痛い。
だから堆肥っていうことで言うと、別にもっと強くなくてもいいのか。
膝が痛い場合、これだと体一人分散なのかな。意識が他に行くから。
分散というか分かんないけど。
これは誰でも経験あると思うんですよ。何かに集中してたら、そんな痛みなんか忘れちゃう。
堆肥はあんまりそのやり方は進めないというか、進めないというよりは
誰でもそんなんすぐやってる無意識にできることだろうと思うし、やろうと思ってできることでもないし。
だからやっぱり肘を打ったとしたら膝をより強い痛みを感じさせる。
こんなこともちろんしたらダメだけど。理論上そういうことですね。
堆肥が起こるということで。
でも同じ痛みですからね、堆肥と言っていいのか
しょっぱいと甘いだったら別の
ちなみに味覚で下の先の方は甘みを感じるっていう説は今までは間違いだとされてるみたいで
至る所に、ここで味覚は甘みを感じるとかじゃないわけですよ。
だから味覚とはちょっと話が違うんじゃないかと思ったかもしれないけど、そう単純に言えるものでもなくて
これ簡単に説明できるようなことでもないんですけど
肘の痛みに対して、別に肘でなくていいんですね。
同じ場所で他の強い痛みでなくてもいいわけです。
あと今痛覚の対極にある感覚でもいいかなと思ったんだけど、例えばコツバシーとか
でもそれは間違ってると思いますね。コツバシーことして痛みがなくなるってことはないと思います。
あと腰を痛めたその時に、キンキンに冷やしたので冷やす、温める。
これもどっちが正しいかってね、特に定説はないですね。
ただもうキンキンに冷えたので当ててたら、今言ったような対比によって痛みが軽減されてるように感じる
ってことはあると思いますけど、それで後に痛くなるのであればやめた方がいいと思いますけど
あと対極にあるのは最高に気持ちいいだけど、気持ちいいことをするって思いつかないですね。
肘にとって何が気持ちいいかなんてわかんないですよね。
寝る前で温める。
でもさっきの理論から言うと、大きな靴はより大きくなってしまう。
メンタル面の苦痛
でもその理屈は成り立たないし、でもね、順のっていうのは
慣れるということだし、あともう一つはね、感覚の慣れっていうことで言うと
慣れというか、例えばダンベルの15キロ持ったとき10キロが軽くなるとか
まあどっちかというとこれに近いのかな、だから
じゃあ次、メンタル面の苦痛と考えたいんですけど
これは誰でも経験あると思いますね。
今まで大きく考えてたとか、もっと大きな要件が加わり
今までのはもう忘れてもいいくらいに思ってしまう。
これ誰でも経験あると思うし、クラキも経験ありますね。
肉体的なこと以上に今まで大きかったことは小さく感じるわけですよ。
でもどうですかね、じゃあ大きな問題をわざわざ引き起こすわけでもいかないし
とはいえクラキもありますよ、どうしてもこのことで悩みを
このことの悩みは無くしたいんだと。
そういう場合、もっと大きな変化をつけるんですよね、生活に。
頭がそれでいっぱいになるから。
楽しいことじゃもちろんダメですね。
楽しいことだったら逆に罪悪感があるから。
楽しいことの、さっきの対比ですよね。
楽しいことをしてしまったがために、よりそれがきつくなってしまう。
楽しいことがあるからそのことを忘れられたとしても、その後きつくなってしまうわけですから。
ただね、クラキの経験上、別に辛いことじゃなくていいんですよ。
すごい大きな変化をつくって、それ自体がクラキにとってはちょっと辛いのかな。
ただまあ、集中できるという要素もあるかもしれないし、ただ単に集中できるというだけだとしたら
その集中がまた悩みに戻ったときに、忘れてた、こういうことがあったんだってなるから。
まあでもそれまでは、気を紛らわせる方法としてはいいと思いますね。
あとクラキが昔よくやってたのは、メンタル面の苦痛はフィジカルな苦痛に変換するとですね。
変換というか変換はできないんだけど、変換したと思えるんですよ。
例えば筋トレして、肉体的な苦痛のほうが強いと。
さっき言ったダンベルの話と同じで、苦痛だと思ってたのが小さく感じるんですよ。
快感の役割
あまり推奨できないけど、クラキにとってはそれが特効薬になりますね。
ここまでの話で、大きな靴で小さな靴をしていくって言ったけど、
よくよく考えてみると、おかしな話で、
例えば体がどっか痛くなった、それより強い痛みを作って、
例えばどっかひねるとかね、自分で叩くとか、
そんなことをしたら、より痛いけど、でもより強い痛みじゃないと意味ないとなれば、
今まで以上の痛みを作って何の意味があるんだと思いますよね。
それでもう片方の痛み、最初無くなったんですよ。
今のでもっと強い痛みが出てきてしまったと思いますよね。
でもさっきクラキが言ったように、どうしてもこの痛みだけはもう、
しこりのようにあっても嫌だっていう場合は、
あんな感じで間違ってるとも言い切れない。
誰でも経験あると思うんですよ。子供時代とかね。
どっか痛くて、近く叩いてとかね。
親にそうされた人もいるかもしれないし。
こういう心理って働くんですよね。どうしてもちょっとつらい場合。
ちなみにクラキは昨日、足の爪がまた久しぶりに痛くなってきて、
そこをギューッと押してましたね。
気づいたらそうやってやってましたから、そういう本能的なことなんですよ。
同じ場所ですね、しかも。
したらね、もちろん痛いんですよ。痛いんだけど、今までの痛みは無くなるわけですよ。
これを何回もやるってことは、自分にとってはいいんでしょうね。
これと似たような話があって、最近どこかで話しましたけど、
マラソンランナーって何であんな長距離で毎日走れるかっていうと、
靴なんですよ。靴なんだけど、ランナーズ範囲になって少しの快感がある。
少しの快感って大事で。
でもね、差し引いたら絶対不快感が強いわけですよ。
そうしたらやらないのに、そんな中毒になってしまう。
あとスリルのあることとかもそうじゃないですか。
恐怖心脳が明らかに買い替えるのも強いはずなのに。
それをやるというのはまず一つ目として、量なんて比較できないわけですよね。
さっき言ったこともそうかもしれないです。
大きな靴で小さな靴を無くすとは言ったけど、
どっちが大きかどうかなんて言うのは言えたもんじゃないのかもしれないです。
あとはですね、少しでも快感が出ていれば、人間で快感を求めるにできてますから。
だからこうやってさっき言った、昨日こうやって足を押してしまったというのは、
ちょっと自分でも思いも変化があるのかもしれないです。
それこそ快感が出ているのかもしれないし。
ちょっとそれ以外には考えにくいですね。
今まで以上に足の痛みが弱まったということでもないだろうし。
ただね、一気にその痛みを与えることによって、しばらくの間、感覚は麻痺する。
これもプラマイで行くと、プラスマイナスで行くと、結局ゼロのような気がするから。
でも一時でも気晴らしになったら、という思いでやってるのね。
あと療養麻薬なんかも、キンジストロフィーの人とかね、
そんなことして、一瞬ね、痛みを和らげても、何の意味があるんだろうと思ったけど。
まあ医学的に何か意味があるんでしょうね。
それでは明日会いましょう。