才能の自覚
でも誰でも、人間って可能性が眠っていると思うし、でも自分は才能がないと分かるんですよ。
という話を今回は、その根拠を話したいんですけど。
でもね、いつこれに気づいたかって、分からないんだけど、少しというわけでもないし、
かといって何か大きなきっかけがあったけどね。
不思議なんだけど、はっきりと倉木は自分で才能がないと諦めがついているんですよね。
いつかとは言えないんだけど。
どういうことがきっかけでって、それも分からないんだけど。
ただね、人間が生きていたら、いろんなことを考え、行動して、
もし本当に才能があったらね、24時間のうちの365日で何年も生きていたら、10年、20年と生きていたら、
一瞬何か人より長けてるなってね、分かると思うんだけど、
でもね、客観的に見れない人、あるいは自分のことがよく分からない人、
そこは難しいかもしれないけど、ある程度人間だったらね、客観的に自分は見れるだろうし。
あと、倉木もね、いやだから、正常なのかったら、正常どころかそんなことなくて、
人と比較しすぎてしまうんだろうね、だから逆に自分のこともよく分かるんだけど。
今までね、あると思うんですよ、ここが一人優れてるかなって。
そういうことがあったからこそ、才能がないのが分かるのかな。
飛び抜けた才能があったらね、もっとね、すごい成果が出るだろうし。
ある程度、努力しなくてもね。
ある程度なんですよね、努力しなくてもできたことって、ある程度しかないんですよ。
例えば、書道なんかそうなんですよ。
天才と馬鹿は神と人へって言ってね、倉木は語教科全ての先生から字が汚いって言われたんだけど。
毛虫みたいな字だなって数学の先生に言われたし。
倉木は数学の偏差値は結構高くて、でも字に関してはね、そうやって言われたんですよ。
でね、その先生もそこだけは欠点だったらいいってことでしょ、きっと。
でね、にもかかわらず書道の先生からね、教室に張り出されたりあとは、ある企画、企画っていうかな、1位だったり。
あとね、ある詩人の字に似てるなって言われたり。
あとなんだっけな、なんか3、4回あったんだよ、褒められること。
でね、だから字が汚い一方ででも芸術性はあるってなんか才能がある気もするけど。
まあでもね、知れてるだもんしそんなの。
倉木は多分書道家になってもダメだって。
これはね、今考えてみたら、少しぐらい考えてみたらどうかと思うけど、一切そういう風には思わなかったね。
今これやって気づいてもね、別に何の思い残すことも別にない感じだし。
書道部入ればよかったなとか一切思わないし。
あと努力しなくてもできたことがあるとは。
努力と限界の探究
マラソンですね。野球部時代ね、普通にグラウンド走ってこいって言われてる。
普通にね、1位、2位だったしね。
小学生になって自分で相当筋トレしたりマラソンするようになったらさらにね、成績伸びたんだけど。
ただ小学生の時は全然練習真面目にしてないのに、マラソン大会の前の練習なんか全然しなかったんだけど。
でも割とできたしね。
まあこれもね、あれなんですよ。
まあ日ごもり中ね、あの駅伝やってたらなとか野球部の監督でもね、進められたし。
思ったこともあるけども。
でもね、駅伝の選手とかマラソン選手見たらね、もうスラーッとしてね、バネがあるのがわかるんですよ。
そうだね、アフリカ人なんか見てもそうですね。
そうだね、勉強に関してはね、勉強法さえちゃんとすればいくらでも偏差値上がると思ってたけど。
そんな努力振興があるクラキでさえ、マラソンは才能はあるとも思ってなかったし、ある程度はあると思ってたけど。
で、努力したところでどうにもなるようなものではないって思ってたんですよ。
マラソン選手みたいなスタイルをしてないから、だから諦めがついてよかったんですよ、それは。本当にそれはよかったと思うね。
今言ったように勉強ではね、もちろん東大学部とか目指してたし、いくらでも偏差値上げると思ってたんだけど。
でもそれはあくまでも努力していくことだからね。才能があるとはやっぱり思ってなかったし。
ただ努力する才能はあるみたいな考えはあったかな。
努力する才能ってね、よくわかんない概念だと思うんだけど。
確かに続ける能力があるかどうかとかあるかもしれないけど。
でも結局ね、頭がいいか悪いかで、いくら勉強を多くしたって落ちる人は落ちると思ってるから。
だからね、発達障害という概念に出会ってから、大学受験きっとせいぜい受かっても北大ぐらいだろうって。
でもね、くらきは結構知能もかといろいろあるから、北大受験はちょっと難しかったかもしれないけど。
できる科目はできるけどできない科目は全然ダメだからね。
それでもうあって諦めついたんですよ、大学受験のことでさえ。
便利士とか弁護士とか、高2会計士とかいろいろ考えてたけど。
それ前はね、狙ってたけど。
あと通訳案内士とかも考えてたけど、語学もダメだってわかったし。
語学の才能もね、才能がないっていうか、もう普通以上にダメだってわかったのがね、今年ですね。
あとほんと自分のことはね、自分でわかるところがあってね。
直感的にね、自分はこういう才能もないな、こういう才能もないなってどんどん削っていって。
もちろんね、誰だって眠っている可能性はあるとかね、思ったりもするけど。
それも含めてね、十分可能性があるかどうかも探ってきたけれども。
それでね、それでもないってわかるんですよ。
この諦めの悪い暗きでさえね、才能がないのはね、はっきりわかるんですよ。
ほんとにこの一つだけ、この一部分だけ飛び抜けた才能がある。
そういうのがもしかしたらあるかもしれないと思って、前はね。
すごい心の中で悩んでました。
もしあるんだとしたら、それをやればね、大げさの話、偉人になるかもしれないし。
でもそういうのがあったらただの引きこもりかもしれないし。
めちゃくちゃだからね、怖かったよ、だから進路を選ぶときは。
進路を探しているときは。何かあるんじゃないかと思って。
でもね、いや、当時は努力振興があったから。
発達障害っていう概念であって。
で、知能検査も受けて。
そこまで飛び抜けてるとかもないし。
だからね、いろいろ諦めがついたんですよ。
ウェイス受けたってのもやっぱり大きいかな、だから。
それではしたっけ。