00:29
はい、現在朝撮ってます。
まずですね、昨夜あったことから話しておきますが、
えー、ポッドキャスト配信で問題が起きて、
えー、で、夜中、それで関係で2時間ぐらいやって、
で、まぁ英語回撮ってたんですけど、また問題が起きてですね、
で、朝も、それに関していろいろ調べてると、
まぁ、アプリのバグ関係はあるアプリで何とかなりそうで、
で、何とかなりそうになったらな、
それはそれで、別に他にもいいアプリあんだけどな、みたいになってしまうんですね。
これ何がおかしいかって、まぁうまくいったらいったで、
別に他のやり方でよかったのかって、
なるときに、えー、
まぁ普通であれば、あぁうまくやれてんだから、新しい方法でそれでいいだろうって、
なりますよね。
なんだけど今まで納得いってなかった方法がなぜか、
それでもよかったと思えてくるんですよ。
多分判断基準が多少ずれてるんですよね。大きくはずれてないんだけど。
多少ずれてる?
うーん、
例えば今回の場合は、
あんまり逆に欲が出なくなった。これぐらいでいいと思えてくると、
じゃああれでもいいんじゃないかみたいに思えてくる。
だから可能性っていうことを、
今うまくいったって結果によって生成されてしまってるってことですよね。
だってその時点ではこれは、
いいとは思ってなかったわけですからね。
あくまでも今になって、
それでもいいんじゃないかと思ってるだけなんですよね。
じゃあ次の話ですが、
えー、では次。興味限定的で関心あることに執着するからですね。
その一部がポッドキャストで話してて、
なんだろ、出てしまったりというのか、
あー、ぎこちなくなるというか、
03:01
そういう限定的な感じになってないか、
それもそうだし、
逆に前と違って、
興味狭いとは言えポッドキャスト内では、
柔軟に話できてるような感じもして、
それはそれで違和感があるんですよ。
あーわかりました。
よく自分の本棚見られたくないとか言うじゃないですか。
そんな感じ、自分の今の状態が、
そのまんまポッドキャスト内で露出してしまう、
その感じがなんか怖いなと思ったんですよ。
なんでかわからないけど。
あとですね、興味狭いけど話してること広くて、
広がりますよね。
その全てに興味があるんですよ。
例えば、発達障害の話とか人生哲学、
自分は興味ないはずなのに、
興味持ってる。
興味の範囲は確かに狭いんですけど、
興味の射程は広いみたいな感じ。
だから、点から全体が伸びていくような感じなんでしょうね。
ただ、前回も話した通り、
ミーハーとかでもなければ、
興味が広い人は羨ましいと思うぐらい、
自分は全然そういう色んな分野に渡って
興味持ってるようなタイプの人間じゃないんですよね。
昨日話した通り、ミーハーとの違いは、
外部による影響ですよね。流行とか話題性とか。
ミーハーでなくても興味の範囲が広い人っているじゃないですか。
それともなんか違うんですよ。
興味があるから話しているというよりは、
構造上そこに接続してしまうような感じなのかもしれないです。
では次の話。
自分が崩壊しないための規律というより、
崩壊しないで生きていると自然と規律になっている。
規律を正しく生きざるを得ない、みたいなことなんですね。
規律に崩壊しないとも言えるけどちょっと違うんですよ。
だから崩壊しないで生きるという状態が先にあるんですね。
崩壊しないで生きれている。
結果として規律のようなものが
その状態を維持するために形成されているっていう。
これ単なる考え方の問題でしかないように思いますよね。
でもですね、規律というと何か目的とかあるんですよ。
06:03
あと信念とか意志とかですね。
崩壊しないように生きようとしたら、
気づいたら規律っぽくなってた感じなんですね。
これは親には旧悪性障害に移っているだろうし、
自分も発達障害の表れかなんていうふうにも思ってましたけど。
ただまあ発達障害だからこうやって家の中でずっとこの生活を続けてこれた。
普通だとちょっと正気ではいられないとは思うことはあります。
でですね、規律とあとは同じことなんだけど、
固定しないっていうことでもあってそれは、
崩壊の引き金になるんですね。
結論とか着地したり固定を置くと、
それが自分の基準になってしまうんですね。
だから基準が揺らいだときに全体が崩れてしまうんですよ。
あと着地するってことは意味がもうほぼ完成期になる。
これはもうこの世界がこういうふうになっているんだと思います。
必ず矛盾が生じてしまうんですよ。
矛盾が見えてしまうんですね。
で結論を出すってことは固定な意味を作ってしまう。
虚無の前提はどれも確定しない。
というのはどういうことかというと、
えみつげをもう決定させないってことですね最初から。
そことの矛盾が生じるってことですね。
虚無にいるってことはそもそも固定させるわけがないっていう。
未確定のままでしとくと考えが止まらないで済むんですよね。
これで結構大事なことなんですよ。
だから意味とかそういうものを不確定にしないもののほうが
自分が安定するっていう不思議ですよね。
自分のボードキャストが聞いてくれてる人は分かると思うんですけど、
絶対結論が出ないんですよいつも。
普通だったらこうです、だからこういう風にいきましょうとか、
だからポジティブにもっとなりましょうとか、
そういう結論づけが必ずあるんですよ。
もう決定的に違うんですね。自分でも気づいてなかったけど。
そういった固定をすると意味ってものの骨格を作ることになるんです。
でもそれは壊れやすいんですね。
壊れた瞬間に虚無が自分にとっては敵でしかなくなるんですよ。
固定した時点で問題が始まってるんですね。
今のこと自体自分にとってはストーリーでしかないんですけど、
だいたい決まってますよねその流れって。
09:02
あと何かを固定させると守らなきゃいけないものができるんですよ。
これを大切にしようっていう時点で守らなきゃいけないものって出てきますよね。
あと意味を固定するって熱を生むんですよ。
ちなみに虚無というところで物語を生まないっていうこと自体、
物語の可能性もあってどういうことかっていうと、
人生つらいから生きててもしょうがないみたいにもう決定づけてしまう。
そういう考えで熱を帯びるんですね。
期待とか不安とか失敗の恐怖とか。
あと固定するとこうあるべきとかこれが正しいこれが自分だ、
こう生きなきゃいけないみたいなのが作られてしまうんでどうしても。
壊れた瞬間自分が崩壊するってのが分かるんですね。
でもいつも多少意識的にやってる部分もあってそれを固定しないっていうのは、
なぜかというと以前だったら固定したくてしょうがないですから。
だからこうやって話してても結論をやっぱり出したいじゃないと
自分の中で気分が良くないですからね。
結局何なんだって自分に言いたくなっちゃうし。
でもその時の感情が怖いんですよ。
やっぱりその安心感とか絶対的なものに触れるこの感覚が恐ろしくてしょうがないんですよ。
結論っていうのは脳が勝手に作る物語の着地点なんですね。
こういう意味だ、自分はこういう存在だ、本来はこうなるべきだっていう。
結論を作るとそういうものが自然とできてしまうってことです。
あと何かに着地すると未来が縛ってしまうんですね。自分を縛ってしまう。
勘の良い人は分かったと思うんですけど、規律によって自分を縛っている。
それが防壁になってるんですよ。
意味の固定は自分を壊すけど、意味を持たない形だけの縛りなら良いんですね。
価値とか目的を押し付ける縛りではないですから。
こんなことをなんとしたら、やっぱり自分は修行僧と同じことを結果的にやってるんだよなと。
修行僧みたいにそうしようとしてるというよりも結果的に今の生活を保とうとしたら
修行僧みたいになってたっていう形なんですよ。
さっきの話みたいなポッドキャストで自然と解釈、結論を出さないっていうのも
仏教の固定をしないっていうところに通ずるところがありますし。
12:06
次の話ですが、昨日英語会を取った後トイレに行ったら見事に大失敗。
これは着替えなきゃいけないなとなり。
でももう夜中の2時、まだ寝れてない。これから寝なきゃいけない。
つまりいつも通りのルーティンで行かなきゃいけない。
次の日でいいと思ったけど、なぜそう思ったのかが分からない。
トイレの一瞬の判断がなぜその考えに至ったのかが分からないんですよ。
朝起きた時は朝起きた時で、なぜ今日着替えようと思わなかったのか。
匂いもするだろうし。っていう風に自分が二重人格と思うゆえんですね。
自分は固定して価値観を持たないですよね。だからそれも大きいんだと思います。
自分の中でのこれが絶対的な正しさみたいなのがあったらそんなぶれないですけど、
さっき言ったように流動的だからこそ、なんでそっち選んだのか。
怖いのが次の日になった時も前の日の考え全体的にさらにどうなってたか分からなくなる。
英語のその失敗は以前も何度かあって、デジャヴなので絶望ですよね。
しかもその後に大問題が起きるっていう。なかなか生活で起きない大問題が起きるっていう。
で、その後あまり寝れなくて。朝は朝でここで話すことを忘れてしまい、
親が目の前にいるのに何十分も考えてしまい、二回でも考えてしまい。
昨日ある大御所演歌手が素晴らしくて、バラエティもできるし、
お高くとどまっていない感じだし、人柄がいいし、優しそうな表情だし。
ただ問題なのはその人のことが頭から離れなくて困りましたね。
あともう一つ、ポッドキャスト最近聞いてる人。
15:06
自分と非常に似てて、自分を維持するのが大変だと。
だから人間関係をなるべくしないようにしてるしってことを言ってたんですね。
ギリギリでなんとか生きてるような感じなのかなと思ったけど、
普通に飲みに行くし、みんなと話しするし、友達もいるし、
普通にポッドキャストで二人で話してるし。
やっぱり自分と違うじゃないかと思って裏切られた気分になりましたね。
そうなんですよ。自分みたいに宗教20年やってて、それ辞めて、
なんなんだっていう人生、歩んでる人なんてあんまりいないんですよきっと。
次です。自分は性行為と結婚、別問題じゃないかと思うんですよ。
恋愛もこの3つと関係ないはずだと思うんですよ。
性行為って子孫を残す行為。恋愛ってのは特定の相手に惹かれる。
結婚は社会制度ですよね。論理的には完全に別物なんですよね。
でも恋愛、性行為、結婚、子育てっていうパッケージとして扱われてきてる。
確かに協力関係が必要だからとか、それは散々聞いてきましたし知ってるし、
そういう社会秩序から言っても維持するために必要だとか、
それなのをはなからわかってるんですよ。
でも生物学的にも心理学的にも何ら関係はないんですよね。
ここからが疑問なんですよ。
好きだからって言って、そこの延長になぜか性行為っていうのがある。
っていうのがはなはなおかしな話だと思って。
それって好きだから殴ってもいいっていう、極端なことで言うと、
そういう風にならないじゃないですか。
全く関係ないからですよ。好きと殴っていいよ、全く関係ない。
誰も考えてもないですよね。それと同じなんですよ。
何ら関係性ないはずなんですよ。意味わかるかな。
確かに今までの歴史でそうなったのはわかるんだけど、
本当に全く関係ないはずなんですよ。恋愛とか結婚とか性行為って。
例えば金持ちと辛い物好きと全く関係ないはずですよね。
それと同じことなんですよ。どう考えたってつながる用はないんですよ。
好きだから殴る、好きだから金を取るはダメだけど、
好きだから抱きしめるとか、それはいいってのは、
結局許容されるかどうかの話ですよね。
だからそこなんですよ。それ自体が関係ないだろうと。
あと恋愛したら性行為ってのが当たり前みたいなのがありすぎると思ってて、
18:01
まるでそれ目的みたいにしか見えないんですよね。
だったら付き合わなくていいと思うし、
あと日本人は好きだっていう感情が高まってきてというよりは、
付き合うという契約の瞬間に許容されるっておかしいな話だと思って、
そんな事務的だったり機械的なふうに人間の感情ってできてるかなと思うんですよ。
だから好きだけど性行為はしたくない。
性行為はしたいけど付き合いたくはない。
一緒にいたいけど結婚はしたくはないでいいですよね。それでいいはずなんですよ。
もちろん社会秩序上それはあれだってのはわかるんですけど、
ただあまりにもそれに縛られすぎていないかっていう。
ただ今この話は問題提起というよりも、
もう疑問で仕方がないんですよね自分にとってそれが。
この疑問は解消されないでしょうけど。
昨日までは友達だったのに、今日から恋人ですなってですよ。
身体的な抵抗感までなくなるわけがないじゃないですか。
もちろん好きという感情の表現の一部が性行為ってのもわかるんだけど、
そう言いたいのもわかるんですけど、
でもやっぱり立ち替えてみると関係ないんですからね、その感情とは。
他の動物もそうですよね、関係ないはずなんですよ。
では次、絶対ってものがないからっていうことは、
何やってもいいってことなんですよね。
例えば子供がウルスバンしてて、
親に参考書をやりなさいって言われるのと、
何も言われないとだったらですよ。
制限の幅に大きな違いが出るのはわかりますかね。
でもですよ人間、何をやっててもいい。
でも抑制して生きてるのが人間ですよね。
他の動物はちょっとわからないけれど、
人間は理性によって抑制しますよね。
なぜかというとシャバに入れなくなるから。
そして信頼関係を保てなくなるから。
社会生活を営めなくなるからですね。
説明されるのが絶対的な正解はなくても、
その時代の正解はだろうみたいなこと。
だからその人自身の価値観になってきますよね。
時代によって変化する価値観なんて絶対的なものじゃないんだから。
そんなものあまり自分にとっては必要ないと考える人もいるだろうし。
自分にとってはその時代だけの正解なんて正解とは思えないし。
21:00
だからこそですね、その正解に従わないと実際は生活していけないっていう
その葛藤なんですよね。自分ももちろんあるんですよ。
ない人はいないと思います。
だから人間って自分たちでそうやって絶対はないわけだから、
何してもいいっていうのもなんとなく分かっている。
特に現代人は分かっている。
でもそのままでは社会が崩壊してしまう。
だから無理やりそうやっていろいろ縛りをつけている。
どうしてもそこの矛盾が生じてしまうけれども、
でもそういった社会秩序を保たせなきゃいけないっていう、
そういう存在なんですよね。
では次。発達障害っていうのは
情動行動で秩序を作って保っている。
自分は規律による虚無の中を保っている。
似て非なるところがあるなと思いました。
自閉症スペクトラムってルールや規則を重視するんですね。
で、予測できる環境を作っている。
そういえば発達障害って
同じ行動を繰り返すことによって
この世界はそうやって自分でコントロールできるものだと
いうことを自分に意識させるっていう効果があるみたいなんですけど
これはかねてから疑問でそんなことあるかなと思ったんですよ。
でも毎日同じ行動をしていると
こうやったらこういう効果が得られる、結果が得られるっていう
そういう積み重ね、成功体験じゃないけれども
そういう手応えみたいなのが伝わってきて
コントロールできる。
だいぶそれでできるものだと勘違いさせてるんですよね。
でも正直言うと勘違いさせてるだけじゃなくて
実際コントロールできるになるし
やっぱり変化が少ないと。
もしかしたら自分にルーティンがあるっていうのは
そもそも外界に意味はないから
期待もしてないし、だからそれに合わせる必要もない。
だから自分の中で生きてるような感じ。
ではさっと話していきたいと思います。
またうちの親ミスしましたね。
メモのし忘れなんですけど昨日
クリエイター名変えるからお願いしといたら
なんかその話は出てこなかったなと思ったんですけど
ちゃんと自分からは言ってるんですけど
単純にメモのし忘れてたんですね。
本当にこれは単純なミスです。
またやらかしたなと思いました。朝から。
自分のことでも大変だし、親はミスをするし
24:02
人生には意味はないし
クラスの女神のことを思い出して
あの時お腹ツンツンしてきたけど
あれは気が合ったのかどうなのか不明だし
あと食事中
なぜかですね、高揚感がある時はですね
落ち込んでる時っていうより高揚感がある時
空想が上がって全然食に集中できないんですよ。
空想してるからっていうよりは直接的には
高揚感があるから食に集中できないって感じなんですね。
そうだから気持ちがそういう風に落ち着かない時って
目の前のやることに集中できないから
なるべくそういう風にならないようにしてるんですね。
それは暇つぶしでさえそういうことですね。
もちろんルーティンをこなしてる時は
出ないですね。
そもそも食事中ってずっと座ってチーッとしてるだけのことですから
顎は動かしてるけど集中するのって結構極めて難しいんですよ。
ある程度は他の方に意識行ったり話したり
ぐらいがいいんだろうけど自分の場合はダメなんですね逆にそれが。
この前話した味覚よりも体の痛み痒みのが
脳の処理として優先されてしまう。
これと同じで高揚感脳が優先されるようですね。
あと多重処理の集中の仕方の人っていますよね。
いろんなことをやりながら集中できるっていう人。
前はいくつもの線があって
こっちの道を歩んだりこっちの道を歩んだりって
行き来しながらやってるっていう人いたし
自分は一つの線を歩むような感じ。
だから過集中を防ぐために
ある程度いろんなところで意識を分散させるんですよね。
分散させるというか意識を行ったり来たりさせる。
音楽家っていうのはそこら辺を意識しながら作ってるんです。
もちろん文学なんかもそうかもしれないけど。
音作りにおいては特にそこら辺を意識してるんでしょうね。
集中できるように。
行き来してしまうと主軸がずれてしまうんですよ。
高揚感もその主軸を失う原因だったんですね。
次の話ですが、この前ミクネシックの店で
この店やってたおばあちゃんが
開店するときに店に来てて
27:01
料理し始めたんですよ。
店長変わったのにいいのかと思ったけど。
こういう臨機応変さっていうのは素晴らしいと思うし
羨ましいし自分にはないなと思うし。
正直驚きましたそれを見て。
あまりいいことじゃないのかなと思うこともあるし
そういう臨機応変さは時には大事なのかなと思うし。
ただ憧れはするんですよ。
次の話ですが、
虚無にいてどこの思想にも
着地したり固定しないという考えなんですね。
でもそれ自体は仏陀の教えと重なるという
この矛盾があるんですよ。
つまりどこにも着地しない虚無に立っているというのは
結果として最も空に近い
構造を踏んでしまうということですね。
これは分からないけど仏陀の教えに従って固定しないのと
自分で考えた結果固定しないのでは
何かしら違いがあると信じたいですね。
もちろん信じるなんてこともしないですが。
でも仏陀の教えとか仏教って
自分が自分で生きてきたとき
自分が生きてきた状況を
自分で生きてきたのを
自分が生きてきた状況の中で
どこにも立っているかわかりません。
たぶんお弟子さんもそうやってやってきたし、ブッダ自身もそうやって自分で言ってるし
こうやって体が悪い以上は、もうどうしてもそれは避けられないと
ただですね、自分は固定してるなってことを観察する、気づき続けることには可能ですよね
でもそのこと自体にまた固定してしまうっていう
その気づきっていうのは一瞬のことでしかないから、固定されないから大丈夫だっていう考えにまた固定されますよね
次の話ですが、ブッダって人生の意味があるわけでもないわけでもないと言ったんですね
固定したら苦しむということを言うわけですよ
自分は意味はないと観察し続けた結果を確信してる
あるわけでもないわけでもない、そんなわけないだろうと思うんですよ
でもそこに着地してはいけないと思うんですね
これが難しいんですけど、これ感覚の問題なんですよ
30:00
理論上どうなのかっていうよりも感覚的にそこに着地しないってことなんです
死ぬにもしない、かといって意味が実際はあるのではないかとも思わないし
ブッダと違って、暮らしのないためではないんですね
目的はないし、崩壊しないためなんですね
ドラえもんがいないってことに、自分の中で固定しても問題ないじゃないですか
同じ絶対的な意味も別に固定したところで問題ないと思うんですよね
もちろんドラえもんは存在しないということに固定してはいけないんだけど
本来そうですけど、でも現実的に
現実世界ではドラえもんなんかいないと考えるほかないと思うんですよ
でもアニメの世界ではドラえもんがいるとか言われると、それはまた話が違いますよね
だからいるかどうかわかんないんだなんて言われたところで
それだから人間が作り出したものですから
そもそもドラえもんが実際いるかどうかって聞かれたら
アニメの世界の話じゃないってわかりますよね
だから仏教では、分からないけど
ブッダは何のための、苦しまないためか
自分は単純に壊れないことさえできればいいから
だから固定しても問題ないものと
固定しても固定したらまずいもの
分けられるんですね
こういう宗教性が入ってくるものとは絶対ずれるんですよね
その真逆を言ってるから
英語を撮っております
今ですね、英語のことで
英語界のエピソードのことで
細かい作業がちょっと大変でですね
大変なことがあって
作業が大変というより
この煩わしい性格が
どうにかならないものかなと思うんですけど
では話していきたいと思います
宗教職員はですね
不安とか迷いとかないと思うんですよ
でも普通はないであろう悩みが
この人たちはあるのかなと思ったんです
あと絶対的に守られてると思ってるけど
絶対なんてことはないはずじゃないですか
どういうことかというと
不安とか究極的にないと思うんですよ
宗教の職員というのは
教祖に守られてる気がするし
33:00
バリアが張られてる気がする
でもだからこそ悩みってあるような気がするんですよ
本人は絶対的に守られてると思ってるけど
でも実際絶対なんてことはないっていうとこのそのずれによるもの
何なのかと思ったんですね
見えない何か
孤独感もないだろうけど
何か本人なりになると思うんですよ
別に宗教の職員だけじゃなくても
明らかに満たされてるような人ならではの
何か悩みってあるような気がするんですよ
やっぱり人間である以上不安っていうのは付きまとうし
本人はないつもりであっても
これもう生物である以上やっぱり
多分自分でも意識してないんだろうけど
不安っていうのはあると思いません?
その立場的なことだったり
何でそう思うかっていうとですね
自分はその幸福恐怖症があるから
明らかに幸せな状態の時でも
無意識に不安っていうのが出てくるんですよ
でもそれってなかなか気づけないんですよね
やっぱり脅迫的になりますから宗教やってると
本当にこれでいいのか自分はもっとこうしなきゃいけないんじゃないかとか
真面目な性格だとそうなりますよね
焦燥感とかこんなことしていてはいけないとか
あると思うんですよ
こういう時に絶対ってことはないから
こういう人たちでさえ
何か起こるか分かんないとか
どんなに安全な状況でも絶対なんてことはないって言い方されますけど
でも絶対はないってことは一応証明されてはいないんですよね
だけど絶対置かない方が整合的なんですよね
だったら神なんていないって言った方が整合的じゃないですかね
絶対的なもの神がいないことを肯定する人ってあまりいないのに
神がいないということを肯定する人があまりいないのに
絶対になんてことはないんだという考えは
ほとんどの人持ってますよね
それも謎なんですよ
まずですね
ほとんどの人は頭では
価値っていうのは相対的にできてる絶対的なものなんてないって分かってるんですよね
でも社会は当然
善悪はっきりした善悪とか正解を求めますよね
そういうもので成り立ってますよね
そういうものがあるというこれも共同元素なんですけど
だから社会的秩序って絶対ってものがあるっていう振りをして
または思い込んで成り立ってるんですよね
36:03
でも実際神は見たことがないし多分いないだろうって
分かっててほしいしそうだと思うんですよ
これが絶対だみたいなそんな価値観なんてないだろうって
大抵の人分かってはいると思うはずなんですけど
そういう前提で話したいんですが
じゃあなんで絶対はないを認めても神はいないと言わないのか
絶対ってものがないとなんでこうやって生きてるのか分かんないっていう
人生の根拠がなくなる
あと絶対ってものがなくなると社会全体の共同元素だったり
みんなが共通してるものがなくなって
イメージだと多分ですね
スポーツチームの監督がいなくなるような感じで近くなるから
なんか空白ができてしまうのが怖いんでしょうね
だからみんな持ってる
それぞれの中で持ってるんだけどお互い持ってるだろうっていう認識もある
だから真相ではみんなと同じなんですよ絶対的なものはない
でも多くの人は絶対ってものがある振りをする
でも自分はない程言語化してしまうっていう違いがあるんですよね
だからなぜみんな同じ理解を持ってるのにそれを言わないのかと思ってしまうんですよ
では次
味が飽きたときに集中できてないっていう感じでもあるし
慣れて感覚鈍くなってるだけのような感じの
でも両方という感じでもないんですよ
では次の話ですね
ある演歌歌手が怖く出れなくなったっていう話
前聞いたけどそれについて調べてたのと
もっといろんなこと調べてるんですけど
あとですねミセス・グリーン・アップルの大森元気さんが
どんな音楽の影響を受けてきてるか調べたら意外でしたね
あとデュエット曲どんなのあるのか
有名な曲調べてましたね
では次の話ですが
同じ考えでも誰がどのようにたどり着いたか
で意味合い変わることってあると思うんですよ
まあそれってただの幻想かもしれないし
例えば簡単に言うと言葉の重み
月並みな言い方をするとそういうことなんですけど
でも言ってることは同じなんですよね
でもやっぱり最近ですね
誰が言うかによって言葉の意味合いっていうのかな
何か変わるような気はするんですよね
だからその人自身っていうよりも受け手側が
39:02
そこに何かいろいろ保管するからかもしれないです
だから意味は内容でなく経路に付着するっていうことも
多々あるのかもしれないです
まあでも失敗の経験が多いから
言葉の重みが出るとか
そこはあんまり信用できないんですよね
まあ今のここで話したいのは
だから単なる受け手が
この人の重みがあると思って
何か新たに余計なものをプラスしてるんじゃないかと
今までは思ってたんですけど
実際に何かプラスされてるんじゃないかっていう
例えば
どこどこで育てられた牛だと和牛だったら
美味しいだろうとか思い込んじゃうじゃないですか
国内産ってだけでも美味しいと思っちゃうじゃないですか
それと同じように
この人が言ってることだから重みがあるみたいに
そういう思い込みみたいのはどうしてもありますよね
やっぱりまず期待とか
自分なりの解釈を上乗せしてしまう
っていうのはまず一つあると思うんですけど
実際言葉の物理的な形も変えることはあると思うんです
例えば
言葉の選び方なんかもそうだし
あとどんな矛盾を抱えてきたかみたいなこととか
そういうので重みが出ると思うんですけど
よく言われるのが
単なる独りよがりじゃなくて
外との
ちゃんと行き来の間でできた
何か知恵なのかどうかみたいなことってのはあると思うんですけど
あまりピンとこないけど
でもよく言われることですねそれは
でもですよ
別に独りよがりでもいいんじゃないかなと思うんだけど
それはそれで
我が道を歩んできた人の知恵ってあると思うんですよ
胃の中の渇圧になってるだろうっていう推測のもとの
歪んだ捉え方がされてるような気がするんですよ
で2つパターンありますよね
外界との摩擦がなくて
自分の内側だけで回ってる
そういうところから生まれた知恵っていうのと
42:01
長い孤独の間で得た知恵っていうのと
多分ですね自分の場合は
痛いほど外界との摩擦
間に生まれてくるんだと思いました
そうでないとこんな矛盾に苦しまないだろうし
孤独感も味わわないだろうし
ただ内側だけで回ってるような考えって
どうゆうものなのかちょっと分かんないので
なんとも言えないんですけど
少なくとも言えるのは
自分に都合よく内側だけで回ってる考えっていうよりも
葛藤してきた考えであるのは間違いないですね
仏陀自身に執着するとか固定してもいけないんだと考えを
そこに縋ってもいけないんだみたいなことを仏陀は言ってるらしいんですよ
でも仏陀の教えにある程度固定しないと
そもそも固定してはいけないという発想にすらならないですよね
似たようなことって生活でもあると思っていて
例えば何かを改善するとしたら
目の前にあることに一旦ちょっと集中するのやめなきゃいけないんですよ
っていう矛盾を抱えざるを得ない
でも目の前にあることに集中してたら改善できないし
だから一旦ちょっと改善する方に意識いかなきゃいけないっていう
ものに似てると思うんですよ
だからそういう教えを学ぶためには一旦足場を作らないといけないから
言語化っていうものが必要で
そのためには固定している必要が一時的にはどうしても必要になってくるっていう
では次の話ですが
Aはないという人に反論したら突如
Aはあると言い出した
っていうことってあると思うんですよ
自分の周りではよく起きるんですね
こういう意味ではあるし
こういう意味ではないと言い出すんですよ
さっきは単純にないと言ってたのに
こういうのってテレビでもよくこういう会話聞いたことないですかね
普通あまり何とも思わないと思うんですけど
最初の主張を守れなくなった時に言ってるだけには見えないんですよね
もしそうだとしたらちょっと怖いですね
あるとかないとかって分割してる時点で成立してない証拠なんですよね
だっておかしくないですか
こういう意味ではあるしこういう意味ではないしって言い出したら
さっきは単純にないって言ってたりあるって言ってたしとかですよ
だから自分が親と話してる時なんか
最初に立ち返ってどの意味でのないだったのか
45:04
意味の範囲を固定させるんですね
まあでもうまくいかないんですけど
正しく答えてはくれないんですよ
どういうパターンが多かったかな
でうちの親もまあ逃げようとしてる感じでもない
自分でもよく分かってないんですよ
だから自分でもよく分からずなんかもう
右往左往しながら話してるんだけど
でも自信を持って話してる感じなんですねうちの親
で定義に立ち返って
どういう意味で言ってるんだいって
小学生に問いかけるようにわかりやすく聞いてみるんですけど
まあ会話にならないんですね残念ながら
まあ悔しいことにあまり覚えてはいないんですけど
ただ10回以上はそういうこと
いや100回以上そういうことありました
次の話ですがポッドキャストを聞いててですね
この人たち顔出しもしてるわけでもないし
得体の知れない感じで
いろいろ話してるけど
承認される感覚ってどう思われるのかなと思ってたんですよ
でも自分も似たもんだとは気づくんですね
でポッドキャスト内で生まれ
そこで完結してる感じ
完結してる人格と割り切ればいいんですけど
まあ納得はいかないし
まあでもそういうことですよね
ポッドキャスト内
まあ知り合いが聞いてたら別だけど
ポッドキャストの中での接点っていう意味では
ポッドキャスト内で存在してる人格なんですよね自分は
逆に自分が聞いてるポッドキャストの人との接点もそうだし
まあYouTuberだったらもうちょっと情報があったりするけど
プロフィールもわかったりするけど
そういうことでもないし
でもまあ
人格の切り出しってことは起きますよね
でも閉じた世界で完結してしまってる感じもするし
でも今回話したように
自分の興味の
今の現在の向いてるのが全て露呈してるような感じっていう
その向き出しな感じの恐ろしさもあるんですよね
でも自分では意図してない文脈が
あとまあ行間だったり
まあまあ伝わる人には
いい意味でも悪い意味でも伝わっているだろうし
でもこの場の中で存在する
完結する承認っていうのがあるような気がしてて
48:03
常々人間のこのイマジネーションについて考えてますが
本当にすごいですよね
聞いてる人も理解されてる感覚があるとか
自分の内側内弁
内面を代弁されてる感覚があるとか
あとはでも言葉だけで承認が完結するっていう
思っている以上に
そういう関係性はできていて
思ってる以上にわからないものなんですね
だからその承認という意味でですね
お互いの承認という意味で
わかんないですよねこうなると
でも本当にPodcastで不思議な世界だと思いますよ
やっぱりSNSとは全然違う種類のものだし
面白いなと思うのが
最近聞いてる人は
居酒屋で出会ってたまたま始めたっていう感じ
そんなフランクな感じだけでものすごく
意味のある番組になってるし
誰でも始められるようででもそういうわけでもないような
例えば自分だってブログ時代と違って今は
相当責任感がたまらない行為ではあるんですよ
そんな簡単にやめれないし
あとPodcasterとして
やっぱり少なからず聞いてもらえてるから
発信者として責任ってありますよね
自分一人でテレビゲームやってるから
武器なんて持ってないので
ゲーム内で戦ってるので
誰にも危害を与えませんっていうレベルのことではないですよね