人間の理解と拒絶
今回も哲学に立つ段階ですが、
まず人間が理解できないのは何でか、倉木もね、理解してほしいと思いながら、
でも倉木自身もどうやったって人のことを否定して否定的に見てしまう場合、
理解しようとする機会すらないし、理解したくないし、理解絶対できないのもわかってるし、
それなのに自分が理解してほしいっておかしいなと思っててね、
そういう経験もあるんで理解しあえないと思ってるし、
一つ前のエピソードで、人間が分かり合ってると思ってるのはただの偽造だって話しましたけど、
頭ではどういう違いがあるかってことが理解できても、
相手を受け入れる違いを、
なんていうのかな、全く拒絶感がないようにするって、まあ無理ですよね。
だからだと思います。
まあでも今話してるように、理解するっていう、
何をもって理解するかっていうこと自体が、なんか曖昧ですよね。
生きる意味の探求
では次。
最近も話しましたけど、人間の動作の変化を認識するのは0.1%。
つまり99%は自分の意思でないっていうことだと思うんだけど、
体を操ってるのも99%は意思ではないってことですね。
クラキは99.9%かな。
もうちょっとね、1割ぐらいは意思の力が働くかなと思ったんだけど、
ほとんど意思の力なんて当たられてないってこと。
まあこれも自我によるもので、自分がこの体を操って、自分で考えを受け止めているっていう、
まやかしでしかないってことですね、それは。
これじゃ歯とかかえとそんな大差ないような気がしますけど、
本質的にはそうなんですよ。歯とかかえとか大差ないわけです。
だから人間ってものを理解するために、蚊に電気信号を送ってね、
ってやってる生物学者はいましたね。
共通する部分があるんでしょうね。
で、まあ人間はなんで生きてるかっていうことを考えると、
意味なんか考える以前に、生きたい生きたくない以前に、
こうやって毎日こうやって、まあ人間って習慣の生き物ですし、
別に惰性で生きてるわけじゃなくて、もうこうやって、
まあ死にたいとかいろいろ思ったりするけども、
結局そんなことも忘れ、こうやって生きてるのは99%は、
人間ってのはね、他の動物と同じで、本能によって生きてるからですよ。
生存本能があるからですよ、99%はそういう理由で、
食べて排泄をして睡眠をとってってやってるから、
そういうことなんでしょうね。生きる意味なんか感じなくたって、だから人間生きて生きるんですよ。
意志の力なんてほとんど働かないんだから。
そう考えると自分で命を絶つ人って、相当な変化だと思うんですよ。
人生に意味ないと言っておきながら、ものすごく死ぬことに意味感じてるんだろうって話だけど、
ものすごく人生の一部に意味を感じちゃってるなと思って無人を感じてしまうんですけど。
科学と宗教の違い
で、これについてもう一つ、いえ、クラゲの持論なんだけど、
クラゲも実際本当に本気で命を絶とうと思った時に、
愛知話してるスイスに団体に登録した時ですね、
あれはね、ただ単に頭がおかしくなっちゃっただけでしかないと思うんですよ。
自分で命を絶とうと思うのってね、これまで10年も20年も生きてきたのに、
そうやって思うっていうのは、
本当に一時の、なんかそうやってクラゲみたいに頭がおかしくなってパニックになったり、
精神的なアンバランスって言ったら、
なんて言うかな、精神的というよりも本当に何に、
体の状態の変化っていう意味でも精神的な、
何か問題によるもんだと思うんですよ。
その人の人生哲学に何か動きがあったとか、そういう大げさなことじゃなくて。
つまり、
そうなるべくしてそうなった、
長い期間の、絵ってそうなったというよりは一時のことでしかないと思うんですよ。
科学と社と宗教の、宗教者の、
とりあえず宗教、信者ってことにしとくかな。
教祖でもいいんだけど、の違いって、同じことですよね。
真相真理を探ろうとしている。
特に物理学なんか、すごく宗教的なことの意味合いも感じるし、
科学者で宗教にのめり込む人もいるみたいなんだけど。
まあ科学の延長に宗教があるって言ったら言い過ぎかもしれないけど。
この違い何でしょうね、科学者と宗教か。
さっきの言い方だと似てるけども全く違うと思ってて、宗教ってのは、
これは絶対矛盾って生じますからね。
まあそれ言うと科学もそうなんだけど。
矛盾があっても別にいいわけですよ。
だから真相真理なんて逆に追い求めちゃいけない話で。
教祖もね、そうしたタイプいるわけです。
倉木はそう思うんですね。
一つのタイプは頭おかしくなってるタイプで、もう一つは
妥協して嘘を言ってる場合と。
こうしたのが多いのかなと思うんですけど。
多くあってほしいって思いもあるし、逆にそれはそれで
なんか冷たいなと思うんだけど。
別に熱い思いは熱い思いであるにはあるかもしれないけど。
競技自体はね、そういうことはみたいですね。
教祖もそうだし信者も。
とにかく真相真理であるかどうかはどうでもよくて
信じること自体に意味があるわけですね。
何か真相真理を追い求めていく行為っていうよりも
信じて救われる行為。
科学はそれに対して、この宇宙の成り立ちとか起源とか
医学であればどうやったらより早く病気を治るかとか
そういったある意味正解を求めてはまた次の正解を追って
追って言うとね、正解を求めるんだけど
どっかでまた矛盾が生じて、それをなくそうとして
またなくなったのかと思ったらどっかで矛盾が生じてて
それが大抵のサイエンスはそういうことをやってると思うんだけど。
では次。
努力できる人間とできない人間の違いは?
まず努力遺伝子があるか。つまりそういった
努力って自分で根性でするものだと思ってるかもしれないけど
遺伝で決まってるんですね。脳科学的にはもう。
ていうかまぁ暗きから言わせてみたらそんなのは当たり前ですよそんなのは。
だって世の中で努力できる人できない人いるわけでしょ。
いや遺伝でしょと思うんだけどそんなのは。
それはできる人とできない人には分かれますよね。
あとは運なんですよね。
どんなに努力遺伝子あっても。
長い目で見てたら努力できるんだけど
あともっと深い意味ではね。
努力してるわけですよ。
なんて言うんだろうな。それが表面に現れてないだけで。
例えば一生懸命何かを考えてるかもしれないし
一生懸命何かに耐えてるかもしれないし
すごい考えて生きてるのかもしれないし
すごい誰かのことを思ってるのかもしれないしね。
もう歴然としてますから努力できる人できない人。
四六時中努力してる人っていうのはね頭振り回転で生きてますからね。
人の1.5倍ぐらいのエネルギーかけて。
だけどやっぱり運次第では努力遺伝子があってもできない場合もあるし。
努力遺伝子ない人も一時は努力できるんですけどね。
最後、自分はバカだと認知してても
客観的に見れても人に言われるとそれは話が違うっていうのは。
クラゲなんかそうですね。
自分はバカだと思ってるけど人にバカにされたらそれは腹立つ。
もうこれ誰でもそうか。
人に言われるのは違うってなりますよね。認められないですよね。
それは自分の存在を脅かされてるから。
自分が自分のことをバカだと思うのは
存在を脅かされてはいないんですよね。
クラゲの前だと時間をかけて納得した考えはいいけど
人に急にそうやって言われたらびっくりしちゃうっていうのがあったり
あとは若かった方からはどうでもよくて
あんたに言われたくないあんたに否定されたくないっていう思い
やっぱり人にそうやってバカにされてるという
それ自体がね
やっぱり受け入れられないんでしょうね。
それではしたっけ。