科学と宗教の違い
今回は哲学雑談会になっております。では早速一つ目。
最近も話しましたけど、宗教と科学の違い。
普段何かって考えると、まあ科学というのは実世界に合うように修正し続けるもんだけど、
これはクラーケの理論だけど、もちろん捻じ曲げたりしないけど、ただ
うちらね、都合のいいように
古兵を連れていると、そうやってできているのか、あの特に物理学なんか、そういうもんだと思って
いるんですよ。人間がこの世界を理解しやすいように、うまく収まりがつくようにしているというか
というか、そうしようとしながらと、そうならざるを得ないと思ってるんですよね。
まあ人間が頭で何とか理解できるように、この世界をうまく運んでいるというか
逆に宗教はどうかというと、その前に、まあ実世界に合うように修正し続けるもの。
これはもう間違いないことですね。
間違いであるとなれば、新たな研究。
その座を譲らなきゃいけないですし、どんなに自分が素晴らしい研究をしていたとしても、
それは謙虚にみんな受け入れて、改新されていくものだと思うんですよ。
革新されていくものだと思うんですよ。
では宗教というのはどうかというと、絶対そんな矛盾があろうと、何だろうと、
教祖の考えが変わろうと、
改新されていくことは絶対ありないですね。
だから別に悪い意味じゃないんだけど、
教祖も信者も、あとは盲信するしかないもの。
まあこういった違いはありますね。
で、前回言わなかったけど、科学も結局、
真相真理なんてものはないし、
まあ宗教も同じように、そこは共通しているということですね。
文化人の人気の謎
次の話なんですが、どんなに素晴らしいというか、
もうすごい崇められている文化人なんかいますよね。
この人の考え方は素晴らしいとされている。
まあテレビに出ている人でもいいですよ、それは。
で、結構そういう人の理論って、素人でも、
つまり科学者じゃなくても、間違いだなって、
分かってそれを崇められたり、例えばYouTubeのコメントで、
これは違うだろうとか、意見が散見されることはありますけど、
まあそうやって簡単に間違いと言えたりするわけですよ。
ちょっと矛盾があるなってことに、普通に気づかれたり。
こんな素人でさえ間違いだって、分かることは。
みんなそうでたと思ってますから、もう文化人の。
それこそ、もう宗教の共通のように。
宗教の共通なんて間違ってるのは当たり前なんだけど、
こういった文化人、科学者、評論家、
普通にもう今まで誰一人としてね、この人は、
もう本物だと思ってもやっぱりね、
いや当たり前ですよ、当たり前だけど、
でも、いろんな考えがそうやって、
素人が見てもおかしいでわかる。
でもこういう人が逆にね、そんな感じなのに、
これ素人はね、そうやってどっか矛盾点が少しあって、
そこを突かれてしまうならあれだけど、
まあ至る所でなんか、
矛盾点があったりするのに、
それでみんなにあがめられてる。
で、本を出せば必ず売れるっていう人。
なぜ存在するのか理解できないですよ。
では次の話。
これと繋がるところなんだけど、
1000年以上、これは考えられてきたことだから、
まあ答えなんか出るわけないみたいな意見あるけど、
それでも意味があることだと思って、
哲学なんかもそうだけど、
仏陀についての解釈もそうだけど、
意味のあることだと信じて、
まあそこまで馬鹿な人たちだけっていうわけじゃないと思うんですよ。
2000年人類が研究してきたけど、
そんなこと自分がいくら数時間考えたって、数ヶ月考えたって、
わかるわけないってわかってるけど、
考えるのは馬鹿だからっていうことでは説明つかないと思うし、
決して意味がないっていうことではない。
でも2000年考えてもわかんないようなことだから、
やっぱり考えても意味ないとも言えるし、
心と意識についての考察
これってすごいパラドックスなことだと思いますね。
多分そんなこと考えた人はあんまりいないと思うんですけど。
こんなこと2000年考えてきてもわかんないことだから考えなくて、
意味で結論が出てしまうようなことって一つもないのが不思議ですよね。
まあその通りなんだけど、
でもそれでも考えてしまうのが人間だっていうのも言えるだろうけど。
あと雑談会なんで今回いろいろ話しますけど。
次の話はですね、これちょっと思ったことなんだけど、
心っていうのは頭にあると思ってる人いると思うんですけど、
これは実は錯覚を生むんじゃないかと思ってて。
かといって別にスピリチュアルの話をしたいんじゃなくて、
なおかつ精神は体と頭両方だっていうことを言いたいわけでもなくて、
なんていうのかな、
例えば腸に本体があって脳は後から進化してできたんだみたいな考え方もある、
そういう説もあるみたいだし、
実は腸も記憶してるんだと。
脳だけじゃないんだという話もあるし。
そこで思ったんですよ。
意識は中性にあると言われてるけれども、
実はそれ自体が錯覚を生む原因で、
まあ錯覚を生む原因というか、
誤解を生む原因であって、
体全体に実は意識があるというか、
イメージするとすればですよ。
特に腸なんか、もし移植すれば、
結構その人格ってものも、
もしかすると変わってしまうのかななんて思うんですよ。
だとすると、
やっぱり体も含めの心というか、
もちろんね、体調次第で、
感情なんて変わるっていうのはそれは、
周知の事実ですけども、
そうじゃなくてなんていうのかなぁ、
ニュアンスが伝わるかわかんないけど、
なんか脳だけじゃなくて、
さっきの腸の話からすると体、
もう含めての意識っていうのかな、だから、
意識ってうちらが持っているものとは、
程遠いものな気がするんですよ、そう考えると。
では次の話。
次の話最後ですが、
努力をしないと才能だけでは頭打ちになってしまう、
って感覚って誰でもあると思うんですけど、
でもクラキはまずですね、思うのは、
気づいてないだけで実は、まあ気づけないですからね。
これ測りはないんだけど、
その人が持っている能力で、
まあ頭打ちになるわけですよ。
ずっと言い方悪いになるわけじゃないんですよ。
努力することはいくら続けても、続けることができても、
いつか欲張りになってしまうわけですね。
っていうのと矛盾してるのでは思いませんか。
いくら努力しても才能が、才能次第で、
どれくらいの才能かでもう、いずれ欲張りになると。
でも才能だけじゃ限界が来て欲張りになってしまう。
いや実はこれは大きな勘違いで誤解してるだけで、
だから自分の得意なことは、
努力すればいくらでも伸びると思ってて、
実はあるところで伸びが止まってるんだけど、
そこの勘違いを普段からしてるから、
そうやって才能だけでやってると、
頭打ちになるっていうふうに思ってるけども、
それは努力してもしなくても同じことなんですよ。
いずれ頭打ちになるわけですね。
それではしたっけ。