認識されるんだということですよね さっき言ったその無限は有限で定義されるってことと
ことの繋がりがね強く感じられたんですよ どういうことかというと
例えば 自分の兄との
関係性
ってものを見た時に
自分は弟になるわけである 犬との自分の関係性
を見てたら自分は 人間というふうに定義されるだろうし
青森県民とだったら自分は北海道県民
この論理でいくとやはりブッダの
処方無我はやはり 正しいところで証明できるんじゃないかとね思ったんですけどどうですかね
すべては関係性でやっぱり定義されたり認識されたり
まあさっき言ったその善は悪という概念によって 認識されるし
有限は無限という概念によって定義づけできるし そう思うんですよね
対抗人だったらこの倉木凪という人間だし ただ思ったのが
この体この頭で これは自分だとかっこたる自分だと認識してるけど
これは何との比較によって こうだと言えるのか
こうだと認識してしまうのか
まあそれは他の人の 身体なのか
あるいは単純にこれって言うこともできないのか 例えば自分の
どういう思考回路かっていうのは人の いろんな人の言動とかから
そういうものの集積から 比較して
自分ってものを認識してるのかもしれないし
そうすると対誰っていうことではないだろうし
では時間についての 話なんですが
まずざっと今で話してきたこと 時間について話したいんですけど
現代人は過去から未来に時間流れていると考えてるけど 時計なんか見たらそうですよね
ただ江戸時代は病心とか腸心たちが動くわけなくて 数字自体が動いてたわけですよ
未来から過去に時間は流れていると考えてる まあ西洋では
哲学者によっても違ったり 時代によっても違うんだけど
キリスト教なんかだと
未来から過去なのかな ちょっと忘れたけど
まあでもキリスト教は独特ですよ 独特っていうかそっちが普通だと考えてもいいのかな
まあいいや で
いやあの キリスト教は
もうすでに
物事ってどうなるか決まってるんだっていう もう神が決めてるんだみたいな
ことなんだけどこれについて話したらすごい難しくなるんで なんだけどあの文化人でこういう人
割と多いと思うし クラキは
別に過去から未来に時間は流れる こんなの単なる認識の話だから
まあそれこそ哲学者によっては
過去も同時に生きてるんだと でも認識の問題なんですよ結局はね
なぜそうなるかっていうと 時間自体がただの概念でしかないからなんですよ
例えばあの何だろう温度 これは
まあ測ることできませんでも時間っていかにもその 時計で測ってるんだけど
勝手に人間がこれぐらいを1秒だと言いましょう 1日24時間しましょうって
勝手にやってるだけですからですよって 温度とは全く別物なんですね
だから過去から未来に流れているとかいったところで認識の話なんですよね だからどっちでもいいんだけど
ただ物理学的には 過去現在未来は
同時に流れてるしあと 相対性理論っていうのは時間というのは相対的なものだってことなんですよね
だから人にとっての時間と 自分の時間と違うから
みんなが同じ 現在を生きているというわけでは
ないわけですね相対性理論からして言うと
まあそれで言うと じゃあ認識の
単なる概念の話じゃないだろうって 思っちゃうけれども
ちょっと難しそうですね だから時間ってね なんだけども
まあ別に未来からここに流れてるか どっちなんだっていう点で言うと
別にどっちでもいいでしょって思うんだけど ただ今回話したいのはですね
まずは未来からここに流れていると 考えた方がいい場合が多いと思ってて
それだけでもほとんど全てで結果論だとしか思わないんですね 人間の認識って
例えばうまくいったら 今のやり方正解だったと思うし
ただこれの問題点って 全ての物事って変化してるから
過去のその成功法を当てはめてうまくいくことってね
クラキンの経験上もう絶対ないんですね それぐらい物事って移り変わってるわけですよ
いわゆる成功法と言われるものに限定して話しておるんですけど
さっきちょっとニュアンス待っちゃった あの結果論
あんまりいいのか待って 捉えるしかないというのかな
まあそれの詳しく後に話しますけど だから
そうですね で
受験に失敗すればやり方間違ってたと思うだろうし 嘘かと思うかもしれないし
自分でもねそんなことはないだろうと思ってたけど 大抵のことねこうやって結果論でも物事を見てますから
だから逆に言うと過去の自分が
すごい後悔してるわと思う 今の生き方によって
光が灯って それによって
現在の自分を肯定することができる ことができたり
だから未来が過去に影響を与えてるっていう
捉え方もできる そうすれば未来から過去に時間が流れてくると考える
オーバリングにかなってるんじゃないかなと思うんですよね 未来が過去に影響を与えてるっていうことですよね
ここでは十分あり得ると思うんですよ もちろん過去の事実は変わらないんだけど
でもほとんど事実だと思っているその事実も 単なる人間がそうやって
解釈してる それをもって事実と言ってるからそういう意味では過去ってね
十分変えれると思うんですよね
この考え方だと未来から過去に時間が流れているわけだから 現在と未来の
因果関係ってないんだけど この考え方だとちょっと無理もあるんですけど
今勉強頑張ってるから大学 その後受かったとしてもそれは関係ない
それは無理があるんだけど でもやはり今言ったように
未来が過去の自分の正しさ間違いを 正し方間違いを認識してしまう
部分がものすごく強いと思うんですよね じゃあ未来から
過去に時間が流れているのかここから未来に時間が流れているのか という疑問はどうしても出てくると思うんですよ
単なる概念とは言ったものの その結論の話の前にですね
もし諸行無常なんだとしたら 諸行無常なんだけどこの世界は
もしそうなんだとしたら
一瞬前の自分と自分の今は違う 変化してるわけですよね
でも人間って 現在の自分なんか認識できるわけないから
認識した瞬間も時間経ってるわけですからね っていうことは
過去の自分をもって自分だと言ってるわけですよ っていうことはいつまで経っても
人間は今を生きてるわけですけど 自分ってものを認識できてないですよね
一瞬 まあどんな頑張ったって一瞬前の自分とか
自分にある 記憶にある自分をもってそれを自分だと認識してるわけですよ
さっき言ってるんですよ 過去の自分のやって正しかったことを
今ね当てはまるようとして失敗するのもそうだけど 自分ってものを
これは変化してないのあれだけど ブッダは諸行無常で変化してるって言ってるんだから
だからどうやったって自分は過去の自分なんだから 自分の認識では
他人からしてみてもそうかもしれないけど 自分なのことは自分で認識
できて当然なようだけど今現在の自分 ではないんですよね自分だと思ってるその自分って
だからまあ人間って客観的に自分をどんなに見れてたとしても 自分が何なのかなんて到底分かり得ないってことですよねだから
この自分だと思ってる自分って一瞬で過ぎ去っていくもんだし 気づいたら過去の自分だし自分だと思ってる自分って
だからある意味自分なんかここにはないというか まあまあ処方無我ってそういうことなんだけど
ブッダが言いたかった処方無我ってどういうことなのかな
これは人間以外も頭にもなってますからね 目の前にあるリンゴ
だから何だろうな人間って 記憶
を見ているに過ぎない まあで
まあ今の話ともつながるんですけど結論としてはですね ある哲学者も言ってますあの人間というのは
前向きに生きることしかできないけど でもだから過去から未来に時間は流れているということですよねこの場合
でも未来からここに時間が流れていることは 理解するしかないんだ
これはこの哲学者なんて言ったかというと後ろ向きに理解するしかないと 当たり前なんだけど
そういうことなんですよ過去から未来に時間が流れている その逆どっちが正しいか
って考えても こういうことに過ぎないわけです
未来から過去から未来に時間は流れているんだけれども
まあそう生きてるけども
物事を認識するには未来からここに時間が流れているという 認識にしかならないという
ことですね まあそういうことでしただから
学者によってそれぞれの説があるけども
まとめると今言ったことなんですよね結局は だから
世間の人は一体どっちが正しいんだって 戸惑うことになるわけですよね
だからどっちが間違ってるわけでもないわけですよやっぱり なんか見る側面での違いっていうのがなんだから
認識はそうやって未来から過去に流れているという風な見方しかできないし
さっき倉木が言った結果論でしか見ることができないってことですよね あーこの前話した
人間ってのは意識があって行動してるって思ううち 順番は逆で行動した後に
その行動したという 後付けの理由をつけるなんて話とも共通
なんか通ずるとこが ありそうでなさそうでちょっとわかんないけど
ただまあ少なくとも人間の認識って
相当長い歪みがありそうですよね 実際の時間の流れとは逆に認識しちゃってんだから
では次の話ですが
えー もう時間にかかることなんですけど
故郷っていう概念
前回の話もつながるかもしれないけど
それと相対するというか対極にある概念を理解しない限りは
この前だと体験しない限り故郷って何なのかわかんないはずなんですよ
だからつまり故郷一度でないと 故郷ってのは一体何なのかってわかんないですよね
その地元故郷は何だっていうことができても
故郷っていう概念自体は
どんな辞書的な意味をわかってたって理解できない だから
まあこういう思考時期があるんだけど 色?
でも物を全くない世界の人が
医療を理解できるのかどうかっていうと
まあ厳密にはね理解できるかもしれないけれども 理解できないと言ってもいいでしょう
だとすると
故郷って実は同じ場所に行ったら
まあ頭で考えたらわかりそうだけど 絶対理解していないわけですよね
で
まあこういうことって他にもあると思ってて
時間の話で言うとですね
子供って大人に会った経験がないから
子供とは何なのかってわかんないわけですよ
で最近話しました子供という概念
中世の頃はなかった
中世の頃できた
中世の頃はまだなかったわけです
それと同じ状態ですよ
子供なんていう概念はない状態
だって大人になってないから
大人になった時点で
自分の中で子供と大人という概念が成立することによって
あるいは大人という概念がわかったから
子供というものが生まれると言ってもいいわけですよね
子供の時は
そこに染まってるというか
どうやったって他の色に塗る用ないから
白い部屋のいる
白く塗られた人間は
自分が白だと認識できないのと同じで
黒い部屋に移ることによって自分が白だと認識できるのと同じことですよね
で
まあ子供
という概念がわかった頃にはもう
子供に戻れないんですよね
だから人生生きてて自分が今
失敗だと気づいた時点では
失敗してたって気づいてる時点では
もう手遅れなわけですよ
だからこそ過去のことを後悔しても意味ないんですよね
それは人間なんだから