大学受験参考書の問題点
今回は理解できないことを話していこうと思いますが
まず一つ目 大学受験参考書
あれ想定だけ見たらね、まあバリエーションあっていいと思うかもしれないけど、中身って
まあ全部だいたい似てるわけですよ もう同じなもんなわけですよ
まあある参考書なんて もうやることなくなったのか
グラビアアイドル載せて あるいは
まあアニメのキャラクター載せてる参考書もあったり
中にはものすごく個性的なものもありますけど ほとんど似通ったもんなんですよ
上っ面を変えてるだけ なのになぜあれ
まあそれぞれの参考書あんなに売れてるのか 理解できないし
ただただ受験生はそれでどの参考書を買えばいいか 悩むことに時間を費やしてしまうわけですよね
それを問題視されない 世の中もおかしいと思うし
この事態に気づかない 専門家、学生もおかしいと思います
あと大抵のなんか話し合いって まあテレビで文化人が議論してる時なんかも
論理的に話してるんじゃなくて ただ相手の細かいとこ
突き当てるだけにしか見えないんですよ 相手のあら探しをしてただ突き当たり
とりあえず反論できる とこに対して突き当てる感じだから
Aとある人が言ってそれに対して 論理的にBだと言ってそれに対してCだと言ってるっていうよりも
Aの次B Bの次Cっていうふうに 建設的に議論が進んでるようには到底思えないんですね
だから AからなんだかどうでもいいA'に
話が進んでるプラスアルファなんか相手の話に ただただ
突き当てるだけみたいな そんな感じに見えるんですよ では次
次ですが こういうことを言う人も理解できないし
平気で言う人多いと思うんですけど
何か主張しても あとは相手に
まあまあ主張というか 言いたいこと言って
まあ抽象度が低すぎて
例外の方多いだろうって まあ言い換えると浅はかで
例外
少しでも例外 それ こういう場合こうだろうって
なぜ自分で少し考えてわかんないのかなということを平気で言う人 全然頭に行く人もいるわけですよ
ないことにしてしまってるんですかね
ある程度 普遍性のあることじゃないと人に主張する気にならないんですよ クラッキーだったらね
そんな簡単に矛盾だと言われてしまうようなことは 到底人には言えないですよ
そんなのこういう場合 こうじゃないかって言われたら
と考えると言えないわけですよ 理解できないですね平気でそういうことを言う人は
だから多分矛盾点は気づいてないんだろうね 矛盾点がすぐ浮き彫りになるぞってことね
気づけないわけですね では次
何かが好きな理由ではなく これそれ人?
違うAさんが
違う Aが好きな理由ではなく人が好きな理由を言ってるだろうという場合 例えば何だろうな
日本人はこういうものを好むその理由を説明しても いやその理由であればそれ他の動物じゃなくて人間はそれを好む
理由になってはいるけれども 日本人が好きな理由にはなってない場合 でもそれに周りも気づかないで普通に話が進んでしまう こういうことが理解できないんですよね
意味はわかりますかね
それまでは日本人がそれを好きな理由の話をしてたのに急に いやそれだったら人間みんな
好きだろうとそれ その理屈から言ったら人間が
他のものでなくそのAを好きな理由にしかなってないだろうって
似た話でいくと例えば何だろうな
鍋に豆腐を入れれば絹豆腐がいいっていうことを言ってるのに気づいたらその人が絹豆腐を好きな理由になってる
いや鍋っていう条件は関係ないだろうと思っちゃうんですよ
絹豆腐が美味しい理由を言って説明してるだけ こういう場合何が足りないんでしょうねでは次
犬の糞は まあくっついても足ですよね
車のタイヤとかでもね 鳥の糞って頭からべっちゃり顔にくっついたりするじゃないですか
で見てもわかるだろうし だとしたらですよ
圧倒的に鳥の糞を気にした方がいいと思うんだけど まあテレビ見てて
普通に鳥の糞何回もかかってたり 場面見たことあるけど
傘に落ちてるとか でもみんな犬の糞踏んじゃったとかね
匂いするなの騒ぎ立てるけど 鳥の糞
気にしながら上向いて いつも歩いてますとかそういう話って一切聞かないんですよ
不思議ですね
犬の糞は見たらわかるけど鳥なんか なかなか鳥が上に
相当なんて言うんだろうな いや上向いて歩かないから普通ね気づかないわけじゃないですか
だとしたら逆にそっちの方を警戒した方がいいと思うんだけど 鳥に警戒する人なんていないですよね
それが理解できないんですよ だから帽子をかぶるとかね 傘をさすとかする人いないじゃないですか
の割に犬の糞には随分 気使えますよね圧倒的に鳥の糞の方は気づけた方がいいわけですよ
衛生的にも 顔にかかる可能性あるんだから
アニメと社会学の分析
あとアニメとか文学を社会学的に分析するような人結構いるけども 例えば最近だとジブリンの作品で社会学者が
あ違う 学者さんがね
これは女性 何だったっけな もののけ姫
魔女たっけびん あれは看板を作っていると主人公
主人公の看板を男性に作ったわけであれは 結婚したら女子を
男性の方に変えることを表しているわけであって これはいかなものかみたいな
まあそもそも
そうやって芸術に携わる人がそこに社会学的な何かメッセージを加えること自体 そんなのは
学者だったり評論家だったり革命家だったり政治家がやればいい話であって しかもそのそれをね
評論する場合も そんな小難しく捉えて社会学的に捉えて
何になるんだと思うし あくまでもその人の作家さんのメッセージを
その人が受け取れるだけの話であって そんなこと芸術側やることではないと思ってるんですよ
そういうことってありますよね 子供向けのアニメに対してね
これは何への報徳であるとか差別だとか この歌詞には
実はこういう政治的な意味が含まれてとか
いや別に哲学者じゃないんだしその アーティスト
いや割と なんとなくで
芸術として受け止めればいいんじゃないのかなと思うんだけど 学者さんはあくまでも
論理的な文章を扱って研究してればいいんじゃないのかなと思うんですけど
マルチタスクの誤解
次の話ですがマルチタスクって やって充実させてる気になってる人多いと思うんですよ
自分はそれが得意だとか いろんなことできて素晴らしいと思ってるとか
同時並行でやるっていう意味でもそうだし
目の前にあること 例えば料理やりながら他のことやるとか
料理でいってもいろんなこと同時にやるとか これって時間効率はいい
けれども料理の場合はいいですよ ただ大抵の場合ね
二等は重ない一等エースだと思うし それで頭が働く分充実してるような気がするけど
こういう心理学の研究もあるんだけど
何か二つのこと
やってる時って勉強なんかも ラジオを聴きながらやるとか
より勉強してるような気分になるらしいんだけど でももう結果は見えてません?そんなの
100%集中できるとこ 80%になってるわけだし
20%はラジオの方に行ってる 気持ちが行ってるわけですから
でもこんなことにも 気づいてないのか忘れてるのかわかんないけど
マルチタスクをして充実した気になってる人って多いですよね だから食事中人と話したら
あるいはテレビを見たら よりおいしく食べれそうだけどその分味に集中できてないってことにすら
気づけてない人って日本人には多いですよ
それ前イタリア人の家庭のYouTubeで見たんですよ 食事風景
そしたらテレビなんか見てなかったと思いますね
昔の日本のテレビなんかつけないで会話しないっていうのが あれが理にかなってるんですよ
あとこういうことを まあ似たような言葉で
言うこと多い人もいると思うんですけど 言語は認知できるものだけを説明できる
だから限界がある 未知なものは説明できない
認知できるものだけを説明できるのであるから限界がある
でもそれって言語の問題じゃないですよね 言語の問題ではないんですよ
言語に限界があるかどうかの話ではないんですね 言語のせいではないんですよ
なのに言葉には限界があるから
っていう説明の仕方になるんだけど そんな単純なものでないですね
確かに言語では説明できないクオリアなんかもあるけれども それと同じが別なんですよ
では次 ちょっとメモをしておいたんだけどこれ
最後の話なんですけど 多分こういうことを言った方じゃないかなと思うんだけど
こういうところは自分は欠落してるって人に説明しといて
でも人間はみんなこういうところが欠落してるという結論に至る
理解できないです こういうことを言える人は
今直前に自分は他の人と違ってこれは欠落してると言ってたのに
人間はみんなこれが でも人間はみんなこれができないんだと
いやーひどいもんですね でもこういう
これ以外にもこういう
説明の仕方問題というか何なんだろうね こういうことを言える人
結局その人の頭の中ではどうなってるのか 不思議でしょうないですよね
多少謙遜してる部分もある 自分で卑下してる部分もある
でもそれじゃ辛いから 結局人間みんなこれは苦手なんだと
すぐ解釈してしまってる いやー都合の良くできた
脳みそに変わってみたいものですというところで それでは明日っけ