相対と絶対の考察
ここからは人生哲学回ですが、話していきたいと思います。
早速ですが、まずはどんな話かというとですね、今回は絶対と相対ということについてですね、
どうしても疑問なことがあって、
疑問というか理解できないことを話していこうと思うんですが、
人間って3歳の時に、基本はですね、
自分が一人で生きているわけじゃない、言い換えると、
自分が主人公だというわけじゃなくて、それぞれ人生が主人公を歩んでいる、
そういう人たちがいるのは地球、言い換えると自分の考えは絶対なわけではない、
相対的なものなんだと、これ3歳でわかるみたいなんだけど、
まだ確かにそうかもしれないですね。
喧嘩したりなんなりやっていれば、そういうことに気づいていくんでしょうね。
以前からですね、以前ってもう小学生の頃かもしれないけど、
世間の人は結局自分が絶対だと思っているのか、それとも
あなたの考えはそうなんですね、自分は。
こういう考えですという、そういうふうに相対的に捉えているのか。
そこら辺で本当に複雑だなと思っていて、複雑なのはいいんだけど、
全く理解できないな、違和感があるなと思ったことが何度もあって、
絶対的なものはないということは、これが正解、あるいは正解に近いもの、
正解ないということは正解に近くなる理由はないですからね。
で、あればあくまでもみんなそれぞれ自分の考えを持っている。
で、他の人のやることなんていうのは、隣の人の昼飯、隣の人の昼飯、
何かなんて別に、とにかく言う人っていないじゃないですか。
それと同じで、人の考えなんて意味関節っていうことでいいはずなのに、
相対的に捉えているってさっき言いましたよね、3歳になったら。
それにしては人のことをとにかく言うわけだし、否定するし、
これ話してて思ったけど、じゃあ何やっても自由だとか、
どんな考えだってその人の考えだから、勝手にやらせていけばいいなんていうのはやっぱり、
そうなんです。だからこれも大事なことで、社会を成り立たせるためには、
相対的な考えじゃダメなわけですよね。
でもそもそもこの世界の物理法則、そして哲学ですけどこれ、
絶対的なものはないって証明されているわけですよね。
単なる抽象的かどうかの問題じゃないとも思うんですけど、
歴史と哲学の展望
しかもさっき言ったように絶対がなければそれに近いものもないんですから。
ただここからが本題なんですけど、
世間話でさえですよ、例えば、
なんだろうな、ちょっとこれは哲学的な議題かもしれないけど、
自由って、自由になるのって難しいねとか、
簡単にでも話すと思うんですよ。
どうすれば自由になれるかなとかね。
全員の共通認識があることを前提にして、
何か共通のものを生み出そうとしたり、
っていうことですよね。話し合うってこと自体そうじゃないですか。
で、特に議論するって場合は何か正解があるという、
何か目的に向かって話しているような感覚でありますよね。
あと人に相談するとかいうのもそうだと思うし、
何かについて、何かテマについて話し合うのなんかは、
完全にそれぞれの相対的なものである。
つまりあなたはそう考えるんですね。
そんなことは自分には関係なくて、自分はこういう考えで、
あなたはそんな考えならそれでいいんじゃないですかと。
これは相対的ってことですからね。
絶対的の反対は相対的ってことですから。
絶対的っていうのは、自分の考えは誰にとっても正しいはずだ。
自分と違うことを言っている人がいるのであれば、
その人は嘘をついているか。
愚かな人間である。知恵のない人間である。
これが絶対的ってこと。
現代人は相対的でいるべきだし、
自分の考えは絶対だと思っている人なんていないだろうし、
そうあるべきだと思っているにも関わらず、
他の人にもそれを期待しますよね。
それにも関わらず、そうやって正解を求めたりっておかしくないですかね。
だって、そんなものこの世の中にないってことですよね。
それぞれの正解があるっていうのが相対的ってことですからね。
よくよく考えてみるとおかしいですよね。
ちなみに、もともとはアリスとテレス以前までの哲学、
相当古い昔のことだけども、
その頃はですね、もっと前か。
自分が信じているものは絶対だと、
それぞれの民族で思ってたんでしょうね。
でも、他の民族、他の村、そういったものに触れると、
どうやらそれぞれの神がいるんだってことで人間は相対的に生きるべきだとなったんだけど、
アリスとテレスの頃、
アリスとテレスはですね、それはそれで間違ってるということで、
そこからがうちらが知ってる哲学ですけど、哲学者っていうものだけど。
もともとだから、そうやって完全に相対的だと。
ただ、アリスとテレスはそれを唱えて、
っていう歴史は一応あることはお知らせしておきます。
では、それで明日だけ。