脳科学と文学の疑問
理解できないことを話していこうと思いますが、まず1つ目。
脳科学って、まあ疑似科学と言われている人もいますし、
クラッキーはもう完全に疑似科学、100%脳科学は疑似科学だと思ってるんですけど、
定説なんかないくらいの思ってるんですよ。
だから素人が…だからというか、素人が考えても
分からないと思わないのかなと思うんですよ。
だからつまりどういうことかというと、
専門家が脳科学についていくら考えたところで、
専門家によって言っていることも違うし、議論が錯綜しているから、
ちょっと具体的にいつのことを思って想定して言おうと思ったのか忘れたけど、
たびたびあったんでしょうね、素人の人が、
素人で脳科学的なことについて議論をつないでるんだけど、
そんなのは、専門家でさえそんな感じだから、
全く意味はなさないですよね。
では次。では次ですが、文学に哲学を見出す人。
文学じゃなくて芸術全般でもいいけども、
特に文学は多いですね。
詩について哲学的に見たり、
確かに松尾和尚も禅について勉強していたり、
そうなれば哲学的な詩になるのは当然だけど、
だとすれば、まあでも詩人が、
でもね哲学的な、哲学者じゃないから、
哲学的な何か辞論を唱えたわけじゃないし、
でもそういうことってあるわけですよ、純文学で。
それもおかしいと思うんですよね。
前見たのなんかは、
登場人物に哲学的なことをそのまま語らせて、
登場人物に哲学的な議論をさせてるんですよ。
これはこれでおかしいと思うし、
単純にね嫌いなんですよ、純文学。
あとは、
いやでも、それだけ普遍的に認められてるんだとしたら、
哲学的に何かすごい理論を唱えてるわけじゃなくて、
芸術的センスに対してみんな惹かれてるわけであって、
そっから何か哲学を見出そうとするって、
そっからこれはニーチンの語ったこういうことをここでは言おうとしてるとか、
それはどうでもいいだろうと思うんだけど、そっから、
哲学を見出そうとしたら何だろう?分かりやすいからそうしてるのかな?
別に哲学書を読めばいい話であって、
具体化させたものを見る必要ないと思うんですよね、わざわざ。
それは哲学をしたい人が日常に当てはめればいいだけであって、
芸術から哲学を別に感じる必要ってないと思うんですよ。
多様性の本質
哲学の話をしたければ、
哲学書を読めばいい話であって。
あと多様性を認めるとか言うけども、
本当の小数の、これこそが最も肝だと思うんだけど、
忘れられちゃうんですよ。だからABCとやったとして、
Aが8、分かりやすく話しますけど、Aが6割、Bが3割、
Cが2とか3とか、Dが何パーセント、
そういう場合、CとかDとかEとか、
そういったものが一番ないが白にされるんだけど、
メディアで扱われるのはBなんですよ。
Bのことをもっと大事にしろと。
これは問題あると思いますね。
本当に多様性を大事にしたいなら。
だからきれいごとなんですよ。本当に多様性を大事にしたいと言うなら、
全てのものを網羅しなきゃいけないんだから。
あといろんな人と関わると自分わかるってこれ、
もちろんブッダの処方無我なんかも人間は関係性できてるってことなんだけど、
だとしたら別に人じゃなくていいわけだし、
西洋哲学でも、
事故を知るには他者を知る必要があるっていう哲学者もいますけど、
これ別に人じゃなくていいわけですよ。
万物っていう意味で言ってるのにもかかわらず、
人とたくさん関わると自分についてはわかる。
だから10人よりも20人、友達もたくさん作りましょうって。
本当に単純というか、
なんでそういう浅かな考えになっちゃうのかなと思っていますね。
人とたくさん関われば関わるほど自分のことがわかる。
もしそういう話聞いたとしても、クラキはね、
だとしたらって考えてしまうんですよ。
テレビはどうなんだ?テレビのいろんな人見ますよね。
それでもいいじゃないか。いや、その通りだと思うんですよ。
それは勝手に人と関わるってことだって。
対1対1だと考え込んじゃって浅い考えだと思いますね。
では次。
感情的になったら、急に大人でなくなる人って多すぎないですか。
それまでは。
まあ正義感なのか。
自分でも。
まあでもある程度分別が大人であれば。
まあでも人間って大人になりきれてないのかなみんな。どうなんだろう。
急に偉そうなこと言っちゃいましたけど。
やっぱり自分本位のところがあって。
自分はちゃんと大人になってますよ。
精神年齢低くないですよ。
ちゃんと常識が分けられてますよって感じなんだけど。
感情的になった瞬間、そんなことどうでもいいっていうか、
そんな考えを忘れてそんなこと勝手にどうでもいいことにしちゃって。
急に大人でなくなる人って世間には多すぎないですか。
それまではちゃんと大人だったのに、ちょっとうまくいかなかっただけで。
自分勝手になるのってあれなんなんですかね。
疑問で仕方ないんだけど。
なんで最後まで貫き通そうと言う大人であれば、
そこは自分の信念を貫き通さなきゃいけないって、
なぜ思わないのかなと思うんだけど。
あの最悪であれじゃないですか、後ろを振り向くなって言われて。
振り振りちゃいけないって言われて。
なんとか振り向かないようにするんだけど振り向いてしまって。
こういう人は一瞬で振り向きますよきっと。
ちょっとしたことで。
ちょっと感情的になっただけで。
ちょっと何か物音しただけで。
多分後ろ振り向きますね。
ちょっと浅いですよね生き方がね。
あと哲学的なこと、言い換えると抽象的なことを話してるのに、
急に具体的な話に移り変わってしまう。
いやいや、抽象度のズレがありすぎだろうと思うんですよ。
普遍的なことを言ってるはずなのに、それについて議論してるはずなのに。
日本では昔は江戸時代はこうだったとか。
枕木はしょうがなくそういうことを話すこともありますけど。
いやただね、そういうものなのかなと思ってね。
ただやっぱりおかしいと思いますよ。
江戸時代だろうが現代だろうが。
一貫して変わらないことを求める学問なんじゃないのかなと思うんですよね。
哲学が生んの以前に抽象的な話をしてるのにも変わらず、
急に日本人はそういう感性がありますからねとか。
それもね哲学者の名前を出してこういうことを言ってますって言ってるのに。
日本人的な感性で言うとどうのこうのとか。
って成り立たないと思うんですよ。
あと仏になった人って一応仏陀しかいないとなってるわけですよね。
つまり悟った人は仏陀しかいないと。
2500年経ってそうやって教えを受け継いできてるわけなのに、
いっくら千日開放経とかすごい厳しい修行を世界中でやってる人がいるのにも関わらず、
一人も仏になる人が出ていないとなれば、
それ修行しても意味ないかなって思わないのかなと思うんですよ。
くるわけはそんな風には思いませんよ。
そもそも仏って何なのかよくわかんないから、
それを目指すこと自体がどうかと思うし。
分かりますかね。
仏一人も出ていないなら仏陀以外に。
修行しても無駄だろうなって。
それに近づくことさえできないものなんだなという風になぜ思わないのかなって思いません。
では次最後の話。
感情と哲学的洞察
今の疑問の話、なぜ今まで知ってこなかったかというと、
自分の中では当たり前すぎるんだけど、
なぜ今まで知ってこなかったかというと、
これ自体が浅はかな疑問のような気がして。
それでもね、疑問と言えば疑問なんですよ。
では次。
これまあ疑問と言っていいのかわからないけど、
にひるな人とか現実的な人かなと思ってたら、
しかもすごい哲学的に物事を考えてる人って、
神なんかいないこと全知見のあるいは絶対的なものなんかないことぐらいは当然の分かってるだろうし、
そんなものはあるなんて到底言わないんだろうなと思ってたら、
神がどの子の言い出したらね、
ほんと裏切られた気分になるんですよね。
これ分かってくれますかね。
それでは次第。
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