思考実験の紹介
今回は、言語に関する、ちょっと哲学的な話なんですけど、
箱の中のカブトムシという思考実験があって、
複数人の人がいて、彼らはそれぞれ箱を持っている。
で、箱の中には、カブトムシと私たちが読むのが入っている。
しかし彼らは、それを互いに覗き見るすることはできない。
彼らはそれぞれ、自分の箱に入っているのはカブトムシだと確信している。
でも自分の箱のそれと、他の人の箱に入っているカブトムシが同じものなのかわからない。
Aさんのところには、本当のカブトムシ、Bさんのところには、
カブトムシの絵が入っているかもしれない。
たぶんこれ、ちょっと問題の意味がね、来るわけもよくわかんないんだけど、
カブトムシってたぶん書かれているんですね。
ネームプレートのようにして。
本当のカブトムシが入っているかわかんない。
もしかしたら入っていないかもしれないし。
で、これどうしてこういう実験、思考実験があるかというと、
例えば桜って言ったらみんな同じものを想像しますよね。
ただ、それが染み栄養種なのか、他の種類なのか、
人それぞれ違う。満開なのかどうかも違う。
だから言葉では完全に人に何かを伝えられない。ざっくりとこういうことなんだけど。
まあ実際はどうなのか。言葉で完全に人にこのことを伝えられるのかどうか。
こんなこと疑問にも答えないんですかね。
だからクラキが思うのはね、そもそもですよ。
例えば目の前にリンゴがあって、自分と他の人では、
違うように見ているわけですね。
分かりやすく言うと、自分とハエだと同じものを見ているように感じるけど、
言語と認識の問題
リンゴはリンゴでしょって思うかもしれない。
ここに現像しているリンゴだと赤くてって思うかもしれないけど、
人間が何かを見ている場合って、自分のほとんど記憶を見ていることに過ぎないんです。
これは甘くて、赤くて、ちょっとこれは安いリンゴでとか、
そうやって経験の積み重ねて出てきた知識から目の前のものを見ているわけですね。
これはもう2500年前のブッダがもうすでにこういうことを言っているわけですよ。
それ自体存在するわけじゃない幻想なんだと。
そこに存在しているように見えるだけで。
別にこれでも存在論の話ではなくて、
どっちかというと今回の言語の話も認識論の問題だと思うんですよ。
言語を産んでいるんじゃなくて。
そもそも人と見え方が違うわけですから。
同じリンゴをとってもね、猿からしてみたら、猿は分かんないけど、他の動物からしてみたら、
そこにリンゴがあるとそれは思わないかもしれない。
例えば原始人がペンを見たところで、これはペンだと、
そういった形のあるものとして認識できないわけですよ。
クラキはこの前話したから、庭にね、自分の息子が泥団子で、
泥団子じゃない、何か形作ってて、その子供のような何か名前もあるかもしれないし、
でも親からしてみたら、単なる泥にしか見えないというのも同じことですね。
だから言語を産む以前に、そもそも物に対する認識の仕方が違うから、
同じリンゴだって言ったところでね、それはもちろん認識が違うのは当たり前だと思うんですよ。
言葉ってどの程度、定義を明確にしたらどの程度伝わるかっていう問題ではないと思いますね、これ。
あと、これはクラキの持論だけど、今思ったんだけど、
言葉は共通認識というよりも、特に日本人なんかは共通認識を持とうとして、
すり合わせてすり合わせた結果のものである言葉の定義。
そういうふうなものってあると思うんですよ。
本来この言葉に対して、というか物事に対して、こういう感覚ではないけど、
他の人はこういう感覚なんだと知って、言葉の定義も変えて、自分なりに変えてしまう。
感覚も変わってしまう。なんてことも起こり得ると思いますね。
あと、痛みっていうのも言葉では理解できないと。
でもこれなんかは、もう言葉の問題じゃないと思うんですよ。
自分は痛いって言って、相手にこういう痛みなんだと伝えて。
そもそも言葉で伝わんないことなんてわかるだろうし、誰だって。
定義の問題じゃないのもわかるし。
それいくら正確に伝えたって、相手の痛みがわかんないのなんて当たり前ですよね。
それを言葉の問題とすり替えてしまうのはどうかと思うんだけど。
一応こういう箱の中のカブトムシっていう試行実験はあるんですね。
痛みっていうことの定義の、それぞれの認識の違いではないっていうことですね。
その認識がどんなに同じであっても、言葉っていう定義。
これは前回はお話してますね。
クォリアってものはあるし。
それ以前の問題だったもんだよな、でもね。
まあいいや、次行きます。
あと今回の例で言うと、カブトムシの絵を描いてる虫ともか、それをカブトムシと呼んで。
実際にカブトムシがいてもカブトムシが呼んで。
でもね、箱の中のカブトムシって3人でお互い行った場合、
それはやっぱりカブトムシっていうネームプレート、
なんていうんだろう、もうちょっと抽象的な概念になるというか。
これは日常の人間の会話でも同じことなわけですね。
痛みを相手にしたいよとしても、
やっぱり抽象的になってしまう。
そもそもが、相手の痛みと自分の痛みなんてどういう意味で言ってるか、
なんて違うことがそもそも違うという前提でいるから、
そもそも触るはずがないと、
そのまま痛みをそのまま相手にしてはらうなんて、
そんなことは持ってるのかなということも言えるらしいです。
前回も話した通り、クラキュア言語については非常に悩んできました。
学生時代もそうだし。
今はそんな、今までも無意識に悩んではいるのかな。
普段からこういう試行実験してたってことですね、学生時代は。
だからミトゲンシュタインっていう言語学者の存在も知っていましたし。
なんか文献読んだことあんのかなと思いますね、学生時代。
ネットで見たのか覚えてないけど。
それぐらい悩んでたんですよね、言語については。
英単語を覚えるだけの話なんですよ。
あと文章を読むときもね、クラキュア一つの文章、
でもね、呪文書かたりするんですよ。
なんでかっていうと、こういうことをしてるからですね。
少しでも矛盾があったりすると、
これはどういうことだって哲学を始めてしまうんですよ。
それではしたっけ。