発達障害の理解
今回も、発達障害あるあるの話ですが、
まず、倉木がこれを思うことを話していきたいんですけど、
まあ、アスプリカー小学校は言語能力が得意とかいうことは言われるんだけど、
まあでも視覚認知能力があるっていう専門家もいたり、まあ無人化してるし、
そもそも、発達障害っていうのは凸凹がある障害なんだ。
ことが障害である、障害になるという定義であるのであれば、
言語が得意な人たちっていう理解の仕方っておかしいと思うんですよ。
言語においても偏りがある場合が多いならわかるけども。
あだまり理屈っぽいとか、論理的な話とかいうことはよく言われますけど、
まあ言葉が足しちゃったのはよく言われることですね。
で、最近も哲学勉強してて、
そうだしもう以前から言語ってものについては言語学的にも非常に関心があって
いろいろ考察してきましたが、
もうちょっとこれもそんな話なんですけど、
発達障害って理解されないことが多いんですよ。
例えば、人に何か言われてね、あるいは怒られたりしても理由がよくわからないと。
頭でなんとなくわかるんだけどでも、
理由を実感して納得できないという場合、
やはり自分なりに理解しようともがくわけですよね。
そうするときにそうやってロジカルに考える能力は必要だし、
枕木は能力なんて遺伝で決まってくるとは思うんだけど、
そういう癖っていうのがつくと思うんですよね。
それと同様に、人とずれがあるから、偏りがあるから、
普通とのずれっていうのもあるし、
自分を納得させるっていうのもそうだけども、
人に対して承認要求だったり、正論を言いたくて、
したら普通に歩み寄らなきゃいけないわけですよね。
特にクラクなんて、ただ単に自分が思っていることをパパパッと言ったら、
それで自己満足できればいいなんて思わないわけですよ。
しっかり相手を説得できなきゃいけない。
特に洋館と話せるときなんかそうなんだけど。
それは普遍的な言葉で、
つまりどの世代にも分かるように、
どの国の人にも分かるぐらいの感じで、
分かりやすく噛み砕いて話すわけです。
クラクの場合は別に、話し相手なんて洋館ぐらいしかいないけども、
でも空想の中ではね、こういうふうに説明したらこれ分かってもらえるかなとか、
クラクなんかポッドキャスト撮ってますから、
それ以前からそうなんだけど、
論理的思考とコミュニケーション
こういうふうに説明したら分かってくれるかなと考えるわけですね。
思考実験というのか空想というのかするわけですよ。
でもどうですかね、そもそも、
人と感覚のずれなんかなかったら、肩寄りなんかもなかったらね、
共通認識なわけだから、
いちいち説明なんかしようとも必要ともないし、
持論を唱えたり、自分の考えを知ってもらうなんていう原動力がない。
そこでそういうことをやる癖がついてるから、
まあ人にロジカルに説明したいしは、
でもね、これ今話してて思ったけど、
クラクはなんでこんなポッドキャストを撮ってる、長い間撮れているか、
これで説明つきましたね。
でもですよ、これも哲学的な問題なんだけど、
これまあ健常者の間でもですよ、
多少感覚とか価値観違うわけですよ。
そんなお互いで言葉を返して自分の思いなんて伝わるのかって、
まあこれは完全には伝わらないっていうのがよく言われることだと思うんだけど、
人と人は違う以上、どうしても完全には言葉を返す以上伝わらないと。
だから宗教を方向性に伝えようとしたら、
どうしてもずれが生じてしまうし、理解の仕方で。
人間関係においても、どうしても理解のずれが生じてしまう。
まあこの程度ならいいんだけど、あった障害と健常者の人の理解のずれですよね。
あれはいくらロジカルに伝えようとしても、
言葉で伝わらないものはクオリアっていうわけですけど、
そのクオリアの割合が大きかったり、
まあでも感覚のずれですよね。
これね、どうなんでしょうね、理解されると思って信じて話してるけど、
まあそもそも、頭で健常者はこういう感覚なんだろうなって理解してるだけだから、
その時点で単なる勘違いだし、あとは、
哲学の実験でね、あるんですよ実際の、
言葉でどの程度理解できるのかっていう、
マリーの実験っていうのを調べてもらったらわかると思うんですけど、
例えば赤という色、実際見たことない人がどの程度言葉だけで理解できるか、
まあざっくりとすることなんですけど、
まあそれとその試行実験と同じことで、
まあ大きなずれがあるのがあった中外ですからね。
いくら自分の考えだったり、自分の特性を、
まあこれ皮肉なことだけど、
発達障害はね、特性を理解してもらわなきゃいけないね。
まあ理解してもらおうとしても、
さっき言った赤の話と同じで、赤をそもそも見たことない人が、
いくら言葉で伝えてもそれを理解できるのか、これは哲学的な問題なんですけど、
ちなみに哲学にとはまりしてしまう発達障害ってね、
多いみたいなついでに話しておきましたが、
今回の話でもだいぶ通じるところも実はあって、
それを話そうかもどうか迷ったんだけど、
そうやって哲学にはまるのも、
ロジカルにも思うと考える癖があるからですね。
ロジカルに考える癖があるのは、先ほどお話した通りなんですけど、
やっぱり世間とのずれがあるから、それを理解しようとするわけですね。
まあでもこれもあらゆるなんだけど、発達障害を共感してほしいって思いはないけど、
ただ、まあ意見は同じことなんだけど、
自分の考えをつないたいっていうそういう欲はあるんですね。
自己献辞欲なのか承認欲なのかはわかんないけど。
でも承認欲求は人間なんだから、
なんかそういう根本的な欲求はあると考えるのは自然ですよ。
仮に理解されづらい。
いくら言葉には限界がありますから、
そもそも感覚のずれがあれば、
それをいくら説明しようとしてたところで、
と言ってもね、なるべく理解してもらおうと努めることはできると思うし、
哲学的視点からの考察
あと先ほど言いましたように、
献上者のことを頭で理解することはできると言ったけど、
つまり理解できる部分もあるってことですよ。
頭で理解する、実感はできないんだけど。
実感できたらそれは献上者ですから。
頭で理解できるってことは、つまり言語化できるってことですよね。
で、あたしような人は普通になろう普通になろうとする欲求はあると思うんですよ。
なんでかわかんないけど。
くらきも学校では普通になろうなんて思わないけども、
あまりにも人と違いすぎて、ある程度普通にならないとできない部分ってあるんですよ。
どうやったらわかるかな、わかってもらえるかな。
例えばすっごい周りの人がいて、
アーティストとかでは多そうだけど、
でもある程度その、
例えばテレビに出るときに、
ある程度その信仰に沿ってやったり、ある程度ファンのことを理解したり、
ある程度は必要だと思うんですよ。
だからそのときに、
普通ってものを理解する必要がある。
健常者を理解する必要がある。
だから普通の感覚を、
普通の人のことを言語化する。
頭でわかって言語化する。
まあそれはすなわち言語化。
ってことはよくやることなんですよ。
あとはそれをうまくすり合わせて、
普通の人はこうだけど、うちらはこうだみたいなこと。
自分の考えはこうだということ。
いうことは得意なことかもしれない。
でもいくら、
こういう偏りがありますよ、違いがありますよと言われたところで、
まあ発達障害は健常者のことはわかんないよね、健常者も。
発達障害のことは、
まあ頭で理解できるか、
頭で理解しようとしてもできないか、
いずれかにしかならないですよね。
だからね、本当にずれすぎていると、
今いろいろゴダゴダ言ったけども、
やっぱりさっきのクオリダと違ってやっぱり、
理解できないか、
そこまで健常者の人が歩み寄って理解しようとしてくれるとも思えないですしね。
あとさっきから頭で理解するって言ったけど、
特に人から何か刺激された場合、
怪談された場合、怒られた場合、
聞こえよがしに何か嫌なこと言われた場合、
テレビで芸能人が言っていることを理解できない場合、
否定されたと思う場合、
こういう場合って何でか理解しようと思っても体感はできないわけですね。
何がおかしいと思っているのか実感はできないわけですよ。
その時に頭でグルグル考えるわけです。
こういうことなのかこういうことなのか、健常者はこういう感覚なのかって。
昨日動画を見ている時とか、別に否定されているわけではなくても、
どうしてこういうことをするのか、こういうことなんじゃないかなって考察してましたね。
昨日のどこかのエピソードでそういうことを言いましたけども。
それで普通とは何なのか、
考える20歳以上の人はあるあるなんじゃないかなと思うし、
あと、理解し足りないと思いながら内静的な性格になって、
文学にハマったり、哲学にハマったり、
まだ暗くても最近話しますけど、
内に内に向かってくるような性格なんですね。
内向的か外向的かで言うと、
内向的か外向的かっていうことよりも、
内静的で人生について考えることが多くて、
宗教やったりするのもあるけど、
あとトラウマも多いんでね。
そこから哲学的なことを考察するようになって、
哲学書読んでるわけじゃないんですけど、
哲学的なことは例えばなんだろうな、
これは最近話してるのでそれを聞いてみればわかると思うんですけど、
そういうことを日々考えてますね。
ついでに話したところで最後の話ですが、
哲学的なことを世間話で、
しかも何のロジカルでもなく、
話して解決しようとしてる人たちって暗くは一切理解できないんですよ。
単にそれを楽しんでるとか、ある程度ロジカルに話せてるならいいけど、
文学部の学生はいいですよ、別に単に取らなきゃいけないから。
やってるんだって。
それで本当に哲学書でも解決できなかった問題を解決しようとしてる。
というか建設的に話してると思ってる人たちは理解できないですね。
それではしたっけ。