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2021-11-08 1:09:55

第七十一回 ゾンビから心霊へ──被抑圧者の密入国

奥さん相手に柿内が延々と心霊を語る。 【言及される作品】はまりー『肌寒い丘の上をきみと歩いていく』(pixiv)、谷口基『怪談異譚 怨念の近代』(水声社)、一柳廣孝『怪異の表象空間 メディア・オカルト・サブカルチャー』(国書刊行会)、樋口恭介編『異常論文』(早川書房)、清水義範『ターゲット』(新潮文庫)←たぶん、なだいなだ・小林司『20世紀とは何だったのか』(朝日選書)、茂木謙之介/小松史生子/副田賢二/松下浩幸編著『〈怪異〉とナショナリズム』(青弓社)、寺内康太郎監督『心霊マスターテープ』、岩澤宏樹監督『心霊玉手匣』

00:30
こんにちは、ポイエティークRADIOです。お相手は、私、柿内正午と──奥さんです。
どうぞ、よろしくお願いします。
えー、大変ですよ、今日は。
ねえ。
まあ、あの、どこから?
まあいいや、とりあえず、あの、なんだろうな。
これ撮ってる?
倍じゃねえぐらい具合が悪いんですけど。
なんか土曜日の朝からずっと水のようなギリが出続けて、
それによって脱水、体力なくなるみたいなので、
いんと寝込み、気づいたらなんか熱もちょっと出てきて。
何にも食べてなかった?
大きな一日、何も食べずにいて。
今日も朝、まあ起きて、水の汁飲んだら、
すごい胸がムカついて受け付けないで、
全部出ちゃうっていうような、謎の不調で。
まあちょっとここ最近、いろいろとこう、
グーフルに向けた制作であるとか、
いろんなことが立て込んでいましたので、
まあちょっと無理をしすぎたのかなというところで、
それでこう、体がギブアップをしていったんじゃないのかなと思いつつ、
昨日から何も食べなかったと言ってたハゲンダッツを食べて、
今日も一応今さっきうどんが食べれて、
みかんとハゲンダッツと、今ココアも飲んでて、
ちょっとずつ回復していってる感じ。
まだやっぱり苔物怖いけど、
そうだね。
徐々にね。
こってりした液状のものから徐々に慣らしていけながら、
いければなっていうところで、
そんな状況、何がすごいってさ、
そんな状況でもさ、昨日ちゃんとに生き返ってるしさ、
そうなんだよね、そうなんだよね。
今日こうやってさ、録音してるっていうところだよね。
そんなことだから解禁書なんか取っちゃうんだよ。
ね、本当に。
いやなんか思った。
でもなんか、普通に真面目だからとか義務感とかじゃなくて、
なんかやっちゃうんだなっていうのが、
03:00
昨日別になんかやらなきゃとかじゃなくて、
なんか普通に書き出してたから。
面白って思う。
でもいつもはMacで書いてるんだけど、
昨日だからもうめっちゃだるいからiPhoneで書いてて、
iPhoneのサファリ版だと普段のワードプレスのね、
あれが最悪なんだよ。
なんか入力できないっていうか、
入力しようとするとフリックの画面で潰れちゃうんだよ。
白い画面が全部。
しかもだからペーストしようと思うとできないの。
だからもうすごいこうイライラした。
ところでもう今日は更新しなくていいんじゃないかって思ったけど、
書くこと自体は特にこう。
できちゃう。
できちゃうからすごいなって思って。
すごいよね。
録音はね、体調不良のためお休みでは別に良かった気もするけど、
でもなんかもう録音は別にただ喋るだけだから、
むしろその体を休めるためにずっと光ってる液晶を万全と見ているよりは
そうね。
マシかもって思う。
ほとくとずっと液晶見てるよね。
だから頭痛いんだよ。
そうなんだよ。
そういうこと言えないけど。
昨日もなんかね、暇だからさ寝てるだけだと。
なんか読んでて、いろいろ。
なんか昨日タイムラインで流れてきたね、
ハマリーさんっていう人の、
なんかピクシー文。
そうピクシー文の小説。
ちょっと名前忘れちゃったから、
まあいいや。
なんかあれがすごい面白かったんだよ。
なんかね、
なんかすごい僕の最近のブームってホラーというか心霊とか、
オカエルトみたいなのが僕の中で今すごいブームなんですけど、
まさにそういう話で、
あのちょっとタイトル、
Twitter見れば分かる。
私の方で見よっか。
うん。
タイトルがね、
えっとね、
肌寒い丘の上を君と歩いて行く序章。
それだ。
その第1章までが今公開されてるんだけど、
これが大変面白くてですね、
まあなんか、
僕が好きなのでやっぱり、
途中で何読んでんだっけってなるのがすごい好きなんだけど、
だからあんまりね、詳しく言うとあれなんだけど、
とりあえずまず読んでもらえたらいいなって思うんだけど、
すごい非常にこう、
フェイクドキュメンタリーとSFとホラートっていうのは、
方法論としてかなり親和性が高いんだよなみたいなことを考えていると、
より一層こう、
ぐっとくるものがあるというか、
なんかね、
実在の、
材の取り方とオーブラの吹き方のバランスが非常に上手くて、
みんな知ってるようなこういう名詞から、
どこまでフィクションか多分判断する人、
06:00
人によってこれはマルケフィクションなんじゃないかと思っちゃうような、
こういう名詞からニッティのこういう名詞までを表述織り混ぜながら、
なんか全然、
気づいたら全然知らないところに連れてかれるみたいな、
本として非常に面白かったんで。
なんかそういうさ、話を聞くとすごい一貫してるよね。
失われた時を求めてもさ、
脱線がすごいくて、
何の話だったっけってなるのが好きっていうしさ、
ラテンアメリカ文学もそうじゃん。
ラテンアメリカ文学はそれこそどちらかというと、
本当に土着の、
実在の大統領とかの話を割と織り混ぜてくるからね。
確かに。
結構好きなもの一貫してるんだなって。
好きなもの多分一貫してるんだよ。
今日はそんな中で、
だからフルストの後、
僕、今何に夢中かって言ったら、
ゾンビと心霊ドキュメンタリーなんだっていう話を、
なんだかんだです。
ゾンビの方はりょうたさんとしてるけど、
心霊の方はあんまり話してないんじゃないかと思って。
オープンなところでは。
やっぱりそれをちゃんとお話ししておかないといけないなって思うんですよ。
でもハブの冊子に書いてたけど。
そうね、ハブの冊子に。
あれが本当に沼った瞬間を書いてたよね。
今ハブさんで本買うともらえるハブの冊子に書いてある連載は、
心霊ドキュメンタリー会なので、
ぜひ読んでいただければなと思いますが、
ともかくね、また心霊ドキュメンタリーから入って、
今僕は実話階段、
あとはもうそれこそ心霊そのものみたいなところに、
どんどん沼っていってるわけですよ。
でね、面白いのが、
最近その文振りで新刊出しますよとかね、
あとはそれこそプルストを読む生活について、
いろんな方が感想書いてくれたりするおかげで、
割と定期的にフォロワーが増えていくんですよ。
僕がね、フォロワーが増えていくタイミングで、
心霊かゾンビの話をすると、
確実にその分減るんだよね。
でしょうね。
すごいね、気持ちよくて。
でもそうなんだと思って。
プルストはハイソサイティな感じするけれども、
心霊とかゾンビはやっぱりちょっとダメなのかしらとか、
単純に怖いの苦手な人は嫌だよねとかって話もあるんだろうけど、
そういったところでね、非常に僕としては面白くて。
まずここから基調講演ね。
基調講演。
僕がなぜゾンビや心霊にはまるのか。
まず第一に言うこととして、
ゾンビは明らかに映画のキャラクターじゃないですか、
09:00
言ってしまえば。
ゾンビに関してはまだ僕が真面目に語ってても、
まだいい感じすると思うんだけど。
まだハイソサが失われてないってこと。
ちょっと聞いて。
心霊について語ると、
ちょっとこの人ガチかなってなる可能性が出てくるじゃないですか。
毎月ムー読んでますみたいな人に対してさ、
どこまで冗談めかしてそういう話をしていいのか、
マジで世界の真実に触れちゃってるんじゃないかとかっていうところで、
ちょっと怖さが出てくるじゃないですか。
やっぱりそこで心霊について真面目に語ろうとすれば語ろうとするほど、
端的にちょっとヤバい人感が出ちゃうところがある。
っていうのがあるじゃないですか。
そこについては実は、
そこでちょっとマジな感じになっちゃうっていうところにも、
一つ心霊とかオカルトの良さはもちろんあるんだよっていう。
そこで、
ある意味僕がずっと常々言っている、
フィクションはフィクションとして信じる的な態度という意味で、
一番親和性が高いところであるんだよっていうのはありつつも、
僕が何でその子に興味を持っているかというと、
やっぱりどちらかというと表彰論的なものであったりとか、
そのイメージ、心霊やゾンビっていうイメージに対して、
何が織り込まれているのかっていう、
だからどちらかというとそれを受け取る側の、
こう、
なんていうの、
内面世界というか、
そのイメージが出来上がっていくまでの、
プロセスというか文脈みたいなものに、
興味があるんだなっていうのが、
結構ね、
まず前提としてあるわけです。
例えばね、
簡単に済ませるけど長くなると思うけど、
ゾンビに関しては、
あれはすごい何重ものねじれがあるわけですよ。
そもそもゾンビっていう言葉自体は、
アフリカ北部の精霊信仰っていうものの中から、
すでにある概念なわけですけど、
それが西洋諸国のカリブ海のプランテーション、
植民地支配によって、
大抵例によって西洋人はそこで、
カリブ諸島の先住民というのは、
ほぼほぼ全滅させてしまうわけですよ。
それで労働力がなくなってきたからということで、
アフリカ北部から黒人奴隷をどんどん連れてきて、
そこで新しく大規模な農業体制を引いていくと。
そうなった時に、
その人たちには、
アフリカの土着の信仰というものをもちろん許さずに、
それぞれ、しかも地域も結構ばらけたところから来るから、
同じ黒人奴隷と言いつつも、
そもそも言語でのコミュニケーションが
満足に取れないような人たち相手に、
12:01
共通の価値観の釈度として、
キリスト教というものを押し付けていくわけですね。
そこで、アフリカの精霊信仰というのは、
アフリカの精霊信仰というのは、
日本の八百代津に近いところがあるというか、
何でもかんでも精霊にしちゃうから、
そこにマリアとかパウロとかイエスみたいなものも、
全部精霊の一個として授与していくわけ。
表面上はそこでキリスト教化されているように見えるんだけれども、
大元の異神教的な発想が何一つ浸透しないままに、
そこでできてきた、
アフリカの土着の信仰と西洋から押し付けられた、
キリスト教というものが、
間合体したところに生まれてくる宗教が、
ブードゥ教と呼ばれている宗教なわけですね。
そのブードゥ教というものができてきた時に、
その中で、その精霊信仰の一つの言葉であったゾンビ、
この言葉はそれこそ、元はただの妖怪とか、
何か悪い例ぐらいの意味だったらしいんだけど、
それがカリブの中で、
どんどんブードゥ教の文脈が独自に積み上がっていく中で、
死んでいるようなのにまだ働かされている人たち、
要するに西洋の人たちに無理やり連れてこられたカリブの土地で、
過酷な労働環境の中で働かされている俺たちに対して、
まるでゾンビのようだということを言い出したというのが、
まず大元の発端だという話があるんですよ。
そうなってくると、
それをさらに時代が下っていくにつれて、
西洋人たちがオリエンタリズムみたいな興味関心から、
カリブの島々を巡っていくわけ。
それこそ小泉八雲、後の小泉八雲でラフカディオ・ハーンとかが、
カリブの妖怪みたいな本を面白おかしく書いたりするわけだけど、
その中で彼らは未開の文明を未だに信じていて、
ゾンビみたいなことを信じているみたいなことを書きながら、
それで彼らの妖術使いは死体を骨液しているみたいなことに、
段々となっていくんだけど、
そもそも、
西洋側が面白おかしく恐怖の対象としたゾンビというもの自体の、
作り出したのは誰なんだっけ?
実はこう考えていくと、
明らかに西洋の植民地政策による産物なんだよね。
なんだけど、
その文脈を一旦まるで無邪気に遮障した上で、
ブーツー教という未開の宗教があって、
その宗教の信者というものはこういう怪物を信じているらしい。
もしかしたらそれは本当に実在するのかもしれない。
だから我々西洋というのが直線的に進めてきた近代化みたいなもののオルタナティブが、
もしかしたらあるのかもしれないみたいな、
精神世界みたいなものによる別の世界の可能性みたいなのが、
ここにあるのかもしれないみたいなことを、
15:00
ある意味その急激な近代化の反動として言い出した西洋人の言論によって、
ゾンビというものが一度その文脈を剥奪された、
単純にカリブの土着のもの、怪物というものに賄賞化されていってしまう。
今度はそこからカリブの独立だったりするときに、
独立の方向として二つあって、
民族性をはっきりと打ち出すか、
もしくは西洋的な近代人に我々もなれるんだという方向を目指すかというのがあって、
そこで近代化を目指すぞと近代国家になりますよという人たちは、
土着の宗教としてのゾンビを自分たちで今度は否定していくわけね。
そんなことを僕らは信じていませんよというわけ。
逆に今度は民族的なものを打ち出していくような独立を目指す人たちというのは、
一番最初の我々のアフリカの土着の宗教というところまで遡って、
ゾンビというものをもう一回自分たちに取り戻そうとするような原説を取るわけ。
ゾンビというものをどのレイヤーで、
どの角度から誰がどう怖がるのか、もしくはどう利用していくのかみたいなところが
かなり複雑なコンテクストがいくつもあって、
ゾンビというものを今一口に何か語ろうとするとか、
何かしら一つの作品においてゾンビものとしてジャンルを作るということは、
実はジョージ・エロメロが撮ったゾンビという作品によって、
ある意味基本的な映画の中でのお約束が決まっていくんだけれども、
その前々からすでにあったゾンビというものを持っている豊かなコンテクストというのは、
やっぱり意識していいようがしていまいが何かしら入り込んでしまうものなんだよ。
そこにもともと今我々が生きている文明というものは本当に良いものなんだろうかとか、
私が単純に隣人としか見なしていない他者というものとの間に、
何かしらの作集関係があるのではないかとか、
他者に対して後ろめたさというものをどうしたって入れ込んでしまうんだよ、ゾンビという存在が。
みたいなところで、その背後にあるものを考えてみれば考えてみるほど、
ある意味おちゃらけたジャンルに見えるゾンビというものを大真面目に読み解くみたいなことが、
可能性がどんどんどんどん開けてくるみたいなところに非常に面白さがあるわけですね。
どっちが抑圧者なのかとか、どっちが怪物なのかとか、何が批判されているのかということすら、
簡単に反転可能な状況というのがゾンビという言葉の中にはあるんだぞというところに、
ゾンビの良さというのを僕は感じていますよというのが、
まずこれ前振りなんだけど、
今回話した心霊というものに関しても同じものがあるんですよ。
まず2冊最近面白い本を読みまして、
1冊目が谷口基井さんの水星社から出ている怪談異端、
18:04
副題が怨念の近代という本と、
もう1冊が市柳浩孝さんの国書館公開から出ている怪異の表彰空間という、
この2冊の本を読みながら心霊について大真面目に考えていたんですけど、
どこから話すのが一番いいんだろうな。
一緒に?
これ私とした方がいいの?
他の心霊友達とかとしないんですか?
僕のモデル量が多すぎるから、
ゲストを呼んでゲストと一緒に何かやるという感じではないかなと思います。
じゃあ私は生徒として。
でも適宜お話ししてもらって大丈夫ですからね。
でね、ホラーとSFとの相性がめっちゃいいみたいな話を冒頭に、
フィクシブの小説を元にしましたけれども、
それでいうと最近この早川書房から異常論文という本が出まして、
僕これまだ全然読んでないんですけど、
目当てにしてたのがこの最後の方に載っている、
無断凸地っていう、鈴木一平プラス山本裕樹の書いた作品があって、
これがべらぼうに面白くてですね。
この無断凸地の中に参考文献として出てくるのが、
このさっきの会議の表彰空間と会談板だったんですけど、
無断凸地は無断凸地で、他にもかなりいろいろなコンテクストを凍り込んでいる作品なので、
もっと頭のいい人だったりがたくさん語ってくれればいいかなと思っているんですけど、
僕が無断凸地を読みながら思ったのはやっぱり、
SF、オカルト、ホラーというものの可能性の豊かさというか、
相性の良さみたいなものをすごく感じていて、
無断凸地の話はあまりしないんだけど、
何が一番あるかというと、幽霊というものに対しての我々のイメージというのは、
さっきまで長々とご説明していたようなゾンビというものに対するものと、
かなり近いものがあるんじゃないかということなんですよ。
どういうことかというと、
例えば幽霊画とかを考えているときに真っ先に浮かぶのは、
やっぱりシロ・ジュヴァン。
死に装束を着て、黒髪ストレートの女の人なわけじゃないですか。
現代の幽霊というと、なぜか白いワンピースを着て、
黒髪ストレートの女の人なわけじゃないですか。
もちろんお事務所とか、いろいろとバリエーションはあるんだけれども、
やっぱりメインでパッと浮かぶ幽霊の表象というのが何かというと、
やっぱり女の人なわけですよ。
割とここに心霊の面白さというのがあるんじゃないかと思っていて、
21:05
要するに怪談の語り手というのは誰だったのというときに、
それは男連中だったわけだよね。
さっきお事務所とかは例外だけどと言ったけど、
お事務所もあり得る話で、
要するに男連中が後ろめたさを抱える相手なわけだよ。
ある意味勝手側の男連中が自分たちが殺してきた戦争の相手であったりとか、
もしくは普段の生活の中で抑圧をしているような女の人に対する
後ろめたさというものが反転して恐怖になっていく。
このねじれはそれこそ、自分たちが過酷な労働を強いている黒人奴隷に対して、
自分たちが何かしら感じる後ろめたさを、
ただ後ろめたさとして認めるのではなくて、
恐怖という形で一回反転して、
なぜか相手側に敵害心を持つことによって自分の身を守っていくという、
その認知のねじれた部分とかなり似通ったものがある。
というところにやっぱり心霊の面白さというのがあると思っていて、
そう考えていくと怪談というのは小岩さんとかも含めてそうなんだけど、
実は抑圧された女性の話なんだよね。
男連中がメインだった文化圏において、
女の人というのは基本的に眼差される対象か、
もしくはそういうものにしかなり得ないみたいな構造が基本的にある中で、
怪談においては主体者になりうるんだよ。
しかもそれはゾンビと同じにねじれていて、
徹底的に抑圧されている様を描かれるからこそ、
主体となりうるというところにねじれはあるんだけれども、
実は怪談話、ゾンビもそうなんだけど、
というものは大元の構造からして、
既存の社会の中では抑圧されていたり仕掛けられていたり、
するような人たちの代弁の場というか、
後ろめたさを表明する場所というものとして機能していたのではないか、
みたいなところが、
無断突視はコンテクストが豊かすぎて、
それだけに賄賞化するのはちょっともったいないんだけど、
僕が読んでいる中ではそこに面白さを感じたというか、
今のあなたのアンテナに引くこともそうなんだ。
やっぱり幽霊心霊というものに、
なんで僕がこんなに急にハマっているんだろうなと思ったのは、
ある意味それはミシェルドセルトの日常的ディスンポイントというか、
持たざる者の側がどういう形で声を持っていくのかというときに、
一つのあり方として、
24:01
今すでに既存の権力を持っている側の語り手の中に、
自分たちの声をある意味密入国させるような手段として、
その恐怖による怪談語りみたいなものはあったんじゃないのかな、
みたいなところが今僕の中での一番の関心軸で、
加害者側、抑圧者側にあえて自分たちの苦しみを語らせるというところに、
幽霊の意味というのはあるじゃないかというところなんですよ。
どうしても今単純にお気楽なホラー映画とか見ると、
お気楽なっていうとあれだけど、
ルサンチマンに近いようなさ、
ひもてのルサンチマンみたいなものばっかりが怨念として機能しがちだけれども、
実はもっとコンテクストとしては深いじゃんみたいな、
それこそフィアストリートっていうNetflixの面白いホラー映画シリーズもありますけど、
なんかやっぱりあれは正しくホラーなんだよなっていうことをすごい感じながら、
っていうのがやっぱり僕の今の心霊に対する関心の大きいところなんですよ。
そうなんですね。
そうなんですよ。
やっぱり既存の権力構造みたいなものをある意味強化し得るものでもあるわけじゃん。
ゾンビっていうものも幽霊っていうものも、
自分たちの既存の安心な社会の外部にあるものっていうものを
ある意味排除したいっていう気持ちを盛り立てるようなジャンルでもあるわけだから、
結局そこで何かしら代弁はあったとしても、
結局ビランとして排除されていってしまうみたいなところで、
また一つの別のモヤモヤが出てくるんだけど、
やっぱりその辺りの全体の構造も含めて、
非常に意識的に、意識的なのか無意識的なのか、
非常にうまく新しい在り方の可能性を提示しているのが、
やっぱり寺内監督の心霊マスターテイプだと思うんですよ。
心霊ドキュメンタリーっていうのは、
基本的にあれはもうフェイクだっていうことを言ってはいるんだけれども、
やっぱり僕がホラーにとって、心霊にとって何が一番大事かっていうと、
やっぱりそこなんですよ。そこのリアリティなんですよね。
どうした?突然どうした?
やっぱりね、その抑圧されたものに対する代弁みたいなところが、
ちゃんと機能しているかっていうところに、
やっぱりホラーの意義っていうのは僕はあると思うんですよ。
今話を聞いててね、全然違うかもしれないんだけど、
27:00
思ったのはね、やっぱり幽霊女の人が多いよねっていうところで、
男性の幽霊で有名どこといえば道立猫と影清と、
平野政宗と、
あと何だっけ、政宗と、悪霊サフは誰なんだっけ。
誰なんだっけ。
道永に負けたの。
そうだね。
そこら辺はさ、要は能力は確実にあって、
絶対ここで退場する人じゃなかったんだけど、
もう政治的なあれこれで、
あまりにも有能すぎるわゆえに、
退場を願わざるを得なかった。
それに対して、時代が違えばとかタイミングが違えばとか、
生まれた家が違えば絶対国を支える盾役者だったっていうところを、
やっぱりみんなが思っていて、
だからこそその後に自然災害とかが起きると、
やっぱり恨みがあってなって、
でも最終的にみんなさ、
だいたい弔い割れて立派なお屋城とか建つわけじゃない。
だから男性の有名幽霊はそういうことをしてもらえるけど、
女性の幽霊はちょっとなんかこう、
うっそーとした井戸のところにお岩さんのとかなんとか札が出てるぐらいで、
ちょっと観光地化されて終わっちゃう。
そうなんだよね。
でなんかその観光地、ちょっとした観光地力にみんなあやかって、
いやうちもうちが本当ですよみたいなことを言い始めるみたいなさ。
そうだね。
なんかそこもすごい軽んじられてるんだよなっていう。
それを逆側から見ていくと、
実はだから大義のために死んでない男性、無名の男性幽霊ってあんまりイメージができないんだよ。
だからオチムシャっていうそのある、
確かにここでたくさん人が死んだっていう事実に基づいて、
だからオチムシャという無名の負けた集団がいるはずっていう、
すごいふんわりとした。
そうなんだよ。
何かしら大義を抱えて考えられなかった排山者として以外男性側の幽霊っていうのはあんまり機能しないっていう。
だからその弱い男性が一番誰にも触れられないっていうのはフェミニズムみたいな話でも一緒だけどさ。
でもそもそもそこで言うと弱い男性みたいなものっていう話は全然またレイヤーが違う話だからね。
30:04
そもそも男女の中で構造としてどっち側に勾配がついてるかっていうのは明らかじゃんっていうところから始めないとだから、
実はそこに個別具体的な答えさみたいなところに流度をコントロールしていくのはなんかシー的な議論の操作やねとは思うけどね。
そうなんだよ。だからそういうところに面白さがあるわけですよ。
やっぱりそれで言うと谷口本井さんのこの階段遺談っていう本が一番非常にそのあたり優れていてですね。
要するに怨念っていうものはどこにあるのかっていうと、さっきの具さんが言ってたような時代が時代だったらばみたいな人たちっていうのは
要するにこれは明治における急速な近代化っていうものによって取り残されてしまった人たちだったり状況っていうものが怨念という形になって
回遺として立がれていくんだと。だから階段っていうのが盛り上がる時っていうのはそういう何かしら急激な社会変化っていうものの中で取り残されたものが多かった時に生まれてくるものなんだっていうようなことが整理されている大変面白い本なんですけど。
やっぱりね、そこですよ。だからすごい良い指摘だったと思う。
本当?
冴えてると思う。
そう?
うん。
だからこの間大田記念美術館に教祭漫画を見に行ったけど、教祭は本当に明治の頭の人だからそのタイミングなんだろうね。
そうなんだよね。やっぱりあれも面白いのがさ、七福神に様相させようとしてさ、体の作りが全然めちゃくちゃだから無理でしたとかさ、単純にその金星的な価値観っていうものの復古ではなくて、今の社会の中に古い価値観を当てはめた時に何が起こるかっていう作り方をする。
非常に現代的な感覚だよね。
それこそゾンビがアイドルやったらどうなるかとかさ、そういうのに近い発想じゃない?
だから非常にそういう意味では当時からすると最先端おしゃれ表現者だったんだなって。
教祭はそうだと思う。
感じがするよね。
33:00
やっぱりだからね、今僕だけじゃないと思うの階段ブームなのって。
なんだかんだである一定の気分、だって早稲田文学でもホラーの特写を組まれたりするぐらいだから。
タモレクラブだってね。
そうそうタモレクラブもね、吉田由紀さんが階段っぽい喋り方を伝授してたりとかする。
テレビでは普通か、まあいいやみたいなのがあるから、一応階段ブームだと思うんですよ。
やっぱりなんで今階段ブームなのかっていうところとかも、
明治以降のいろんな状況っていうものだったりとか、
もしくはカリブの植民地支配みたいなところから考えていくと、
非常に面白いものが見えてくるんじゃないのかなと。
やっぱり急速なオンライン化、リモートワークに伴うオンライン化についていけないな。
でも本当にそういうことだった。何でもいいんだけど、
個人の生活だったり社会のあり方みたいなものが大きく変わっていく時っていうのは、
やっぱり階段っていうものによって救済されるものっていうのは絶対あるはずなんだよ。
でも何だっけな、誰だっけ?
いろいろ覚えないんだけど、
スティーブン・キングのパロディ短編だけが入ってる小説があって、
誰だっけ、清水南道家さんが書いてるんですけど、
中学生ぐらいの時に読んだんだけど、
悪魔の館みたいな話があって、
多分元はそういう威惑つきの洋館でいろいろ怖いことが起きるみたいな話なんだけど、
それのパロディが、息子夫婦が良かれと思って、
お母さん、歳とって足腰の弱くなってきたお母さんのためにフルイノベーションしてくれる家を。
でもそうすると、お風呂を開かすのにボタンが飾りにしか見えないからどうしたらいいか分からない。
前のガスのやつだったらカチッとすれば湧いたのにみたいな感じで、
液晶もタッチするっていう発想がないから何にもできないしっていう感じになって、
最終的には作ってくれたスロープのワックスが効きすぎて、
転んで大腿骨が折れて、呼び出しボタンがすぐ近くにあるんだけど、
手が届かないまま息絶えるみたいなエンドなんだけど、
でも急速に近代化された家に馴染めない結果不幸が起きるっていう話なわけじゃない。
36:04
今この1年半引きこもりが奨励される環境で、それこそ普通に出勤しないとできない仕事はまた別だけど、
オンラインリモートワークができて当たり前の能力が、
だから私みたいなIT系の人間はできない方が悪いみたいな、
できないなら出社しますみたいな扱いだけど、別にそうじゃない業種の方が多いわけじゃん。
解釈しないとどうにもならない。
それこそ自分が授業受けてたようなおじいちゃん先生たちがいきなりオンライン授業やってくださいって言われたってさ、
困っちゃうわけじゃん。
でもやっぱり突然そういう世界線に今みんな飛ばされた、
それこそみんな異世界転生しちゃったみたいな、人によってはそれぐらいの断絶があるわけじゃん。
階段流行りそうだね。
流行ると思うよ。
やっぱりそこで自分が、
自分の中でそれまで持っていた価値観というか、世界観みたいなものと、
実際の外界において世界とされているもののギャップがぐんと離れる瞬間なわけだよ。
それこそ明治維新はそれがすごいわかりやすくて、
すべての価値観が急に実学的合理性にバッと切り替わってしまった時に、
それまでのあるいは物資階級とかの人たちのモヤモヤっていうのはすごいものがあったと思うんだよね。
それはやっぱりさ、今から振り返ると当たり前のように思うかもしれないけど、
当時からしてみたらものすごい価値の転倒なわけじゃない。
やっぱり今もそれまでずっと営業つの足で稼ぐものなんだとかさ、
やっぱり腹を割って同じ飯を食って、
一緒にタバコを吸いに行ってね。
初めてチームが出来上がるんだみたいなところの価値観の会社に僕もいるわけだけど、
やっぱりそういうところにいるとすごい軋みがあるわけだよね。
みたいなのは、やっぱりだから今は非常に怪談の時代なんだろうなと。
それで言うとロシアと韓国ってすごそうだね。
そうそうそう。
それこそ旧共産圏の会談とかは多分えぐいわけじゃん。
39:00
すごいと思う。
めっちゃすごそうだよね。韓国もすごそうだし。
なんかね、ロシア州はずっと興味があるんだけど、
怖いのと根気がないので全然ちゃんと勉強したことないけど、
なんかもう、転覆の仕方がすごいじゃん。毎回。
すごいと思うよ。
やっぱり今は、まずはとりあえず自分の国から始まってしまうんだけど、
それも結構面白くてさ、要するに怪談とナショナリズムって非常に相性がいいわけじゃない。
僕はずっと日本人に全く興味がなかったのに、
心霊っていうのを通してすっげえ明治に詳しくなった。
うんうん。
明治の近代化っていうのがいかにヘンテコなものだったかというか、
あるいは科学的合理性っていうのを徹底して徴用しておきながらも、
天皇的な、なんかあるじゃん、ずっと続いてるよみたいな。
万世一継。
万世一継みたいなところだったり、
そういうほとんどの宗教に対しての合理性を認めないくせに、
なんかそういうよくわからない不合理を一緒に同じ口で認めさせないといけないみたいなところに、
非常にすでに最初から矛盾をめちゃくちゃ大胆に織り込んだ近代合理化みたいなものをやっていくところっていうのは、
怪談の生成される現場として非常に相性のいいところだなとか思うんだけど、
やっぱりそれって、なんだろう、あんまりそういう話を僕みたいにそんなに真面目に勉強してない人がわかってなくても、
なんとなくこの国のことだからわかるというか、
自分のいる文化圏のことだからわかるみたいなところがなんとなくちょっとあるわけじゃん。
だからこそ怪談っていうものも多分大きく機能するわけで、
だからやっぱりゾンビよりも、
ある意味、もうちょっと肌感覚的にわかる部分があるみたいなところがあるわけじゃない。
やっぱりここから展開していく意味では、
それこそ今言ってるロシアの怪談とか韓国の怪談とかに手を広げていくことだと思うんだけど、
多分そこではまずさっきのゾンビの話みたいに、
その前のコンテクストをちゃんと勉強しておくっていうことをしないと、
なんか従前に理解できないところがあったりするわけだよね。
みたいなところでいくと、
そこである意味、自国性みたいなもの、民族性みたいなものの自覚の強化の装置になり得るわけじゃない。
その怪談。
それを考えていくと、
より一層明治っていう時代に怪談が盛り上がることの意味というか、
によって機能してしまったものっていうのはかなり大きいわけだよね。
やっぱりそこでどんどん怪談というものが、
ある意味思惑とは別のところで育ってはいくんだけれども、
42:05
やっぱりそれが一番決絶する、
というか一番ピークを迎えるのはやっぱりこの日清日露戦争あたりで、
また一個どんっと盛り上がるわけだよね。
やっぱりそこで盛り上がっていくのも含めて、
面白いのがその時期の日本が植民地政策を広げていった時期っていうのは、
それこそ満州の怪談とか、
シナの怪談とかも盛り上がってるらしいんだよ。
国内でよく語られる。
やっぱり自分の文化圏であるっていう自覚と、
これは自分たちの怪談なんだっていう自覚とは、
割と近しいところにあるんじゃないかっていうところが、
ちょっと性恐ろしいところでもあって、
来月だったか今月のどこかに出るんだよ、そういう本が。
怪異とナショナリズムみたいな本が出るらしくて、
この前ツイッターで流れてきて、
マジで流行ってんじゃんって思いつつ、
いや今これ絶対読まなきゃいけないやつじゃんって思ってるんだけど、
やっぱり次はそれを読んで、
その後は各国、世界各国怪談話に向かっていければいいなっていうのが、
今の僕の思っているところ。
それと、だからロシアや韓国に実話怪談っていうフォーマットがあるのかっていう。
怪談みたいな言葉が存在するのかね。
そうそうそうそう。
ちょっとまた面白そうだよね。
でもロシアはアナスタシア絡みすごいからそう。
いやすごいからありそう。
実話怪談ってやっぱり面白いフォーマットでさ、
あれは面白いよね。
実話怪談っていうぐらいだから一応実話なわけですよ。
一応ね。
吉田ゆうきさんの書いてるさ、
一生忘れられない怖い話の話し方だけちょっとタイトルが微妙に違いましたけど、
やっぱりあれ何が面白いかって、怪談の話し方、書き方の一番最初ののが取材なんだよね。
やっぱりそこでいかに人の話をちゃんと聞けるかっていうレクチャーがずっとそこに丁寧に続いていくわけ。
やっぱりそこにこうなんていうのかな、
創作におけるオリジナリティみたいなもののつまんなさというか、
まず何よりもちゃんとその人の話を聞くっていうところに
一番の価値が置かれている感じとかにすごい面白さを感じるんだよね。
やっぱりそこの僕の中での怪談の定義ってやっぱりこの相手の感世界っていうものを
一旦信じるっていうことが実は怪談の定義だと思っているわけ。
だからその人にとって、その人からはこういうふうに世界が見えているんだっていうところには
一旦全て信じた上で話を聞いて、その人から見えている世界について代弁するっていうのが
実は怪談ってやっている実践だとすると、
やっぱりそのフォーマットっていうものが
割と日本の文学全体に対して削弱体質みたいなところっていうのは脈々とあるわけじゃない。
45:04
西洋文学においてどちらかというとフィクションとしてガチガチに構築的に作っていくみたいなことが
一つの文化として強固な文化圏において、
そういう実は怪談的なフォーマットってあるのかしらみたいな。
それは一個のフォークロアみたいな話になってくるかもしれないけど、
それはちょっと微妙に実は怪談とは違うじゃん。
どちらかというと都市伝説に近いじゃんみたいなところで、
口酒女とかトイレの花子さんみたいな話は西洋圏だったりあるかもしれないけど、
実は怪談っていうのは固有性が大事なんだよ。
でもたくさんの人がトイレの花子さん体験をしているから都市伝説化するってわけじゃないの?
そこは非常に面白い話ですね。
それでさっきの市柳さんの怪異の表彰空間が非常に面白いんですけど、
例えば学校の怪談っていうのは結構変で、
例えばトイレの花子さんとかっていうのが全国にいるのって結構変なんだよ。
もともと怪異っていうのは場所性がすごい大事。
場所だったり人だったりという固有性がすごい大事なわけ。
ってなってくると、もともと座敷原市の伝説が残っていた土地で、
学校っていうのがポンと建った時にそこにそれが引き継がれて、
土地と土地に伝わっているものとして語られていた、
割と説得力のある花子さんもあり得たかもしれないっていうのがまずあるんだけれども、
それとは別にそこのフォーマットがある意味、
テレビ番組、学校の怪談とか映画とかで留守してしまった後っていうのは、
金の付け方が場所性じゃなくてテレビでやってたになっちゃう。
そうなると全国でのトイレの花子さんっていうものの存在を担保するのは、
テレビでやってたからになるわけ。
そうなるとその土地と土地に固有、
個別で具体的に引き継がれてきた文脈っていうのが断絶しちゃうわけだよね。
そこでその寝なしぐさ的になってしまって、
ただイメージだけが先行するものっていうものはやっぱり都市伝説なんで。
なんかさ、まず都市伝説って言葉何?
都市伝説っていうのは、やっぱりそういう…
なんでそこで伝説になっちゃうの?
でも伝説になっちゃうでしょ。
固有の話ではなくなって、
土地と土地に…
伝わる説になっちゃう。
土地と土地に根付いた回ではなくて、
そういう伝聞としての概念になっちゃうから、
そこにはだからもう、
ある意味キャラクターとかしか残らないわけじゃない?
そこに文脈が残らない。
だから学校の階段を見た小学生が、
48:04
自分の通っている学校のトイレに行って、
ゴーストが、
トイレの花子さんいるんじゃね?って囁くから、
いることになっちゃうってことだよね。
やっぱりそこにあるのは共通の概念であって、
やっぱりある場所、ある人にまつわる話ではなくなっちゃうから、
通話階段の都市伝説の違いはやっぱりそこ。
土着性がある花子さんは階段。
うん、なんだけど、
だからそこがやっぱりこの本の中で出てくるのは、
学校の階段的なものって、
そもそも学校っていうもの自体は近代的なものだから、
そもそも古い土地と土地に残ってた伝承っていうのは、
学校の中にまで入ってくることがあるかもしれないけど、
学校に独自の階段っていうものは、
あんまりそもそもスタートからしてありえないはずだし、
そこに残ってる河童信仰みたいなものだったり、
座敷原信仰みたいなものから、
なんかお尻撫でられちゃうとか、
何かしらのそういうものが入り込んでいるってことは、
あり得たかもしれないけれども、
そういったトイレの花子さんみたいなものが、
都市伝説化してしまった後は、
権威がこっち側についちゃう。
メディア側に。
メディア側についちゃうから、
その土地の固有性っていうものから断絶してしまった時点で、
もうその土地の実は階段性というものは、
ある意味無力化されてしまう。
やっぱり根拠としてどっちを取るかなんだよ。
やっぱり実は階段っていう世界の何が面白いかっていうと、
非常にありがちな話だとしても、
それって要するに自爆霊ですよねっていうことを言うのはタブーなんだよ。
やっぱりその人本人からすると、
そういうふうに感じたっていうことの方をすごい大事にするわけ。
だからその四筒地に立った時に、
なんだかとても嫌な感じがしたっていう話を、
とても嫌な感じがしたのまま喋んなきゃいけないっていうのは、
実は階段の原因なわけ。
そこでその四筒地ではどうやら過誤通事故が昔起きてたらしくて、
その自爆霊に襲われたみたいな話にしてしまうと、
それはもう実は階段っていうものの中から、
個別具体性をある意味散脱してしまう行為だから、
それは許されないんだっていうようなことが書かれてたりしてね、
実は階段の本には。
非常に面白いじゃないですか、そういうのって。
カウンセリングみたいだね。
そうそう、でもやっぱりだから階段っていうのを考えていくと、
最終的にケアの話とか精神医療みたいな話に必然的になっていくんだよ。
なぜかというと、近代合理性っていうものから何が取りこぼされていったかって、
もちろん個人個人の個別具体的な生き方というか、
生活っていうものなわけじゃないですか。
そうなってくると、やっぱり実は階段において、
そういう大きな文脈の中に回収し切らずに、
ちゃんとその人の世界っていうのを担保しますよっていうところに、
やっぱり何がグッとくるかっていうと、
実はやっぱりそういうね、
カウンセリングじゃないけど、
そういうケアの、いや慶長の世界なんだなみたいなところにやっぱりグッとくるんですよね。
51:03
あの、ナダイナダは私好きじゃないですか。
ナダイナダが精神、あの人精神、
私が好きなナダイナダは歴史の話、ヨタ話してるときはだけど、
あくまで精神科医じゃない。
精神科医友達と二人で喋ってるのをまとめた本があって、
いい本だよね。なんだっけ。
なんだっけね。タイトル忘れちゃったけど。
僕たちはシャーマンとかの代わりをしていっているわけだけども、
全然代わりになれないと。
なんかその自分は今精神科医をやっているけれども、
本来やるべきはそのシャーマンとかがやっていたような、
自分に悪いものを移してそれを払うみたいなのをパフォーマンスを見せてあげることで、
その人が認知をずらすだけで生きやすくなるんだったら、
その投薬で治療でこういう論理であなたは良くなりますよっていうよりも、
それで済むんだったらそっちの方がよっぽど心を助けてあげられてたけど、
その近代化によってそういうやり方っていうのができなくの余地っていうものがすごく狭くなったから、
今自分は仕方なく精神科医という職をやっているけど、
やっぱりその精神科医のままそういう認知を助けるみたいなことを目指していきたいなみたいな話を。
自分たちはベテランになって、
自分が精神科医として立派になるというよりは、
どういう精神科医を改めて目指すかみたいな話を給油としているのがあって、
だからそういうこと?
でもそういうことだよね。
青木さんとのデカ迷論とかでもずっと言っていることとして、
近代的な合理性というものにも不合理はあるんだっていう話とも通じるところがあって、
やっぱり僕が心霊やゾンビに夢中になるのはかなり必然性があるんですよ。
やっぱり僕はこの心霊やゾンビの良さを広く伝えたいという気持ちで、
もっとみんなそういう話しようぜっていうところで僕は今夢中になっているんだけれども、
でもこの前りょうたさんがツイッターで読得したのは、
ゾンビとか内臓とか出たりグロいから見れない人は見れないと思うので、
無理にオススメするわけではありませんがみたいなことを書いていて、
すごい納得しちゃったんだよね。
そうだよね。
何が?
54:00
グロかったり怖かったりするのを叩くなくみんなに、
ぜひって言えねえよなって思って。
そういうこと言うからフォローしてくれた人も離れていっちゃうんだよね。
僕はそれこそこの前奥さんにこれ面白いからって言って、
岩澤監督の心霊たまて箱を見せて、
すごい奥さんに怖い思いをさせてしまったからね。
すごい。
私さ、ダメじゃん。
ちょっと忘れてたんだよ。
怖いのダメ。
怖いのびっくりするのダメじゃん。
人体がさ、ありえない方向に曲がってさ、
ありえないスピードで近づいてくれるのってびっくりするじゃん。
だからね、あなたの言うね、ちょっと高いフェーズでのね、
楽しみ方にね、すごい共感をするし、
いい感じねって思ってるけど、
視覚的な驚きになる。
そう、なんかちょっとね、足を取られてしまったというか、
しかも一番怖いところだけ見て、その解決編見てないから。
そうだね、もろちゃん出てきただけだからね。
いやでもそう、心霊たまて箱がマジでいいシリーズだから、
ぜひ見れる方は見ていただけたらいいなと思ってます。
フィクションをフィクションのまま信じるとかさ、
怖い絵はいいけどさ、
なんか私にとっては自分の中に巨大した恐怖が真実だからさ、
でもそれはそうだね。
フィクションかどうかぶっちゃけあんまり関係ないんだよね。
でもすごいその態度が実話解答の実話性にかなり近いところにある気がするよ。
だから別にトイレの花子さんが根拠ないじゃん、メディアからの洗脳じゃんとか言われても、
私にとってそのトイレが怖かったら、花子さんだろうが誰だろうが怖い。
大事なのはリアルかどうかじゃなくて、そこにリアリティがあるかどうかなわけじゃないですか。
やっぱりだからね、すごいムカつくんだけど、
僕が面白かったなって心霊ドキュメンタリーについて検索しようと思ったら、
サジェストでやらせとか出てくるんだよ。
どうでもいいと思って。
それはどうでもいいわ。
マジでその態度、何?
逆にやらせじゃないことがある。
あれよくわからなくてさ、みたいなところが最近の僕のモヤモヤポイントで、
もしかしたらちゃんとこの…
でもそれはやっぱりやらせなんだって安心したいんじゃないかな。
やらせだっていうことを検索して安心したくなるぐらいリアリティを感じてしまったっていう。
そうそうそうそう。
その可能性をなくはない。
これは嘘でないと安心して夜道を歩けないみたいなさ、
私はその気持ちはちょっとわかんないけど。
なるほどね。
でもそれは面白いね。
結局だから近代合理性というものからすれば明らかにありえない話でも、
57:03
もしかしたらちょっと本当かもしれないって思った時に、
もう一度近代合理性の言葉でやらせとかなんだとかっていう言葉で、
嘘なんだ、よかったっていう安心をしないといけないっていう、
その心の動き自体がめちゃくちゃ揺さぶられてるもんね。
だからそれは確かに一番正しいのかも。
そう、だからあなたはさ、そういう高い高次元の見方をすることによってさ、
その純粋に怖いとか怖くないとかの見方ができなくなってるじゃん。
僕はだから徹底的な近代人だから。
だからただの憧れだよね、それね。
近代的じゃないものに対する憧れだったり。
僕も本気で心感させられたい。
私みたいなプリミティブな人間。
目先のびっくりにびっくりしちゃう。
でもやっぱりプリミティブな恐怖って映像であんまり感じたことがないんだよね。
あ、そう。
だからすごい、だからそれが。
いやだからあなたと共有できるそういう感情の動きって本当にM0アンテンだけなんだよね。
あとはあれだよ、最近だと僕の中ではドキドキ文芸部のモニカで。
そうね。
だからそのなんだろう、ちょっと違うのかもしれないけど萌えっていう感覚。
あんまり言わないけどさっきの萌えって言葉。
萌えっていうのはだからだいぶ僕の中ではホラーのリアリティ。
だからこの間話してたけどそのネロちゃまの話をしてるときだけはどうしても構造解析みたいなことができなくなるって。
それが自分にとってネロちゃまを推すようになったことの一番のギフトというかさ。
でも実はネロちゃんだけじゃなくて広垢の二郎ちゃんとかの話も文化祭の話をする度に僕になったから。
あれとかもそういうことじゃん。
そうだね。
だからやっぱり何かしらがあるんだよね。
だからやっぱオシェロットお父さんはそういうことをぶっ飛ばしてくれるっていう行動があなたにとってはよりありがたい意味があるとかもね。
やっぱり面白いフィクションっていうものはやっぱり虚実とか関係なしにすごいハラハラさせられたりとか楽しくなる、悲しくなるみたいなところにやっぱり一番行動があって。
そういう意味では僕はある程度それはできると思う。
排球とか見るとあまりのハラハラ具合に叫んじゃうし黙って見てられないしとかそういうのはあるんだけど、
でもホラーに関しては多分僕は真相を恐怖したことがないんだなって。
信じらんない。
だからこそめっちゃ面白いんだなって思うんだよね。
だからブッキッシュに楽しむところからまだ逸脱できるほど恐怖に深感したことがないんだよね。
1:00:00
そうそう。だからちょっと本気の怖いやつ。
でもあれでしょ?ジオンのビデオ版は怖かったんでしょ?
ジオンのビデオ版の怖さはね、なんだろう。
あ、でもそれもあれそうだね。ジオンのビデオ版は怖かったね。
中学生か高校の時に見たジオンのビデオ版が一番怖かった。
あれはなんかね、ビデオ版だから怖かったなと思う。
映像も荒いしさ、なんかすごい作り手の悪意がすごいわ。
悪意がね。
こんな悪意をそのまま形にためらえなくしちゃう人がいるんだっていうのが怖かった。
なるほどね。
みたいな。
でもあとはどうしてもね、ホラーは楽しくなっちゃうんだよ。
どうやって撮ってるんだろうっていうのが結構わかるじゃん。
そう、あなたそういう見方するよね。
心霊ドキュメンタリーにおけるその様性とかはすごいわかりやすいじゃん。
めっちゃお金かかってないから。
一番だからすごい自分でもできるかもっていう気持ちにもなって、すごい楽しくなっちゃう。
内臓ぶちゃぶちゃ出たりするのも結構楽しくなっちゃう。
バナナだとか。
そういうところでこれ作るの大変そうだみたいなので、そこに思いをはせちゃうから。
作り手の手つきに思いをはせちゃうからこそ、
ジオンもリアリティを感じている恐怖ではなくて、
いろんな映画をネチネチこの手予算で作ってるこいつらやばっていう方向に怖さを感じるっていうのは多分ずっと変わってないんだなって感じです。
なるほど。
なんかね、私楽しめるものが多ければ多いほどいいと思っている価値観だからこそ自分のビビリ症が。
でも実はそれがあなたの方がホラーを楽しめているという意味でもちょっとあるんだよなっていうところはあるじゃないですか。
そうなんだけど。
そこはちょっと難しいよな。
でもそれさ、マジ怖いからさ、見なくなるしさ、
絶叫もダメじゃん、乗らないじゃん。
それはやっぱり機械損失なわけじゃない。
別にでもね、それは。他にもたくさん楽しいものがありますからね。
絶叫の楽しさは一生わかんなくていいや。
まあ、そんな感じですよ。
やっぱりだから、でね、ちょっと。
いっぱい喋ったね。
もうめっちゃいっぱい喋ったんじゃない?
でもまあ。
ちょうどいいくらいだね。
やっぱりだからね、最後に。
やっぱりそのいいホラー映画、
ホラー小説っていうのはやっぱりね、何が面白いかというと、
事象それ自体よりも調査なんですよ。
心霊ドキュメンタリーもそうだし、
あと最近の残影とかはまさにそういう話なんだけど、
やっぱりそのフィールドワークっぽいんだよね。
何かの一つの事象に対してコツコツといろんな人に話を聞いたりとか、文献を紐解いたりしていくっていう、
1:03:00
やっぱりその探求の面白さがあるんだよ。
何なんだろうっていうのをずっと見るんだけど、
ホラー映画の場合絶対に、
その何なんだろうって探求心が満たされることはないわけ。
そこにやっぱりその近代的な、
何かしら探索すれば必ず答えが1位に決まっていくはずっていう、
やっぱり気持ちをどうしても持ったまま、
こっちとしては最後まで調査を見ていくんだけど、
最終的に散らかりっぱなしのまま、
プツッと終わるところに、
すごい気持ちの良い気持ちの悪さを感じるっていうのが、
やっぱりホラーの一つのアリオなのかなって気もするから、
やっぱりそこでも分からなくなること、
つき詰めればつき詰めるほど分からなくなっていくことに対する快感みたいなものだったり、
好みみたいなものが僕にはあるんだなっていう感じ。
それさ、割と最新の近代性だよね。
そうだね。
全然関係ないと思うんだけど、
最近のゲームを知らない人はさ、
ゲームばっかやってるとリセットすればまたやり直せる、
みたいな思考になるみたいなアホらしいこと言うけど、
最近のゲームってオートセーブだから、
現実と同じだけさ、やり直しが効かないわけじゃん。
っていうのと一緒でさ、少し前の近代性はさ、
そうやって答えは一つ、真実は一つかもしれなかったけど、
でもそこから進んだ結果さ、やっぱりなんか、
いろいろメリット・デメリットあるし、
それを慎重に選び取っていかなきゃいけないよねっていう結論になることが多いと。
思っていて。
私たちは今、やっぱり土壌にいるから、
今生きてる人間がちゃんと責任を持ってそこら辺を見極めて、
ちゃんと考えなきゃいけないよねっていうか、
前の世代が考えなかったツケを払わされてるからこそ、
少しでもやらしとかないと申し訳ないよねみたいな感じがあるのかなって。
なるほどね。
漠然と思ってるから、
だから結局スッキリしない、考え続けることを促される感じは今時っぽい気がする。
そう、めちゃくちゃ今時っぽいんだよ。
今出てこなかったけど、江戸時代には遠慮っていう人が。
階段板ね。
そう、幽霊階段の権威みたいな人だったんだけど、
江戸時代の階段っていうのは、
割と呪学的な合理性に基づいて、
因果環境をはっきりさせるっていうところに、
1:06:02
それこそ1位に答えが決まるっていう階段の語り方っていうのがメインだったんで。
親不幸したらこんな悪いことが起きるとかそういうこと?
どちらかというと、
自分がびくびく怖がっているからそういう変なものを見るんだっていう話が多いけど、
何でもちゃんとそこに原因っていうものがあって、
はっきりと決まるよっていうところに階段の語り方っていうのがまずあって、
実は何もわかんないままでっていう座りの悪さに対する語り方っていうものは、
明治以降になってからメインになっていくんだっていう話が出てくるんだけど、
やっぱりだからまさにそういうところなわけだよね。
全体として合理的に決まっていくような状況があるような、
何だろうな、
仕組みが一つスタンダードになればなるほど、
そうはできない部分っていうものの存在感が増していくわけじゃん。
そうなったときにじゃあそこにどう対処していくんだみたいなところで、
ちょっとその階段的な発想みたいなものが機能していくみたいなところがあるよねっていう気がする。
だから実は僕たちが今どきだよねっていうような価値観って、
割と明治の価値観なんだよね。
それが面白いなって思った。
明治のことを考えれば考えるほど今と何も変わらないんだよね、発想が。
だから前代未聞の時代を生きているみたいなことを、
現代に対して言うのがちょっとまだ早いかもしれない。
それはね、思わないね。
やっぱり明治。
自分が大学卒業前後、めっちゃワイマールし面白いなって思ってて、
でもすごい今の日本の状態がワイマールっぽいんだよなっていうのが、
考えていくとそれで面白いなって思ったし、
多分結構私学系でもワイマールブームだったから、
だからそのやっぱり歴史に学ぶじゃないけど、
状況的に一番参考になりそうな状況がワイマール。
だからぼんやりしてると大変なことになるよっていうのはやっぱりなんか、
いろいろ的外れかもしれないけど、
一番参考になりそうな時代はこれみたいなのはやっぱりあるよねっていう。
そういうのだとワイマールから明治になったんだねっていうことだね。
今は明治なんだと思うよっていうお話でございました。
体調悪いのによく喋るね。
でも喋ってたら元気になってきた。
1:09:01
そうだね。
やっぱり喋るのって大事なんじゃない?
ココアもおいしかったし入れてもらった。
あなたは喋る子ある子がしとけばね、機嫌は良くなるからね。
まあちょっとこの後ぶっ倒れるかもしれませんが、
そんな形で来週無事に配信ができることを祈りつつ、
ぜひ皆さん、心霊、ゾンビ深掘りしていただければと思います。
VTクラジオ、お相手は私が記念賞ごと奥さんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
01:09:55

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