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2022-03-07 1:18:06

第八十八回 ロメロ以前のゾンビから見えてくるもの──雑談・オブ・ザ・デッド6 ゲスト:Ryotaさん

昨年10月から六回(ロメロのゾンビ映画と同じ本数です)にわたってお送りしてきたRyota さんとのゾンビ談義「雑談・オブ・ザ・デッド」。いよいよ最終回。都内某所に集合し『恐怖城(1932年、原題:White Zombie)』および『私はゾンビと歩いた!』(1943年)を一緒に鑑賞してからの収録。 ここにきてゾンビってなんなのかわかんなくなる衝撃の展開。いったんこのシリーズは終わりますが、奥深く、自由なゾンビの探求はまだまだ続く予感…… ひとまずありがとうございました!

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はい、というわけで、こんにちは。ポイエティークラジオ、お相手は私、柿内正午と、本日はゲストでこの方です。
Ryotaです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ということで、雑談・オブ・ザ・デッドもついに第六回、そして最終回ということで、今回初めてですね、これまでずっとRyotaさんとZoomでのやりとりだったんですけど、今回はついに対面でのやりとりということで、
どうなることやら、という感じですが、
今日は、某池袋のレンタルスペースを借りて、今、Ryotaさんと一緒に、ロメロ以前のゾンビ映画ということで、
この、コズミック出版の、出している、ホラー映画パーフェクトコレクション、ゾンビの世界、DVD10枚組っていうもののですね、2作。
1個目が、恐怖城、1932年製作で、現代画ホワイトゾンビっていう、一番初めの最古のゾンビ映画と言われているやつを見て、
その後に、私はゾンビと歩いたっていう、これは1943年なんで、恐怖城から大体10年ちょっと後に作られたゾンビ映画を見てというところで、
この2本を中心に話しながら、最終的に、最終回なんでね、ゾンビについていろいろ語っていければと思うんですけど、
いやー、これは最後の最後にとんでもないものを見てしまいましたよ。
そうですよ。ちょっと声のトーンでね、わかるかもしれませんが、若干我々今戸惑っているんですよね。
すごいですよね。
戸惑っている。
今言った、明石さんが言った、ホラー映画パーフェクトコレクション、ゾンビの世界、DVD10枚組っていうと、ものすごいボックスを思い浮かべそうですけど、
1800円の廉価版のやつなんですけど、これがね、ちょっと舐めたもんじゃないことがね、よくひしひしとわかりました。この手の廉価版を舐めちゃいけないと。とんでもない。
いやー、奥深いですよ。アーカイブ性が高すぎるっていうね。
これすごいなー。
で、そのなんていうのかな、やっぱり今回、我々はゾンビについて何もわかってなかったんじゃないかっていうぐらいの気持ちでいますが、
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もともとでも、ロメロ以前のゾンビっていうものは、今僕らがゾンビ映画といったときに思い浮かべるような作品とは全然違ったものなんだなっていうのを、すごい痛感する作品だったなと思っていて。
ちょうどね、元祖ゾンビ映画である恐怖状ホワイトゾンビに関しては、まだゾンビだっていう気持ちがあったんですけど、私とゾンビと歩いたについては、今見るとどこがゾンビ映画だったんだろうっていう戸惑いがあるんだけれども、
一回そのロメロにおけるゾンビのルールみたいなものを一回忘れて見てみると、確かにそのゾンビの恐怖って実はここにあったのかもしれないなっていう気持ちにも多少なる感じではあったんですね。
ちょっとどこから話すかな。とりあえずロメロ映画以降のゾンビとそれ以前のゾンビとっていうところでいうと、一番でかいのは人食わないんですよね、ゾンビが。
そうですね。やっぱりそのゾンビ、ナイトオブザリーミングデッドにおいて、実はロメロの作家において基本的にゾンビって呼ばれないじゃないですか。言語だとグールって呼ばれる、なんで人食い器みたいな呼ばれ方をするので、そもそも人肉食みたいなところとこのゾンビっていうものを真合体させちゃったっていうところに、
まずそもそもロメロ、ないしはそのロメロ以降のゾンビの方向性っていうのが決定付けられたんだろうなっていう感じはあって。それで言うとこの恐怖状、ホワイトゾンビと私はゾンビと歩いたに関しては共通して言えるのは両方とも配置のプランテーションが舞台になっているんですよね。
白人によって強制的に連行されてきた黒人奴隷が、サトウキビ畑でサトウの製造までの労働になっているっていう配置の島が舞台になっていて、そこの奴隷労働者というものとゾンビというものがダブついていくような動きに。
取り方になっているというところで、ちょっとこれもしかしたら僕フォトゲストで前も話したかもしれないんですけど、一回その配置とゾンビのざっくりとした歴史を一回おさらいしますね。
おさらいしますと、まずそもそも配置というのはフランスの植民地としてあって、配置のそこの原住民というのは基本的に最初に侵略されたタイミングでほぼ絶滅しちゃっているんですよ。
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フランスが入ってきて、フランスやスペインが中に入ってきて、そこでその原住民はほぼ駆逐してしまって、内集は持ち込んだ病原菌だったりみんな死んじゃっていくわけですね。
その中で基本的にそこの西洋諸国が頑張ってそこでサトウキビを作ろうとしても、西洋諸国の人たちが頑張るわけではなくて、奴隷を使ってそこで製造していこうということで、
アフリカからカリブ海まで奴隷船で黒人奴隷を連れてきて、そこで強制的に働かせていたという歴史がまずある。
ブーズ教というものがそもそもゾンビの中で、ゾンビにおいては隙にまといますけど、ブーズ教というもの自体も結構、
植民地ならではの文化というか宗教みたいなところがあって、黒人奴隷が連れてこられたハイチという場所はある意味黒人たちにとっても特に何の愉快もない場所なんですけど、
かつて自分たちが住んでいたアフリカにあった宗教というものを、自分たちのアイデンティティとしてもって保持していこうという動きと、
同時にホワイトゾンビに出てきましたけど、基本的に宣教師たちがキリスト教的な価値観を教え込んでいくわけですね。
その中で、表向きはキリスト教を信仰しなきゃいけないという必要もあって、
ブーズ教は基本的にアフリカにおける土着の宗教と、上から押し付けられるキリスト教というものが何か間合ったりしてしまった、
ハイチ独自の宗教というか植民地宗教なんですよ。
ある意味マリアとかガブリエルとかそういったキリスト教的なモチーフも一つの、
精霊の一つとして配置して祀っていきながら、自分たちの元からアフリカに由来の精霊たちも一緒に祀っているというような宗教で、
その時点で非常に植民地支配というものと色濃い何かを持っているんですけど、
自分たちが教え込んだキリスト教を表面上信仰しているはずなのに、
いつの間にかブーズという謎の儀式を取り行っている人たちというところに支配者層である白人たちが非常に不安を覚えているわけですよね。
あそこでブーズという謎の信仰が生まれていて、そこにはいろんな訳のわからない精霊たちを信仰しているらしい。
その中に彼らの言うブーズ的な語彙の中にゾンビというのがもともとあって、
これは基本的に妖怪とか何となく悪いものみたいないろんな精霊たちがいる中で、
どっちかというと悪いと思っている言葉としてゾンビというのがあって、
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これを奴隷たちはブーズの文脈で使っていたわけですね。
それで過酷なプランテーションでの労働において死んだ目をして、
基本的に死ぬまで働かされている奴隷たちのことをゾンビだと名指していたところがあって、
白人たちとしては自分たちがそういう状態にしているんですけど、
ブーズというところの悪霊みたいなものとしてゾンビというのがいるらしい。
それは死んだような意志のないような形で動いているものらしいというような不安感が醸成されました。
もう一つハイチに施行されている刑法の中に謎の条文があるんですよ。
これもホワイトゾンビに出てきましたけど、
人を過死状態にさせる、その人が生き返ってきたとしてもそれは殺人未遂とみなすし、
人を過死状態に落とし入れた上でその人がすでに土葬された場合は、
その後その人が生き返ったとしても殺人とみなすという謎の条文があって、
これが後世のアメリカ人の妄想を刺激するわけですね。
まるで死んだような、死人のような形で働かされている奴隷というものをゾンビと名指していたという文脈と、
そのハイチにおけるどうやら何か死体を一旦過死状態にした上で
生き返らせて操っているような技術者がいるんじゃないかという妄想が結託したわけです。
もともとこの過死状態という法律自体の文脈としては、
プランテーションの農場主としては戸籍がない人間の方が使いやすいんですよ。
だから戸籍管理されている人たちに関してはちゃんと賃金を払わなきゃいけないけど、
一回死んだことにして戸籍上抹消してしまえば、
その人はどこにも社会的な寄るべがなくなるから、それこそ死ぬまで使えるという便利さがあって、
戸籍から抜くためにわざと嘘をついて死んだことにして役所に届け出るというようなことが
まかり通っていたというところがあって、もともとあるような法律だったみたいなんですけど、
そういうのもあって、とにかく過酷な奴隷労働を強いられている奴隷たちというのは、
とてもじゃないけど、私たちと同じように生きている人間とは思えない。
実際それを別の黒人コミュニティからしても、そこで働いている人たちのことをゾンビと呼んでいる。
このゾンビというのは、つまりブードゥの呪術師たちによって、
何か魂を抜かれた状態で操られている操り人形なんだという妄想から、
ゾンビイコールイケル屍みたいなところのイメージが定着していきましたというような文脈があって、
そもそも配置における奴隷労働というものが、そのままゾンビというものの根幹にあるものというのは間違いなくて、
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そういう意味で今日見た2作というのは両方ともまさにゾンビという言葉が生まれて、
ゾンビというものとイケル屍というイメージが発祥の地としての配置というところを舞台に作られている映画なんだというのがまずありますよと。
そうですね。
まずここが多分基礎としてあるので、それに合わせて見ていくと、
まずこの最初に出てきた恐怖状という映画は、現代で言うとホワイトゾンビというんですけど、
これだから初めから意味がわからないんですよね。
オリジナルゾンビがただゾンビというタイトルじゃなくて、ホワイトゾンビ、要するに白人のゾンビというタイトルになっていると。
これ何が当時アメリカ人たちを怖がらせたかというと、ある意味ゾンビというのは黒人奴隷のことだったはずなんですよ。
それに白人のゾンビというものがあり得るかもしれないねというような作りに切り替わったときに、
ある意味その中は人ごとであったゾンビという表象が自分たちの生活圏に入り込んできうるものになるというところで、
本当にだからここのホワイトゾンビの作りというのは、その後のゾンビ映画のイメージにかなり直接的に繋がってきている作りなんだなというのはあるんですけど、
ホワイトゾンビによってややこしいのは、ホワイトにせよ何にせよゾンビたちを操っている術師役がベラルゴ氏という白人なんですよ。
ホワイトゾンビかつホワイトブードゥなんですよ。
なので、初めからブードゥ教の秘術というものを白人が散脱した状態で、さらにその白人がゾンビをあらゆる人種のゾンビを刺激していくという作りになっていて、
ある意味ものすごいねじれた散脱が起きている。もともと散脱された者たちの表象としてあったゾンビというものの想像力をさらにもう一度白人の側が散脱していくというところで、
かなり白人中心の映画になっていて、ある意味黒人がほとんど出てこないんですよね。
生き生きとした黒人がほとんど、最初の馬車を運転してくれる。
ゾンビですよって言ってくれる人ね。
あの人以外、羊を運ぶ人とか料理をサービスする人たちとか出てくるんですけど、ほとんどピント合わないし、みんなそもそも生機が感じられない動きを最初からしていて、
明らかに黒人というのはほぼゾンビと増列に扱われていて、佐藤工場で働いているゾンビたちというのも基本的にみんな黒人だしというところで、
明確に奴隷としてのゾンビというイメージはかなり大きく扱われているというのが前提としてありながら、
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ホワイトゾンビって何かというと、要するにあらすじとしてはかなりしょうもなくて、
配置に結婚式をあげに来た若いカップルがいるんですけど、そのカップルをうちで結婚式をあげなよって言って招待したのが配置の一人の農業主で、
この農業主はこの新婚さんの花嫁に横恋舞をしていて、どうしてもこの花嫁が欲しいということで、
現地にいる有識者であるベラル腰に、どうにかしてこの花嫁を奪い取りたいんだと相談に行ったところ、じゃあ俺が何とかしてあげましょうということで、
この花嫁を一回独撮しようと。一回独撮して、その上でブードゥのフィルスで蘇らせて、新たなものにしましょうねというところから始まって、
なので花嫁は急に横槍を入れてきたいごじさんによって勝手に殺されて、勝手に蘇らせられて、別の人の花嫁にさせられようとするという、
ある意味、典型的なクリーチャーにありがちというか、ヒロインが悪役に取られていくような、マリオにおけるピーチ姫みたいな扱いでホワイトゾンビが出来上がっていきますよという話なんですけど、
まあだから、ひどい話なんですよ。
逆に言うと、いかにロメロがバッサリそのゾンビのバックストーリー的なものを切るっていう、思い切ったところ、表装だけやるっていうことをやったかっていうのはすごいよくわかんないですけど、
だから今の話で言うと、土着の宝刀、外部から入ってきた宗教、そして奴隷制という社会構造と歴史みたいなものが、全部場合合体した交差点に現れたゾンビっていうものがあって、
そのゾンビっていうものをモチーフにしながら、ヒロインがさらわれたのを主人公男性が助けに行くみたいな構図っていうものを、いわゆるベタな構図をその配置の舞台でゾンビが交差する交差点の上でやったのがホワイトゾンビなわけで、
さっきも言った通りホワイトゾンビっていう、ゾンビっていう映画がないのにホワイトゾンビをやってて、周りの背景になっている時点で、ホワイトゾンビっていうタイトルもそうだし、周りの黒人が背景になっている時点で、白人のホワイトが抱えうる恐怖だけにフォーカスしてるんですけど、
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それを見るとやっぱり全然、普段のゾンビ映画で見る感触と違うので、やっぱりロメロがいかにそこをバッサリカットしたのかっていうのと、ゾンビが奴隷であるっていうことですよね。
全部恐怖状、ホワイトゾンビに言うと、ベラルゴ氏が士気をしていて、工場主みたいな存在として、もう全部自分の言うことを聞かせるんですね。手をギュッてやる。
すごい簡単なインなんですよ。ギュッて手を組むだけのインで、ゾンビを十字台に操るんですよね。
そのゾンビも、その配置の地元のもともとの商工みたいな人とか、そういう人をある意味ゾンビにすることで、ベラルゴ氏はトロフィー化してるんですよ。本当に嫌な奴なんですけど。
あれすごいですよね。両重で撃った鹿の博士を自慢するみたいに、こいつはこんな奴、昔はこんな奴だったみたいな話をするんですよね。
あれ自体がある意味侵略の歴史をそのまま彼らを流しつつ、俺がこいつを従えてるんだって順番に言っていることの時点で、このベラルゴ氏がそのエリアを裏でどういう風に侵略していったかっていう。
それはある意味で、白人がどう侵略していったかもそのままなんだけども、その白人がどう侵略していったかの流れの中で、女性が今度は奪われされて、それでもう結局、白人たちがそれを知らずにノーノーとやってきた。
その歴史を知らない世代の人たちが名残に巻き込まれて、奴隷を従えて次は女だってなっちゃうんですよね。
白人ホワイトゾンビって言ってるけども、いわゆる白人女性を今度は従えようみたいな欲望が男側からやってきて、それを主人公たちも言ったら白人男性なんですけども、それにノーという構図になっていて、それはゾンビ側で逆に今やれないですよね。
作られたのが1930年代とかなんで、ある意味今の感覚でいうとアウトな価値観みたいなものって、割と他の映画もくったくなくて、むしろ他の映画の方がある意味女性をトロフィー扱いするというか、物扱いするみたいなところでいうと、かなりきついものも多い時代だと思うんですけど、
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ホワイトゾンビはそういう意味で言うと、女性をある意味物にするみたいな言い方がありますけど、まさに物のようにある意味一回死体にして動かして我が物にするっていうことの虚しさみたいなものを、かなり道徳の教科書的に描いていくわけじゃないですか。
そこに一つ反省というか、女性に対するそれまでの歴史上の扱いに対する反省というのはすごい感じる映画ではあるんですけど、一面それをやるためにメインの人物たちがみんな白人であることのグロテスクさがより一層際立つというか、
女性にはそれこそ自分に微笑みかけてくれるとか、心がない限り意味がないんだみたいなことは言えるんだけれども、黒人を刺激していることに対しての反省はゼロなんですよね。
女性に対して、さっき言った農場主が彼女をゾンビ化してしまって、城にかくまうんだけども、もう目に光がないから、僕の好きだったのは目にちゃんと光のある女性なんだ。やっぱり戻してくれって言うんだけど、それを女性対女性だけじゃなくて、他の人種であり奴隷に向けないよねっていうことが一個ある。
それで面白いのが、元々の廃棄の法令自体も一回過死状態にして蘇った場合云々というような形だったりとか、花嫁に関しても元に戻してくれっていう言い方ができちゃうわけじゃないですか。
本当に死んだかどうかっていうところで言うとかなり憂いというか、まだ心臓は動いているようなことを言っていたりとか、最終的にベラル腰による呪術が切れたときに正気に戻るみたいなところで言うと、そもそもここのホワイトゾンビっていう映画の中で言われているゾンビって死体じゃねえかと。
リビングデッドって言ってるんですよ、言語でも。だから生きる屍ではあるんですけど、そこにおける屍の定義って結局何なんだみたいなところが、実はかなり曖昧。
それを考えると実は、もともとあったさっきの植民地配置の歴史におけるゾンビっていうもののイメージ、特にこのホワイトゾンビっていうものが出てきたときのゾンビのイメージって、今考えるような明確な明らかに腐ってて動く死体みたいなことじゃなくて、死んでるのか生きてるのかも割と曖昧な状態、それこそ魂の虚脱状態みたいな人間のことを指していて、
明確に死体が動いているみたいなイメージとはちょっとずれてたんじゃないのかな、みたいなところはすごい見てて感じるというか。みんな結構綺麗なんですよね、身体自体。
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そうですね。見た目としては、いわゆる血がダラダラ出てたり、身体がボロボロみたいな感じにはなっていないと、やっぱりある種白人目線なのもあるんだろうけど、やっぱりあからさまに不気味な感じは全体的に漂わせようとしている。
そういう曖昧ではありますね。
そうですね。死後硬直っぽくあるんですよね、ずっと手が同じ位置にあったりとか。
顔が生きてる、ずっとね、口が上につり上がって固まってたりとかするんで。そうそう、そういう意味ではあるんですけど。
そういう意味でいうと、いかにゾンビ映画って言ったら、僕らはゾンビ映画って言うと外から来たものに立て込まれる話を考えるんだけど、今回の例えば恐怖城ホワイトゾンビは、城に主人公たちが侵入して攻め込んできて、ゾンビが襲いかかってくるみたいな話だから、
もう全然、はなからゾンビものって思っている時に浮かべるような体型と全然違うなと。
そうなんですよね。ゾンビが中にいるんですよね。
そういう意味でもね、恐怖城はね、面白かったですね。
すごい良いおじさんがね、仙教師のおじさんがね、煙草の火をいつも持ってなくて、火を貸してくれるかいって、いつも主人公に言うんですけど。
それがね、いい感じの演出になっているんですよね。
恐怖城はものすごい古き良き映画の体型というか、それこそ綺麗な作劇で、固定カメラでの空間的なものの撮り方をしてとかも含めて、
すごいだから、昔の映画っていうのを思い浮かべる時に、割とこういうのだよねみたいな。
すごいね、いろいろ撮り方も工夫しててね。
すごい遠くにいる二人を、なんかすごい斜めのスプリットスクリーンで二画面に収めたりとか、
あとあの、ベラルーゴ氏が階段降りてくる時に、階段の飾りの枠の中にベラルーゴ氏がたまっているシーンがあって、
その後にゾンビになっているヒロインが階段を降りてくる時のフレームで入っているんですけど、
ゾンビがもうちょっとで溶けるかなってなった時の彼女が降りてきた時には、その階段のフレームじゃなくて、そのスクリーンのみで撮るとか、
細かい画面上の演出というか、その配置はすごい、やっぱりもう的確。
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すごいだから、最初にベラルーゴ氏のところに農場主が訪ねていく時とかも、
ベラルーゴ氏がいるオフィスのドアの格子の沿いに撮っていて、
ドアに近づいていくと、そこからカメラが引いていって、ドアだったんだってわかるみたいなシーンであったりとか、
割とちょっと凝ったカメラの配置をするんですよね。
映画として、ゾンビものっていう時に想像するものとは違う、割とリッチなカメラワークを感じるし、
途中、主人公が飲んだくれる酒場がめちゃめちゃ安っぽいっていうのがあるんですけど、
それ以外の城のロケーションとかは、あれはセットなのか、そういうロケを実際やってるのかちょっとわかんないですけど、
すごい映像として全体的にセット的。
ただ、なんか変な映画ですけどね。
ロウソク削るシーンがほんと最高。
あれ最高ですよね。
ベラルゴッシュが人に呪術をかける時にロウソクをナイフで削って人型を作って、それに向かって何か働きかけると、
かたどられた人間側も何かしらされちゃうみたいなんですけど、
ベラルゴッシュ、手綺麗なんですよね。
ベラルゴッシュはすごい綺麗な手で、その場にあった、庭の街灯にあったロウソクをおもむろに取り出して削り出すっていう。
削るのがめっちゃ時間かかるんですよね。
時間かかりすぎてちょっと壁にもたれながらやってるみたいな。
なんだそれ楽しいみたいなのが、60分ちょいの作品だから、結構いっぱいあるんですよね。
なんかね、事前にその日を用意しとけばよかったんじゃないかなと思うんですけど、現地調達でしかも現地でチワチワ削って作る。
そんな時間かかることある?
ロウソクめっちゃ削るの時間かかるけど、呪術の因は手を組むだけじゃないですかね。
簡単すぎるな。
あの時間配分とか今見ると、何でそっちに時間かけちゃったんだろうみたいな。
すごい面白いですよね。
面白いですね。
映画としては面白いところもいっぱいあるし、すごいストレートなエンタメのプロットをしている。
もう本当に典型的なエンタメのプロットをしている。
さらわれたヒロインを助けに行くみたいな。
でも置いてあるのが、我々がゾンビ者として想像しているのとは全く違う文脈で、もともとの文脈のゾンビ映画だから、
すごい違った感触になるってことですね。
本当にそれで言うと、さっき村田さんもおっしゃってましたけど、ロメロがやったことで一番偉大なのは、
30:00
かなり配置っていうローカルにべったりくっついているゾンビっていう表象を大胆に何一つ要素だけ抽出して、
しかもその要素もぶっちゃけゾンビ関係ないんですよね。
どっちかって言うと、グールっていうものだったり、墓から勝手に出てくるわけじゃないですか。
恐怖状においては、基本的にベラルコ氏はせっせと墓を暴いて、労働力を調達していくわけじゃないですか。
そういった外からの力みたいなのもなしに、なんか急に死体が動き出して人食い始めたっていうところにまで、
簡素化しちゃったというか、文脈を一回無くしてしまったっていうことによって、
今各国でのゾンビものっていうのがあり得る道を作ってしまったっていうのが結構大きいんだなと。
すごい。だからやっぱり文脈からバッと飛ぶのは、歴史性を排除するっていうのもそうですけど、
今回の恐怖状にしろ、私はゾンビをやられてないし、
ゾンビを操作している人と存在が必要になってくるじゃないですか。
つまり奴隷との構造、主人が必要になってくるんだけども、
その歴史性と一緒に、奴隷の主人みたいなものも一緒になしにしちゃって、
ゾンビっていうものは不条理に自然発生していく、あるいは今だとウイルスで広がっていくみたいなことにすることによって、
ある意味、ゾンビを使っている奴側の思惑とかを描かなくてよくなっちゃう。
そうするとストーリーとしてはやりやすい。いきなり不条理なことが起きたときに、
その中の人がどうするかだけをやればいいから。
ある種、敵をセッティングするときに悪役をどうセッティングするかって結構むずいじゃないですか。
どんどん難しくなっていくじゃないですか。悪っていう存在を描くにあたって。
それをいちいちゾンビモノでやるときに、このゾンビを広めたら、
ありますよ。ウイルスのゾンビモノだと、実はこういう思惑があって、
パンデミックでゾンビウイルスを広めたのじゃ、みたいな敵も出てくることはあるけども、
ただ、ロメロ以降のゾンビ映画っていうのは基本的にはそんなにがっつりとした思惑があるわけじゃなくて、
自己的にとかで広まってしまうことによって、いちいち面倒くさい悪側の倫理を描く数に済んだと。
そうすると非常に構造として使いやすい、使い勝手がいいんですよね、ゾンビってね。
だからそういう意味でもロメロがどういう感じの思惑で、あのバランスに至ったのかわからないですけど、
非常に使い勝手のいい形に、最初のナイトオブリビングレッドの時点で作り変えてしまったっていうのは、
33:00
非常に天才的というか、すごいなって思いますね。
もはやだから厳密に今回見たようなゾンビをゾンビとするのであれば、
ロメロのゾンビって何の原件も留めてないぐらいなんですけど、
それでもゾンビとなさして撮っていることによって、どこまで意識しているかわからないけれども、
非常に20世紀の支配のありようみたいなものの変遷をすごい感じるというか、
要するに初期ゾンビっていうのは帝国主義の話なんですね。
そこには帝国の領主的な大きな支配者というものと、
魂を奪われたそれに支配されている者たちという構図がはっきりとあるんですけど、
ロメロの特に2作目の放題で言うとゾンビに関して言うと、
そこにはもはやわかりやすい支配関係というか、明確な悪者としての支配者がいないんですよね。
じゃあ我々は一体何に礼儀をしているんだろうというときに、
スーパーマーケットに象徴されるような資本主義というか、消費文化みたいなものをそこに据えていくんですよね。
そこで常にベラル腰みたいに、こいつがゾンビを操っているんだって、
なさせるものがなくなっている。そこが空位になってしまっているけれども、
それでもやっぱり明確に何かしらの構造によって仕掛けられている人たち、
ゾンビにさせられてしまっている人たちというのがいるんだと。
だけれども、それが誰によってそれが起こっているのかわからないまま、
ある意味ゾンビと私たちというものの区別も曖昧なまま、
それこそ噛まれたら取って変わられてしまうぐらい、
過劣な状況の中で我々は生きているんだという時代感覚で置き換わっていくわけじゃないですか。
これだから明確に獲得領主とかお代官様みたいな悪役がいて、
そいつさえ倒せば我々はハッピーになれるんだというところから、
さらに事態が複雑になっていなくなって、目の前に支配者、悪い奴はいなくなったけれども、
今度は我々の中で食い合わなきゃいけないような地獄が現れてしまっているというところの
時代の変化とロメロによるゾンビというものの使い方の切り替えみたいなものが
すごいハマったからこその変化だったんだろうなというのは、
今話しながらそういうことかもなっていますね。
面白かったですね。
面白かったですね。
それ程度だから本当に今見ると、ある意味ゾンビものとして見ると戸惑いしかないというのは
私はゾンビと歩いたなんですけど、これなんでそんなに戸惑うかというと、
ある意味ロメロが切り捨てたゾンビが描かれているんですよね。
36:03
ロメロが切り捨てたゾンビだけで作った映画みたいな感じですよね。
ある意味そういう意味では面白くて、
私はゾンビを歩いたにおいてないものはある意味全てロメロ以降の発明であって、
最初にあったゾンビの想像力というかゾンビの不気味さというのは
私はゾンビを歩いたに多分一番保存されているんじゃないかなという感覚があって、
明確にあれは植民地支配というものの白人側からのトラウマを描いている話なわけじゃないですか。
私はゾンビを歩いたはざっくりとあらすじを言うと、
これもやっぱりハイジの島国の舞台で、
カナダから派遣されてきた看護師の主人公が、
その島の中の里キビ工場の主人たちが暮らしているでかいお屋敷に派遣されて、
中の周りに兄弟がいるんだけれども、
その兄弟の一人の奥さんが何かしら病気を患って島の中で療養している。
そのお世話をするために雇われた看護師だよというところが、
主人公としたハイジにあってくるんですけど、
割と最初の序盤は看護師のモノローグから始まって、
島にどうやら何か不気味なものがあるみたいなところで、
非常にオーソドックスなホラーとして始まっていくんですけど、
だんだん戸惑ってくるんですよ。
60分ちょっとの映画なんだけれども、
おそらく40分くらい経ったんだけどゾンビが出てこない。
僕見ながらね、ゾンビと歩けよって言ってた。
見ながら、あいつゾンビと歩くの?
全然歩かないんだけど。
そうなんですよ。
あれ?ゾンビは?っていうふうに。
ある意味寝たきりになってしまっている奥さんのことを、
お医者さんが冗談めかしてゾンビって呼んだりするシーンは、
割と冒頭にあったりするんですけど、
それ以降だから本当に、
どちらかというと仲の悪い兄弟2人と、
奥さんの看護をしているはずなんだけれども、
夫であるはずの兄貴に、
なぜか恋をしてしまって、
どんどん露骨にするよっていう看護師との、
しょうもないメロドラマが延々と見せられていくっていう。
兄弟プラス、今寝たきりになっている奥さんプラス、
主人公の看護師の四角看護という話なんですよね。
そうなんです。
だからずっとそういう、
どうでもいい話がずっと続いていくみたいなのが、
まずベースとしてあるんですけど、
看護師はすごいねじくれて、
すごい好きなんだけれども、
その人が奥さんのことを愛しているのが分かっているから、
39:00
私は奥さんのことをきちんと回復させることで、
夫への愛を示そうみたいなことを言って、
すごい頑張っていろいろと、
奥さんのことを回復させようと頑張るんですけど、
その頑張った結果、
現代医療では、当時の西洋の医療では歯が立たないと、
奥さんはどうしたら目を覚まさない。
じゃあブーデューだというところで、
森の奥に奥さんと島に行って、
ブーデューの儀式に奥さんを参列させて、
治療しようというような話になっていくんですけど、
ここで僕は何となく、
そういうことなのかというか、
この映画の怖さをすることなんだと思ったのは、
やっぱり西洋中心主義みたいなものであったりとか、
配置を支配しているのは我々白人なんだというような、
白人のエゴがどんどん配置の土着性に侵略されていくというところの
怖さを描いている映画なんだなというか、
基本的にそこでまず主人公の看護師が、
今の西洋医療よりもブーデューの儀式の方が
見込みがあるかもしれないと感じちゃうこと自体もそうだし、
その後一回ブーデューの儀式で何をしていたかというと、
実は工場一家の母親が委員を経営しているんですけど、
全然西洋の医療だと現地の人たちに
言うことを聞いてくれないからというので、
呪術師のふりをして、
いろいろと治療の農家が教えているんですけど、
それを結局西洋医療よりは無理だといって去った先の
ブーデューの儀式を、
結局そこで魔術師として取りしきっているのも
同じ西洋の医学者だったというところで、
ある意味ブーデューだったり、
配置の文化みたいなもの、
結局は白人がコントロールしているものじゃみたいなところで、
一回どんでん返しというか、
結局全て西洋の世界観でしたみたいなところで見せられるんですけど、
クライマックスに至るにつれて、
またそれが覆われていくんですよね。
実は自分たちの西洋の論理というものを
現地の人たちにインストールするための方便として
呪術というものをやってますよということを
言っていた委員のオーナーである母親というのが、
実は寝たきりの奥さんというものを
一つのゾンビとゾンビ化させるための
呪術というものを実行した主犯でもあるというところで、
気づいたら方便として利用していたはずのブーデューという呪術に
一番取り込まれていましたよという話なんですよ。
そもそも奥さんと巡っている兄弟たちというのも、
根っこにはブーデュー的なものに対して
42:00
迷信だと一回切り捨ててはいるんですけど、
奥さんの弟くんの方はすごい、
内心本当にそういう呪術的なものがあるかもしれない。
もしかしたら我々西洋側ではなくて、
彼ら、ハイチ人の方が真実を語っているのかもしれないというところに
すごい不安感を覚えるわけですよね。
なぜなら西洋人というのは基本的にしょうもない色濃い方で
ずっと四角環境を作ることくらいしかできないみたいなところでいくと、
その幸せな新しい家族を作ったりというところは
基本的に西洋人である黒人たちの世界にしかないわけです。
新しい生命の誕生、新しい世代への継承みたいなものは
基本的に黒人の側で、ハイチの中で脈々と結がれているけれども、
基本的に我々白人世界というものは、
結局一番権威的だった父親が死んでしまった中で、
母親はいつの間にかブーデュー的なものに染められてしまっているし、
兄貴と奥さんはずっとむらはら系の不健全な関係性があるし、
それを再生産するように本当は看護婦と兄貴がちょっかいかけていくし、
どんどん正しかったはずの西洋的理性みたいなものが機能しなくなっていく。
ハイチの論理みたいなものが最終的に勝利を収めるという話だったと思っていて、
これは本当に正しくハイチのカルチャーとしてのゾンビ者としては
めちゃくちゃ真っ当なことをやっていたんじゃないのかなというのは、
この録音を始めながら一生懸命考えていた。
私はゾンビと歩いたにおけるゾンビのあり方だったのかなというのが思っているんですよね。
マジでね、ゾンビ者と思って構えて、私はゾンビと歩いたなと思って見ると、
え?何この話?ずっと血は原化してる?みたいな話なんですけど。
いやでも確かにね、そうなんですよね。
すごい西洋医学みたいなものと、最初だからネタ菌の奥さんは脊髄か何かの病気で動けなくなっているんですよね。
一方で呪術側が取り込んでくる。そこが合間になってくるんですよね。
だんだん合間になってくる。
お母さん側が最初仕切っていたので、
お母さん側がじゃあもう全部黒幕なんだけど、
そのお母さん側もどんどんあやふやになっていって、みんながどんどんあやふやになっていっちゃう中で、
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ずっと主人公家族というか、佐藤公上一家が暮らしている家の庭には、すごいきれいな庭なんですけど、
黒人奴隷を連れてきた時の奴隷船の船首が置いてあるんですよ。
そこに弓矢がブスブス刺さったままで置いてあって、
だから彼らはすごい西洋的な価値観で暮らしているのだけれども、
常に庭には過去の黒人奴隷を連れてきてからの歴史の符石が置いてあって、
最終的にそこに突き刺さっていた弓矢がどういう使われ方をするかみたいな話を考えると、
どんどんどんどん、今の西洋的な我々の考え、先進的な暮らしみたいなものと、
土地の暮らしみたいなものがどんどんぐちゃばずになっていってしまって、
最終的にあっきに取られて終わるみたいな。そうなんですよ。
だから本当にね、私はゾンビと歩いたを、この雑談オブザデッドの最後に持ってきてしまったっていうところにですね、
一周回って何もわからなくなっちゃったっていう。
そうそう。柿内さんがめちゃめちゃ今喋ってるのと、僕があんまりまとまってないのは両方とも同じ理由で。
柿内さんがバーって今喋ってるのと、今コメントがまとまってないのは両方とも食らってるからなんですけど。
そうかーっていう。
いや本当に、でもこれなんか本当にすごいなというか、マジでロメロメイセンのゾンビって、
同じゾンビっていう言葉を使っているけれども、
ロメロより前のゾンビ映画をもう僕らはゾンビ者として見れないんだなっていうことを感じましたね。
また一方で、今じゃあこのロメロイセンの文脈のゾンビ映画を今新たに作ろうとすると、
めちゃめちゃセンシティブな要素が多すぎる。やっぱり奴隷問題とかも。
この当時の水準と比べると、ポリティカルコレクトネス的なところであるとか、いろんな水準でかなり語り方が難しくなってる。
ただ結構これはこれで、ちゃんとそれがあったよねっていう、こういう歴史があったよねっていうことを刻印はしていて、
私はゾンビと歩いたら、その屋敷まで連れて行ってくれる黒人の人が、
あの家はこうこうこうで、こういう歴史があってね、こういうふうに戦首に庭にかかってるんだ。
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その戦首には俺たちの祖先が船底に奴隷として乗せられてたんだけどね。
それは半分冗談で言ってるんですか?マジなんですか?みたいなすごいことをいきなりかましてくるんですよ。
だからちゃんとある意味で、そういうハイジという場所における、もしくは各地において、逆に言うとアフリカに対してでもいいですけど、
そういうところで白人がやってきたことについて、ものすごく自覚的なところから物語も作っているし、
それが実はすごく挑戦的なのか、すごい尖ったことをやっている。
そうですね、そうなんです。だから結構これちゃんともうちょっと背景を勉強してから見ればよかったなと思ったんですけど、
私はゾンビと歩いたって1943年の映画なので、それこそ60年代までかかっての公民権運動的なものの文脈とかっていうのからは、むしろまだないわけじゃないですか。
そこの中での黒人の描き方というものが恐怖状においてはほとんど出てこない。背景としてしか扱われない黒人というものが、
私はゾンビと歩いたにおいては、主人公が配置に到着した瞬間にすごい画期のある港町を映すじゃないですか。
そこで主体者になっているのは黒人たちなんですよね。黒人たちが身を広げて、そこで果物だったりの交易がやり取りされていたりとか、
それこそ馬車の人もただ単に白人たちの移動手段としているわけではなくて、今リョドさんが言ったように、ここはこんなひどい歴史があるんだよみたいなことを語っていったりとかっていうところで、
話全体を通じてもちろん白人しか主役級のところには誰もいないんですけど、実はものすごい黒人側に寄った描き方をしている。
最終的に黒人的なと言うと微妙に問題があるんですけど、配置のブードゥ的な世界観に全て覆われていくっていうような映画だというところも含めて、
非常にホワイトゾンビがその名の通りホワイトすぎるような世界観の中で、すごいこの私はゾンビと歩いたにおける黒人の存在感の在り方が拡大にでかくなっている。
それで言うと、私はゾンビと歩いた途中で、あの家族の小田舎について茶化す歌を歌う。
あれ最高でしたね。
いると知らなかったので、もう言ってよみたいな。弟さんがいるって知ってたら、俺この歌歌わなかったよ。ちょっとエモってくるよって。
調子乗って、あの一家はこうこうで、弟と兄貴が船かでみたいなのを歌ってた奴が街中とかにいるわけです。
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その時点で目線としては結構黒人よりというか、黒人に対しての白人いったみたいな意識になっているし、
ある種もう外からの視線としては、やっぱり黒人たちから見た白人という目線。
恐怖状だと逆にやっぱり白人側の人たち、そのやってきた新婚風であるとか、
あの白人側の目線から動いているんだけども、あの私はゾンビを歩いたの世界は黒人が白人を見ている世界観で物語を作っていて、
その中でごちゃごちゃ四角関係をやっているみたいな。
そういうふうな意味では、あのお屋敷が庭にしろ建物にしろ、かっちり描かれているのは逆に言うと、
あのスペースぐらいしかあの世界では白人の国がないんですよね。
だからそういう意味でも、かなりその恐怖状と、ホワイトゾンビと私はゾンビを歩いたって結構年数としては10年ぐらいしか空いてないんだけども、
その間でその配置のゾンビ物というのを舞台にして描いた時に、だいぶその描き込み方に関してはちょっと進んでいる。
ただその進み方は僕らが知っているゾンビと全く違うから、
え?何これ?っていうふうになるっていうことなんですよね。
今話しながら思いつきましたけど、私はゾンビと歩いたはゾンビが外部にいるんですよね。
唯一自分たちの工場主一家が住んでいる家だけが安心できる場所で、そこに多分ゾンビってある男が最後の方へ侵入してくるじゃないですか。
それも含めて何か過労して残っているシェルターみたいなところに立てこもりながら、そこがじわじわと侵食されていくっていうと、
無理矢理臭いですけど、ゾンビ映画として見ることは確かにできるなという感じはあって、
私はゾンビと歩いたにおけるお屋敷の作りがすごい面白いなと思って、めっちゃ開放的なんですよ。
食事する場所もほとんど半分外に開けているし、寝室もすごいこう…
光がめちゃくちゃ取り込まれて、外から丸見えみたいな寝室が作れる。
それも含めて、外の自分たちを取り巻く黒人コミュニティから学ばれている白人一家っていう構図自体が、
非常にあの建物自体から表されている感じがあって、常に黒人の視点や黒人の価値観に晒されて暮らしている白人たちっていう、
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孤立無限感というか、一歩でもこのショッピングモールから出てしまったらそのままゾンビになってしまうみたいな恐怖感と、
もしかしたら通天するものがあるのかという。
それで言うと、ディテールで言うと、佐藤工場で働いている奴隷たちが段下の作業をする合図で、自分たちの民族の歌を歌う。
そうですね。
だからその歌っている声が定期的にその家の中にいても聞こえてくるみたいな描写が結構何回かあって、
しかもそれが毎回めちゃめちゃ目立ってじゃなくて、1回目は歌っているんだよ、くらいの感じなんですけど、
2回目以降はちょっとサブリミナル的に、ちょっとうっすら遠くから聞こえてくるみたいな感じで定期的に入ってきていて、
その雰囲気もあって、常に周りに白人家族の家が包まれている感じのものがすごい描かれている。
そうですね。
本当にやっぱり白人と黒人みたいな要素っていうものが、ゾンビにおいてはかなり外せないものとしてあるんだなというのをすごい感じて、
だからこそやっぱりこのナイト・オブ・ザ・リビング・デッドにおいて、ゾンビに抗って立てこもる主人公が黒人であるということの意味が、
画然高まる感じがありますね。
たぶんこのゾンビの世界、DVD10枚組には10本、それこそその10本の中にナイト・オブ・ザ・リビング・デッドは入っているんですけど、
たぶん黒人主人公なのがこのナイト・オブ・ザ・リビング・デッドだけじゃないですか。
他のゾンビはすごいんですよ。
ブロードウェイのゾンビっていうのがあるんですけど、
これのあらすじを読むと、ニューヨークのナイト・クラブのオープンに間に合わせるために、本物のゾンビを捕まえにサン・セバスチャン島に向かったマイルズとソレーガという始まりで。
キングコングなんですよね。
キングコングでもあるし、ちょっと雰囲気として今パッと思ったのは、落語で一丸黒って話があって、
見せ物をやっている工業士が噂を聞いて、一つ目のやつがいるところがある。
一つ目の子供を見つけたところに行ってみて、それを捕まえて見せ物にしようと思ったら、周りも全部一つ目で、
結局一つ目の国のオシラスに連れてかれて、こいつは二つ目で珍しいから見せ物に出そうと言って終わる話があったんですけど、
その雰囲気もキングコングもそうだし、
ゾンビが珍しい、生きる屍が珍しいと思って見に行ったら、生きる屍の国だったみたいな。
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そういう話かもしれないですね。
この原価満1800円ゾンビの世界が、実はいかに意義のある仕事かってことですよ。
本当にコスミック出版社には感謝しかない。
ホラー映画パーフェクトコレクションゾンビの世界リビングデッドDVD10枚組みに1800円がある。
いかに実はこの映画、特にゾンビ映画を見る上で意義の高い仕事か。
いや本当ですよ。
これを1800円でまとめるっていう。
本当にだから、ゾンビっていうのは走っちゃダメなんだとか、本来的なゾンビってのはノサノサ歩いてるもんなんだみたいなところで、
ゾンビの原理主義みたいなのも語っちゃいけないですね。
本当にゾンビについて原理主義で語るんだったら、お前ホワイトゾンビ見たか。
何なら私はゾンビと歩いたら見たかっていうところから始めて、
配置だぞっていう。配置のローカリティを理解しないでゾンビは語れないんだっていう風なところまで面倒くさいオタクになろうというか、なれるっていうことがちょっとよくわかる。
ここまで僕らが5回かけて、今回6回目かけて、喋ってきたことがいかに浅かったかっていう。
いや本当に申し訳ないですね。
いかに浅かった。
そういう意味でも、ある意味ロメロがこうした過去の作品群を踏まえた上で、しかし使い勝手の良い形に作り変えたことによって、
その使い勝手の良い形を加強して、おのおのクリエイターがフェイラーゾンビも作れれば、リトルモンターズも作れる。
キュアードも作れれば、ゾンビズも作れる。
しかも、じゃあその源流ってなんだろうって探っていくと、配置の歴史が現れるっていう。
これはゾンビっていうのはね、本当に面白いなと思います。
ある意味、本来的に植民地政策であったりとか、帝国主義に対する反省みたいなものがどうしたってベッタリくっついてくるゾンビっていうものから、
帝国主義的なものを全くなくしてしまったロメロ以降のゾンビが、それでもなぜか社会批評的な面を脈々と受け継いでいるっていうのが結構妙な話で。
どんな馬鹿らしいゾンビ映画を見ても、どこかしらで今のこの社会構造の疑問であったりとか、感じ取ってしまうみたいなところがゾンビ物にあると思っていて、
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オリジナルまで遡っていくことで、表面上全く同じものとしては考えられないくらい違ったものなんだけれども、
何かが受け継がれちゃってる気もするっていうところが面白くて仕方がないですね。
一回、廃地の歴史とともに死んでしまった前ゾンビが、ロメロという呪術師によって復活させられた結果、前の歴史は残ってないんだけども、結局何か同じことをしている、そういう雰囲気ですね。
知らないでも、その廃地性みたいなものを知らず知らず受け継いでしまっていたりとか、見ている側が感受してしまっているのかもしれないっていう気持ちにさせられる。
ゾンビがそもそも持っていたその構図というか社会構造の中で生まれたものであるっていうことの名残が、その社会背景が抜きにされても構造としては残っているから、
その構造を今の社会に当てはめながら作っていくことによって、実はうっすらとその廃地とか黒人奴隷の歴史みたいなものから延々と受け継がれていることがうっすらあるんです。
そうですね。いや、だからこれ面白いな。やっぱりそれこそ浅瀬でチャプチャプして何が悪いんだっていうところもあるんですよ。
楽しいゾンビ映画について楽しく話していくだけでも十分楽しいじゃないかっていうのはあるし、お勉強的に見ても面白くはないんですけど、
なんかね、とはいえやっぱりそもそも何なのみたいなところまでちょっとだけ、ある意味で1800円ですから、1800円払えばいけるぐらいの世界でもちょっと突っ込んでみるとこんなに分かってたつもりのものが何も分からなくなるっていうのはちょっとこれはね、いいですね。
だからお勉強っていう感じでもないですよね。だって映画見てるんだもん。だって僕今日、私がゾンビと歩いたのを見ながら、お前らいつまで血は原化してるんだよとか、いつゾンビと歩くんだよとか言いながら見てたわけで、
でもそう言ってもなんかすげー今まで考えてたゾンビと全く違うものがお出しされていて、でもそのゾンビの文脈とかを踏まえるとすげーこれはこの作品としてすごいちゃんとある意味では完成度が高いものであるってことがわかるっていうのは、お勉強じゃないけどすごいちゃんと深いことをやってる感じがある。
しかもやっぱりこの、普通に面白かったんですよね、私はゾンビと歩いたを。ゾンビものとして見ると戸惑うんだけれども、映画として見ると、てか何だろうな、その作劇の手法としてこの10年間でこんなに洗練されるのっていうか、映画史に、僕もあんまり詳しくないのであれですけど、1930年代から40年代に渡っての演出法の洗練のされっぷりというか、
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バックで主人公のモノローグを流しながら、絵で状況を説明していくみたいな撮り方も含めて、すごいなんていうのかな、恐怖状はまだちょっと演劇的というか、全体的にちょっとお芝居っぽさが強いんですけど、私とゾンビと歩いたとなった瞬間に、普段見てる映画だっていう。
確かにそうですね、そのナレーションに被って屋敷を見せるカットは、普通の今の映画でも全然ありますよね。
あとやっぱり私はゾンビに歩いたにおいての、工場主一家の屋敷の間取りってある程度頭に入ってくるじゃないですか。なんかここでこういう動線になったなってわかるんですけど、恐怖状のお城の描写って割とよくわかんないんですよ。
今城のどの辺を歩いてて、崖の下から城の中に入ってたはずなのに、なんで水が流れている謎の石切り場みたいな場所の階段を下っていくと、お城の上に着くんだみたいな。
その空間、ショットと空間の繋げ方の不整合みたいなのがちょっと変わったりするんですけど。
私はゾンビと歩いたは、ちゃんと家の居取り部とか間取りがちゃんとカッチリしてるから、このロケーションで撮ってますって感じなんですけど、
恐怖状の城は、とりあえずロケーション作って、ヘッド作って、その作ってるヘッドで何とか回してる感じが若干あるんですよ。
ちゃんと限られた画角で撮ったとしても、そのフレームの外側にある空間っていうのをちゃんと計算に入れてるかどうかみたいなところで、格段に方法論が洗練されてる感じがすごい感じた。
あと、ストーリーで言うと恐怖状の爆笑シーンであるところが、結婚式のバージンロードを歩いてる時にくどくっていう。
さっき言った農場主が新郎新婦の結婚式で花嫁をバージンロードで一緒に歩くと父親があり、
でもこの農場主は彼女のことが好きだからずっとバージンロードを歩きながら、俺の方が幸せにできるよみたいなことを言ってるみたいな。
お前そんなところでくどくなよみたいな、すごいコメディみたいなクラブなんですけど。
それとかも、私はゾンビと歩いただと、ストーリーの作劇場的なところではそんなに変な違和感はないんですよね。
呪術のシーンで人形についてる紐がめっちゃ見えてるぐらいですね。
あれすごい、こんなに見えてていいんだって。
人形が動くって描写するときにめっちゃ白い紐が見えてる。
あれは何なんだろう、あれは見えてていい紐なのかな。
今僕らはすでにいろんな撮り方を知ってるから、ワイヤーで動かすとか、紐で動かして後でCGで消してるとかっていうのを知ってますけど、
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当時そこまでなかったのかもしれない。
意識的じゃなかった。
あとそれこそ演劇とかの演出論と一緒で、見えてていいものというか、見えてるけども見てる人からするとそれはないものとしましょうという約束が、
今より確立されてたのかもしれないなっていう気はしますけど。
それこそ恐怖状においてもハゲタカとかすごい上から映ってるんですよ。
面白かったですね。
第6回演出でチャブダイをびっくり返されて。
びっくりしますね、本当に。
だからそうなんですよ。
ぜひこのゾンビの世界DVD10枚組は買いです。
一家にワンセット。
ガスダーオブザベット全6回を投資で聞ける方にとってはもう、
金脈ですよ。
本当に。
水前の品だと思いますので。
さすがホラー映画パーフェクトコレクション。
パーフェクトですよ。
素晴らしい。
まだ僕も全然この2作以外見れてないので、
他の作品を見ていくとさらにまたチャブダイをひっくり返される可能性が大いにあります。
全然言ってた話と違ったんだけどみたいな。
ありますよ。
やばいですよね。
ブロードウェイのゾンビは面白そうですね。
面白そう。
普通にコメディっぽい感じもある。
それこそゾンビの反乱に関しては、
第一次世界大戦中に連合軍がカンボニアさんのゾンビを投入して戦わせていて、
連合軍がこのゾンビをどうやって作ればいいのかを知るために、
僧侶から聞き出そうと奮闘するみたいな。
兵器開発戦線みたいな話と、
ゾンビというものと徴兵みたいなものが混ぜ一体となって語られている。
ゾンビの反乱というタイトルが、
もしかしたらこれは従軍させられている兵士にゾンビを重ねていくという話でいくと、
確かにここですでに植民地が微妙に変わってきますよね。
牢域ではなくて兵役の方で話を持っていくみたいなところで言うと、
ちょっとこれも面白いんじゃないかな。
侮れない。
侮れないんですよね。
これの中で一番新しいのが、
このナイト・オブ・ザ・リビング・デッド、これが68年の作ですけど、
その前の作品がどれかというと、
さっきの私はゾンビが歩いたが43年でしたけど、
その翌年の44年にブードゥーマンというのが撮られていて、
これが収録されているのから一気に20年飛んでナイト・オブ・ザ・リビング・デッドなんです。
もしかしたらゾンビモノブームとして、
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1930年代から40年代で一旦下火になっちゃって、
20年の沈黙を経てロメロにという流れだった感じはありますね。
墓を掘り起こしてきた感じは。
ロメロがゾンビというものに着想を得た時に、
どれくらいこの文脈を抑えていたのか、
そもそもそこがざっくりだったのか、
どんな感じなのか。
もともとこの1930年代当時の、
週刊誌というかパルプフィクションみたいな形で、
俗悪な低俗ホラー小説みたいなものの舞台として配置というのはあるあるで、
そこでゾンビモノが擦られ続けていて、
それが映像化されていったという文脈があるみたいなんですよ。
それで考え合わせていくと、ロメロってクリープショーでオムニバスの映画を撮ってますけど、
あれもそういう低俗なホラー小説雑誌への愛情をスティーブキングと共に歌い上げる映画なので、
たぶんロメロとしてはゾンビ映画というものよりも、
もしかしたらそういう二足三門で売られているようなホラー小説だったりとか、
オカルトマガジンみたいなものから得ている想像力の方が多かった可能性はちょっと高そうだなという気がします。
うーん、なるほど。
いやー、しかし面白かったですね。
源流にこんなものがいたなんて。
いたなんて、というところですね。そんなところですね。
なのでゾンビの起源に関してはこの辺りなんですが、どうしましょうね。
最終回だから、振り返りも別にいいっすかね。
源流まで遡れば面白いよっていう。
ちょっと振り返った感もありますしね。
そうですね、確かに。
だから一個ロメロやっぱすごいなっていうのが確認されたのと、
今のゾンビ映画もいろいろと面白いものがね、
ポッドキャストの中だと、一番直近だとリトルモンスターズみたいなのがある。
でもリトルモンスターズの源流を遡っていくと、私はゾンビと歩いたとかが出てくるっていうのはすごく、うーん。
確かにお互いケアの話ですよ。
そうですよ。
ケアしようとするんだけど、そのケアには私はゾンビと歩いたは愛憎が。
ケアと愛憎の話なんですけど。
その源流には私はゾンビと歩いたみたいなとんでもない作品があるっていうのは、
ものすごいジャンルとして、ゾンビっていうとみんなゾンビあるあるとかをね、
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いろいろね、想像したりとかするけど、やっぱりマグチとして広いし、描ける射程がめちゃめちゃ広いし、
そもそも生まれてきた発生過程からしてはものすごく社会的なものであると。
歴史的な文脈ががっちりあるものだということを考えると、
怖い、グロインとかが苦手な人とかは別にしても、
ゾンビだからって舐められるとちょっともったいないなっていう感じがあるかなっていう気がしますね。
ちゃんと面白い作品なりに、ポテンシャルがちゃんとある作品っていうのがめちゃくちゃたくさんあるから。
そういう意味でも、これから出てくるゾンビ映画の面白そうなのがあれば見た方がいいと思うし、
こういう古いやつをね、掘るのも楽しいんじゃないかなって。
ホワイトゾンビから数えていけば、ゾンビ映画の歴史って90年くらいあるわけですし、
ロメロ映画から数えても50年あるわけですから、
非常にね、全然ホットでの文化ではないっていうところで言うと、
いくらでも掘り替えがあるわけですね。
そういう意味でも、いろいろとこのポットキャスト、好きな人が基本的には聞いてると思うんですけど、
だからめちゃめちゃ僕らよりもっと詳しい人は、もう何って言いますか。
今さらなんだよっていう。
今さらなんか最終回でチャブ台ひっくり返されたとか言ってるけど、
いつ言うかなと思ってたよみたいな人たくさんいると思うんですけど、
ぜひね、皆さんゾンビ映画をね、見ましょう。
あとやっぱりせっかくヨタさんとロックアイドルをやってきた中で、
言いたいことがあるとすると、
割と無知でも映画を語れるぞっていうのは、
それってこれくらい知識がないとか、これについては知ってないとか、
語る資格はないとかってあんまりなくて、
それこそ僕ら今見た直後に語ってるので、
この70年も前のゾンビ映画を今見て戸惑いながら一生懸命喋ってるんですけど、
なんかそれで別にいいんですよね。
ここからもっと知りたくなったらもっと勉強していくだろうし、
そうじゃなくても今の自分で受け取れるものっていうのは必ずあるはずなんで、
とりあえず見てみるとか、とりあえずやってみるっていうのは、
結構楽しいぞっていうのは、結構この6回通して、
浅瀬でチャプチャプだとしても、
映画について語るのが楽しいぞっていう気持ち。
それでこそゾンビ映画っていうのは、
ある種今まで語ったラインとまた違う文脈で話すと、
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低予算インディーズの人たちがやりやすいという意味で取り掛かりやすいというジャンルとしても、
ゾンビ映画っていうものがある程度の流星を得た一つの要素っていうのは、
やっぱり人がゆっくり歩いていればゾンビ映画になるっていう、
ある意味インディーズ魂とかB級魂であったり、
そんな高尚なものであったりとか、すごいスキルとか予算とか、
そういうめちゃめちゃコード決まってどうこうみたいな感じじゃなくても、
あれで一発でコリンみたいな映画を撮れるよねみたいな、
そういうことを考えると、そういうジャンルでもあるし、
そういう意味でも、ある種の生ハンカサを楽しみながら見るのを見ていました。
ルートをおしゃべりするのは楽しいと思います。
というわけでね、一旦雑談をされるとこれで終わりますが、
ちょっとね、韓国ゾンビについて語りたいと思います。
そう、ネットフリックスで始まりましたね。
本当にあれこそ、どう位置づけたらいいんだろうゾンビとしてというところもありますが、
そういうものについてどこかで話すことが。
だってもう、このホラー映画パーフェクトコレクションだけで、
まだあと8本あります。
ナイトオブザ・リビングネットを抜いたいとしても7本ありますからね。
もう1は1本撮れば。
いくらでもやれます。
いやー、面白いな。
俺でもなんかあれですね、上映会とかしたいですね。
いやー、だからなんか、イベントですか?
イベントかしたいですね。
勝手にホラー映画パーフェクトコレクションから、もう著作権ないからね。
そうなんですよ、これ著作権フリーのはずだから。
著作権消えてるから、確認しないといけないかもしれないけど、
著作権フリーになっているゾンビ映画を見て、
その場でみんなで戸惑うっていうのをやりたいですよね。
そういった形で、形を変えつつやっていくかもしれないという、
無責任な見合わせをしつつ、
ダンスマンオブザベーとしては一度完結とさせていただければと思います。
サバイバルオブザベッドというところの、
向かい合って銃をカチャカチャやる、
あのラフトを思い浮かべていただければ。
ここで今、我々は弾の入っていない銃をカチカチしてますんで。
そういうところでですね、長らくお付き合いありがとうございました。
いやー、そういうわけでコミュニティクラジオ、いや、
雑談オブザベッド、ご相手は私、関根翔太と
龍太でした。
どうもありがとうございました。
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