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はい、こんにちは、ポイエティークラジオです。お相手は、私、柿内正午と、本日は特別ゲストで、この方です。
Ryotaです。お邪魔してます。よろしくお願いします。よろしくお願いします。
いやー、Ryotaさん。 毎回、僕、ゲストの説明をかなり雑に済ませちゃうんですけど、
Ryotaさんの場合は、何でしょうね。 うちのレギュラーゲストの奥さんからすると、カニピエロさんという名前で認知をされてはいますが、
それだけだと特に、まあでも、なんていうんですかね、ツイッター上でのお友達というような。 フォロワー、フォロワーです。
相互フォローのお友達という感じですかね。 相互フォローの人ですね。なんで、ほとんどこう。
そうですね。僕もRyotaさん、なんとなくそのツイッターで、多分初めに僕が文振りで、ジンバンのプルースというような生活を作った時に、割と早い段階で見つけてくださって、コメントを
くださっていて、それで嬉しいなと思って、僕の方でもフォローして、そこからちょこちょことやりとりがあって、
クローズドの場でトラさんの話を一緒にしたりとか、あと文振りの場でこう会うと、お勧めを教えてもらったりとかっていうところではあるんですけど、
正直ツイッターの人でしかなくて、あんまりどういう人かわかってないっていう。 リアルでは文振りでしか会ってないですよね。
そうなんですよ。そうなんですよ。文振りでこう、あと思うみたいな。 文振りで、文振りのブースにいるときしか会ってないですもんね。そうなんですよね。
そうなんですよ。だからもうなかなか、でもご自分でなんかウェブの、ウェブというかノートでメディアをやられてるんですかね。
あとは、クーチェッキっていう名前のノートも本当に完全に単純にノートをウェブマガジン代わりにして、あれは基本的に知り合いに寄稿してもらうか、知り合いにインタビューをして自分で文字起こしして記事を作るっていう、自分発の記事は作らない、載せない場所を。
あ、なるほどなるほど。はい、そこはやってます。ただあんまり、あの、こっちからお願いすることがほぼなくて。 あ、そうなんですね。
あそこに書きたいっていう人に、じゃあどうぞって言って、僕はあの、構成して赤字を戻して、これいいですかって言って載せる。
あ、そういうメディアなんですね。基本的に寄稿がないと更新されないメディアです。 なるほど。クーチェッキってなんかそのなんだろう、こう、その
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何かこう括りとかあるんですか、なんか東京のなんだっけ、 東京のつらい場所か、東京のつらい場所、はい、あれはえーと、うんうん。
山本ポテトさんのエッセイとかが載っていると思うんですけど、編集のこう、軸というか、こんな風な場所だよ、みたいなのってあるんですか。
えーと、基本的には僕が読んで面白かったものを載せるっていう感じで、 なるほど。なので、えーと、
山本さんは僕大学の先輩なので、はいはいはい。 で、山本さん個人でノートを書いていたエッセイとかも読んでて、
大学の先輩の頃にこんなに文才があるって知らなかった。 なるほどなるほど。
エッセイがめちゃめちゃよくて、山本さんもクーチェッキにちょっと何か書きたいっていう風に言っていただいたんで、エッセイを更新してて。
で、東京のつらい場所はクーチェッキよりも前に、実は東京のつらい場所単体だけで、あれはてなブログかな、どっかの、はいはいはい。
ブログサイトに東京のつらい場所だけ単体であげてたんです。 あーなるほどなるほど、全身が。
で、あれは友達のモリタっていう友達の過去の恋愛でつらい思い出をした場所に、その場所を実際に巡っていって、
僕はICレコーダー片手に喋ってるのを録音して、インタビューして、最終的につらい思い出の中でも一番手ひどい振られ方をした、彼が当時住んでいた飯田橋に、
モリタは実際その飯田橋って結構乗り換えがあるじゃん。 乗り出てる駅がいっぱいあって、路線がいっぱいあるんですけど、
あそこに近づくと泣いちゃうから、つらくて思い出がよみがえって、で、それをなんとか克服しよう、みたいなノリで最初はじめたんです。
なるほど、そういう、ある意味セラピーみたいなところがちょっとあるような。
ある人からはセラピーとして最悪っていう評価もいただいたんだけど。
僕1,2回くらい読んでつらくて1回やめちゃいました。 また読もう。
それで最初はなんか彼氏との思い出がある新宿の都庁から始めて、たぶん1年がかりで東京タワーに登ってみたり、僕東京タワー初めてそれで登りました。
すごいすごい初めてだな。
友達の失恋の記憶を聞くっていう企画で、1年間東京タワー、スカイツリーもそれで初めて登りましたね。
で、あとは有楽町とかよく行ってた、2人でよく行った無印良品とかに行ったり、
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あと、彼氏に別れ話を切り出された渋谷のポムの木でオムライス食べるのもやったんですけど、
そうやって最終的に有楽町まで行って、僕が雨に濡れた階段に滑って転んで尻を打ち、
それで森田がメンタル的に追い込まれてたのが笑うっていうので、すごい綺麗な落ちがついて。
で、最後2人で何か知らないですけど居酒屋で2人で泣いて、これからの恋愛を応援する。
僕がすごい今まで話を聞いてきて感じたことを酔っ払いながらトロするみたいな。
めちゃくちゃ面白そう。ちょっとちゃんと読もう。
そういう謎な展開が、個人的にはちょっと個人に踏み込みすぎた感じが若干あったんで、
聞き書きとしてちょっとまずったなっていう箇所も明確にあったりはするんで、
正直なんて言うんでしょう。手放しでじゃあめちゃめちゃ読んでくださいみたいな企画ということでもないんですけど、
ただある年の青春ではあったので。
なるほど。
空的には残している。
で、他にもちょっと気になる僕のフォロワーさんで香水を200種類家に集めている。
かきなりさんと一緒にクローズドの場所で話したあやのさんがめちゃめちゃ香水好きなので、
その香水マニアな面をインタビューしたりとか、
アメリカに住んでいる化粧オタクの人にアメリカの化粧事情について聞いたりとか、
っていう僕が聞きたいことをインタビューしたりとか、
僕が面白いなと思った送られてきた文章を、僕は赤字を入れてこれで載せますっていうので、
載せている場所っていう感じです。
たぶんここが一番、よーたさんのどんな人なのかというか、
どんなことしてるのかなみたいなのを空的で調べてみてもらうのが一番分かりよいのかなってちょっと思ったりもしますが、
ここって何だろう、公募とかもしてるんですか?
なんか僕が書いてこれ載せられるかどうか審査してくださいみたいな。
もうよっぽどのことがない限りは載ると思います。
ハードルはこれは明確に誰かに傷がつくとか炎上しそうみたいなこととかは一応避けたり、
さすがにもうちょっと原稿整理しないと読めないんじゃないかみたいなものに関しては若干ちょっと再検討したりしますけど、
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基本的にはもらったら極力早めに見て赤字を入れて、なる早で返して、最短原稿をもらったその日に載ります。
おーすごい、ちょっと是非このポエティックラジオを聞いている方の中でどっかに文章を書きたいんだけどなみたいなことを思っている方がもしいらっしゃる。
でも面白いのがウェブメディアって言い張るとウェブメディアになるんですよ。
いやそれすごい大事ですよね。だってこれだってポエティックラジオだってポッドキャストというか番組だと言い張ってるから番組ですけど、
他人の雑談の盗み劇でしかないですからね、やってることは。
だから僕もあれ言ったらノートのシステムをそのまま使ってるだけでわざわざそれにサイトを立ち上げてるわけじゃないんですけど、
山本ポテトさんってライターとしていろいろ岩波新書のB面とかで在野学研究者、在野研究者の方にインタビューとかの企画とかもやってらっしゃるんで、
山本ポテトさんのエッセイを空チェキで発信しました、更新しましたっていうと岩波が反応してくれるんですよ。
おー面白い、なるほど。
山本ポテトさんのエッセイここがこう面白かったって言って、なんかすごいよく見てるアカウントの方とかも反応してくれたりとかするわけです。
だからあのウェブメディアって言い張るのめっちゃ大事だなって。
それは本当に思います。
そうなんですよね、言い張るの大事ですよね。
大事大事。
それはすごい思います。
というところでちょっと紹介が長くなってしまいましたが珍しく。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ぜひぜひ気になる方は空チェキで調べていただければと思います。
今日りょうたさんと録音するきっかけになったのは、最近僕がめちゃくちゃゾンビにハマっていてですね。
りょうたさんがゼミでの研究だったり、卒論もゾンビだったんですかね。
卒論は映画史全体みたいな感じだったんで、ゾンビっていうものではないんですけど、若干ちょっとつながるところもあるみたいな感じですかね。
トラさんの話を一緒にさせていただいたときもそうなんですけど、かなり映画に対しての見方も含めて、かなりクロートっぽいというか、構図だったりテーマだったりっていうところからかなり深く映画を見られる方だなっていうのをタイムラインの橋橋から感じていて、
ぜひぜひ今日はゾンビについて語りたいぞという気持ちで場を設けさせていただきました。
ありがとうございます。
で、とはいえゾンビどこから話しましょうね。
どうしましょうね。
人口のゾンビってかなり広いじゃないですか。
12:02
そうですね。
どのあたりからっていうところなんですけど、
じゃあ先に僕はどうしようかな。
ツイッターで僕としてはなんとなく知ってはいるんですけど、ちょっと一旦頭出しというところで、りょうたさんがゼミの発表であったりとか卒論であったりで、ゾンビをどう論じたのかみたいなところ。
ゾンビに限らず映画でも大丈夫なので、ちょっと説明いただければなと思っています。
はい。僕が大学の3年生の時のゼミのテーマがゾンビだったんですよ。
僕の大学のゼミっていうのがイメージ分析ゼミみたいなのがあったので、基本的にはゾンビというものの表彰論が中心。
だからブードゥ教がどうとかそういう歴史的な文脈の中では、たぶん作品を基本的に見てゾンビのイメージについてっていうものだったんですけど、ちょうど手元にゼミの当時のレポートをまとめた論集があるので。
それめちゃくちゃいいですよね。造本がデスノートみたいな黒字で。
黒の表紙に銀色の文字でセミナーオブザデッって書いてあるんですが、これが論集になっててですね。
もうめちゃめちゃね、うちのゼミが立ち上がった一発目の論集なので、みんなテーマがめちゃめちゃで、本当にみんな手探りなんで。
ゾンビの行動原理とか、ゾンビ映画はロードムービーであるみたいなことを書いてきたりとか。
あとはホラーコンテンツにおけるエレベーター論みたいなのを書いてたりとか。
この人は卒論も確かホラー映画のエレベーターで書いてたりとか。
これ面白そうだな。
あとラグビー部にいた同期がいたんですけど、ラグビーにおける体とゾンビにおける体の比較っていう。
全然わかんない。
多分これ読んでもわかんないと思うんですけど。
例えばゾンビ映画に出てくるオタク表彰についていろいろなやつやってるんですけど、その中で僕のはですね、タイトルが窓は破壊されるゾンビ映画のメディアっていうタイトルで書いてます。
簡単に言うとゾンビ映画において登場人物主人公たちがゾンビというものに対してイメージを抱くきっかけとしてゾンビ映画のニュース映像とかそういうメディアとかが機能してるんじゃないかみたいなことを書いてるレポートです。
15:00
その時に、ちょっと待ってくださいね。
8年前ぐらいに書いたレポートなんでちょっと思い出しながら。
まず最初ですね、当時の僕が書いてる記述なんでちょっと今回見直せてない映画もあるんで、当時の僕が間違っている可能性もあるんですが、
まずですね、ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド、アロメロの一番最初の。
と、ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド資料創世記っていうリメイク版があるんですよ。
メイクの方が監督したやつですね。
そうです。トム・サビーン、特集メイクの人がリメイクしたものなんです。
リメイク版も結構ちゃんと面白くて、よく言われてるのが、ナイト・オブ・ザ・リビング・デッドオリジナルに比べると、ちょっとヒロイン像が強い女性になってる。
もうちょっとナイト・オブ・ザ・リビング・デッドオリジナルの方は、ちょっとか弱い感じ、守られる感じの女性像だったのが、自ら戦う女性になってるみたいな。
そういうふうな改良があったりするんですけど。
ここで僕が対比してるのは、当時の僕が対比してるのは、テレビでの報道のされ方が違うっていうことになってるんですよ。
はいはいはい。
原作は結構こういうことが世界的に起きてます。オリジナルの方は世界的にこういうことが起きてます。
その報道をするんですけど、リメイク版では結構最後の方まで、死体が怪物になって襲ってきてるぞっていう事実が隠蔽されてて、
あっちこっちで単なる暴動が起きてますよっていう表現になっている。
なるほどなるほど。
この情報源を巡って、登場人物が揉み合う中で、テレビが壊れちゃって、情報が得られないじゃないか。
揉め事の芸になって、最終的にラストシーンで、地下室でラジオがようやく真実を報道し始めて、
ようやく生き残った主人公がそれを聞きながら、今更俺は生き残れないんだろうなって思ってるみたいな展開が終盤になる。
なるほどなるほど。面白い。
リメイク版の方は、隠蔽することによって人々が争いの種になってる。
隠蔽報道いけないよねと。
はいはいはい。
じゃあ、逆に世界中でこういうゾンビが発生してますっていうのは、正しく報道したらそれはすごい素晴らしいことなのかっていうと、
実はその報道によって私たちはゾンビというもののイメージを得るのではないか。
なるほどなるほど。
っていうふうなことを言ってるわけですね。
その後、当時僕がですね、ゾンビ映画の登場人物の気持ちになるんですね。
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で、シーン的に言うと、ダイアリー・オブ・ザ・デッドで最初にトレーラーを運転してた女の子が、車でゾンビを何人か引いた後に、そのショックで自殺してしまうというシーンがあるじゃないですか。
同級生みんなに悪口言われるんですよね。お前が殺したんだみたいな。
そうそうそうそう。結構、すごい長い時間へこんだ後に、いきなり銃で自殺してしまう。結構あれ、カッチリ撮ってると思うんですけど。
そうですね。
つまり、ゾンビっていうイメージがない状態での登場人物っていうのは、ゾンビを殺したじゃなくて、人を殺したっていう体験をするわけです。
そうですね。
で、人を殺したっていう体験をした後に、私なんかわからないけど急に襲ってきた人を一夜待って殺しちゃったという罪悪感を抱えながら、やっとこそ避難してきてテレビをバンと見ると、世界中で死体が蘇ってます。
で、この蘇った死体は襲いかかってきますよ。あなたたちに危害を加えますよ。もう死体なんだから、殺していいんですよ。
頭潰してくださいね。燃やしてくださいね。ほら、他の人たちもこうやってますよ。だから気をつけて戦いましょう。生き残りましょうねっていう報道が、バーンと世界の真実として放送された時に、
あっ、じゃあ私はあれ良かったんだと。あの判断間違ってなかったんだってなる。
なるほど。
ということは、人間を殺したことがある種その報道を見たことによって、世界中のみんながやってるんだ。私だけの体験じゃないんだって言った時に、じゃあその対象は何か。私が殺してしまったのは人間じゃないとしたらなんだって言った時に、ゾンビのイメージがそこで立ち会われてくるんだ。
なるほど、なるほど。
で、ただそうなってくると、ロメロのゾンビ映画とかもそうでしょ。他のゾンビ映画でもよく出てくる家族とか知人とかがゾンビになる問題がブーメラン的に返ってくる。
そうですね。
人を殺したっていうのが、メディアによって、いやそれは特別な経験じゃなくて誰しも悪いことなんだよ、殺していいんだよっていう風に言在されて、ゾンビのイメージとして殺しちゃった人を押し込めていくんだけど、
いざ身近な人がゾンビになった時に、その人を殺すのかっていう問題とともに、今まで殺してきたゾンビが人間として戻ってくる。
ということで、結構そのゾンビ映画におけるメディアとかイメージによって、ゾンビっていうものは割と線引きがあるようにテレビでは言うんだけども、実はその線引きっていうのは結構疑問的に作られたものであって、家族を殺せますか?友達を殺せますか?っていう時に再度自分の問題として降りかかってくるよねっていう。
21:05
なるほど面白い。
当時書いていて、それを僕そのレポートのタイトルに窓は破られるっていう風にしたのは、ナイトオブザ・リビング・デッドでテレビの報道のシーンが映画のスクリーンの中にテレビの枠をはめ込むような感じでテレビの映像が流れている。それがまるで窓枠のように。
ゾンビ映画っていうのは基本外と内を隔てた、ここは境界線があるぞっていうことにした窓をゾンビは破ってくる。
基本的にメディアによってテレビの向こう側のゾンビと私たち人間は違うんだってやった時に、その窓が破られるぞっていうのが基本的な。
すごい8年くらい前にレポートの内容を30を前にして熱弁するとは思わなかったんですけど。
いやー面白いですよね、こういうことがあると。
当時は書きました。
面白そうですね。
今のすごい面白かったです。
僕もやっぱりゾンビ映画何が一番面白いかっていうと、
今日その話にするかどうかわからないですけど、
もともとやっぱりその配置、カリブ系の人たちが持っている、
西洋圏がカリブ圏を植民地にしたときにそこで土着である宗教としてのブードゥっていうものに対する、
二重三重にもなった複雑なイメージの投影っていうのがゾンビの起源にあると思っていて、
そもそもそのブードゥ教自体はアフリカにあった精霊信仰なんですよね。
それをカリブの島々の先住民をのきなみ虐殺してほぼほぼ死に絶えさせた後に、
労働力がないからってアフリカから無理やり個人同齢を連れてきて、
そこでカリブの諸島の中で自分たちの国境から強制的に移住させられた上に、
もともとその土地にいた人たちっていうのはすでに全員死に絶えているみたいな中で生まれてきた宗教っていうものに対して、
西洋人が後から野蛮な原始的な宗教だとか不気味なものだっていうイメージをどんどん付与していくっていう構造があって、
最初から何ていうのかな、ある意味一回自分の内側に取り込んだ外部に対する恐れの表象なんですよね、ゾンビっていうのは。
さっき梁田さんがおっしゃったみたいに、やっぱりその窓のこちら側と向こう側っていうような形で、
そもそも自分から排除してたかもしれないっていうところも込みで、何かしらその内と外を分けていくっていう行為が、
24:00
ゾンビ映画の中では構図として必ず出てくるんですけど、そういった形である意味、
それこそ奴隷と自由人とか人権がある意味での人間と、
人害として、それこそ頭を打って殺してもいいものっていうようなものだったりっていうところを区別していく、
一つの表象としてゾンビっていうのは見ていけるなみたいなことを思ったときに、やっぱりそれが面白いのって、
単純にそこで内と外で分けていくっていうグロテスクさがもう一度内側に戻ってきちゃうっていう、
それこそ窓が破られてしまうっていうところに、やっぱり何かしらグッとくるものがあるんだよなっていうことを結構常々考えていて、
今のゼミの論考を、それこそ8年ぶりに蘇ってきたのを伺いながら、
やっぱりそういうとこなんだよなみたいなことが結構思いましたね。
そうですね。ゾンビ映画もだいたいロメロの映画とかはね、境界線が破られていくクライマックスですかね。
そうなんですよね。一個のカタルシスですよね。裏口の鍵閉めるの忘れてたとか、
普通に物量で結局窓を破られちゃったとかっていうところで、どれだけ強固にバリケードを張ってもそれが破られてしまうっていうところにある意味、
そうですよね。ランド・オブ・ザ・デッドとか言ったら、自分たちが進化境界線によって最後逃げ場が塞がれてしまうっていうものすごくきれいな。
そうなんですよ。結局だから、内と外を分けるからこそ逃げ場がなくなってしまうっていう、そこも含めて、
区別をすることである意味治安を維持したり衛生を維持したりっていうことがどれだけ疑問かっていうのはすごいありますよね。
しかも、さっきの話で面白かったのは、その内と外を分け隔てたままに、その内と外の区別を強化したり正当化するものとしてメディアっていうものがあるんだっていうお話が、
僕の中になかった宅眼点だなと思って、すごい面白かったです。ラジオとかテレビとかによって、あいつらは外なんだっていうふうに、ある意味決めてもらえるというか決められるみたいなところが、
言われてみれば確かに、大体のゾンビ映画は何かしらラジオになるテレビに出てきます。
そうですね。だから、多分、特にロメロの最初の方とか、そのゾンビっていうものがイメージが確定してなかったときって、言ったらリビングデッドなんですけど、
生みがえたもの、生みがえた死体っていう、言ったらそのままだったんですけど、それがゾンビっていう名前で呼ばれるようになるまでに、じゃあ彼らは、名付けられていないゾンビっていうものをイメージするときに、
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殺していいものであったりとか、自分たちを襲ってくるものっていう何かしらの線引きが発生すると。
そのときに、メディアとかの役割が効いてきてるんじゃないかということですよね。
だから何でも、今だって、全然ネットとか見ても、SNS見ても、全然関係ない人とかに、思想的にちょっと合わない人とか、ラベリングするじゃないですか。
そうですね。もうあれは外だなっていう。
そうそう。資料の餌食を今回見てて。
はい、ロメロの3部作、初期3部作の最後ですね。
今回初めて見たんですけど、めっちゃ面白いなって思ったのは、ゾンビがもう蔓延している世界で、
軍隊チームと科学者チームが同じ基地の中に共同生活みたいなのをしていて、
軍隊のチームが研究材料となるゾンビを集めてきて、科学者がゾンビを治す開発とか、ゾンビを操る研究とかをしていると。
そういう映画なんですけど、その中で、主人公の女性の研究者の、ある種恋人的な役割の、ちょっと落ちこぼれの兵士が一人いるんですけど、
その彼のことを、その他の軍隊チーム、ちょっとマッチョな奴らが、ずっとラテン野郎って言ってますね。
はいはい、そうですね。
ラテン野郎ってバカにしてるんですよ。
その時に、確かにウィキペディアか何かで見たら、そのキャラクターの名前はミゲルっていう、ちゃんとしたキャラクター名があるんだけど、
ずっとラテン野郎って言って。
俺たちとは違うっていうことを言うためのラテン。
なるほど、なるほど。
彼も、ミゲル自体も、銃持って外出て、一緒に行動してるってことは、多分役割としては兵士なんですよ。
そうですね。
うん、なんだけど、ラテン野郎だから、何を何をしてるとか、
なんか、セカハラめいったこと、ハラスメントめいったことを、主人公の女性との関係を指して言ったりする。
その時に、ミゲルはダメだとか、あいつはダメだって言うんじゃなくて、
ラテン野郎っていう、
なるほどな。
人種と、人種とか出身とかルーツで区別するっていうことを、ずっとあいつらが言ってるわけですよね。
で、一方で、神廟の餌食だと、バブちゃんっていう名前がつくコンテナーが出てくるじゃないですか。
はい、名キャラクターですね。
名キャラクター、もう最高のバブちゃん。
かっこいいね、最後のね。
あれかっこいいですよね、はい。
30:01
めちゃくちゃかっこいいですけど。
で、バブちゃんっていうのはフランケンシュタイン博士のバブちゃんと名付けて、
そうすると、なんかだんだんフランケンシュタイン博士が教育したこともあって、バブちゃんがちょっと人間らしくキャラクタライズされてくるんですね。
で、それはなんでかなって考えた時に、まず一個あるのはバブっていう名前がついたことなんですよ。
彼はバブ。
で、ちょうどこの前のキングオブコント見てたら、一発目のカエルテのコントで、人造人間ホムンクルスのコントなんですよ。
おお、なるほど。
で、ボケっていうか女性の方に岩倉さんっていうのが研究者役で、男性の方の中野さんっていうのがホムンクルス役で、バンって出てきて、
もうドロドロの見た目でべっとりして、液体でべっとりして、最初から緑の液体とか入ってるんですけど。
その彼がコントの中で、自分の腕に書かれた製造番号164を見て、164だからヒロシって呼んでって言うんですよ。
はいはいはい。
で、ここで彼はホムンクルスっていう164体いるホムンクルスの中から、ヒロシっていうたった一人の存在になる。
なるほどなるほど。
そうするとなんかこいつが可愛らしく見えてくるんですね。
なるほど、あー面白い。
それと一緒で、バブちゃんもバブちゃんっていう風に名前がついてたから、最終的に敵の隊員、
敵というかその軍隊チームの中で一番偉くて悪そうだった奴を襲撃して攻撃する時に、僕らは多分バブちゃんに感情移入して、
おーやっちゃれーみたいな、スカッとすると。
で、バブちゃんじゃあすげー良いキャラクターだなと。ゾンビにもこんな良いキャラクターがいるんだなと思って、
死霊の餌食の他のゾンビを見ると、結構ね服装がちゃんと一人一人違うんですよ。
あーそうですね。
で、中にはそのモブのゾンビの中に、その最後なだれ込んでくるゾンビ集団の中にピエロの格好してらっしゃる奴がいるんですよ。
いますね。
いるんですよ。だから、あいつらもあいつらで一人一人個性がある人間なんだけど、僕らはあいつらのことはゾンビと思ってて、
確かに。
バブちゃんのことはバブちゃんだと思ってる。
なるほど。
で、バブちゃんの方には感情移入できるんだけど、あのなだれ込んでくるうぞうむぞうの一人一人かなりファッション、ディレクションしてるんじゃないかなと思うんですけど、実は。
あの一人一人ファッションが違い、背丈も性別も違う、一人一人の人生があったものを、なんで僕らはゾンビってレッテル貼れてるんだみたいな。
なるほどなるほど。
感じになってくると、ミゲルのことをラテン野郎って言ってる軍隊チームとあんまり変わりないんじゃないかっていう話になってくる。
33:03
なるほど、おー面白いですねそれは。
そうか。
ロメロはだからそういうのは本当意識的にやってるんだよ。
うんうん。
思いますよね。
そうですね。
ロメロはなんだろう、ロメロの面白いところはなんていうのかな、最初から意識的にそれやってたわけではなさそうなところがいいですよね。
ナイトオブザ・リビング・デッドにおいては、それこそ主役が68年くらいの時代としては画期的な、黒人が主人公で黒人が普通に冷静で知的な役に出てくるんですけど、
それもたまたま使える役者の中で一番演技が上手いのがあの人だったからっていうで選ばれてて、
割とだから人種的な判断としてはフラットなんですよね。そこに政治的な意味を持たせるっていうよりは一番上手かったやつにやらせた結果、割と公民権運動的な盛り上がりだったりっていうところに、
ふとと乗っかる形で平時化されてったみたいなところがもともとあって、
だからこそロメロって最初のナイトオブザ・リビング・デッドにおける女性の描き方って結構ステレオタイプなんですよ。
序盤で怖い思いしたらあと大体気絶してるみたいな描き方をしてるっていうのも、実は最初にうっかり演技が上手いやつが黒人だったからっていう理由で、周りの反応を見てたらそういうことかって目覚めていって、
最終的に3作目のゾンビ映画である修行の餌食の時には、そういうミゲルみたいなキャラクターにきちんとその人種で内と外の出てる春っていうこととゾンビとの関係みたいなところを、
自覚的に反復するようになっていってるのかなっていうふうに思って、最初から哲学があった人じゃないからこその柔軟さみたいなところがあるんだなみたいなのが結構グッとくるところなんですね。
すごいね、それこそダイアリー・オブ・ザ・デッドとかこういうのやるんだってなりますよね。
いや、あれすごいですよね。なんか新しいことやるんだもんなみたいな。
ちゃんとあんだけゾンビの世界の風呂敷を広げた後に、今もし再度ゾンビが1から出現し始めた時の、その当時の若者の反応とか葛藤とかってこの感じだよなとか、
あのね、そういうところも上手いし、あとダイアリー・オブ・ザ・デッドとかの途中で主人公の、メインとなる男性女性の主人公2人が喧嘩してる時に、女性側のナレーションで彼が一方的に私に色々言ってきたシーンで、彼が喋ってるシーンだけジャンプカットで繋いでいくみたいな。
なるほど、自分が言い返してるとか書かないっていう。
そう、自分が言い返してるとかカットして、彼が一方的に言っているように演出するみたいなのを、結構この感覚をわざとやってるのすごく、なんか今僕らってyoutubeとかで相当会話の間飛ばしてるなってわかるじゃないですか。
36:06
はいはいはい。
それとかを結構多分あれ意識的にギャグとしてやってるんですよね。
いや、そうですよね。
編集ギャグ。
面白い。
それとかをね、それとかをやるのが面白いし、結構そういう意味ではダイアリー・オブ・ザ・デッドはカメラを向けることに関しては結構倫理的なテーマとして描いてるのに、怖い音楽つけるのとか編集するのとかに関しては結構無頓着なのか、それとも無頓着風に見せてるのかわかんないですけど。
そうですね。
バランスが面白い映画ですけど。
いろいろやってるなっていうのはすごい面白いですね。
そうなんですよね。面白いんですよ。
ロメロは僕も本当にここ最近ちゃんと、なんだろうな、しっかりいろんな作品を見るようになってきてっていうところなんですけど、やっぱりゾンビ映画のオリジンといわれ、今あるような、今イメージされるようなゾンビ映画っていうものの最初の方向づけた人という意味で見ていくと、実はなんか割と年取ってからの作品まで、それこそダイアリー・オブ・ザ・デッドだったり、
あれはなんだったかな、西米劇みたいなやつの名前が出てるかな。
サバイバル・オブ・ザ・デッド。
サバイバル・オブ・ザ・デッドか、みたいなのとか。
あれだから自由に自分の、ある意味パイオニアだからのびのびと新しいことがどんどんやれるみたいなところに行っているのがすごい面白いところで、ロメロって実はあんまり作品だからゾンビって言わないんですよね。
だいたいこうなんかリビングデートだったり、グールだったり、なんかボートみたいな言い方をするんだけど、あんまりこうゾンビっていう概念がない世界として、それこそ一から組み立てていくから、そこもなんかオリジンはゾンビってあんま言ってないんだなみたいなのも結構面白くて、
後から来るフォロワーはむしろその設定を活かして、どんな面白いことができるかっていうのをやっていくので、結構簡単にゾンビって言うんですよね。
そこの設定に対する距離感の違いみたいなものが、ある意味ロメロゾンビとそうじゃないゾンビとっていうところで、けっこう顕著に違うのが面白いなっていう。
自分で作ったから好き勝手もっとやればいいのに、すごい律儀に、最初にゾンビに会う人はゾンビって言葉を使わないからさみたいな、結構そういう縛りを律儀に守るんだよなみたいなところがありますよね。
だからそれこそ日本でゾンビ映画作るとなったらロメロみたいなことできないですよね。
ゾンビありきだし、日本は過剰するから基本。
そうなんですよね。そもそも残ってないから。
覚悟から蘇ってこないから。
なので、そういう意味で日本でゾンビやろうとするとロメロみたいなリビングデッド的な言い方ってできなくて、どうしてもゾンビありきのところからスタートしなきゃいけないとかね。
39:01
難しかったりはしますけどね。
そうですね。
だからそれこそあとなんだろう、28・21号とか、ああいう2000年代後半に入ってからの、あれはゾンビ映画のアシュだと思って、ゾンビ映画だと言うのはちょっと抵抗があるんですけど、
ウイルスによって変質する人間みたいなパターンが出てきてからはゾンビが走るようになったりとか、いろいろ出てきてますけど、やっぱりなんかちょっと違うんですよね。
ロメロの場合、なんでゾンビになったのかって合理的な説明何もされないじゃないですか。
登場人物が一人一人これは天罰だみたいなことを言ったりとか、何かしら科学兵器による影響だみたいな、個人で勝手な解釈をつけてるんだけれども、明確な犯人がいなくて。
割となんかそう、それ以降の特にこの2000年代以降のゾンビって割と軍事研究の一杯だったりとか、理由づけがあった上でみたいなところで、そこの違いも結構面白いところだな。
っていう説明されないほうが面白いんですよね。
そうですね。あと、足早い遅いで言うと、確かに早いやつの方がアクション的にとか目面的に盛り上がるんですけど、やっぱ足遅いゾンビのポイントっていうのは、こっちが頑張れば殺せることだと思うんですよ。
そうなんですよ、そうなんですよ。
足早いゾンビってもうモンスターだから、めちゃめちゃ頑張らないと殺せないんだけど、あのゆっくり襲ってくるゾンビって本当に気をつけてれば基本的に勝てる相手として発見されてて、だからこそさっきまでいろいろ話してた、殺すか殺さないかの倫理問題とか、そういったものが描けるので、モンスターフォラーともまた違う。
いや、それはすごい大事ですよね。
モンスターパニックともまた違う、普通に殺せちゃうからこそ問題であるっていうところが浮かび上がってくるから、やっぱりその素早いゾンビと、またちょっとね、もともとのゆっくりのゾンビは違うよなと思いましたね。
いや、そうなんですよ。だから外側にある脅威っていうのは実は外側の弱者なんですよね。こちらの方が簡単に殺せるっていう、やっぱりそこ結構大事なところだし、なんかゾンビが遅いからこそっていうのを逆手にとって面白いことやる映画もあるじゃないですか、なんだろう、ロンドンゾンビ飛行とかで老人がよちよち歩きながらゾンビと同じぐらいの速度で逃避行するとか、
あと最近だったの、ちょうど今日見てたんですけど、リトルモンスターズっていうルビタニョンコが主演の、なんか保育園みたいな。それそれ、保育園のちびっこたちを引率しながらゾンビから逃げなきゃいけないっていうのになってくると、なんかルビタニョンコがお歌を歌いながら、園児たちをひよこみたいにピヨピヨ一列で並ばせて歩きながら、ゾンビたちの群れの中をゆっくりゆっくり、でもちょっと早足で逃げていくみたいな、
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そういう子供の足でも逃げられるみたいな、でもそれはちゃんと知恵を使えば逃げられるみたいなところで、結構工夫をしていて、実はスピード感っていうものだけがサスペンスを作るわけじゃなくて、そういうおじいちゃんとかすごいちびっこの群れみたいな、なんか足枷をちょっとつけてあげるだけで、実はこうゆっくりの歩みだけでここまでこうドリルを作れるんだぞみたいなのが、
こうなんかやりうるのが結構このゾンビ映画の面白いところでもあるなっていうのを1個思っていて。
そうですね、いかに殺せる相手なんだけども、人間のその過失によって襲いかかられてきてしまったりとか、それこそランド・オブ・ザ・デッドの兵を作ってたのに、最後家から攻撃されると電気がビリビリ流れているので、生きてる人間が外に出られないので、結局ゾンビに食べられちゃうみたいな、
そういうやっぱり過失の部分で、いかにうまくこの頑張れば勝てるゾンビに人間がやられるかっていうところが腕の見せどころであり、テーマの描きやすさのところでありますよね。
結構だから、特にランド・オブ・ザ・デッドのゾンビはめちゃくちゃ群集じゃないですか、金持ちたちが暗濛と暮らしているタワーの中に退去して押し寄せていく時とかっていうのも、もちろんそこでちょっと知恵をつけたゾンビがきっかけを作りはするけれども、
致命的なダメージを与えるのは圧倒的に人数じゃないですか、走って逃げても、なんか逃げても殺してもいくらでも湧いて出てくるみたいな、そこの固まりとしての不気味さみたいなものにフォーカスを当てている感じがいいですよね。
ランド・オブ・ザ・デッドは久しぶりに見直して、なるほどと思ったのは、あれって一方的に見る対象だったゾンビから見返される話になってて。
一番最初、冒頭、主人公っていうか、土地糧と正義側の方の主人公の人が、リーダー格のゾンビが営んでいるガソリンスタンドですかね。
ガソリンスタンドのおっちゃんですよね。
ウィキペディアで見ると、あのゾンビ、ビッグダディって名前らしいんですけど。
名前あるんだ。
そう、ウィキ情報を読むとビッグダディらしい。
45:02
あのビッグダディを一方的に見るところから始まる。
茂みのところからね。
そうです。ビッグダディはそれに気づかずに彼らは彼らの生活を営んでいるわけですよね。
で、僕たちというか、主人公側はそれを一方的に見る存在だったのが、ラスト、彼らから見返される、象徴的に見返される。
あーなるほど。
主人公があれ双眼鏡だか望遠鏡だかって除くと、そのビッグダディと今までは一方的に見てきた相手だから、ビッグダディがこっちを見ている気がする。
あれ作中ではあの二人ってほぼ絡みないんですよ。
確かに。
だから、あの主人公と、ゾンビ側の主人公角であるビッグダディと、その主人公側とは、もともと最初は主人公が見る、ゾンビは見られる関係であって、ゾンビ側はこっちに気づいてなかった。
なるほどなるほど。
で、それは最終的に目があって、奴らは俺たちと同じだからっていう風に、お互いを同じ相手だと認識すると。
ゾンビ側からはわからないけど、少なくとも目があったような感じで、という風な終わり方になっていると。
なるほど。面白い。
あの映画で、ランド・オブ・ザ・デッドで、一番最初に、一番最終的な大惨劇、大殺戮が起こる理由は、ゾンビに花火が効かなくなったから。
そうですね。
だから、他のところに目線が行っていたところから、こっちを見てきたから、人間を敗北するわけなんです。
そうなってくると、ビッグダディはもともと、あの外れのガソリンスタンドで、濃々と生きていたのが、気づき終えて、こっちの存在に気づくわけですよね。
ゾンビを見ている存在に気づいて、どんどん見ている奴に近づいてきて、襲いかかってくると。
なるほど。
ゾンビなんかでは、もう目は散らされない。
俺たちはお前を見ている。
なるほど。
で、主人公たちは、あいつらも俺たちと一緒だったんだというふうに、彼らと目があって気づくという、すごく見る見られる話として、すごい感性している。
面白いですね。そっか。
そうなってくると、スナイパーの彼が片目を失っているのとかね、すごい目についても、いろいろちょっと考えるところがあったりとか。
面白いな、そうなんですね。
結構ゾンビに対しての撮り方だけで、わりと映画に対するスタンスというか、撮ったり撮られたりみたいなところの関係だったりっていうところにも結構つなげやすいんですよね。
48:05
面白いな、なるほどな。
それこそ、かきなえさんとツイッターでやりとりしてた、ダイアリー・オブ・ザ・デッドのシュート見問題とかも、やっぱり見る見られるっていうときに、シュートっていう、撮影すると打てっていうのはダブルミーニングになってて、
で、そのときに、一方的に見る関係になって、一方的に見ろって言ってるわけですね。
一方的に見る、俺たちを一方的に見るっていうことは、俺をゾンビとみなして撃つっていうことだっていうことになってるんですよね。
そこで、ヒロインはかつて大事にしていた人形の名前をつぶやきながら、彼を人間ではないものとして一方的にシュートするっていう着地になっていると。
そう、あれ見てうまいんだよな。
あれうまいんです、見事なんですよ。
あと、ダイアリー・オブ・ザ・デッドは先生がかっこよすぎるっていう問題なんですよ。
あれ、あれ、あれ、あれは、僕あそこはちょっとよくわかんないですよ。先生あんなかっこよくていいのかなみたいな。
そう、それは思います。あんな弓矢、フォークアイ・バリミエ弓矢の達人いいのかな。
そうそう、一人だけ世界観がマーベルなんですよ。
そうそう、とかもありますよ。
そういう意味でやっぱり、見る、見られるとか、一方的に見るとか、
全引きをしているところからこっちを見られるとか、逆にゾンビとして相手を一方的に見るっていうものが、
多分ゾンビっていうスピードが遅いもの、相手だからこそできる。
そうですね。早いと見えないですからね。追いかけられないですからね、見えて。
そうですね。
なるほど、面白いな。
これは、これを聞いた方はぜひ映画見てください。
あ、そうですね。
何もわかんないとね。
多分そう。今日の話はいつも以上にこう、事前知識ないというか、こう共通のコンテクストがないと全然わかんないかもしれないですけど。
ビッグダディって聞いて、あっちを思い浮かべる人いないんで。
そうですね。だいたい、だいたいあのコダクさんの。
コダクさん、コダクさん、コダクさんバンダナ思い出すと思うので。
すみません。つなぎ来たガソリンスタンドのおじさんですかね。
そう。なんか日記であれのモノマネしてたって書きながら書いてましたよね。
そうなんですよ。しませんけどね。
どこのモノマネしてたんですか。
でもそれこそ冒頭で茂みから見られてることに、茂みに人間がいることに気づいたときに周りにこう、何だろう、合図するじゃないですか。
周りに何かいるぞみたいな、生肉がいるぞみたいな合図して集まってくるところの、集まってくる人たちとのこうコール&レスポンスのモノマネとかして。
あ、もうきたやつってことですね。複数学。
51:03
でもやっぱゾンビがやりたくなるんですよね。
ゾンビが見るとやっぱりゾンビの人たちが生き生きしてますよね。
それこそみんな好き勝手な格好してるみたいなところがやっぱり一番楽しいところですよね。
そうっすよね。
やっぱりゾンビなんですよね、ゾンビも結構特に近年の、僕ザック・スナイダーのゾンビあんまり好きじゃないんですけど、
ドーム・オブ・ザ・レッドのロメロンのリメイクから始まって、最近だとネットフリックスでアーミー・オブ・ザ・レッドとかやってるんですけど、
ちょっとゾンビがシリアスすぎるんですよ。怖い顔しすぎてるんですよ。
初期ゾンビとかってなんだろうな、それこそロメロンでいうと2作目のゾンビとかだと、ただ青く塗ってるだけだったりするじゃないですか。
あと顔怖くても、それこそさっきみたいにピエロだったりとか、なぜかチアガールの格好してたりとか、
なんでその格好のままこの辺はうろついてんだよみたいな人たちがたくさんいたりとか、
なんか割とちょっと笑える格好してるんですよ。その間の抜けた感じっていうのが、なんかちょっとザック・スナイダー足りてねえんだよな。
ザック・スナイダーのやつはやる気がある。
そうそう、なんか絶対殺すじゃんみたいな、それこそモンスターなんですよね。
絶対殺すマン。
走るのも含めて、ゾンビ側っていうのが弱者なんだみたいなところに対して鈍感な感じがあるというか、
むしろ肥大化した、引きこもってるからこそ外に対して過度に持ってしまう恐怖心をそのまま描いちゃってる感じがあって、
なんかあんまりそこに共感というか、うなずけない部分があるんですよね。
ゾンビは間抜けであってほしいっていう。
あんなに走れるのにねえ、強者ですよね。
そうなんですよ、あれめっちゃ強いじゃないですか。
だからそれこそなんか。
こっちはね、うん、勝てちゃうっていう。
そうなんですよ。だからやっぱりなんか、なんだろうな、それこそなんていうのかな、海外からの意味を受け入れてしまうと国内の仕事が何だろうな、
あぶれてしまうじゃないかみたいな恐怖をそのまま肯定して描いてしまうと走るゾンビになると思うんですけど、
実際にじゃあ技能実習生だったりっていうところに、この国が何してるんだよみたいなことまで考えていくと、
歩くしかできないゾンビになっていくはずなんですよみたいな風な見方をどうしてもこうしてしまう部分があるなっていう。
面白いな。
僕は割とそういうのが、なんていうのかな、そういう見方をするのが趣味というか、なんかその社会的なコンテクストを割とどうでもいい娯楽作にまでちゃんと投影してみたいみたいな見方をしてしまうので、
別に走るゾンビもかっけえじゃんみたいなところで見るのが多分一番正解なのは分かってはいるんですけど、
とはいえなんとなくそこにそういう疑問が投影されている、みたいな読み方はできなくはないんだよなみたいなところをどうしても引っかかってしまう感じがあるんですね。
54:10
そうですね、映像としてはね、走るゾンビとか、新幹線ファイナルエクスプレスの大量に新幹線の中を流れ込んでいくのが絵面は楽しいけど、
あれはマドンソクがいるからいいかってなりますけど。
マドンソクが勝てないものは勝てないじゃないですか。
そうなんですよ。人類最強が勝てないんだからしょうがないっていう。
ゾンビは棒を持った僕らでもギリ勝てないとゾンビっぽくないですよね。
そうなんですよ、やっぱり。やっぱり幼稚園児に輸送したルビタニョンゴでも倒せる相手じゃないといけないか。
そうですよね。だからこそ怖いし。
そうですよね。だから結構面白いなって思うのは、ゾンビだけなんですよ、なんていうのかな。
ここまでメタな見方を好んでしちゃうホラーとか映画ってゾンビ以外のジャンルであんまりない気がするんですよね。
例えば和ホラーとか見てて、この怨念っていうのは今の社会的なイシューでいうとこういうところに投影されててみたいなのってあんまり考えない気がするんですけど、
なぜかゾンビってわりとそういうコンテクストだったり、これまで話してきたうちと外みたいなカメラの見る見られる問題だったりっていうのを
なんかすごい呼び寄せる、何か持力がある感じがあって、メタ的にしか見れないジャンルとしてある感じがするのが結構興味深くて。
ジム・ジャーム氏のデッド・ゾント・ダイってご覧になった?
見ました。
あれとか普通にただのふざけた映画じゃないですか。普通にただのふざけた映画なんだけど、実はゾンビ映画の本質をめちゃくちゃついてるんじゃないかっていうか。
わりとあれだと、登場人物のアダム・ドライバーがめちゃくちゃメタな発言をするんですよね。
これは音楽がかかると、これはこの映画のテーマ曲だからみたいなことを言ったりとか、スクリプトに書いてあったからこの後こういう展開になるんだみたいなことを結構言いがちなんですけど、
それが一つのしらけポイントでもありつつも、実は熱中して見るものじゃないというか、ゾンビ映画って何かしら冷めた上で現実の何かしらのコンテクストを接続して、中はメタ的に読み解いていくものなんだみたいな立場っていうのが、確かにゾンビ映画にはどこかしらあるなっていうことを、
わりと端的に捉えてる映画なんじゃないのかなみたいなことを、レッドドンとダイオーを見ているときに、すっげえ肩の力抜けたジャームシップらしいくだらない映画だなって思いつつも、すごいわりと誠実なゾンビ論なんじゃないかみたいなことをついつい思ってしまった自分がいて。
57:03
なんかやっぱりゾンビ映画って、どうやったってみんな死ぬエンドしかないじゃないですか。世界が滅びちゃったら、映画内では生き延びたとしても、その後に穏やかな人生が待っているとは到底思えないみたいな終わりしか、そもそも残されてない感じなんですけど、
それはそのレッドドンとダイオーというとアダムドライバーが台本読んだから、ろくな結末にならないっていうのは知ってるよみたいなことを言いながらも、でもまあベストを尽くしましょうかって言ってこう動いていくみたいなところと結構似てるというか、ゾンビ映画見るときに僕らはみんな幸せになってほしいと思って見ると裏切られるの、裏切られることしかないじゃないですか。
最終的にみんな死んじゃうんだよなっていうのが分かった上で見ているんだけれども、でも実はそこで見てるのって、じゃあどういうふうに内臓飛び散らかして死ぬかなみたいなところの楽しみよりは、いかにみんな生き延びていくのかなってとこやっぱり気にしてみるんですよ。
やっぱりそこにこの定められた結論としての死っていうところではないところに、ちゃんとそこにどう向かっていくか、ないしはそれにどう抗っていくかってプロセスの方に注力していくみたいなところで言うと、すごいゾンビ映画って要約できないというか、要約しようと思ったらゾンビが蔓延してみんな死ぬっていうこのプロット以上のこと何も起きないじゃないですか。
そうですね。
でもなんか実はでもそれがいいんだよなみたいな、なんか結論をどこに着地するんだろうっていう、ハラハラドキドキも一つの映画の魅力だったり物語の魅力だったりするけれども、実はそこはもうみんな死ぬんでしょっていうところで、分かりきっているからこそそこに至るまでのプロセスを味わうことに集中できる稀有なジャンルとしてもゾンビ映画ってあるんじゃないかなみたいなことを、
結構デッドゾンとダイの構造を見ながら、結構僕としては腑に落ちたんですよね。ああ、だからゾンビ映画が好きなのかもなみたいな。
まあね、僕らも死にますしね。
そうそうそうそう。そうなんですよ。
だから効率を突き詰めていくと、なんか全部一緒なんですよね。
そうそうそう。
僕らも結局死ぬと分かっていながら基本的には生きているわけで。
そうそうそうそう。
よっぽど何かカゴの中ですごく情報を遮断された状態の人じゃないかには、僕らはみんな死ぬと分かりながら生きている時点で、ゾンビ映画の登場人物と変わらないっちゃ変わらない。
そうなんですよね。
その中で、じゃあどう生きるかの話になってきちゃうよね基本はっていうのを、ゾンビ映画っていう構造の中で見るのは見るんでしょうね。
1:00:00
あとまあ、ゾンビはやっぱ構造だからいろいろ入れれるっていうのはありますよね。
そうですね。
そうですね。
わかりやすく、例えば最近とかホラーとかでもある社会的なイッシュとかに結びつけられるものとか、それこそなんかフェミニズム的な文脈に結びついてどうこうであるとか、人種差別的な文脈に結びついてどうこうみたいな、
そういう社会的な何かと結びついたストーリーテリングをしているものは実際にはいっぱいあると思うんですけど、
ただゾンビ映画っていう、ゾンビっていうジャンル自体はすごいもう構造だから、それ自体が何かのイッシュに直接接続しているわけじゃなくて、
そうですね。
何か大量の弱者、弱者じゃない場合ももちろんあるかもしれない、もしかすると何かの思想であったりとか、外部から入ってくるものとか、いろんなものがとにかく構造として入れやすい箱としてあるから、
まあ目線によってはとか構え方によってはいろいろとできるけどゾンビっていう強固なジャンルとしても成立しているからチャレンジしがいもある、いろいろできるんだろうなっていう。
家の外にあるものに対する不安全部ゾンビにできますからね。
そうですね。うん、確かに。
それがやっぱり、今の人種だったりフェミニズムだったりっていう問題意識を逆手にとって、まあホラーというジャンル自体にも作れるっていうところで言うと、やっぱり今だとジョーダン・ピール監督の
はいはいはい。
ゲットアウトだったりアスだったりっていう、あの辺りの作りとかってのはまさにそこに顕著だと思うんですけど、今の話聞いてると、だから早くジョーダン・ピールゾンビとってくんねえからって気持ちになってきます。
あー、見たいなー。
めっちゃ見たいなーみたいな。
どうするんだろう、どうやるのか。
何を裏切ってくれるんだろうみたいなところが。
そう、そう。
ある意味ゾンビってだからそういう裏切りの構図とかが作りやすいから、
そうなんですよ。
めちゃめちゃジョーダン・ピールとしては、あのハードル上がりきってると思うんで、仕掛け方を工夫してくれるだろうし。
そうなんですよね。
分かりやすい既存の、なんかそれこそこう怪しい村ホラーとか、なんかそういうこう、あまりにフォーマットがカチッと決まってるところに別の異質な要素を入れて鮮やかに転換するっていうのが上手い監督だと思うんですけど、逆に自由度が高いジャンルの中で何ができるんだろうなみたいな。
いいなー、見たいわー。
見たいなーって今。
もう見たい、見たい。
めっちゃ見たい。
見たくなってきましたね。早くやんないかな。
アリアスターが撮るゾンビ映画は絶対見たくないですけどね。
あー、ま、アリアスターが、うん。
絶対家から出てこないでしょ。
あー、確かに。
ずっとなんかこう、地獄みたいな家庭環境を見せつけられて、胃が痛くなるだけだろうな。
1:03:02
ま、ま、あとアリアスターの作品に関しては、何かに取り込まれる話っていう意味では、もうゾンビ映画的な要素もあるっちゃう?
ま、確かにそうですね。
うんうん。
他者が不気味に見えてくるっていうのがゾンビ映画です。
そうそう。なので他者に取り込まれていく話だとするならば、もう既にゾンビ映画的な要素はヘルディタリーもミッドサーマーにもある。
確かに。あ、てか、確かにそういう、なんていうのかな。
自分を脅かす他者だと思っているものの中に徐々に取り込まれていくって構図で言うと、ヘルディタリーもミッドサーマーも確かにゾンビ映画ですね。
うんうん。そうです。
うんうんうん。
なるほど、面白いな。いいですね。
ちなみに、今だとロメロのゾンビ著作品が基本的にメインだったかな。あとちょこちょこと名前だけは出てきてましたけど、
野太さん的なゾンビ、ここまでちゃんと耐えて聞けた人はそもそもゾンビ映画好きな人だとは思うんですけど。
そうです。
とはいえゾンビで。
早く見てほしいですね。
そうですね。何から見るのがいいと思いますゾンビ。
どうですかね。怖いの嫌いなのかなみんな。
あ、でもそっか。怖いのとか痛いの嫌いだったら結構ゾンビは。
そう、エンドロイドとかね。
僕はね、多分基本的にゾンビの話こんだけ知るんですけど、そんなにホラー得意じゃないんです。
あ、そうなんですね。
めちゃくちゃ見てるわけじゃなくて、特に心霊ホラーとかは急に脅かしてくるのが超嫌なんで。
うんうんうん。
あの、なんていうんでしょう。物理的じゃなくて急に出てくるやつもすごい嫌いなの。
はいはいはい。なるほど。
そう、あんまり怖いの見ないですので、多分コメディっぽいのから始めた方がいいような気がする。
あーなるほどね。
それこそある意味ショー・オブ・ザ・デッドとか。
あーうんうん。僕のゾンビの入り口、ショー・オブ・ザ・デッドでした。
あれとかはね、めちゃめちゃキャッチーだし見やすい。
で、そこまでめちゃめちゃグロいみたいな感じでもなかったと思うので。
そうですね。
基本的にゾンビ、アメリカのゾンビ映画をイギリスでパロディ的にやるとパブに籠ることになるっていう話なんで。
あれ最高なんですよ。
ある意味、ゾンビ映画をイギリスでやるとこうなるみたいなセンスの視点が入ってるんで。
最初いきなりゾンビドーンって言って、だからあんまりグロとか得意じゃない人が僕らの今の話を真に受けて
治療の餌食めっちゃ面白そうと思ってやるとひどい目に合うじゃないですか。
そうですね。
布取ったら脳みそだけの人が。
そうですね。
1:06:00
だからショー・オブ・ザ・デッドとかそういう、逆にパロディみたいなやつからの方が見やすいような話をしてますね。
でもそれは非常に僕も同じ思いです。
ショー・オブ・ザ・デッドはいいですよね。
ゾンビ論ですかね。
あれなんて名前だっけな、もう一個ね、コメディでね。
はい。
ゾンビランドも面白いですけど、ゾンビランドシリーズ。
はいはいはいはい。
あのー、マーク・ザッカー・バグじゃない、ジェシー・アイゼン・バグ。
はい。
ジェシー・アイゼン・バグ。
ザッカー・バグやってたジェシー・アイゼン・バグですね。
そうですね。
ソーシャルネットワークとかが出てるゾンビランドシリーズとか、あと個人的にコメディだとゾンビワールドへようこそっていうコメディがあって、
これはボーイスカウトの落ちこぼれ3人組がボーイスカウトで覚えた技術を使ってゾンビ世界で生き抜こうとするみたいな。
絶対面白いやつですね。
完全にコメディのやつですね。
これ見たことない、見ろ。
あのー、すごい、結構綺麗なお姉ちゃんとボーイスカウト3人組が頑張って生き抜こうとするみたいな。
これ本当に普通に楽しいコメディっていう感じですね。
確かに、ある意味、軽めのものからお約束をなんとなく知っていって、それで大丈夫そうだったらロメロのオリジナルに入っていってみたいな方が入り方としてちょうどいいかもしれないですね。
そうですね。
ロメロは割と長いですからね。
長い、長い。
ロメロだと何から見るのがいいのかな。
ロメロだったらやっぱり一応ゾンビから入るのがいいんじゃないですか。
ナイトオブザリビングデッド、タイトル化してナイトオブザリビングデッド、ドンオブザデッド、デイオブザデッド。
デイオブザデッド。
デイオブザデッドが資料の餌食って謎の放題つけられてますけど、2個目のドンオブザデッドのゾンビから、あそこから多分ゾンビ映画自体が始まっていってる部分があると思うので、ロメロで見るんだったらそこから入るのが
そこから入って後の、後のランドオブザデッドだったり、ダイアリオブザデッドだったり、ちょっと後から撮った作品を見ていくみたいな方が、他のゾンビ映画との違いというか、ジャンル映画じゃないロメロ映画としてのゾンビっていうのは見やすいのかなっていう感じが個人的にしますね。
1:09:01
あと、アイアムヒーローの実写版とかね。
ああ、あれ結構本格的にゾンビ映画ですからね。
あれは結構そうですね、逆に乃木彰君のね。
あ、そっか、あれ乃木彰君。
そう、アンダチュアルとかの方。
あれはちゃんと映画として、なんか主人公が決意するシーンとかはちゃんとエモーションがありますし、その戦うって決めてから、普通だったらバンバンって言って戦ったぜ、みたいな感じかと思いきや、結構しっかり消耗戦になるっていうのはすごい、あれすごい好きな映画ですね。
そうですね、あそこまでちゃんとこう、血みどろで、こう、死死喧騒もあるような映画だと思ってなかったから、見て結構びっくりしました。
だから、大泉陽が主人公だし、初めての人はね、知らない外人が死んでいくより、知ってる俳優さんがまだやられていく映像の方が見れるんじゃないかなって。
そうですね、確かに。知らん人の内蔵はあんま見たくないですもんね。
そう、死霊の餌食とか、やっぱ久しぶりに僕、今回話すのにゾンビ映画見直したんですけど、死霊の餌食とかやっぱグロいっすもんね。
いや、あれは一番グロいですよね。
すごい。やっぱ最後みんながどんどんやられていくシーンとか、笑いながら引きちぎられていくシーンとか。
はいはいはい。
ああいうのとか、うわ、やっぱ特殊効果めちゃめちゃすごいなと見てたんです。そういう意味でもやっぱ面白いですよね。
あとやっぱりロメロのゾンビの話に戻ると、ロメロの映画は、ある意味グロいのというか、視覚的に楽しいのって最後の10分とかじゃないですか。
それまでの最初の1時間とかって延々とこう、ある意味退屈だったりとか、ある意味いたたまれない気持ちになるだけの時間が延々と続くというか、
生きてる人間同士でいがみ合いとか、そういうものがずっと続いて続いて続いて、最後にそれこそ窓が割れるっていう、
あのための美学みたいなのはやっぱりロメロならではだなというか。
そうですね。
あの退屈さを味わって。
資料の餌食は本当、うちは揉めですからね。
そうなんですよ。僕も途中で結構耐えられなくなってきましたもん、あれ。
やめてあげてみたいな、仲良くしてみたいな。
結構嫌なハラスメントがね。
いや、本当に最悪な。
最悪なハラスメントシーンが結構あるっていう。
もうその時点でキリキリしてくるところにゾンビがエスカレーターでダーってこうやってくるので、やったーってなるっていう。
そういうストーリーですからね。
で、みんなあんな嫌だったやつがみんな引きちぎられていくっていう。
楽しい映画ですからね。
1:12:00
いやだから本当に、なんかあれもだから面白いですよね。
ある意味僕らは人類の滅亡を望んでいきますからね、だんだん。
みんな死んでいくことになぜか救いだったり爽快感を覚えてしまうっていう。
何目線で見てんだろうなみたいな。
そうですよね。
人類滅亡を楽しく見るっていう謎の著作感があります。
それこそフレームの外だと、スクリーンの向こう側と僕らは違うので。
っていう話になる。
そうですね。
そうなんですよね。
僕ちょうど大学の卒論がスクリーンの中の登場人物と観客の関係で卒論を書いてたんで。
はいはいはいはい。
基本的に映画の観客は登場人物たちの覗きにすることで優位に立っている論者なので。
ゾンビ映画とかも、わー人類滅亡したねって言いながら、
僕らは安納とまた今日も頑張って生きていくぞって思っているときに、スクリーンの向こう側は別世界だと思ってまた線を引いている。
なので映画の登場人物がこっちを見ると怖いっていう卒論なんですけど。
なるほどなるほど。面白い。
そうなんですよね。
やっぱりそういうのを突き詰めていくと、やっぱりフェイクドキュメンタリーの話だったり、
それこそホラーゲームというかビジュアルノベルゲームによくあるメタ視線というか、第四の壁を越えてくる系のゲームのプレイだったりっていうところにもつながってくるというか、
やっぱり本気で怖がらせようとしたら、安納とした観客ではいてはいけないみたいなところに、どう持っていくか、どう引きずり出していくか、ないしは引きずり込んでいくかっていう工夫の仕方になってくるっていうところは、
ちょっとゾンビ映画の話とはまた別になりはするんですけど、ホラー映画の面白いところですよね。
そうですね。だからこっちがアウェーになるっていう状況にどう落としていれるかというか。
そうそうそうそう。
やっぱりこっちが一方的に観客が見ている状況を作ると、怖いけど安全じゃないですか。
うんうんうん。
こっちには何の被害もかかわらないんだけど、カメラ目線とかでいきなり話しかけてこられると怖いと。
僕らはその時点で覗き見がバレて、映画の登場人物が話しかけてきた時点で。
そうするともう安納とした観客では、安全地帯のない観客になってくる。
なるほど。だからファニーゲームなんですね。
そうです。その通りです。ミハイル・ハネキのファニーゲームっていうのは、あれが本当に優れているのは、
1:15:01
全然ゾンビ映画じゃない話なんですけど、ある一家が別荘にバカンスに来ていたら、
知らない若者二人が突然家にやってきて、不条理な暴力を加えてもう家族を斬殺するっていうわけなんですけど、
その青年二人は観客の存在に気づいていて、この家族が明日まで生きられるか、賭けましょうよ、みたいなこととかを言ってくる。
ポイントは、その青年二人、暴力を振るっている青年二人には、僕らの存在、観客の存在がバレています。
暴力を振るわれている家族は僕らの存在を知らないことになります。
はいはいはい、そうですね。
ってなると、僕ら地観客は覗き見していることを取り押さえられてはいるんだけども、暴力を振るわれる家族に対しては、覗き見の立場から留意に立ち続けるっていう、
非常に嫌な共犯の構図が生まれる。
いや、マジで最悪ですよね、羽毛は。
それで永遠長回しで、子供がザーッとされた後に身を助け合う、何とか起き上がって部屋を出ようとする夫婦の長回しとかを固定カメラでずっと見せられています。
観客は存在がバレると、見る立場から見せられる立場になる。
うんうん、そうですね。
それをやっぱりミサエル・ハネッケっていうのは非常にうまく作っていて、観客っていうのは安心して見る立場から、いつその覗き見っていうのが保護にされるか、もうぶっ壊されるかっていうのは常にもう登場人物側に委ねられている。
だから実は観客っていうのは、映画の登場人物に対して優位と思われているのが、それは登場人物が気づいてくれてないから優位に立っているだけで、実はいつでも映画の観客はアウェーになるっていう。
あー面白いですね。そうなんですよね。
やっぱり観客に語りかけてくれると、どんどんゾンビ映画からホラー映画から離れちゃいますけど、フィービー・ウォーラーブリッジのフリーバッグっていうドラマ、アマゾン・クライムのオリジナルがあると思うんですけど、
それこそ割と奔放に生きている女性主人公が、一人だけカメラの存在を知っていて、何かしらお姉さんから小言を言われたりとか、何かやらかしちゃった時にちらってカメラに向かってめくばせをしたりとか、
今私はうずをついてますとかっていうことを、どっち側にサジェストしてくれたりするっていう仕掛けがあるドラマで、あれもだから一つ、他の登場人物と比べて最も共感しづらかったりとか、最も腹立たしいキャラクターが主人公なんだけれども、この人だけが自分たちに話しかけてくれるって1点だけで、そのパッと見だと絶対に好きになれそうにないキャラクターのはずなのに、
1:18:16
誰よりも親しみを持って最終的にハラハラ追いかけてしまうっていう仕組みが作られていて、割とだからちょっとベタではあるんだけれども、カメラのこちら側に対してこの人だけが話しかけてくるっていう存在が
映されていると、割とそれだけで、こちらは簡単に揺さぶられるだったり、見る見られるの探偵に対して意識的にならざるを得ないんだよなっていうところがよくわかるドラマ。ホラー映画苦手な方は是非アマペラでフリーバッグ。
まずフリーバッグ見てからロベロ。 あとあれですね、今やってる仮面ライダー。
そういうキャラクターが出てくるんです。カメラのこっち側にバトル中に話しかけてきちゃうキャラクターが出てきたりする。
フリーバッグが仮面ライダーを見て肩慣らししてから。
びっくりしちゃいます。
いいのかな。
面白いですね。
あれ、気づいたら1時間とか1時間半喋ってますね。
ヤバい。
ヤバい。これヤバいな。
これいいですか。
全然大丈夫です。
一回ここで録音としては切りましょう。
分かりました。
りょうたさんとは多分、映画の話含めまだまだ尽きないと思うので、ぜひまた何かの機会に後日を作ってやりましょう。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
では一旦ここで。
ありがとうございます。
Foyer Techラジオ、お相手は私、柿内聡吾と
りょうたでした。ありがとうございました。
どうもありがとうございました。