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はい、こんにちは、ポイエティークラジオです。
お相手は、私柿内正午と、本日はゲストでこの方たちです。
人物建設団社からルチャリブロス省の青木みや子です。
お邪魔してます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
オムラジとルチャリブロスの青木です。青木真兵です。よろしくお願いします。
はい、ポイエティークラジオリスナー、枯野原の狐こと西条州のブックカフェ、つぐみブックス&コーヒーの田中です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ということで、今日は4人での編成でお話をさせていただければと思いますが、先に2分で概要をお話しすると、これは青木みや子さんが西尾義久保のホールさんで展示をされていた、あれの展示の名前は幽霊の日常かな。
幽霊の日常、はい。
で、販売していた、ヤマガクキタンという陣がありまして、この陣の特集が幽霊で、ここに今いる青木みや子さん、青木真兵さん、そして田中さんと、そして僕が書いている幽霊についての陣を作っており、これの機構者が一同に会しておしゃべりをしようというコーナーなんですが、
くしゃくも高校のメンバーが全員、青木さんたちはオムライスラジオ、そしてつづみ&ブックス&コーヒーさんではハンチカトーチカというポテキャストをやっているということで、もう3つのポテキャストをまたいでこの陣の話をしようというサーキット企画でやらせていただいております。
あー、素晴らしい。
おそらく第1弾はハンチカトーチカさんで、すでにこのポジティクラジオが配信される前の週の週末ぐらいには配信されているという予定ですので、まずはそちらからお聞きいただけたらいいなと思います。
ぜひ皆様、ハンチカトーチカで検索してみてください。たぶんヒットすると思います。
はい、ということで第2弾でハンチカトーチカの最後でゾンビの話、一応終わってますね。
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ちょっとね、そのクレームがついたんですよね。ゾンビは幽霊じゃないだろう。
ゾンビは幽霊の星なの?
そうそうそうそう。ゾンビは幽霊じゃないだろうっていうところで、それは答えようとしたところで続くっていう風になっていたので、ハンチカトーチカリスナーの皆様お待たせしました。
途中から話を始めつつ、またいろいろと別の話にしていけばいいかなと思っているんですが。
なんかさっきその話をしている中で、なんか面白かったのが、幽霊はなんか見えない。
いるかいないかみたいなところを考えるけど、ゾンビは映画だったりなんだったりだと露骨にもそのままモロを映ってるけど、そもそもいるいないみたいな話にならないじゃんみたいな話が出てきていて、
そこで僕がポロッとなんかそのそもそも幽霊もゾンビも僕はあまりいるいないで考えてないなーみたいなことを話すところまでが前回のあらすじだったんですけど、
そうですね、だからなんだろうな、なんか多分僕は幽霊を言葉だと思ってて、
なんていうのかな、で言葉っていうのはもうなんかそもそも言葉っていうもの自体が具体的に目に見えるものじゃないですか。
だって幽霊って書いてみせたらその文字の形で出てくるから、それが文字の形であれ、全身青く塗った人間たちであれ、
自分のオブジェで別のものを指し示しているという状況自体はあまり変わらないみたいな感覚がすごい強いのかなっていうふうに思っていて、
だからあんまりゾンビと幽霊を区別してないのは、なんかそもそも目に見えているものそのものじゃないところになんか旨味があるというか、
旅があるみたいな意味で言うと、なんかだいたい全てゾンビであり幽霊であると、生きてしまえるなーみたいなところがある気がします。
僕たちもこの論法で言うと、あらゆるものを全てゾンビが幽霊として共鳴できてしまうっていうエリクスの仕方ができちゃいもするんですけど、
そういう差の違いなのかなというか。
確かに柿内さんのこの山が北に飛行されているエッセイ自体でもまさにそのお話をされていたというか、それも幽霊だし、それもゾンビみたいな感じで、
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柿内さんに言われると、そんな気がするっていう気がすごいしちゃうみたいな、文章の運びっていうかがあまりに巧妙みたいな感じで、
なんかその概念の捉え方みたいなのとかと、それを言葉にする感覚っていうかが、なんか本当に、だからこそあの、
なんだろうな、あの分量を一気に読ませちゃうみたいな、そのなんていうんですかね、柿内さんの文体みたいなのの引き込まれ方みたいな、
なんかそこが魅力なのかなと思うので、柿内節にかかれば全てが幽霊であり全てがゾンビである、なんかすごくわかる感じがする。
でも私の感覚としてはゾンビは幽霊じゃないみたいな気がするので、なんだろう、怪物、このエッセイの中でも柿内さんもその怪物っていう言葉を使われてましたけど、
怪物って言われれば確かにゾンビも怪物だし幽霊も怪物っていう感じがするんですけど、
でもどっちも怪物だけど幽霊とゾンビはイコールじゃない感じがするんですよね。
でもそれで言ったら私が書いてるのもスズメバチ幽霊じゃない。
そうですね。スズメバチも幽霊じゃない。
でもね、このあらゆる他者たちって柿内さんが書いてるところって、あ、スズメバチも含まれたみたいな気分になっちゃったんですよね。
イノシシとスズメバチの例がありましたけど、あと山もね、もうなんか幽霊になっちゃった気がしています。
宮子さんの場合っていうかだと、幽霊との神話性って言うんですかね。ご本人自身がまず幽霊と神話性を感じてるじゃないですか。
そうですね。
だから生きている人間っていう状態でも幽霊とすごく神話的。
で、スズメバチもそうだしイノシシもそうだし、ある意味ゾンビよりもさらに現世に近い生き物たちっていうことじゃないですか。
生き物たちですら幽霊と神話性があるっていう、この感覚本当になんかすごいなっていう。
だからこそこのエッセイの人たちみんな面白いなって思うんですけど。
だから私はゾンビは幽霊じゃないとか言いながら別に柿内さんのエッセイを非難してるわけじゃなくてめちゃくちゃ面白く読んでるし、
宮子さんが幽霊と神話性を感じるっていうこともそんなわけないじゃん生きてるんだからって思うわけじゃなくてめちゃくちゃ面白いなと思って読んでるというか、
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それぞれの感覚すごい面白いなって思ってて。
さらに柿内さんの文章の中で羅列されている者たち。
映画の登場人物というか登場イメージみたいな感じで羅列されている。
怪物たちの一覧っていう名前で並べられている者たちも全部別にいわゆる怪物じゃないじゃないですか。
ゾンビ映画だとソファーも怪物なんですか?
そうそうこれは何だったかな。
キラーソファーっていう映画があるんですよ。あれキラーソファーでやってたかな。
ちょっと何倍忘れちゃいましたけど、とりあえずソファーが人を食べる。
食べるんですね。呪われるとかじゃないんですね。
ソファーが人を食べて、そのソファーが一人の女の人のこと好きになっちゃうんですよ。
恋に落ちた殺人ソファーがこの気を引くために一生懸命頑張るみたいな。
それもホラー映画なんですか?
そうそうそれもホラー映画ですね。
基本上げてるのは全部そういう、元々ちゃんと映画として、映画主人公としている者たちなので。
ソファーキラーはその映画の主人公なんですか?
でもそうなんか多分海外のホラー映画というか、洋画のクリーチャーたちって多分そっちが主人公。
あ、そうじゃん。目線に。
そこは大きく違うところだなっていう気がしますね。
B級ホラーってやつだよね。
そうそうB級ホラーってやつですね。
良識のある人が見ないようなやつ。
なんかその書くエッセイ、それぞれ違うんだけど、でも一方ですごく似てるなと思ったところもあって。
やっぱりなんていうのかな。さっきの話で幽霊とかゾンビとか、あとトマトにせよ何にせよ。
なんていうのその
個体として横並びっていうものと、あとまあ抽象的に言うとその他者っていう話じゃないですか。みんな知ってるのはね。
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だからそこで幽霊っていうのは日本的に言うと目に見えない幽霊でもあるし。
一方でその他者、分かり合えないものを幽霊とも呼んでるから。
この人の中ではね。
だからまあ、そういう意味ですごくひどい意味で幽霊っていうのを使ってるっていうことで、
なんかなんていうのかな、その個体としての幽霊っていうのは、その話だけをしてる人がいなかったっていうのはちょっとびっくりっていうかね。
みんな他者の話するでしょ。
それも別に広い意味での幽霊なんで、そういう風に書いてくださいって言ったわけではなかったんですけど、そうなりましたよね。
だからそういう意味では、なんていうのかな、個別性はあるんだけど、たぶんその個別性ってすごい狭いところの個別性で、
たぶんわれわれ、なんていうのかな、われわれ知らない人から見たら、だいたいたぶん同じこと書いてるっていう、みんな。
そうそう、偏ったなあっていう。
切り口が違うだけみたいな感じというか、
なんかみんな幽霊のことは嫌なものだと思ってないなっていう感じがするというか。
なんかそれこそ青木さんの鍵概念である2つの原理みたいな話で言うと、たぶんなんだろうな、
一般的に広く受け入れられやすい幽霊のイメージって、どちらかというと飛眼と死眼っていう2つの原理があったときに、
その片方、飛眼にしかないものみたいな、なんかそういうこう2つに分けた上で一方を遠ざける論法で書かれることが、
まあなんか、なんていうのかな、素朴にイメージしたときにはたぶん描きやすいコードなんだけど、
みんな2つ立てた上でどっちつかずなところで書くっていう、
その淡いで書くみたいなことをしれっとしてる感じはすごい強くありましたね。
その中でマスクさんだけが割と突き抜けて、
飛眼で幽霊サイドとして話したり書いたりしてるっていうのはすごい面白いところだなっていう感じがします。
誰もがその飛眼にあるものを拒絶をしないで、そこに対して何かしらの親しみや何かを感じているんだけれども、
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そこまで飛眼の方にどっぷりと突き抜けるみたいなことまではしてない。
そのバランスがすごいいい感じだなって思いながら読んでる。
だからそういう意味では幽霊である人が、幽霊が自分を否定しない人たちに原稿を出したっていうことなんですよね。
ほんとだ。
そうですよ。
なるほど。
幽霊は向こう側のものなんだって言わせて、距離を取る人じゃない人に。
そうそう。だから、なんていうの、いてもいいんですよねっていうのを、
そういうふうにいてもいいんですよって言ってくれる人に原稿を依頼したっていう、そういう人ですね。
この世に入ってこないでとか言わないで。
いるよねみたいな、この世にもいるよねみたいな感じの。
そうそう。だから幽霊怖いよねとか、ゾンビってキモいよねって言って、
ゾンビになんてなりたくないよねみたいな人には原稿を依頼はしてないわけ。
ゾンビを愛おしむ、幽霊にわざわざ耳を飛ばさせてくれる人にお願いしたんだ。
そういう意味では、偏者のもくろみどおりという。
もくろみどおり。
そういう意味ではある意味、みんなニーズというかね、オーダーをちゃんと聞いたっていう。
真面目だっていうことでもある気がする。
柿内さんも特殊幽霊でゾンビなんだけど、その逸脱の仕方が柿内翔吾であるという。
しっかりオーダー通りではある。
オーダー通りに逸脱したという。
柿内さんはちゃんとしたつもりはないけど、ちゃんとしてたっていうことですね。
いやいや、僕は確かちゃんとしてますよ。
そうなんだよね。だから僕もね、まさにその、二つの原理を言っちゃってるわけだし、
えつぐみさんもね、まさに言葉遊びをしてるわけです。
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しめしめって感じ。
だからちょっとこの2を出すとしたら、っていうのが本領発揮な気がするね。みんなのね。
次は8センチくらい書きたいです。
どこまで越えてこられるかっていう。
全然厚さちゃうやんみたいな。
フルーストを読む生活になっちゃうかもしれない。
枕本が。
いいですね。
そういう意味ではすごく、本当に趣旨通りの本だし、いい陣というかな気がしてるんですけどね。どうなんでしょうか。
面白いですよね。
なんだろう、不思議な本っていう感じがするというか、なんだろうな。
だって本数だってそんなにあるわけじゃないのに、なんかすごく不思議な世界を見た感じのする、読語感というか。
そうなっていたらいいな、うれしいな。
最後にそれぞれのメッセーの後にオムラ寺の駆け起こしが収録されてるじゃないですか、後ろのところにサンソン夫婦法壇の幽霊トークの。
ここでシクセンスの話をされていて、幽霊同士はシクセンスだと見えないんですよね。
幽霊が見える少年には全ての幽霊が見通せているけど、幽霊同士は別の幽霊のことを見ることができないっていうところを書かれていて、これすごい大事な設定だと思うんですけど、
それで言うとこの山岳鬼壇は割とそれの逆を行くんですよね。
というのもこの促進の幽霊に描いている4人は割と幽霊側からものを描いているんだけど、幽霊側から描いている4人は割とそのつもりはなかったんですよ。
何かめくばせをしているような隣り合い方をちゃんとしている。
逆にお互いが見えてない人たちってどこにいるのっていうと、実はそれこそシガガンの現代社会側にいるというか、それぞれ分断されて孤立されてサイロ化しているような人たちがいる社会の中で、
実は幽霊のような形でちょっと一個ずれてしまったほうが何かに似合ったものになっていくみたいなところが再現されているような作りになっていて、そこがすごい四空戦争に対する幽霊はそうじゃないっていう一つのスタンスを感じるというか。
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今の柿内さんのお話、宮子さんのエッセイの締めの文章みたいな感じだなって思いながら聞いてて。
だってあの文章の中で、今現在生きている人々の社会の方がある面では有機の世界のように感じられますっていう。
現代社会の人たちの方がお互いが見えない幽霊の原理に飲み込まれてるっていう感じ。
本当に生きてるのはこっちだろうみたいな幽霊っていう自覚あるけど、でも本当に生きてるのはどっちかみたいな気持ちがちょっとあるかもしれない。
すごいですね。本当に狂ってるのはどっちかみたいな視点で言ったら、今の現代社会だいぶおかしなルールがまかり通っているような社会になっているから。
だって人間界って秩序だっているはずだったわけじゃないですか、本当だったら。人間たちは秩序を作っていたはずだったのに、その秩序が壊れてるっていう。
壊れてるってことは無秩序の世界みたいな。
それって本当は人間たちが怖がってた世界じゃないのっていう感じがするから、それがイコール幽霊の世界ではないかもしれないですけど、社会じゃないなっていう感じがするというか、恐ろしい渦の中にいる感じがするので。
自信持って自分こそ人間ですって言う人おかしくないみたいな。
そうですね、怖いですよね。
自分こそ人間だとか、我こそは正義っていうのもそうですけど、それを振りかざす人って絶対そうじゃないじゃんっていう感じがするというか。
そうだとすればやっぱり、いやいや自分は人間ですよっていう人って、いや多分人間じゃないなってお話の中とかに出てきてもきっと思います。
自分は犯人じゃないっていうのもそうかもしれないですけど。
ゾンビ映画でもまだ噛まれてないっていう奴らはだいたい噛まれてますよね。
あ、そっか。ゾンビ映画ってそれがすごい一番面白いっていうか。
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すぐに飲み込まれちゃいますからね、ゾンビ側に。
噛まれてから発動するまでに時間がかかるっていうことですか?
でもそこもちょっと話すとめんどくさくなる。
基本的にそもそも噛まれる必要すらないんですよね。
本来のゾンビ、オリジナルのゾンビに近づければ近いほど。
なので、噛まれたらゾンビになるみたいなところから割ともうすでに歴史の産物なんですよ。
あ、そうなんですね。
だから、そこはあまり話しなくていいかなって感じなんですけど。
噛まれればゾンビだってわけでは別にない。
あ、そうなんですね。
最近みんな噛まれてゾンビになりますよね。
っていうイメージが。
なんか僕はちょっと思ったのは、柿内さんのエッセイの中で、
ゾンビの歴史を少しひも解くだけで、
欧米諸国の非自存的な植民地支配の犠牲者たちの怨念が現れてくるって書いてあって、
配置の歴史の入門書を読み進めながら、ゾンビもまた幽霊なのだと考えるようになったというところなんですけど、
やっぱりそういう負の歴史みたいなものは、
ゾンビにせよ幽霊にせよ、
やっぱりそういうのと関連はしてるんだろうかという疑問というかね。
どう思います?っていう。
ずっとそれこそ歴史と配置について考えていて、
公的な記録として残っていくような大きな記述としての歴史に対して、
噂話とかね、それこそ大陸的な意味での小説というか、
大きな大説としての歴史がある中で、下級の士官たちの噂話としてある配置っていうものがあったときに、
幽霊って配置の登場人物だと思っていて、
ゾンビとか各地域にあるそういうわりと驚々しい噂話みたいなものっていうのは、
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全部公的な記録ではないところで留守している配置なんですよね。
配置にしか出てこない者たちっていうのは必ずしも、
理性的な合理主義からするとあり得ない者たち。
幽霊もゾンビもそんなものはないと言ってしまえばそれだけのものかもしれないんだけど、
でもそれだけのものでしかないっていうところにすごい大事さがあるというか、
その取るに足らない、ちゃんちゃらおかしい非常に俗っぽい想像力の中にこそ、
実はその当時の人たちが本当は残しておきたかった無念みたいなものが、
潜り込ませられるものとして機能しているなぁみたいなことを、
それこそいろんなところにそういう怪談話みたいなものを集めていると常々思っていて、
何の話でこれを話し始めたか忘れちゃいましたけど、
だからそういう、なんていうのかな、
およぎ良くない方というか正しくない方の記述みたいなものにすごいずっと興味があって、
そういうものとして全部捉えてるんだなっていう感じがすごいしますね。
やっぱりゾンビにせよ幽霊にせよ、理解できないものの表彰だと思うんですよね。
その時に僕はすごく思うのは、理解しようとっていうか、
社会の内側の人というかね、メイン側の人が理解ができないから、
あれは幽霊だゾンビだっていうのもできるし、
できるというかそういう場合もあるし、
もう一方で理解したくないみたいなことで、
その社会の内側の理解の幅を狭めることによって、
相手を幽霊にしちゃうのね。
幽霊にしてしまったりゾンビにしてしまったり、
魔女狩りとかそうなんだけど、
不必要だからこそ、理解できないものにしてしまうっていうか、
理解しようと思ったらできるのかもしれないけど、
みたいなところが、不の歴史って言った時に2つある気がしてて、
自然とゾンビが出てくるか、自然と幽霊が出てくるかって言ったら、
そうじゃない気もするっていうかね。
やっぱり社会の内側によって作り出されるっていう部分が相当あって。
ごめんなさい。
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魔女狩りじゃないけど、今は標準がすごくどんどん狭められてる社会で、
外側がどんどん大きくなって増えていっちゃう社会だから、
今まさに幽霊やゾンビが増えていってるんではってすごく思いますね。
生発達障害とかね。
そうそう、まさにね。
そういう診断をね、下しちゃう。
だから自分たちが理解できないものっていうのは、
診断を下してしまってね、他者にしてしまうことによって、
社会の中に含んだような、
理解できないものにはしないっていうかね。
それはちょっと怖いことというか、な気がしますけどね。
多様性の時代って言いながら、その多様性って理解するには増えれば増えるほど大変だから、
もうこれは内側じゃないっていう風に名前をつけてくぐって外に追い出したら、
もう理解しなくていいというか、
ラベルでだけ判断しておけばいいから、すごく楽チンっていうことですかね。
幽霊団の面白いところは、
普通にその内と外で分けるところが大元にあり、
だから基本的に、もともとはだからそれこそ排除の論理として、
ここの枠より外は他者で、それは幽霊であったりゾンビであったりっていう、
作り出すっていうのは、全部が全部内側の論理なんですよね。
だから境界線を引いて外に出していった側が、
さらにその外側を外に出すことを正当化するために語ってるもの、
そういう風に機能しているものとして幽霊団ってあるんだけど、
後世の僕らはその幽霊団を内側でデッチ上げられたものであるはずなのに、
そこでデッチ上げられた怪物たちの姿から、
なぜか外側に追いやられた側の論理を、
どこかからこっそり持ち込んでしまうように読んでしまうんですよ。
これが割と幽霊団の面白いところであり、難しいところでもあるんですけど、
もともとは差別構造を作ってそれを正当化するためのものとしてあった階段みたいなものでも、
今もうすでに外に弾き出された人の方がむしろ多いような時代にそれを読むと、
むしろ外に弾き出されたものに同情的にそれを読むようになってしまうっていう、
ここのねじれが何より面白いというか、
単純に外側からの声だからそれは拾うものとかって話ではなくて、
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そもそもその外側の声すらも内側から作られているっていうところが、
実は大事な気がしていて。
青木さんの今更映画論とかも、
めちゃくちゃ景気がいい時の一景気どんどんのアメリカ映画だったりを見ながらも、
現代に通じるような何か理論をそこから引っ張り出してこれるっていうのは、
そもそも実は無意識のうちに内側の論理の中にどこかにほつれがあったりとか、
後ろめたさや罪悪感みたいなものがあって、
そこに何か幽霊的なものが宿っていて、
その幽霊的なものを原始できるときに、
実は本来外に放り出していたはずのものたちが、
未だ中にいるっていうことが、
わりと明らかになっていくような感じがすごいなって、
そういうのが一番個人的には好みなので、
そういうのはすごいこの山書きさん全体に対しての、
読み取ってたところではあるかなって感じがします。
この本全体の中でその4本のエッセイというかに渡って、
なんとなく共通しているような空気感というのが、
まさに革命時代さんのエッセイの出だしの、
あの世とこの世はそんなはっきり分けられるものなんですかね、
っていうのをみんな前提に置いてるっていう、
そういう感じ、明確には言ってないけれども、
みんなそれを前提に、
テーマとしてそれを与えられたわけじゃないのに、
それを書いてたっていうような感じっていうんですかね。
幽霊って言われて、
あっちとこっちを分けない幽霊をみんな書いてるっていう、
どっちにもいるよねというか、
あっちにいるとされているものだけど、
こっちにもいるよねっていう感覚で書いてたっていうことなんですよ。
でも難しいのが、
あっちでもありこっちでもあるみたいなのを認識するためには、
たぶん人間は1回2つに分けないと分かんないんですよね。
だから最初からその2つはないんだと、
あっちとこっちとかなくて、
みんなそれぞれで構成されるものがあるんだって考えこそが一番危険で、
だからこそルチャリブロは方便として2つ原理を立てるわけじゃない。
それとたぶん一緒で、
あっちとこっちがあるっていうことを、
そのたてつけがないとそもそも幽霊って存在しないんだけど、
そもそもそれで幽霊が存在する理由っていうのは、
あっちもこっちもないっていうことを言うためだから、
36:01
そこのねじれっぷりというか、
どっちでもないっていうことを言うためにはどっちかっていう、
まずたてつけをつくっておかないといけないんだなみたいなところが、
幽霊について考えるときの醍醐味だなみたいなのを、
幽霊であったりゾンビであったり、
理解できない他者っていうのを、
なんで想定するかって言ったら、
自分たちは理解しあえてるよなっていう、
社会の内側をバインドするために外をつくるっていう、
これはナショナリズムと一緒だと思うんだけど、
そういう他者のつくり方っていうのはやっぱりちょっと、
不健全というかね、と僕は思っていて、
他者はいるんだけれども、
その他者は自分の中にもその他者性ってあるよねっていう、
そういう社会観っていうのを持っていきたいよねっていうのが、
ここでみんなが言いたいことなのかなとはするんですよね。
だからあの世とこの世は、
そんなはっきり分けられるのかしらって僕も書いたんですけど、
それはこの世にいる人間が、
この世とあの世って分けられないよねじゃなくて、
自分の中にもあの世っぽいことってあるよねっていう。
で、あの世にもたぶんこの世っぽいものがあるんだろうなっていう、
そういうとこなんだろうなっていうね。
いやちょっとなんていうのかな、
メメントモーリ的なものではないっていう、
なんかその、
生を充実させるために死を意識しましょうみたいなことではちょっとない気がするっていう。
だって幽霊ってめっちゃ身体的ですもんね。
そうそう。
なんかそんな気はしますね。
ちょうど40分になってしまいました。
あっという間ですね。
あと2、3分ぐらいなので。
あと2、3分か。
じゃあちょっと次のね。
次のオムラ敷に。
もうオムラ敷で喋ることなくなっちゃった。
いやそんなことないと思いますよ。
喋ってればあっという間ですけど。
ちょうどでもあっちとこっちと、
でもいっそうもうだから。
2つの原理の話がつながるような感じで。
いやもう何喋ってもそうなっちゃうんだもんね。
39:00
なんかね、2つの原理。
なんかオムラじゃあもう、
フリートークでもいいかもしれない。
でもいいですよね。
みんなフリートーク。
普通に怖い話とかしてもいいです。
怖い話。
まあ何を怖いか。
だから本当にね、
なんで怖いかっていうと、
理解ができないからじゃないかっていう風に思うんですよ。
だからなんていうの、
スマートシティめっちゃいいっすよねっていう。
怖い怖い。
怖くない?
いや怖いですよ。
350億円のリングが必要だって言ってる人たちめちゃくちゃ怖い。
怖いでしょ。
怖い怖い。
怖いのよ。
いやだからこの話が怖いっていう人もめっちゃいるんじゃない?
この書いてることが。
いやていうかね、書いてることがっていうか、
なんでわざわざこんなもん作ってんのっていう、
意味不明怖いっていう人がたくさんいるんじゃない?
なんで自費出版でさ、
雑誌とか作ってさ、
何やってんのみたいな。
何の生産性があんのみたいな。
もうね、山ん中で図書館作って怖い怖い怖いらしい。
意味不明でしょ。
怖いでしょうね。
ゾンビだからな、我々はみんな。
そうですね。
なんで自費出版して福岡に売りに行ってんのとか、
怖いかもしれない。
そうよ。
本当に。
会社員なのにみたいな。
休みの日なのに。
いかに次は我々が怖いかっていう話ですかね。
そうだね。
それなんかすっごい楽しそうだな。
40分で絶対終わんないな。
早く。
ではあと30秒ぐらいなのでこの辺りでお別れにいたしましょう。
ポリエティックラジオ、お相手は私が来ないしょうこと、
あおきみやこと、
あおき新平と、
田中篠でした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。