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2025-12-06 19:47

#84 馬鹿で馬鹿でない話 / 寿岳文章編『柳宗悦 妙好人論集』朗読解説その3

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今回は、柳宗悦さんの妙好人について書かれた小論を集めた、『妙好人論集』。

妙好人は、無学にも関わらず、仏法の真理を真に体現した人たちのことをいう。
彼らの言動は、常識では不可解に見えるが、その振る舞いに大事な教えが潜んでいる。
今回は、3人の妙好人を取り上げていきたい。

サマリー

このエピソードでは、夫婦が嵐の中で信仰のために行動する様子を通じて、「馬鹿で馬鹿でない話」の重要性が語られています。彼らの行動は常識から外れていますが、信じる力が人々の心に深い感動を与えることを示しています。また、妙好人についての考察を通じて、信仰の力や盲信の危険性が語られ、聖なる愚かさについての理解が深まります。さらに、日常の中で体験することで得られる学びと、純白さを持つ人々への関心も示されています。

嵐の中の行動
じゃあ、ちょっとラストの、ある夫婦の話、言っていいですか。
はい。
これタイトルはね、「馬鹿で馬鹿でない話」ってね。
ちょっとさっきと似てるんですけど、分からずして分かるみたいなね。
馬鹿で馬鹿でない話っていうね。はい、読んでいきます。
夫婦が寝ていますと、急に嵐になってきました。
ひどく雨風が戸を叩く音で、主人が目を覚ましました。
その時、ふと思い出したことは、御本山の建物であります。
あ、ごめんなさい、これちょっとね、前提として大事な話があって。
この夫婦は三州に住んでいるって言って、三州って、今の愛知県なんですよ。
愛知県に住んでる夫婦なんですね。
すいません、戻ります。
ひどく雨風が戸を叩く音で、主人が目を覚ましました。
その時、ふと思い出したことは、御本山の建物であります。
御本山とは、京都にある本願寺を指します。
もしこの嵐で、御本堂でも痛むようなことがあっては大変だと思いました。
とても心配になって、そばに寝ている妻を起こし、
東風がこんなにひどくなって、西方にある御本山に万一のことがあっては大変だから、
なんとか風をとどめよう、お前も起きてくれぬか。
妻も、ほんまにこれは大変なことになりました。
と言って、二人とも起き上がりました。
主人は、できるだけ大きな風呂敷を探すように妻に頼みました。
さて、二人はそれを抱えて、嵐の激しい外に出ました。
二人は話し合って、すぐ裏の一番高い丘の上に登りました。
そうして、夫婦で風呂敷のよすみをしっかり手で持って、
御本山の方へそれをあてて、嵐を食い止めようとしました。
寒い、冷たい雨風も忘れ、ともすれば倒れそうな体をやっと支え、
嵐の静まるまで立ち尽くしたと言います。
明吾を唱えながら、
これで少しでも風当たりが減ればありがたいの。ほんまに。
そう話し合って、家に戻った時はようやく夜が明けました。
この話が、いつとはなしに、その界隈に広がりました。
評判は二手に分かれました。
一方の人々は、なんて馬鹿な奴どもだ。
たかが風呂敷で大風が止むものか、考えてみろ。
三周から今日まで五十里もあろうが、ここが嵐でも今日はそうとは限るまい。
長い間雨風に打たれて風邪でもひいたらどうするんだ。
こんな話に悪口をあべせるのは、いとも優しいことです。
いかにも常識はずれの行いでありますから。
ところが、一方では、とても感じいる人々が出ました。
ありがたい同業だ。我々の新人はまだまだ足りない。
つまり、なぜだかとても説明はできかねるのですが、何かしらひどく心を打つものがあります。
そうして、この話は有名になって、後年、その他に日が経つに至りました。
そうして今でもこの日には、お参りをして手を合わせる人がたたないと申します。という話なんです。
評判の二分化
これもちょっと不思議な話ですよね。
なんか起きてること伝わりました?
伝わりました、伝わりました。
自分にできることを精一杯やっている夫婦と、そんなことして何になるっていう笑っている人と、
すごく行動に追い越した心を火に立ててまで手を合わせる人と、
そうなんですよね。
これちょっとだけ続き読んでいいですか。
それをあざけり罵った人々は合理的に優れていても別に尊敬は受けませんでした。
これは馬鹿で馬鹿ではない話ではないでしょうか。
馬鹿と言われるほど純な新人が人の心を打つのです。
結果から見て、例の風呂敷は本山の建物を守る何の役をもしなかったでしょう。
しかしこういう純な新人こそ、何より本山を守り一州を育てる力となっております。
また、こんな名工人を次々に生むところに、新州のありがたさがあるとも言えましょう。
こういう新人の栄える地方には正常な空気が漂います。
そうして合理的会議の中からは、なかなか温かいもの、清いものは生まれてまいりません。
合理派に組みする現代人に安定した幸福が見られないのはなぜでしょうか。
馬鹿と言われた名工人には安心の欠如があり、幸福があるのはなぜでしょうか。
という文章なんです。
信仰と行動の意味
これが理性の立場から見ると馬鹿に見えるんだが、信仰の立場、純粋と言ってもいいし誠実と言ってもいいし、そういう立場から見ると限りなく尊い。
人間の好意をどの次元で捉えるか。
馬鹿であって馬鹿でない話と。
こういうの読むと馬鹿でありたいですね。
私ちょっと身に覚えがあって、
あの夏、私栃木県に住んでるんですけど、
隣に群馬県の赤城山っていう山があって、その上に大沼と小沼があるんですね。
その小沼の方の、かつて行ったことがあるんですよ。
小沼の水が冷やがっていると。かなり水位が下がっているっていうのを、小沼に連れて行ってくださった方が教えてくれてというか、
こんなことになっているとレポートしていって、
え、あの小沼がこんなに減っちゃってるの?と思って。
その方は、地元の赤城の方に、
信仰というか感謝があるので、人間ができること、祈ることをやろうって言って、
雨漕いの儀式みたいなことをやったんですよ。
そのときに、ぜひ一緒に祈ってくださいと。
その場に行って、雨漕いに参加したんですね。
で、そこから1ヶ月半ぐらい経って、どうなったかも気になるし、
日にちが1日空いてる日があったので、もう一度見に行きがてら、
もしまだ水位があれだったら、重ねて祈ってこようと思って足を運んでいるんですよ。片道の時間ぐらいなんですけど。
だからどうしてもやっぱり、自分の姿がバカな夫婦とかだったりしながら、
別に自分がそこに行ったり足を運んだりしたところで、水位がどうなるかっていうところに、
別に影響はできないかもしれないけど、
でもそこへの気持ちはあるし、
気持ちとか衝動みたいなものに動かされてというのかな、そっちを選択して、
動いたなっていうのがあって、すごくこのご夫婦の気持ちがわかるというか。
それが、はたから見たらバカだよなっていうのも、半分はわかるんですけど、
でもできること何かみたいな気持ちはちょっとわかるなと思いました。
いやまさにですね。まさに。
このご夫婦の場合はね、嵐の中それをやってるから、余計バカだって言われるんですけど、
同じ話ですね、今のね。
だからこのご夫婦も、物理的に役立たないことわかってると思うんですよ。
わかってるんだけども、そういう祈りを捧げたいっていう、そういう思いなんですよね。
自分の純度に従ってというか、半分はバカげたことやってるなっていうか、
それが直接合理的に作用しないだろうということは半分わかっている中で、
でも自分の内側にある純度の高い気持ちみたいなものに従って動いたときの、
自分の得られる幸福感というか、清々しさみたいなものっていうのは体感としてわかる。
そっちを選ぶようにしているというか、
そういう、それは何にもかけがたい幸福感というか、
自分にできることをやったから、ただ無力で水がなんて言ってるより、足を運んで祈りを捧げるみたいな、
それをしたほうが心が休まるというか、それはちょっと体感的にありましたね。
なるほどな。さっき文章に、
合理的会議の中からはなかなか暖かいもの、清いものは生まれて参りませんって書いてあって、
清いってあんまり現代使わないじゃないですか。清いって感覚。
いや、清潔とかっていう意味になっちゃうというか、そうじゃない気分さ。
合理的な気合は清潔になっちゃいますよね。そうじゃない気合ね。
でも今話してくれた、こういうことやると清々しいんですよね、みたいなね。この感じ。
信仰と盲信の関係
例えば、遠足の前に子どもたちが一生懸命テルテル坊主を作って晴れを祈る。
そこに胸を打たれる感じが清さかなって思うんですよ。
それを大人の目線で、子どもたち清いねって旗から見てる感じが少し前の私にはあったんですけど、
それを今度実際に子どもの側に立ってというか、やってみたら、
胸を打つ感覚が旗から見てる感覚ではなくて、そこといつなるものとなるというか、
その清いものを自分と一つになるみたいな、それが体感としてあったから、
そういう機会があったときはそっちを選ぶ、みたいなことをし始めてる、みたいな感じがあるんですけど、
それはだから、前半のほうに出てきた幸福ができるというか、
この信仰の力で幸せというものに寄せられていくみたいな、
それは確かにあると思う。
そうなんですよね。
なんか、盲信っていう言葉があるじゃないですか。
盲信?目を塞がれてるもの?
そうそうそうそう。
信じるっていうときに盲信になると危ない感じがしてて、
だから理性とか合理的な方に考えていくっていう話って、捨てろっていう話ではないと思ってて、
とても大事なことで、だから盲信になることも危ないから、そういう意味でも理性を働かせることは大事だと思っていて、
なんだけども、理性とか合理の限界を知るってことも大事で、
その上であえて不合理に感じることとか、バカに見えることとか、
どっちかというと信仰の力のほうにも軸足をちゃんと置いていくっていうこと?
そういうことを自分もちゃんとしていきたいなーって、この文章を読んでて改めて感じたんですよね。
妙好人への関心
うーん、というのでちょっと3つご紹介したんですけれども、
まだまだ本当はね、いろんな妙婚人の話があるんですよ。
あるし、ここに載ってる妙婚人の話ってちょっとしか出てこないから、
とある人で一冊出てたりするんですよ。
例えばえなぎさんだったら、いなばのげんさっていう人で一冊本を出してるぐらいだったりするし。
なんかね、そもそも一人の妙婚人に対して一冊分ぐらい書かれるぐらいあってもいい話というか。
本当はそうですよね。
こういう進行の深みに行くまでにどういうことがあったのかってことを見ることが学びがいがあるんで、
一冊出てもいいぐらいなんで、そうなんです。
いいですよ。なんか今日はちょっと入門的にちょっとこのようにしたんですけれども。
味わい深かったですね。
いいですね、妙婚人。
ちょっと直感的に妙婚人から学ぶことが自分には多そうだなって感じてるから読んでると思うんですよね。
なんかどっちかっていうと、知的に理解しようって働きやっぱりあると思うし。
ちゃんと、それはそれでいいんですけど、自分が経験していることの中でまだつかめてないことがたくさんある感じがしてるから。
そういう意味で妙婚人に惹かれてる感じがしますね。
カラマーゾフの兄弟の時にも、スメルジャコフっていう方が出てきて、その方のお母さんってスメルジャーシチャヤって言うんですけど、
ロシア語で、嫌な匂いがする女っていう意味なんですけど。
名の通りミスボらしい格好をしてるんだけども、実は聖人なんです。
それを聖具者って言って、聖なる愚かなものっていう風にロシアでは言われるんですけれども。
それとちょっと共通するところがある。
妙婚人とちょっと違うところもあるんですけども、なんか共通するところがあって。
どっちも無額で貧しくて、社会的には仮想に見られるような人なんだけれども、
一見愚かに見えても、むしろその愚かさが実は真理を大変しているみたいなものとして描かれる人たち。
やっぱり妙婚人って言われるだけあって、純白さみたいな、正常無垢な純白な感じっていうのが共通してるんですよね。
そういうことに自分も関心がある気がしてますね。
自分が詩を書き始めたのも、結局父と母がすごい大事なことを体現してる人だなって感じたんですよ。
それで残したいって思って書き始めたのがきっかけで、
こういう人の中に眠っている、体現されている、大事なものをちゃんと見逃したくないなーみたいな。
なんで、ちょっとまた引き続き妙婚人読んでいきますんで。
はい。
はい。また次回お会いしましょう。
はい。
はい。
はい。
はい。
はい。
はい。
はい。
はい。
はい。また次回、何扱うかわかんないですけど。
はい。
はい。引き続きよろしくお願いします。
よろしく。
はい。ありがとうございました。
ありがとうございました。
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