1. 詩人の図書館 / 文学ラジオ
  2. #83 分からずして分かる・妙好..
2025-11-29 17:26

#83 分からずして分かる・妙好人より仏教の真髄 / 寿岳文章編『柳宗悦 妙好人論集』朗読解説その2

spotify apple_podcasts

今回は、柳宗悦さんの妙好人について書かれた小論を集めた、『妙好人論集』。

妙好人は、無学にも関わらず、仏法の真理を真に体現した人たちのことをいう。
彼らの言動は、常識では不可解に見えるが、その振る舞いに大事な教えが潜んでいる。
今回は、3人の妙好人を取り上げていきたい。

サマリー

このエピソードでは、あるおばあさんが金剛経の「奥無所住二生五身」という句を深く信じていることが紹介されます。彼女はその意味を理解せずに口ずさむことによって、奇跡的な癒しを体験します。無学であっても、信じる心によってその句を唱え、仏教の真理に触れたとされています。このエピソードでは、理解せずに理解する経験を通じて仏教の教えの根本を探求しています。また、明光人たちが持つ経験の力や、その理解がどのように形成されるのかについても考えています。

おばあさんの信仰と癒し
ちょっとじゃあ、次のおばあさんの話いきましょうかね。
おばあさんの話はね、これね、短い文章なんで、ちょっと全部読んでみようかなと思いますね。
はい。
これはね、『奥無首上の話』っていうタイトルの、まあ、小論なんですけど。
奥無首上ってこれ、住むところまさになし、まさに住するところなしっていう意味なんですね。
漢字で書くと、大汁の大、これまさにって読むんですよ。
で、ない、ところ、場所の所。
で、住む、奥無首上。
反対から読むと、住むところなし。
まさに。
そういうことですね。
はい。
ちょっと読んでみます。
私はかつて次のような話を聞いて、大変心を打たれました。
ある日、禅寺でお坊さんの説教がありました。
話題は金剛経に関することでした。
そして有名な次の句についての話がありました。
奥無所住二生五身。
まさに住するところなくして、その心を生ずべし。
この句はよく禅寺の床にかかっている軸物にも見かけます。
っていうんですね。
まさに住するところなくして、その心を生ずべしって、こういう意味の言葉があるんですね。
これはもうちょっとわかりやすく言うと、いろんなものに執着しない心の状態へ行きましょうよっていう言葉なんです。
この言葉は有名だから、よく禅寺とかにも掛け軸としてかかっています。
続き読むと、
全くこの句さえわかれば、三学のこと終わぬと言ってもよく、
これはね、学問の修行が終わりましたって意味なんですけど、
全くこの句さえわかれば、学問の修行が終わりましたと言ってもよく、
仏法の極意がこの一行に込めてあるとも言えましょう。
それだけに、この真意を下することは、生優しいことではありません。
その日、宝石に一人のおばあさんが聴聞していました。
文字も読めない田舎のおばあさんでしたが、坊さんからこんなありがたい深いくはないと聞かされて、
ああ、そんなにありがたいお言葉なのかと深く信じ入りました。
おばあさんは、無学とて知る力はありませんが、その代わりに信ずる心はありました。
無条件にこの句のありがたいことを信じました。
しかし悲しいかな、文字が読めず、何と読むか暗記できません。
そこで、大無諸衆を、これね、当て字を当てたって話なんですよ。
大麦、小豆、と覚え、二生五身を、一生二生って酒を飲むときに数える。
五身は五つの銭、お金。
要は当て字を当てて覚えました。
そうしてわからぬながらに、大無諸衆、二生五身と口ずさんで、何遍も何遍もこれを繰り返して唱えました。
そうして日夜を問わず、思い出してはこの句を繰り返しました。
そうしているうちに、我を忘れ、何を唱えているかも忘れ、その句に乗り移りました。
我と口との間に二つがありません。
こういう境地こそ、まさに重するところなき境地です。
これ意味わかってないんだけれども、唱えていくうちに、我を忘れて何を唱えているかも忘れて、
まさに意味する重するところなしっていう境地になっていると。
続き読むと、
そうしておばあさんは近所に病人でもあると、
例の大無諸衆、二生五身というありがたい句を口ずさんでさすってやったりすると、
不思議とその病人の苦しさが静まったとも言います。
おばあさんは何も知的に金剛経の句がわかってのことではありません。
この句のありがたさに、信じ入ったばかりに、この句を自己流に唱えて、
そこに我を忘れることができました。
そこから不思議な苦毒が生まれてきたのです。
そうして、この境句通りに、無精中に入って、自らその心を生かすことができたのです。
そのお経の日、何人の人が聞いたか知れませんが、
おそらくこのおばあさんほど身をもってこの聖句を大徳した人はいないでしょう。
っていう話なんですね。
ダラニの深い真理
すごいおばあさん。
不思議な話なんですけど。
すごい。
なんかでも、ちょっと昔の時代、いた気しますね、こういうおばあちゃん。
え、じゅんさん。
こういう感じのおばあさん。
いや、ちょっと会ったことあるようなないような。
っていう感じなんで、特定のこの人って感じじゃないんですけど、
全然なんかその作り話じゃない感がある。
そういうことなんですけど。
いやそれでね、ちょっと続き読んでみますね。
はい。
仏教でダラニって言葉があるんですけれども、
ダラニって、サンスクリット語とかを訳すときに、
通常、訳して訳すんですけど、訳せずに音写してるんですね。音写。
音をそのまんま当て字にしていってるっていう訳し方がある。
そういう呪文ですね。
真言って言いますけれども。
っていうのがあるんですね。
まさにこのおばあさんそれをやってるんですね。
自分でこの、オウム処住二聖御神っていうのを当て字でやってる。
それで唱えていると。
なのでこれちょっと続き読むと、
意味はわからぬので、
オウム処住二聖御神はダラニのようなものです。
ダラニというのは言わば呪文であって、
インド人、チベット人などはたくさん口ずさみます。
ちょっと訳しようがありませんので、
古来音をそのまんま漢字に当てたりして棒読みします。
もっとも意味は大いにあるので、
訳せないことはありませんが、訳せば知的理解に終わってしまいます。
真理の深さは知的分別だけではわからないものであります。
呪文そのままに帰って意味があるのです。
そういう意味で最も深い真理はついにダラニに熟せざるを得ません。
わかってわかるのは末で、わからずしてわかるものでなければなりません。
ここがダラニの深みであります。
オウム主状二象五神の句は、このダラニ的な深さに達したのであります。
このダラニとおばあさんは一つになったのです。
ここから一切の不思議が湧き出たのであります。
というふうに言うんですね。
すごいよくないですか。
わかってわかるのは末で、わからずしてわかるものでなければなりません。
いいですよね、これ。
面白い。
音の持つ周波数みたいな、現代で言うと、
そういうところからもう湧き出て、おばあさんの治癒してしまうとか、
すごい。
字で言ってる。
そうなんですよね。
ついね、私たちは知識に一度転換して、
わかった気になって、それを実行しようみたいな、
一旦、変換を挟む感じがありますけど、
回り道、それがついに実行できずというか、
頭でわかった気でいるけど、体得というか、
それを表現するに至らずに、頭でっかちの状態で終わるみたいな、
そういうままある気がするんですけど、
そうなんですよね。
おばあさんはその回り道をせずに、
そうなんですよ。
交便で。
そうなんですよ。
分からずして分かる経験
本当は直交便で行けばいいのに、わざわざ現代人は回り道してるということなんですよね。
僕も初めてなんですけど。
漏れなくみんなそうおっしゃいますよね。
そうなんですよ。
直交便で行った人はついに、自分がそうなっていることすら気づかないというか、
そうなんですよね。
そういうことなのかもしれない。
わかるってなんだっていうことを、もう一回考え直したくなってきて。
ですよね。
わかってわかるのは末で、わからずしてわかるものでなければなりませんって言うじゃないですか。
わからずしてわかる経験って、僕ら実はたくさんしてきてる気がしてまして。
そう言われるとイリスさんなんか浮かぶことあります?
わからずしてわかる経験。
その一個手前のわかるの方に、分けられるっていうか、分別を得るっていう、
そういう起点を、知的側っていうか思考側に行ってしまうがために、
分かれないんだなっていうところに今ちょっと意識が向いてしまって、
その分からずしてわかるっていうところの例えっていうかね、
自分でない覚えがあるような、間近な例みたいなものはちょっと今パッと浮かばなかったんですけど、
じゅんさんはなんかありますか?
芸術経験ってそうな気がしてて。
あー、なるほどね。
ペイルさんがやってくれてる色の小道。
奥の小道。
失礼しました。奥の小道ね。
黄色テーマの時に、その黄色って、黄色の語源とか考えてないし、
別に黄色の歴史を知ってるわけでもないけれども、
黄色が持ってる力とか、果たしてくれてる役割みたいなことって、もう経験してるっていう。
確かに確かに、そうだそうだ、ほんとだ。
そっちが先で、後から説いてみればそういえばみたいな、
色ってこういう振る舞いがしてることを先に体得してて、
それに頭が後から気づいてくっていうか、そういう体験が起こってます。そういえば。
あと僕、息子とか見てるとね、ほんと毎日幸せそうなんですよ。
息子はね、愛ということをね、知ってますね。分からずして分かってますね。
あとやっぱこういう僕聞くっていう仕事をしてると、他者の痛みみたいなものとかも、
本当は分からないんですけど、その人じゃないから。でもなんか、分かるっていうね。
分かってないんだけど分かってるっていうかね。
みたいなことを考えると、全てのことが本当は分からずして分かっている経験のように思えてくる。
そんなことないんだけど、全然そんなことないんだけど。
でも、愛とか美とか善とか、本当に大事なことっていうのは、
なんか分からずして分かっていることな感じがしてくるというか。
なるほどね。なんか、本当は全てがあらかじめ備わっていて完璧な調和の状態なんだけれども、
そこならば、それが分かってないのかもしれない。
そうなんですよね。後になって回収していくというか、受け止め直しにいくというか、
そういう感じなのかな。すでに経験はしてるんだが、自分としては気づいていなくて。
後から回収していく。
これ、明光人の人たちの文章を読んでいると、無学っていうことを褒めているわけではなくて、
仏教と経験の関係
別に理解できることは素晴らしいことだし、知的に理解していくことも大事な側面もたくさんあるから、
それはそれでとてもいいんだが、明光人っていうのは、
経験していく中から大事なものをちゃんとつかんでいく力がある人たちっていう感じな気がしてくるんですよね。
仏教の教えっていうのは、結局は自分で経験してつかんでいく話だから、ほとんどが。
そういう意味で明光人の人たちっていうのは、ほんとそういう意味で学があるっていうか、
つかむプロなんだな気がするんですよね。
センス。センスって感じしますね。
そうね。
それは今のおばあちゃんのことを言って言ったんじゃないんですけど、
このおばあちゃんはどうしようかと信仰の力がすごい感じがしてるんですけど。
でもなんかあるなあ、明光人にはそういう側面が。
いいですね。ちょっとこの分からずして分かるっていうのがなんか、いいなと思って。
身近にもある気がしますね、やっぱね。
ねえ。
じゃあ、ちょっとラストのある夫婦の話、言っていいですか。
はい。
はい。
17:26

コメント

スクロール