今回は、志村ふくみさんの「語りかける花」。
私自身、随筆の中で、もっとも敬愛している本の1つです。
この本は、ふくみさんの日常を描きながら、
花や色を通じて、人生に大切なことを語りかけてくれています。
サマリー
このエピソードでは、志村ふくみの『短きものの気配』を通じて、色彩哲学や自然がもたらす恩恵について深く考察されています。ふくみ氏は、人生の中で自然から得た色の変化や意味、そしてそれが心に与える影響について語ります。また、志村ふくみの色彩哲学を通じて、自然と人間の関係が探求されており、色や精神の本質についての深い洞察が示されています。色が生命を称える役割を果たしていることも強調されています。
志村ふくみの随筆
これちょっと値原さん、もう1個だけどうしても扱いたい随筆があって。
いいっすよ、全然行きましょう。
ちょっと言っちゃっていいですか?
もちろんです。
行けますね。これね、代表作と言っていい随筆なんですけれども。
はい。
『短きものの気配』っていう随筆なんですね。
はい。
少し長いんで、これちょっとかいつまんで読んでいきますね。
うんうん。
はい、行きます。
60歳を超えるほどの年を重ね、この間、一つの仕事をずっと続けてこられたのは何だったのだろう。
もしかすると、今まで見たこともない、全く別なものを少しずつ見せられていたのではないだろうか。
と、私は少し前からそう感じるようになっている。
って言うんですね、まずこれ。
確かにすごいことですね。
ずっと60を超えるまで、30年間ぐらい同じ仕事を続けてきているって、これすごいことだと思うんですね。
うん。
で、それを続けてきたものも、今まで見たことも全く、今まで見たこともない、全く別のものを少しずつ見せてもらっていたからなんではないだろうかって言うんですね。
おー、ちょっと不思議な表現だね。
そうなんですよ。
確かにこれドキュメンタリーとかね、やってますよ。
プロジェクトXだったか情熱ダイレクトだったか、ちょっとなんか忘れましたけれども、いくつかあります、番組がやっぱり。
NHKのドキュメンタリーとか、何度も見ているんで、そういうのを見ていると、染めるたんびに志村さんって感動してるんですよ。
発見があるんだ。
センスオブマンダーの世界なんですよ。
だからもう、毎回別のものを感じ取ってるんですね。
あーすごい。
それがすごい。
それもすごい。
これちょっと読んでいきますね。
自分が色についてこれほど変わった考えを持つようになったのもそうだ。
そのことさえ気づかずにいたが、本当は私の中で青虫が蝶になったほどメタホルフォーゼしているのである。
色のことを青虫などというのはあまりにそやな表現だけど、実は変わったのは私の方なので、色は少しも変わっていない。
色は永遠に不変なのである。
って言うんですよ。
これね、これもね、多層的多重的にこれね、使ってるんですよ。
そう、読んでいくとわかりますけれども。
例えば藍染めのシーンとかを見ているとね、藍釜に糸を吊るし、すくい上げると、空気に触れた瞬間は緑色をするんだけれども綺麗な。
染めた瞬間は緑色なんだけれども、空気に触れた瞬間から藍色に変わってくるということが起きるんですよ。
その神秘さと言ったらもうね、もうすごいことなんですけれども、そこに心ときめくわけですよ。
で、見せられるわけですよ。
っていうね、この色の変化、そしてそれ自体も毎回変わっていくし、その藍染め自体もその草木から取っていくもので全くちょっとずつ変わっていくしっていう。
それはね、もうね、毎年重ねていく色を並べてみるとまあ見事に違うわけですから、そういうものを感じるわけですね。
一つとして同じ色はないって本当に感じてるわけですよ。
で、色というものに関する自分の理解認識も深まっていくということも時々刻々変わっていっていると。
なんだけども、色は永遠に不変なのであるって言ってるんですね。
この色というものは、さっき言った色そのものの、色のイディアと言いたくなるようなもののことを言ってるんですよ。
なるほどね。
人間の目に映ってる色とはまた違う、世界の色、本質みたいなもの。
もうちょっと迫っていきますね。
この歳月、様々な植物から見たこともないほどの色を見せられて、胸に一撃を受け、戸惑い、喜び、それが静まる頃にはまた新たな衝撃があった。
これ、様々な植物から見たこともないほどの色に見せられて。
この見せられっていうのは、見させられているということにもあるし魅了されている。
これダブルミーニングだからひらがなで書いてるんでしょうけど。
そんなことを繰り返しているうちに、私の中に微睡んでいたものが次第に目覚めていった。
植物と関わりを持つようになって、自然界には計り知ることのできない法則や秩序があり、我々にほんの一部を介入してくれることを知った。
その扉は開くかと思えば閉じられ、その内浴は優美であるかと思えば豪気である。
意志が堅く狂気で不屈であるって言うんですね。
その秘められた法則や秩序というものは一体何なのであるか。
色の変化と意味
確かに。ここから始まる。
すごいね。
いきますよ。私は次第に色がそこにあるというのではなく、どこか宇宙の彼方から差してくるという実感を持つようになった。
って言うんです。
急に来るなぁ。
急に来るんですよ。急に確信に来るんで。え?ってなるんですよ。
一瞬で天地がひっくり返る感じと。なんだってなる。
私は次第に色がそこにあるというのではなく、どこか宇宙の彼方から差してくるという実感を持つようになった。
って言うんですね。
色は見えざるものの彼方から差してくる。
色は見えざるものの領域にある時、光だった。光は見えるものの領域に入った時、色になった。
もしこういうことが許されるなら、我々は見えざるものの領域にある時、レーコンであった。レーコンは見えるものの領域に入った時、我々になった。
と。って言うんです。
すごいですね。
これね、これあの、今日冒頭で紹介したあの日記ね。
雪の方か。
ささゆりの方。
ささゆりの方にもね。
薄紅が奥の方から差してくる。まるで花の奥に仏がいますようだって文章があったじゃない。
この奥から差してくるというのは、これ彼方から差してきている。
仏がいる彼方から差してきているようだって。まるで仏の五行のようだって言いたいようなもう感じなんですよ。
光、光の草原として。
だから、色そのもの、色のイディアって言ったのは、実は光なんだってこと言ってるんですよ。
視眼と非眼というものをこれ、ふくみさん分けてくれてますね。
仏教を演用して。
で、非眼にあった光というものは、仏の光と言ってもいい。その光というものは視眼に来た時、色になってくれてるんだってこと言ってるんですよ。
なるほどね。
で、我々も視眼の時には霊魂だったでしょうと、魂だったでしょうと。
そして視眼に降り立った時、我々は肉体を持って我々になったんだ、というわけですよ。
急に色の話からね、人間の話まで。
そうなんですよ。
この文学ラジオで紹介紹介した小林秀夫さんの思想というものは、あれは英知と言っていいものなんですけど、
あの英知も非眼にあって、言葉となって視眼に来る、みたいな感じに言いたい感じがしてくるわけですよ。
言葉を尽くし、ことによって非眼にある英知に触れられるんだ、みたいなね。
なんかニュアンスを感じるわけですし。
ふなこしやすたけさんの彫刻の随筆を読んでると、彫刻というものはこの世の視眼のものなんだが、非眼にある美だったり愛だったりというものが実はあって、
それが彫刻や絵画や音楽となって現れてきているんだって。
それを通じて美を感じるし、愛に触れられるんだっていうことなんですね。
なるほどな。
続き…
いや、ちょっとなんかあるやつコメント。
ないないない、言葉はないですよ。
感じては。
続き読むとね。
色についても我々についても私はそう実感している。色も我々も根元は一つのところから来ていると言うんですよ。
そうでなくて、どうしてこれほど色と一体になることができるのか。
自然の色彩がどうして我々の魂を完結させるのだろうか。
あの荘厳な夕映えの空を見たとき、我々は死を恐れることなく大宇宙へ帰っていくのを信じ、自然に消えする思いを抱く。
人間と色の関係
暗く立ち込めた空を見るとき、我々の心は重く沈み、暗黒の世界に引き入られていくような恐怖を感じる。
そこに光と色が失われているからである。
その時、雲の切れ間から光が差し込んでくると、我々は自分の魂に光が差し込んできたことを感じるって言うんですよ。
そうなんですよ。だってさ、他の生き物だとさ、白黒に見えてるかもしれないわけでしょ、この世界が。
でも我々の目には色彩が与えられてるわけじゃないですか。
白が合うもんね、生き物によって見れる、可視できる光はね、天の。
光ってことなのかな、ふくみさんが言ってる、人の人、人たち、人間、もともとは一緒だったって言ってる。
そうなんですよ。
色も命であるし、私たちも命であるし。
ちょっとじゃあ少し飛ばして読んでいきますね。
壁に愛の、藍色の愛、愛の生命が宿るのである。
青の誕生から終焉まで、あたかも我々の人生のような過程をたどる。
色と共に悩み、喜び、不可解に不可解を重ねていく中に、ある侵すことのできない領域を知らされたのは、愛を立てることによってであった。
植物は根、幹、葉、皮のすべてを提供し、自らの生を色としてこの世に送り出している。
これ、自らの生をって言ってる生ね、命のようにも読めるし、一応ここではね、精神の精って書いてるんですね。
自らの精神をっていう、命でもあり精神でもありっていう感じなのかしら。
精霊の精なのかな。
精霊の精でもあるっていう。
色としてこの世に送り出している。
梅、桜などの幹に蓄えられた色を見たとき、私は生の色としか呼びようがなかった。
ピンクとか薄紅とかいう名は、絵の具の名にふさわしい名のように思われた。
すごいこと言いますね。
すごいこと言いますね、これ。
すごいこと言うな。
もう一回やってみて大丈夫ですか。
梅、桜などの幹に蓄えられた色を見たとき、私は生の色、この生をさっき言っただから。
精霊とか精霊の。
精霊とかの精霊。
梅、桜などの幹に蓄えられた色を見たとき、私は生の色としか呼びようがなかった。
ピンクとか薄紅とかいう名は、絵の具にふさわしい名のように思われた。
これはピンクとかっていうのは絵の具の名前にはなってるけど、それは絵の具用の色の名前で。
人間が見つけた色でしょと。
生の色としか言いようがないものだっていうことなのか。
そうなんですよ。
そうなんですよ。
なるほどね。
ちょっと最後、あと少し読んで終わるので読んでいきますね。
我々はその色を受け、その色にふさわしい英知を持って仕事を展開しなくては、植物の生はそこで生命を断たれることになるのである。
自然はいつも重くして我々の胃のままになっているから、自由に色を操っているつもりでいるが、実は我々自身が試され、研ぎ出されているのではないだろうか。
自然界の色は物質の上に塗られたり、物質と混同したり、物質の一部になることは決してなく、物質の中に差し入って光を投げ返しているのではないか。
色は宇宙から光の使者としてやってきて、ようやく物にたどり着き、そこで初めて物と関わり、微笑んだり、悲しんだり、苦しんだりして、もう一度宇宙へ向けて差し返しているのではないかと言って終わるんですよ。
色の哲学と人間の役割
読みながらつい涙が出てくるような。
震えてきますね、ほんと。
うまいですね。
こういう、さっきの薄紅とかは絵具の色にふさわしい色に思えて、私には生の色としか呼びようがなかったってね。
こういう言葉が出てくるからね、冒頭読んだ日記の花の中に仏を見るってことは嘘には思えないっていうのは、こういうところからも感じるんですよ。
そうだね、確かに改めて思うと。
色なんかってものが、中田さん言ってくれたように、色は光から来ている、ないしは命から来ているなんてことを思ったことないから。
ない。
なんかね、自分が思ってもないことによって、支えられてるし励まされ続けているんだな、慰められ続けているんだなってことがあるってことなんだなと思ってね。
その認知してないけど、色に支えられてたり励まされてたりっていうことなのかな。
っていうことをなんか感じますね。
こうやってふくみさんが書いてくれたから、意識にはそういうふうに認識できてなかったけれども、昔からそうやって確かに慰められてきた気がするっていう実感が、この文章を書いてくれるから感じさせてくれるというか。
すごいな。色に慰められてるかも。
それは否定できないね、誰もが多分。
13年に?
いやいや、我々はその色を受け、その色にふさわしい英知をもって仕事を展開しなくては、植物の生はそこで命を称えることになるのであるって言ってるんですね。
はまらんでしょう。
はまらないっすよ。
なんか自分の仕事についても考えさせられるっていうかね。
たまたまふくみさんは色であり花であったけど、これは本当に一人一人、自分が携わっている仕事を一つ一つも。
きっとそういう見方をしていくことは可能なんだろうなとも思うし。
こんなふうに生きてみたいなって思わされるね、なんか。
そうなんですよ、本当に。
何かそういう、さっきの寺田さんが言ってた、悲願?
志願を通して悲願を振れるみたいな。
できるんじゃないかなって、とても難しい道だと思うんだけど、すごくそれを感じていましたよ。
そうなんですよね。
でもなんか全然違うことで言うとさ、じゅんさんのこのやってる文学ラジオでじゅんさんがこの本を読むじゃん。
それとなんかこの染色のさ、くみさんが色をそこからいただくみたいな話。
なんか奥にはちょっと重なって見えたな。
それちょっと気になるな。げんちゃん帰ってきちゃったちょっと。
じゃあ今度で。
げんちゃん行ってあげてください。
じゃあまたね。
またまたまた。
はい。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
21:28
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