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2025-08-09 28:50

#67 色の聖なる力 / 志村ふくみ『語りかける花』朗読解説その3

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今回は、志村ふくみさんの「語りかける花」。

私自身、随筆の中で、もっとも敬愛している本の1つです。

この本は、ふくみさんの日常を描きながら、
花や色を通じて、人生に大切なことを語りかけてくれています。

サマリー

このエピソードでは、志村ふくみの色彩に対する哲学が探求され、植物から得られる色の神聖な力について語られます。特に梅や色彩の移行についての深い理解が示され、色が芽吹く前の特別な意味について考察されます。また、志村ふくみの染色技術とそれに伴う聖なる力についても語られ、梅の蕾から色をいただく過程を通じて、命と色の関係や古代の染色思想が深く探求されます。さらに、色の深い意味と神聖な役割に焦点を当て、草木から得られる色が神事とどのように関連しているかが探られます。歴史的な背景や色彩に対する人々の考え方の変化についても考察されます。

色の哲学の探求
せっかくなんで、ちょっと随筆入っていきたいんですけど、
あのー、色、色にね、色とかにもちょっと迫っていきたいんですけど、
まず、ちょっとわかりやすい随筆あるんですよ。
これもすごく短い随筆でね。
もらった色っていうね、タイトルの随筆があります。
これちょっと読んでいきますね。
はい。
昨夜、若い女性が訪ねてきて、織ったものを見て欲しいという。
スーバのショールを見せてもらった。
いずれも色が濁っていた。
エンジ色を出したいと思って、三種類ほどの植物を掛け合わせたが、
自分の思う色にならなかったという。
私は言った。
こっからね、ふくみさんのこれ、
その若い女性に、訪ねてきた若い女性に語りかけた言葉が続きます。
色は植物からいただくのです。
どんな色になるのか、
その年の良い時期に採れた植物から、
最も無理なく良い状態で色をいただくのです。
それが天然の絵の具です。
良い時期とか状態というのも、
毎年毎年繰り返し繰り返しやってみて、
ほんの少しの違いや発見を見逃さず、
探って探って植物から教えてもらうのです。
今年はどんぐりから、思いがけず良い茶色をもらいました。
自分で色を出そうと思わずに、
あなたの周りの植物から色をもらってください。
そうすればその色が大事になりますよ。
その色に何かもう一色かけて、
殺してしまうようなことは決してできないでしょう。
どんぐりは輝く栗茶色や黒金を持っていて、
もうそれだけで秋の森の中に入っていた気分です。
色からの発想がきっと湧いてきて、
一色一色が息をするのがわかるでしょう。
これから森は栗が落ち着くして、
何も求めるものがないと思うのは間違いです。
木々は明春、来年の春、明春のために、
命ある色を蓄えているのです。
そして常緑樹は雪の中で生き生きと色を保っているのですから。
と言って終わるんです。
梅の色と生命
図筆の形としては珍しいよね。
ずっと語りかけて、その言葉で終わるんだ。
なんかセリフみたいなものが出てくるのは珍しい。
いいですね、これ。
でもなんかふくみさんのそのなんていうんですか、
この哲学っていうか、この色に対するものがすごいなんか出てくる感じと。
色をいただくっていう。
そうなんですよ。
エンジンの色を出したいと思って出ないんですって言って、
店に行ったら、そうじゃないんですって。
いろいろ混ぜちゃってるんだよね、3色くらいその方は。
だからね、やっぱないものを望むんじゃなくて、
あるものを見出していくっていうことなんですよね。
ないものに目をやってしまうと、
すでにあるものを授かっているものになかなか目が行かない、気がつかないってことが起きてしまっていると。
いろんなことに言えるんだと思うんですけど。
そうだね、いろんなことに言えるね。
出すと出そうとしちゃう。
そうなんですよ。
だからふくみさんもやっぱこれ、色とか植物から本当に人生に大事なことを教わってきていて、
最初ふくみさんも多分、出したい出したいと思ったと思いますよそれは。
きっとだよね、きっとね。
そういうのが植物から教わって、色から教わって、
こういうふうな人生に大切なことまで教えてもらっていると。
いいですよね。
いいね。
じゃあちょっとね、これ本格的に志村ふくみさんの色の哲学っていうのかな。
ゲーテンの色彩論にもとても影響を受けているんで、
そういうところにちょっと入っていきましょうか。
新古町の製品に。
楽しみ。
じゃあいきますね。
つぼみ香梅っていう、これも梅ですね。
白梅、香梅、白い梅もあれば赤い梅もあります。
赤い花、つぼみ香梅っていうものがあるんですね。
今度それについての随筆なんですけど、これはすごいですよ。
少し長めですけど、ちょっと区切って区切って読んでいきますね。
毎年暮れから新年にかけて、梅林を持つ友人から選定した梅の枝をトラックいっぱいいただく。
いつも粉雪の舞い散るような寒い日であるが、
私たちはそんなに大量の梅の枝をいただくことに喜びがいっぱいで、
さっそく枝を折って釜に入れて、
煮き立つものを名屋に運び入れるもの、
積み上げて燃やし、
灰を取って梅の枠を作るものと、
みなそれぞれの作業に没頭する。
そんな時、ふと枝を折っていて、
幹が真っ赤な紅なのに気づき、
親?と思ってよく見ると、
真紅の梅が固い引き締まった姿で、
びっしり枝にくっついている。
もう一ヶ月もすれば、
花開く、
勾配なのである。
暖かい室内に行ければ、
火ならずして、
ほころびるかのようである。
まずこういうところから入っていくんですね。
これさっき僕が紹介しましたけれども、
桜っていうのはつぼみの状態で取らないといけないっていう。
色が出ると。
そうそうそうそう。
これ今梅で同じことをこう、
似てんのかな。
そうそうそう。
立たせて色取ってるって感じ。
そうなんですよ。
だからもう一ヶ月もすれば、
花開く、勾配なのであるというわけですね。
暖かい室内に行けていれば、
火ならずして、
ほころびるかのようであると。
色の本質
ここからです。
しかし、
つぼみが花となって、
花弁がほころびたとき、
色は花へ移行し、
彼方の世界へ去ってしまうのである。
色は花の咲く前でなければ、
死眼にはとどまらないのである。
急に来るんですよ。
すごい。
ちょっと待って。
ちょっと待ってってなるね。
ちょっと待ってってなるでしょ。
ちょっと待ってってなるね。
もう一回読みますね。
しかし、つぼみが花となって、
花弁がほころびたとき、
花弁がほころびたときっていうのは、
花開くときってことですね。
花開くとき、
色は花へ移行し、
彼方の世界へ去ってしまうのである。
これすごいね。
どういうことだって感じでしょ、これ。
むしろさ、こっち側の見える世界に
出てきてくれた感じだから、
こっちに来たって感覚になった。
そうそうそうそう。
そうなんですよ。
色が出たねっていう時。
色がついたねとか。
彼方に行っちゃった?
そうなんですよ。
色は花の咲く前でなければ、
死眼、死眼と飛眼って仏教でありますね。
こちらの世界のことですね。
色は花の咲く前でなければ、
死眼には留まらないのであるって。
いいよ。
すごく。
どういうこと?
だって、花はさ、
その花ってものは死眼にあるんじゃないのって、
こちら側にあるんじゃないのって、
思っちゃうね。
そうだよね。
そうだよね。
そうなんですよ。
だから面白いんですね、この文章ね。
面白いね。
急に来るね。
色っていうのは、
蕾の中にある時、
この世の死眼に留まってくれているんですね。
なんですが、
花が咲いてしまうと、
色は死眼ではなくて、
飛眼に行ってしまうんだと、
言ってるわけですね。
だから色っていうのは、
実は咲く前に、
最も強く、
神聖な形として存在してくれているんだって。
ということなんですね。
人間の目には見えない、
ところで。
そういうことなんですよ。
だってね、
これさっき話したように、
実際、
花咲いた、
この梅の、
ものを染めても、
もう色は出てこないんですよ。
色は咲かれていってしまったんですよ。
そっか。
僕らが見ている花の色は、
ある種その、
色、
ではないというか何て言うんだろう。
あれは何なんだろうね。
そっか。
それはもう出てこないんだ。
そうなんですよ。
いやこれだからね、
ちょっとね、
いくつかの水筆読んでくるとわかるんですけど、
色っていうのをね、
すごくね、
多義的、多次元的に使ってるんですよ。
で、
そのね、色の、
色というよりかは色そのもの、
色の、
イデアと言ってないか、
色の本体というものがあり、
それは、
もう彼方に行ってしまう。
でもここの、
メニューにはもう、
色はもう授けてあるから。
でもそれはもうこのような色だから、
一回こっきり飲むものなんですよ。
そんな、
梅から色をいただく
とって何か他に映せるものではないんですよ。
本体ではないから。
だから色は移り、
花に移り、彼方へ行ってしまうっていう、
彼方に行ってしまった色っていうのは、
そういうことなんだと思うんですね。
でね、これちょっと、もうちょっと続き読んでいきますよ。
はい。
黄梅の薄紅色は
幹に宿り、
花の咲く前に、
私はその色をいただくのである。
いわば、
色ぬすっとといおうか。
紅ちり綿に、
綿を詰めて、
きゅっと縫い縮めたような、
可憐な幾千のつぼみを、
釜に入れて、
煮き立つことは忍びないことである。
しかし、
私は手に入った以上は、
貴重な染料なのである。
梅から色をいただく、
つぼみ勾配から、
命をいただく。
私は心に、
そう言い聞かせながら、
釜に火をつける。
やがて、釜の湯は沸騰して、
透明な、
琥珀色の波を、
臭いたたせ、
梅の液は、
真っ白な糸に吸い込まれていく。
ほとんど全ての植物染料が、
そうであるように、
色は、
染み込むことによって、
初めて発色し定着する。
梅は、梅の悪によって、
売食され、
柔らかい、淡い、
紅珊瑚のような、
梅染めが生まれるのである。
もちろん、
臓器などによる悪でも、
色は発色し、
美しい紅染めは染まるに違いないのであるが、
なぜか私は、
つぼみを宿したままの、
梅の誤称を願って、
自らの肺の中で、
暗示で色を生んで欲しいと思うのである。
それを人は、
儚い慰めと笑うかもしれない。
花の散った跡の枝を使っても、
十分色は出ると言うかもしれない。
しかし、
生きるものの全てに、
再び帰らぬ生というものがあるならば、
転生というものもあり得る、
と思わずにはいられない。
梅が再び、
生まれ変わって、
私の織る着物の中で、
におい立って欲しいと願う。
って書いてあるんですよ。
古代人の染色の思想
ここまでは続くんですけど、
ちょっと一旦一区切り。
ちょっとじゅんさんの補足も、
してもらいながら、
なんかすごい、
もう一回触れ直したい感じがあったんで、
すごいたくさん色々な、
あったよね。
まずこれ、
まあやっぱ忍びないんですよ。
このね、蕾の状態でもらうってことがね。
だから、梅から色をいただき、
梅から命をいただくって、
そう思いながら、
そう心に言い聞かせながら、
釜に火をつけるんですね。
でね、
この染色染めの工程の中にはね、
灰色させるために、
その、
灰色させる必要性があって、
悪を陥るらしいんですよ。
その悪っていうものは、
別にね、
他の木から出る悪でも、
色はね、発色するから、
それでいいんだけれども、
ふくみさんはね、
あえて、
この梅の五性を願って、
自らの、
梅の木から取った悪で、
色を発色させるってことを、
大事にしてるんですね。
梅から色を取るときは、
梅の悪を使う。
それに何の意味があるんですかって、
人々は笑うかもしれないですけれども、
私は何か、
その梅の、
蕾が宿っていた、
その木で、
せめて、色を発色させたいと思ってるんです。
っていう、
自らのお母さんの中で、
っていうことなのかな、
ちょっとそういうものを感じますけどね。
五性を願って、
自らの梅の悪の中で、
案じて色を生んでほしいと。
でね、
なんかね、
生きるものすべてに、
再び帰らぬ生というものがあるならば、
天性というものもあり得ると思わずにはいられない。
天性っていうのはどういう感じなの?
天性っていうのは、
天地で生きる。
天地るほうか。
輪廻天性ですね。
言葉が美しいですね、本当に。
梅が再び生まれ変わって、
私のおる肝の中で、
にを至ってほしい。
生き返ってほしいと、
願ってるんですと。
そういうふうに生まれ変わってくれるんだと思わずにはいられないんです。
命として扱ってる感じではない。
色が。
そうなんですよね。
そうなんです。
色も命。
なんですね。
色も命。
考えたこともなかったので、
僕は。
色と命、これ同じふうに使ってるね。
梅から色をいただく。
梅から命をいただく。
って言ってましたからね。
これちょっと続き読んでいきましょうか。
すごいですよ、ここから。
さらに。
古来、我々の先祖は、
すべての草木に霊があると考え、
強い子玉の宿る草木は、草木は薬草として用いられた。
って書いてあるんですね。
うん。
古来、我々の先祖は、すべての草木、草木に霊があると考え、
この霊っていうのはね、仏性って言っても呼びかえてもいいかもしれないですね。
草木国土、四海成仏の仏性と言ってもいいし、
聖なるものが、聖なる力がある。
っていうふうに。
聖なる力があるっていうふうに言ってもいいですね。
強い子玉、木の玉、霊の宿る草木には、
草木は薬草として用いられたと。
そうですよね。
アロエとかで火傷塗ったりとかね。
毒ダミとかは下毒があるから、ああいう名前の由来ですしね。
そうだよね、そうだよね。
ここはもう日本だけじゃなくて海外もそうで。
続きを読むと、
薬草に宿る霊能によって、
病が癒され、
その薬草から、
色を取り出して、
布に染め、
身にまとって、
保護したのである。
って言うんですよ。
昔はね、そんなね、
化学染料とかないですから。
色を取るっていうのは、
こうやって草木から色を取ってるわけですね。
で、それを布に染めて、
その布を身にまとうということは、
もともとその草木に宿っている霊を、
布に移して、
その霊で持って、
身をまとって、
病から守ってもらうということだったんですよ。
服を着るということは。
なるほどね。
服にそんなことがあったのか。
現代を生きてるとそんなことは。
ないですね。
その繋がりの中もあったんだね。
すごい話ですね、これね。
うん。
続き読んでいきますよ。
それゆえ、
草木から色を染めることは、
単なる染色、
装飾としてだけではなく、
生きることに直接繋がっていた古代人の思想、
信仰にも深く関わっていた。
そういう風に、
草木の色というものが、
私たちを守ってくれるんだ。
そういう聖なる力が、
色彩と自然の神々
私たちを守ってくれるんだ。
そういう信仰があったわけですね。
続きを読みますね。
すなわち、
古代人の染色は、
外的、病魔からの染色。
そういう意味で、
古代人の染色は、
外的、病魔から、
身を守ると同時に、
海山、太陽、
大地、
風雪、風雪、
等、
全ての自然現象をつかさどる、
神々の目玉を沈め、
祭祀など、
神に奉仕するものとの関連を、
草木に宿る色に、
求めたのである。
これちょっと難しいですね。
すなわち、
古代人の色彩は、
外的、病魔から、
身を守る、
と同時に、
海山、太陽、
大地、風雪、
等、
全ての自然現象をつかさどる、
神々の目玉を沈め、
って言うんですよ。
荒れ狂う海とか、
雷っていうのはね、
何かこう、自然の神々の
怒りのように感じられるしね。
昔の人々はね、
その畑、
豊穣をもたらす、
太陽とか大地っていうのも、
神々の恵みなわけですよ。
そういう、
だから、
怒ってしまう神々っていうのを、
怒らせる、
怒ってしまう神々っていうのを、
怒らせないように、
色彩を用いて、
祈り、沈めようとしているわけですよ。
そこにも色彩が扱われてたんだね。
色と神聖な役割
そういう、神々の、
沈めようと。
祭祀など、
神に奉仕するものとの、
関連を、
草木に宿る色に求めたのである。
っていうのはね、
神々は、
神々とつながってもらって、
神事を取り行ってもらうから、
それにふさわしい色を
与えなければならないだろうと、
いうことなんですよ。
草木から取られた色っていうのは、
それはもう、
自然という神々の命から
もらった色ですから、
そういう色をちゃんと、
与えて、
身にまとっていただいて、
ってやらないと神々に、
神事は行われないでしょう、
できないでしょう、ということなんですよ。
続きを読みますね。
はい。
人色の色の持つ意義は深く、
それを尊んだものと思われる。
いつ頃から、
こうした思想が希薄になっていったものだろうか。
現代の人間は、
色彩を、
単に感覚的なものとして捉え、
身近に、
ふんだんに色彩をまき散らしているが、
そのこと自体にも、
おはや我々は無感覚になっているのではあるまいか。
その昔、
鮮やかな色彩は、
貴族の専用とされ、
庶民は、
にずみや茶などしか、
身につけることができなかった時代もあったであろうし、
一つの色を得るために、
苦難し、
狂気し、
狂気というのは狂い喜び、
どんなにか、
尊んだ時代もあったであろう、
と言うんですね。
そうなんですよ。
実際、奈良時代、平安時代とかって、
金色といって、
色というものが、
身分秩序の維持のために、
身分の高い、
位の高い人に、
着用できる色というものが、
定められていたわけなんですよ。
うーん。
なんかあったね、そういうの。
下院十二階とかでね。
天皇しか着れない、
まとえない色、
みたいなものがあったりするんですよ。
だからすごい、神様みたいなものとも、
直結している概念というか、
ものだったってことなのかな。
今みたいにおしゃれ、
おしゃれみたいな話じゃなくて、
ものとしての色みたいな、
じゃなくて、
もっと神聖で、
そうなんですよ。
ひとつの得るために苦難し、
狂気し、
どんなに尊んだかって。
で、これ実際紫の色をね、
尊い紫の色を出そうと思うと、
試婚というものから、
実際取るわけですけれども、
昔はそんな技術のね、
積み重ねがあったわけではないから、
いろいろ苦難し、
取ったわけですよ。
すごく貴重なわけですよね。
ねずみとか茶色みたいなことは、
比較的簡単に取れるからね。
そういうのは庶民の方に用いられて。
そういう時代もあったんですね。
だから紫を
ありがたいみたいな感覚とかって、
現在ないわけですけども、
昔は実際そうだったわけですね。
なるほどね。
だからやっぱり、こういう色彩には、
昔のね、歴史の積み重ねがあって、
こういう色に込められた、
時代の重なり、
人の思いの重なり、
みたいなものも、
あるわけですね、やっぱりね。
現代だと割とね、
色はこう、選べるファッションのように、
っていうような感覚、
まあそれはいいことでもあるんですけれども、
まあそういう感覚だけになって
しまってるというものは、
もったいない感じがしていて、
命とつながってきた、
記憶や歴史っていうものがあって、
それを呼び起こそうとしている。
っていうのがこれ、
志村福美さんの、
歴史と色彩の変化
果たしてくれてる役割な気がするんですよね。
福美さんの文章に触れたら、
昨日まで思ってた色と、
全然違うものを感じます。
ちょっと最後まで読んでみますね。
はい。
こうして私自身も、
色を扱う仕事をしながら、
全く気づかずに、
過ごしてきた時期があった。
ある時期から、
ふと不思議な木の声を聞くようになった。
草木のほうから、
しきりに語りかけてくる言葉に、
耳を傾けるようになり、
やがて、
私自身が、
植物界の圏内にすっぽりはまり込んで、
その中の死霊によって、
動いていることを、
いやおなく感じさせられる時があるのに、
気がつくのであった。
まさに、
植物は物語るのである。
梅が、
高貴な染料であることは、
梅から発する、
すべての正気、
高貴を、
堪能させる力を増しているから、
梅染めの、
着物に漂う、
おかしがたい器品によって、
私どもは、
それを納得するのである。
幾千の蕾を宿した、
勾配の枝の、
せめてその一縷になりとも、
私は、
自分の植物の中に、
花、咲かせたいと願うのである。
って言って終わるんです。
はあ、たまらんですね。
たまらんですね。
たまらんですね。
たまらんですね。
二人掛ければ、
まさにタイトルが。
うーん、そうなんだ。
これちょっとね、
もう一個だけどうしたら扱えたい?
全然いきましょう。
ちょっと言っちゃっていいですか?
もちろんです。
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