今回は、志村ふくみさんの「一色一生」から『兄のこと」。
また、その初出となった私家版「小野元衛の絵」を読みます。
芸術を試みる、魂を生きる人間にとって、小野元衛さんの存在に触れることは、感動とともに、大きな励ましをもらうように思います。
サマリー
このエピソードでは、志村ふくみ氏の兄についての話と、小野元衛の絵に関する日記が朗読されています。兄の芸術への深い思いと、表現を通じて人々の心を美しくしようとする姿勢が語られています。また、一期一会の教えを通じて、人生の本質や罪深さが探求されています。志村ふくみの作品『一色一生』や小野元衛の詩が朗読され、彼らの思索や感情が深く掘り下げられています。
兄と芸術の境地
こんにちは。
こんにちは。
収録が、そうですね、1ヶ月ぶりですよね。
ちょっと間空きましたね。
そうですね。
うんうん。
前回に引き続き、小野元衛さんの日記を読んでいきたいと思っております。
はい。
はい。
じゃあ、どうしましょうか。早速、行っていいですかね。
はい、行きましょう。
はい。28歳で亡くなっていて、23歳ぐらいのところまで来たんで、ほんと残り5年。
残り5年になっています。
うんうん。
はい。
でね、じゃあちょっと読んでいくんですけど、これはね、志村くみさんの言葉なんですね。
日記と日記の間に挟まって、繋いでる。
はい。
志村くみさんの日記の言葉もすごいいいので、ちょっとそれ読んでみますね。
はい。
はい。
って書いてあるんです。
うんうんうん。
焼き捨ててくれっておっしゃってたもんね。
うん。
そう。
うん。
これ、どういう境地なんだろうって思いません?
あー、確かに。
息子のように可愛がり。
ねえ、日の目を仰ぐ日を親のような心で望んでいた兄でもありました。
言ってるのに、燃やしてくれって。
うん。
兄は虚しい、しかし澄み切った心でそう言った。
うん。
どういう境地なんだろう。
そうだね。
もうちょっと聞きたくなっちゃうよね。
伊藤ね。
ねえ、ほんとそうだよね。
ほんとにどういうことなんだろうって。
あと早いっすよね、言うのも。
何か、その意識を悟るものがあったんでしたっけ。
いやどうなんでしょうね、病で亡くなるからそういうのもあったのかもしれないですね、もしかしたらね。
20代の青年が言うには早くないですか。
早いですね。
うん。
あれだな、これちょっと先読むと、病がの中に過ごしましたって書いてるな、これ。
もう24歳の時。
ああ。
うん。
だからやっぱりそういう自覚があった上で。
あった上で言ってるんですね。
うん。
まあ、にしてもですよね。
どういう境地なんだろうね、ほんと。
サマセットウォームの月ドロップペンサー使ったじゃないですか。
神に祈る瞬間
はい。
あれの主人公チャールズストリックランドも、最後家にバーって絵描いて、それを燃やしてくれって奥さんに言ってたでしょ。
ああ、確かそうだった。
そう。あれも同じなんだよな。
確かに。
いやー、なんか何なんだろうこれってやっぱ引っかかりますよね。
引っかかる引っかかる。
で。
なんかそういう気持ちになることあるんですか、じゅんさんとかも作品作ってて。
いや、ないです。ないですけども。
どっちかっていうと、少ない人でも大事に何か響いてくれる人がいたらいいなと思ってるぐらいでして。
でも自分なりにこれを考えると、一つはやっぱりこの、なんだろうな、自我への執着みたいなことの否定っていうんですかね。
欲への否定というか、そういう無私の境地であらねばならないっていう現れなのかなって思うのが一つと。
もう一つは、やっぱり自己表現というよりかは自己超越なのかな、やっぱり。
その作品を残すこと自体が大事なのではなく、こういうふうに生きたっていうことそのものが大事だっていうか。
でも燃やさなくてもいいんじゃないですか、そうだとしてもって言われるとそうなんだけど。
だからちょっとわからないな。
自分の救済のために作ってるものだから、自分が亡くなったら別に存在しなくてもいいんですとかね。
そういうこともあるのかな、どうなんだろうな。
ちょっと言ってみてあんまりしっくりきてないけどな。
そうだよね、どこまで行っても、でも燃やさなくてもよくないですか、最後残るから。
やっぱりその謎がすごいなんだろうな、どんな境地なんだろうって思わさせられますね、なんだろう。
そうだよね。
たとえばね、亡くなったしのぐちゃんに向けて描いてる作品ってあると思うんですよ、間違いなく。
そういうものがもう死者に捧げてるものだから、もう作品としてはある意味見てほしい人に見てもらったものだから、もういいんですっていうのとかはありそう。
むしろ、現世で亡くなったほうが、より彼方にいる死者にちゃんと届くんじゃないか、みたいなことさえあるのかもしれない。
ああ、燃やすことでね。
奥深いね、それは。
深いです。
なるほどね、本当に。
そういうね、まあ、推察の域は出ないが、そういうこともあり得るかもしれないってことですよね。
そうです。
まあこれ実際あれですよ、あの、どうしても残しておきたかったら好きな絵を2、3枚残して後は燃やしてくれって言ってますけども、福美さんちゃんと全部残してましたからね。
そうなんだ。
ちゃんと全部残してます。
現存してるんですね。
そうですそうです。
福美さんも迷われたのかな。
どうなんでしょうね。
これあの別のやつでね、これ、神奈川県立近代美術館でね、2012年に小野本絵さんの展示会されたときの図録なんですよ。
はい。
小野本絵さんの中で一番大々的に展示会されたのが、多分この機械だったんですよ。
この時の図録の最後に福美さんまた文章を残してくれててね、そこに書いてますよ。
生前わずかの作品を残して全て焼いてくれと言い残したので、家人はつずら一杯の半個を風呂の竹口に置いて燃やすところであった。
隅々訪ねてきた友人が決して燃やさないでくださいと言われ、私は一枚も燃やす気持ちはなかったので、その後全ての遺作は私が持つことになった。
なかったんだ。
そう言われても残す気持ちなかったんですね。
そりゃそうだよな。
燃やす気持ちがなかったってことですね。
うん。
うんうんうん。
いいんです、いいんです、それはそれで。
いいんです。
いいんです。
いきなり、いきなりのこの開始もまたまたすごいな。
たまらんね。
今日もすごそうだな。
ちょっと続き読むとね。
これも引き続き、続いて文章、福美さんが書いてるんだけど。
兄はその頃よくカトリックの教会を描きに京都に出かけました。
そそり立つ教会の塔や御堂を炭の色で鮮明に描き、宗を散りばめた絵でした。
この頃、京の町で大勢の人に見られながら落ち着いて描けるようになったと言っていました。
ある時、兄が描いていると、年老いた牧師が親しみを込めた眼差しで兄を招き、教会の内部へ案内してくれたそうです。
ある時、夕暮れ近くステンドグラスを通して指す落日の日の色の美しさに打たれ、
薄暗い聖堂の奥の十字架にかかりたまうキリストの像の前に思わずひざまずきたいという思いに満たされ、
自分の命はいつ召されてもいい、それまでに真に人の心を美しくするような絵を一枚でも描かせてくださいと、
神に祈ったと兄は語っていました。
これすごいね。情景思い浮かんじゃうね。
そうですね。映像浮かんでましたね。
人の心を美しくする絵。
すごいですね。
前回、御保屋紗友希の映像は、芸術における殉教者のようなものだって言ってたけれども、
本当にそういう感じなんですね。
自分の命はいつ召されてもいい、それまでに真に人の心を美しくするような絵を一枚でも描かせてください。
ことで、もうあれみたいですね。さっき話したように。
翌年、昭和18年、戦極は休白を告げ、兄の生活もまた広さを失うと同時に深さを増し、明るさを失うと同時に暗さの中に輝きを増してきたようでした。
そしてほとんどこの年は病がの中に過ごしました。って書いてますね。
この文章も何気なく書いてますけど、すごいですね、これね。
兄の生活もまた広さを失うと同時に深さを増し、明るさを失うと同時に暗さの中に輝きを増してきたようでした。って。
すごい美しい。
で、24歳の日記、読んでみますね。
最高の姿で生き抜く
あれか、当時私にあてた手紙の一説にって書いてあるんで、これ手紙ですね。
福美さんにあてた手紙の文章。
人間がどうしたらこの世で矛盾なく、無駄なく、最高の姿で生き抜けるか、ということを明示したものが宗教の本質と思います。
例えば一つのことに真実てすれば、それで宗教の本質に触れているのです。
ですから、生やさしいものではないのです。非常に厳しいものです。
茶道の一期一会に通ずるものです。
一期一会とは、私がこの手紙を書いているときは、一生にただ一度書く手紙ということに目覚めて、真剣に、真剣に決して書くことです。
今こうして手紙を書くことは、一生でただ一度のことです。
永遠に立脚して、一刻一刻に努力するのです。
人間が知恵の最高で生きにはならぬこと、どんな苦しい時も正しい知恵に目覚めて、それにとらわれない心でいれば、必ずどんな難関も突破できるでしょう。愚かであってはならないのです。
手紙を書いているそうです。
いい文章。
安い言葉になりますが。
じゅんさんは特にどこをピックしてみたくなる感じですか?
人間がどうしたらこの世で矛盾なく無駄なく最高の姿で生き抜けるか。
いいですよね。最高の姿で生き抜きたいですよね。
それを明示したものが宗教の本質と思います。宗教の本質はそこにあるんです。
それは、例えば、一つのことに真実を徹すれば、それで宗教の本質に触れているのです。それが最高の姿なんですってことなんですね。
一つのことに真実を徹すれば。
一期一会の教え
そういった言葉を変えると、一期一会ということなんです。人生の一回生ということを感覚することが、宗教の本質であり最高の姿なんですって言ってるんですよね。
それを深く感じているから、これだけ真剣勝負に生きれるんでしょうね。
野本愛さんのこの、こんだけの真剣勝負の行動を支えるある思想というか、価値観、考え方の一端って感じなのかな。
でもすごいよね。頭でわかるのと違うじゃないですか。
僕なんかはこういう文章に触れるとね、やっぱりね、自分も本当はそうでありたいのに、さほどそうできていないという、自分のね、何かね、この至らなさみたいなものをね、直視する感じになってくる。
うんうん。
それが罪深さってことなのかなって思っているんですよ。
ほうほう。
いやなんか、罪深さってさ、改めて何なんだろうってこの一月ちょっと思ってたんですよ。
うーん、ちょうど思ってたんだ。
思ってたやっぱり、配信収録して。
で、やっぱりこの一月の中でね、中田さんにシェアしたけど、妻の手術があり、あると同時にその日レストーブがなくなってっていうのがあって。
なんかね、やっぱり自分で日記書きながらね、その、自分の至らなさみたいなものをね、直視する感じになるんですよ。
うんうん。
で、やっぱ罪深さって至らなさなんだなって思ったのやっぱり。
うーん。
改めて、僕らでいうと。
うーん。
至らないということが、うーん、罪。
うん。
ってこと。
うん、それはね、やっぱり、おばあちゃんに対して申し訳なく思ったりするわけ。
うーん。
至らない自分でってこと。
そう。
うんうんうん。
そうなんだよね。
ほう。
うん。
で、そういうものをきっと僕たぶんまだまだ重ねていって、こういう一回性、一期一会の本質みたいなもの、それを頭で理解するというか、それを生きるっていうことの道がだんだんできてくるんだろうなっていう気がしてくるっていうかね。
うーん。
うーん。
うん。
いやー、やっぱいいですね、ほんと。
いい。
これ本当にやっぱあれだな、毎日読みたいっすね。
あー、確かにね、ハッとさせられましたよね。
なんか、今日のこの収録も一回性なわけじゃないですか。
そうですそうです。
でも自分はじゃあ本当にそう望んでるかっていうと、また来月じゅんさんと収録あるよなって、たぶんどっかで思ってるから。
志村ふくみの作品
うん。
さっきの、永遠に立脚した一期一会みたいな話って。
うん。
いやー。
ハッとさせられるね。
ねー。
うーん。
いいですね。
いい。
じゃあちょっと、次読んでいきますね。
これもちょっとふくみさんの文章から始まりますけど。
その年の秋でしたか。
大海の野を歩いていた兄が、ふと山陰の茂みに人知れず散っている萩の花を見つけて申した言葉があります。
こっから尾本恵さんのセリフですね。
どうしたことか。
弟を見送って日も浅いというのに、今度は先生の死に接した。
弟の死のとこに、朝明けの白木を君に捧ぐと、白い蓮の花の軸を送ってくださった先生だった。
こうして一番体の弱い私が取り残されてしまった。
いつ私も死んでしまうかわからない。
今、この白木の花を見て思い出したけれど、
サネどもの歌に、
白木の花、くれくれまでもありつるが、
突き入れてみるに、泣きがはかなさ。
というのがあるけれど、先生や弟の命を思うと、しみじみとわかるようだ。
って言ったそうなんです。
いや、ちょっとすごすぎるな。
なんだね。
結局毎回それが出てきちゃう。
ねえ、白木の花一つ見て、こういう言葉が出てくるんです。
先生、亡くなった時、
野口健三先生って画家がいらっしゃるんですけど、
その方が小野本栄さんの先生みたいだった。
今度は先生が亡くなってしまったと。
その先生っていうのは弟が亡くなった時に、
朝明けの白木を君に捧ぐ。
白い蓮の花の軸をかけて送ってくださったって。
輪筆にかける軸のことかな。
あそこに蓮の花がかかれてあって、朝明けの白木を君に捧ぐって。
なんかすごいですね。
その一部もすごいね。
なんかいいですね。
こうして一番体の弱い私が取り抜くされてしまったって。
そうか、そうなるんか。
これサネトモの歌もいいんですよ。源のサネトモですよね。
ハギの花、クレクレまでもありつるが、
突き出てみるに泣きが儚さ。
どういうことを言ってるんですか。
これハギの花。
秋に咲くハギの花。
クレクレまでもって、日が暮れる。
クレのクレまでもありつるがっていうのは、
そのクレまでもあったのに、
突き出てみるに、月が出た頃に見に行ってみると、
泣きが儚さ。もうそこにはなかったんだって。
で、そのないっていうのが、その儚さ、ないということの儚さ、無情さって、
そういうものをしみじみと感じるんだっていう。
ついさっきまではありありとそこにあったのに。
なんかふくみさんの日記思い出しますね。
笹百合が出張から帰ってきたら亡くなった。
ありましたね。
確かに確かに。
ふくみさんのあの日記、ほんとにやっぱ小野本恵さんの日記読んで、
影響を受けてるでしょうね、間違いなくね。
なるほどね。じゅんさんがそう言ってたの、そういうことか。
いやなんかやっぱ、歌。歌っていいですね。
しかも現代じゃなくて、やっぱり昔の歌っていいですね。
そうだね。こうやって聞くといいね。
普段、なかなか読む機会ないけどさ。
こうやって歌を自分のものにしていってるんですよね。
確かにね。それを想起するぐらいね。
短かったのかな、やっぱり。
好きだったんじゃないですか。
好きだったのかな。
じゃあちょっと、次行きますか。
はい。
24:54
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