今回は、夏目漱石の「草枕」。
この本は、小説の形をした漱石の芸術論です。
まだ漱石が新聞小説として活躍する前であり、ある意味ピュアに漱石が自分の書きたいことを書けた作品といえます。
美しい文章とともに、草枕のキーワイド「非人情」の境地を一緒に学んでいきたいと思います。
サマリー
夏目漱石の『草枕』では、自然の美しさと詩的な体験が描かれています。主人公は苦しみを超えた非人情的な境地に至ります。この物語は、観察者としての視点を持つことで美を認識する重要性を示唆しています。『草枕』を通じて、日常の中に潜む美しさを発見することの重要性が語られています。作品が描く非人情の境地を理解することで、人生をより豊かに生きるための視点を得ることができます。
自然の美と心の変化
ちょっと続き、じゃあ行きましょうか。
はい。
はい。
これ、いよいよ、今日紹介する、もう最後のページになったんですけど。
ふんふん。
詩人は、憂いはつきものかもしれないが、
あの、ひばりを聞く心持ちになれば、
みじんの苦もない。
菜の花を見ても、ただ嬉しくて胸が躍るばかりだ。
たんぽぽもその通り。
桜も、桜はいつか見えなくなった。
こう山の中へ来て、自然の景物に接すれば、
見るものも聞くものも面白い。
面白いだけで、別段の苦しみも起こらぬ。
起こるとすれば、足がくたびれて、うまいものが食べられるくらいのことだろう。
しかし、苦しみのないのは、なぜだろう。
ただこの景色を、一徳の絵として見、
一貫の詩として読むからである。
絵であり、詩である以上は、
地面をもらって開拓する気にもならねば、
鉄道をかけて一儲けする良権も起らぬ。
ただこの景色が、腹の足しにもならぬ、
月休の補いにもならぬこの景色が、景色としてのみ、
世が心を楽しませつつあるから、
苦労も心配も伴わぬのであろう。
自然の力は、ここに置いてたっとい。
五神の正常を駿河に投やして、
順古として順なる思経に、
いらしむるのは自然である。
って書いてあるんですよ。
ちょっと長めだったから、
順番に押さえながら、
少し感じてみたい感覚がありますね。
そうだよね。
すごい良かったわね。
第三者の視点の重要性
美しいですね。
でも一個一個の意味が繋がらない部分があったから、
押さえていきたいなって。
詩人に憂いはつきものかもしれないが、
あのヒバリを聞く心持ちになれば、
未人の雲ない。
この人、自然の中で、
タンポポとかヒバリの声とか見て、
菜の花とかも見て、
もう胸が躍って、未人の雲ないですと。
それなんでなんだろうって。
しかし苦しみのないのはなぜなんだろうって。
それは、ただこの景色を、
一幅の絵として見、
一貫の詩として読むからであると。
一幅ってのは一枚の絵ってこと?
そうそう。一つの絵として、
と苦しみがない。
属性を離れるような境地になれるっていうことなのかな。
なるほどね。
絵であり詩である以上は、
地面をもらって開拓する気にもならないし、
鉄道を駆けて人儲けする料金にも起こらない。
考えや気持ちも起こらない。
ただこの景色が、腹の足しにもならぬ、
月休のお祝いにもならぬこの景色が、
景色としてのみ、
世が心を楽しませつつあるから、
苦労も心配も伴わぬのであろう。
なるほどな。
尊徳とかね、美術とかを超えたところに、
美がある。
はーはーはーはーはー。
自然の力はここにおいて尊い。
五神の正常を淳酷に投野して、
純子として純なる思経に癒しむるのは自然である。
かっこいいですね。
五神、五神。我々の正常って、
性欲とか性格の性に、
情ですね。心情とかの情。
だから、性質と心情ってことか。
我々の性質と心情を、
淳酷に、
瞬時に投野して、
よく心を投野するとかって言ったりしますね。
投野ってあの、
陶器の陶ですね。
陶器のように人の器みたいなものとかを、
練って作り上げること。
投野って。
我々の性質心情を、
淳酷に投野して、
純子として、
純粋なものとして、
純なる思経、
美の境域に、
美の境域に、
入り込ませるのは自然である。
冒頭、
人の世は住みにくいと。
でも、住みにくいということを、
悟ったときに死が生まれて絵ができると。
はい、言ってた。
同じことが言われているわけですよ。
同じっていうのは?
住みにくいところだけれども、
ここに、
私たちの心を、
のどかにしてくれ、豊かにしてくれるものが、
美の力であるから。
芸術の力も、
ここにおいて尊い。
でも、
個人的には、
面白いって言葉が急に出てきたのも、
面白かったです。
面白いだけで、
画物の苦しみも起こらぬと。
面白いっていうニュアンスの言葉が、
ここで急に出てくるから。
ちょっと質感がね、
これまで使ってたことの流れの中で言うと、
聞いて聞こえたっていうか。
面白いっていう心情、
についての。
さっきひばりの声、
ああ愉快だって言ってた。
愉快とちょっと近しいのかもしれないね。
それでね、
ちょっと続き読みますね。
はい。
ここからが大事。
今のすごい大事な文章を踏まえて、
続き。
恋は美しかろう。
公も美しかろう。
公ってこれ親公公の公ですね。
だから親を大切にすることも美しいでしょうと。
忠君愛国も結構だろう。
しかし自身がその極に当たれば、
利害のつむじに巻き込まれて、
美しきことにも結構なことにも目はくらんでしまう。
したがって、
どこに死があるか自身にはげしかねる。
わかりかねると。
これがわかるためには、
わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。
三者の地位に立てばこそ、
芝居は見て面白い。小説も見て面白い。
芝居を見て面白い人も、
小説を読んで面白い人も、
自己の利害は棚へあげている。
見たり読んだりする間だけは、
詩人である。
書いてあるんですよ。
ちょっと。
どうする?さらっていく?
そうだよね。
恋をするのもいいでしょう。親子護をするのもいいでしょう。
君子に忠誠を尽くすのも、
国を愛すのも、愛国心を持つのもいいだろうと。
だけども、
利害のつむじ風に巻き込まれちゃって、
そういう美しいことも、
美しくなくなっちゃうよねと。
はい。
そうだよね。
この時に大事なのは、
美をちゃんと認識できるためには、
余裕のある第三者の知恵に立たねばならない。
って言ってるんですよ。
そこで、ちょっと、
一生わからなくなる。
そうだよね。
知恵に立てばこそ芝居は見て面白い。小説も見て面白い。
自分の利害関係がないとこで起きてるものを見て、
面白がってるから、
三者ってことなのかな。
そうそう。
ドステウスキのカラマーゾフの兄弟。
ものすごいドラマチックな物語じゃないですか。
読んでいくと、
グーッと入っていきますよね。
映画を読んでも小説を読んでも。
でも、見終わった後に切り替わるじゃないですか。
うんうん。
それは、
事故の利害とは別だからこそ、
切り替えることができる。
はい。
そうだよね。
はい。
この、結局第三者の知恵、
自分の利害を置いて、
第三者の知恵に立つということが、
美を認識するためには、
大したらこの思経に入らしむるには、
重要なのである。
ということが言いたいんですよ。
この本は。
この本の中心のテーマ。
実体験の反映
文学って言われてるんですけど、非人情。
第三者の立場に立つってことは、
自分をメタに見ていくっていう。
はい。
そういう境地に立つっていうことを、
この主人公は、
この山道を歩いてて、
そのことに気づき、
そうだ、自分が、
その物語の登場人物になるのではなくて、
一歩引いた、読者として捉えたら、
いいんだっていうことに、
気づいていく。
そうそう、思い立ったわけです。
この主人公はこの後温泉地に行って、
いろんなドラマがあるんですけれども、
それも自分を引いて、
見ていくっていう。
面白いね、どういう描写になるのか気になるね、それ。
そうそう、面白いんですよ。
温泉地で出会った女性が、
そんなのやってみなさいよ、みたいなこととか言われたりとかね。
そうだよね、そんなことできんの、みたいな。
そうそう、みたいなことも起きたりするんですけど。
だって言うはやすしだよね。
自分が自分の人生を生きてるから、
引いてみるっていうのはね、
頭では分かるけど、
そういうふうに気づくんだ。
これは山道は、やっぱり一生で気づいていくっていうのがある。
一生の流れで。
この一生。
そうなんですよ。
そうなんだ。
でもそれが美とってどう繋がるかがちょっと、
もうちょっとなんか味わいたい感じもするけどな。
確かにね。
芝居は見て面白い、小説も見て面白いって。
自分の人生も、いろんなドラマが起きますと、
苦しいことが起きますと、
でもそれを小説として見たら面白く見えるじゃないですか。
これ、面白いっていうのが美の一つなんだと思うんですよ。
そうなんだ、そこもちょっと興味あるけど、
一旦ね、一旦あそこは。
そうそうそうそう。
なんだろうな。
ちょっとだから苦しみから抜けれるんですよ。
この非人情の境地って。
さっき渦みたいな言葉もあったけど、
そっから抜けてる。
そうそうそうそう。
それはさ、そうだなって感じしますよね。
そうです。
第三者で物語でものすごい悲惨なことが起きてても、
それは自分の人生に起きてることじゃないから、
それをこう俯瞰で見れますよねと。
そうだなって感じがして。
そうだよね。
そこまではなんかそうなんですよ。
やっぱそこに美が入ってくるから、
どういうことだろうっていうものが出てくるんだと思います。
なるほどね。
これ例えば僕の実体験ちょっと出していくのがいい気がしてるんですけど、
これ僕も多分めちゃくちゃ意識してるんですよ。
ほうほうほう。
例えばね、こないだ中田さんに話したけど、
うちの息子一週間入院しましたと。
うん。
で、親どっちか付き添わないといけなくって、
病院のベッドの隣に、
本当に小さいベッドじゃないんだけど、
もう布団引いて寝ないといけないんですけれどもね、
全然寝れないんですよ。
うん。
で、不自由じゃないですか。
そうですね。
もう早く終わんないかなとかって思っちゃうわけですよ。
うん。
で、その時に僕は詩を書くんですよ。
へー。
で、詩を書くっていう行い自体が、
自分を虐待化する営みなんですよ。
うんうん。
書いていくから。
そうだよね。その時はこの状況を書くんですか?
そう。
あ、そういうこと?
そう、書いてる。
はいはいはい。
そう、その時に夜だから、
そのあの心電図のさ、ピッピッピッってあの音がさ、
すごいさ、なんかこう響いてくるのね。
はい。
で、赤ちゃんの鳴き声とかも聞こえてくるのよ。
うん。
あ、お母さん大変そうだなーとか、
この心電図の音とかが何とも言えない音だなーって感じたりするわけ。
っていうこととかを捉えて、
書いていくんだ。捉えて、それを。
そうそうそう。
そっか。
みたいなことしていくと、まさに作品になり、
今の状況を客観視して、
自分のこの不自由さから抜け出してるというか、
日常の美しさの発見
なんだろう、ここに眠っている美に気づき始めるみたいなこととかが起きたりする。
あー。
そっかそっか、そこで書きながら客体化して、
お言葉にしていくと、
ピッピッって音とかも含めて、
唱え方が変わるか。
そうそうそう。
ただうるせえなと思うのと、
そうそうそうそう。
もうそうなのよ。
これはこれでみたいな、何かあるかもしれないみたいな感じ?
そうなんですよ。
うん。
おー。
まあちょっと、今のはなんか、
僕が詩を書く人間だからあれでしたけど、
そうじゃなくてもあるの、なんかね。
うんうん。
あの映画パーフェクトデイズって前ちょっとチラッと紹介したじゃん。
あ、見ましたよ。
あ、見ました。
はい。
あの映画ってさ、
すごいさ、
日常を描いててさ、
うん。
もうほんとに音がない世界の中に、
その日常の音だけが響いてくるじゃん。
うんうんうん。
朝起きた時の、前の人が竹棒機で吐いてる音とかさ。
あーそうだね、それ残ってるね、一応ね。
水の霧吹きをプシュプシュプシュプシュって。
そうやそうや。
出す音とかさ。
うん。
あれ見た時にさ、
日常の音ってこんなにも美しいんだとか、
うん。
って感じたわけ。
はい。
そうするとさ、
俺もさ、こうやって日常生活を送ってる時にさ、
ふとさ、
今自分が、
あのパーフェクトデイズの映画の世界にいるってことを思ったりするわけ。
なるほどね。
で、耳を澄ますわけ。
はい。
毎朝、うちの子供を車で送って行ってる、
ブーンって車で送ってる感じの音とかも、
うん。
なんかいいなーみたいな。
はい。
なるほどね。
とか、
はい。
なんかその、
そういう風になっていくの。
あー。
聞き逃してんだよね、物の中にいる時は。
そうそうそうそう。
聞き逃したって聞き逃したって、そこにある美みたいなのに気づいてないか。
そうそう。
自分のなんかこの、悲しみとか苦しみとかなんだろうな、
そういう気持ちに、苦手な気持ちに絡み取られちゃってる、自分の意識が。
だけどそこからバーンって脱出するんですよ、なんか。
非人情と俯瞰の視点
はぁー。
あーでもなんかちょっとつかめ、ちょっと今の、あの、味わえてきてます。
そうだよ。
今のジョーさんの例のおかげで。
確かに、例えば妻と毎晩夕食食べてますよ、と。
はい。
テーブルで。
これもさ、普通に何も意識してない自分の主観の世界にいると、
ただご飯食べてるんだよ、日常。
はい。
これもさ、バーンって脱出して俯瞰で見たらさ、
とか、例えば明日もう私はもう命を失いますって、
例えばもうそういう状況になってこの食卓を俯瞰で感じたときにさ、
美しいって思うとかもしれないよね。
そうだよね。
その美しいその食卓のシーンを渦の中にいるときは別に意識してない。
うん。
うん。
ここにある美は見過ごしてますっていうことは。
そう。
あるよね。あるなと思った今。
そうだね。
うん。
うん。
そう。
うんうんうん。
それを非人情の境地として、この草枕は物語が展開していくっていう。
面白い。
それはさ、小説とか舞台をある種第三者的にもっと読みましょう、触れましょうってことを言ってるわけじゃなくて、
自分の人生においてもそういう境地に立つってことをある種、
推奨してるかまではわかんないけど、
少なくとも主人公はそれを試みてるってことなの。
そうですね。
うんうんうんうん。
それすごいよね。
ほら、小説とか舞台を見てさ、そこにある美しさを感じるのはさ、
なんかまだ、うんって感じがするのよ。
はいはいはい。
でもその自分の人生、自分の生きてるこの今の世界って、
そこの境地、渦を抜け出して、この俯瞰の境地って、
なんかまた全然違う話。
そうなんですよ。
全然違くない?
そうなんすよ。
自分のこの人生というのを、
芸術にできるっていうか、
美しいものとして支えていく、肯定していくっていう力を、
くれるんですよね。
芸術家としての生き方
これを養っていきたいですよね。
そういうことね。
前段でじゅんさんが言ってた生き方みたいな話の話?
そう。
この辺とも繋がってくるってこと?
そう、この辺のことが言いたかったの。
面白いね。
うん。
確かに現代できてると美みたいな美しいものって、
なんかちょっと額縁に入れられてるものみたいな無意識があるかもね。
もちろん文字通り絵もそうだけど、
誰かの作品とかさ。
そうだね。
すごい芸術家の人が作ったものを見て美しいみたいなこととか。
あるなーと思って入れすぎてる?
それにしかないと思ってしまってるとか。
そういうの今ちょっと自分も感じてました。
面白いです。
このさ、この放送のさ、初回に小林秀夫さんのさ、本は使ったじゃないですか。
人生館の。
そうです。
人生館について書いてあった。公演ですかね。
うんうんうん。
あの、見るっていうことには。
観。
観です。
次元があって、みたいな。
ありましたありました。
話をしたじゃないですか。
はい。
で、芸術家っていうのは真にそういうこの世に隠れてる美しさとか、この世に隠れてる幸福みたいなものとかを見出せるから、
情動を見出せるから、描くことができるんだっていうことを言ってくれてたじゃない。
それと同じこと言われてるんですよ、ここの小説の中にも。
絵が生まれるときはいつなのかって言ったら、それをもう見た瞬間なんだってことを書かれてた。
そこの見たはさ、あの分かりやすい見たじゃないよね、たぶん。
その小林秀夫さん的に言うと。
いろんな深いレイヤーの見たのかな。
そうそう。
感じ悟ったっていうか、なんかね。
いろんなトレーニングがある気がして、僕はたぶん自分なりにこの自分の人生が一つの映画として見たらっていうのが撮りやすくて。
で、そうやって、映画として見たときに見えてくるこの尊さ美しさみたいなものをもう感じ取れた瞬間に、
あなたは仮に絵を描かなくても、詩を描かなくても、もう立派な芸術家なんだっていうことが書かれてあったんですよ。
この草まくらみ。
そうそう。
画全読んでみたい感じですね。
いいですね。
そうなんですね。
なるほどね。
だから芸術論って言ってんのは。
芸術論って最初ジオさんのイントロで聞いたとき、なんかそれもっと難しい。
芸術の歴史とかさ。
うんうん。
なんかそういうことなのかなと思ったら。
うんうん。
なんか、いい意味で違った。なんだろう。
そうですね。
なんか、すごい自分と近い、自分にも関係のあることを言ってる芸術論なんだ。
芸術論なんだ。
うんうん。
そうなんすよ。
いや、自分はだから別に芸術なんて興味ないんです。
芸術家なんて別になろうと思ってませんっていう気持ちもすごくわかるんですけれども。
でもその、自分の人生を真に意味があって美しくできるっていうことが、この芸術家の力で。
いろんな苦しいこととかもあきれてしまうようなことがあっても、それでも人生は美しい。
生きることは美しいって思いたいし言いたいし自分で語りたいわけですよね。
そういうことにやっぱり連れて行ってくれるのが芸術家、芸術の力。
だからやっぱり自分の中にいるうちなる芸術家をこうやって養っていくってことは大事なことなんですよね。
欲しいな。
いいなあ。
いいなあ。めちゃくちゃいいなあ。
なんかこのラジオにこうやって初めて始まって参加させてもらってからやっぱり芸術って言葉の距離感がまた変わってきた感じがしますね。
もっとなんか高尚でさ、上に置いてある紙棚とかに置いてあるようなものっていう風に見ちゃうじゃないですか。
芸術。
確かに確かに。
誰の心にもあるっていうか。
お別れで終わりますか。
終わっときますか。
はい。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
26:16
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