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2025-09-27 35:03

#74 深い仏画の世界・小さき花の継承 / 志村ふくみ『一色一生』兄のこと、『小野元衛の絵』朗読その6

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今回は、志村ふくみさんの「一色一生」から『兄のこと」。
また、その初出となった私家版「小野元衛の絵」を読みます。

芸術を試みる、魂を生きる人間にとって、小野元衛さんの存在に触れることは、感動とともに、大きな励ましをもらうように思います。

サマリー

このエピソードでは、志村ふくみ氏が兄の影響を受けながら、仏画の深い精神性やその歴史的背景について語っています。上野の博物館での経験を通じて、仏像や仏画が持つ崇高さと彼自身の思索を深める姿が描かれています。また、志村ふくみ氏は『一色一生』や人間の苦悩、信仰の美、さらには兄の死を通じた生命の尊さについても言及しています。仏像や花を象徴的に用い、現代の荒廃の中で希望を探求します。さらに、このエピソードでは志村ふくみ氏とその兄についての考察があり、特に兄が一筋に続けている旅や、残された絵が語りかける恩義について触れています。最後に、彼らが受け継ぐ深い仏画の世界とその感慨について語られます。

博物館での衝撃
ちょっと続き読んでみていいですか。はい。こっからまたいいですよ、これ。
うーん。いきますね。はい。
兄が亡くなって翌年の春、ある雨の日に、私は上野の博物館に行きました。
水戸、飛鳥、平安、奈良、藤原、鎌倉、江戸都、時代を追って、仏画、仏像、山水画を見ていきました。
恐ろしいほどの感動と、空白とした、しかも追い詰められた近代の悲劇にぶつかって、私は激しい衝撃を受けたような気がしました。
ことに、水戸・飛鳥時代の仏像・仏画の気高さは、かつて上代の諸仏像は神の姿に最も近く、
たとえギリシャの彫刻がいかに優れていても、これほどの崇高さは感じないと兄が語っていたことを思い起こさせ、
魅力菩薩、観音像、三尊仏など見ている中に、私は上代の人々の信仰と生活が全く一つであり、
神に及ぶ限り近づき、親しんでいたとさえ思われました。
それらの仏像は、深い深い神の世界にあって、静かに瞳を閉じ、瞑想にふけていました。
もはや、我々に及びもつかない人間の傍所、初めの姿を象徴し、
この世の悪、惨めさ、苦悩、それらのものの、芽生える以前の恐るべき静けさの潜む世界でした。
なぜ兄があれほど仏画に傾倒し、没頭していったかよくわかると同時に、
私は、立善として兄が見果てもつかない画場へ、車任務に登っていったかを痛感したのでした。
兄の影響
いいね。
そうですよ、これ、兄さん亡くなった翌年、上野の美術館、博物館に行きましたと。
そこで、水戸から江戸までの時代を追って、仏画仏像を見てみましたと。
そこに激しい感動と近代の悲劇にぶつかって、徐々に大事なものが失われてきてしまった悲劇があるわけですね、近代以降。
そういうものにぶつかって、激しい衝撃を受けたような気がしましたと。
特に、水戸、飛鳥の時代の仏像、仏画の気高さは、凄ましいものがありましたと。
上代の人たち、上代って昔の人たちってことでね、昔の人々がどれほど信仰を強く、
そして、その彼らの厳しい生活っていうものをひしひしと感じて、
神に及ぶ限り近づき親しんでいたとさえ思われましたと。
これこっからが凄いんだよね。
それらの仏像は、深い深い神の世界にあって、静かに瞳を閉じ、瞑想にふけていました。
もはや我々に及びもつかない人間の業所の姿、人間の始めの姿を象徴し、
この世の悪、惨めさ、苦悩、それらのものの芽生える以前の恐るべき静けさの潜む世界でした。
これをここまで感じた福美さん凄いな。
ねえ、普通けどね。
凄いな、映像ともなき映像が浮かんでくる、凄い文章だ。
もうこれはね、この凄さは、この言葉を解説して理解できるもんじゃないからね。
自分で体験するしかない世界ですからね。
はい。
皆さんが感じ取ってもらうしかないんですけれども。
美しい。
でもこの福美さんにはね、この仏画の、ないし仏像の凄さを感じて、
兄がなぜあるほど仏画に傾倒したのかということはようやく分かったんです。
分かるような気がしたんですって。
うんうんうんうんうん。
うんですね。
なんかこういうの読んでるとね、
芸術と表現の難しさ
亡くなったからこそ見えてきたものがあるって感じがしますけどね。
うーん。
勝手に僕が言ってるだけですけどね。
うーん。
うーん。
お兄さんが亡くなったからこそね、分かってくるんじゃないかな。
ある意味わざわざ見に行ってるわけですしね、これ多分仏画みたいなものをね。
うーん。
何か知りたかったのかな、もしかしたら掴みたかったのかな。
知りたかったんでしょうね、これ。
うーん。
兄があれほど仏画に傾倒したってことがね。
うーん。
うーん。
でもちながつながってる兄弟だから分かるんですね、なんかね。
うーん。
ふふふ。
うーん。
そう。
それがどれほど果てしないことかも同時に分かってしまったみたいな感じなのが。
うーん。
やろうとしてたことは。
うーん。
うーん。
僕らもこれから仏画とか仏像を見るときね、
ここまで深くは見れないかもしれないし何も怖いかもしれないけど、
なんかちょっといつもと違う目で見てみたいですね。
うーん。
うーん。
少なくとも福見さんが見られたその飛鳥時代の。
うーん。
もう見てみたいってなっちゃうよね、これだけ描かれるとね。
ねえ。
どんな絵だったんだろうな。
ねえ。
うーん。
これ続きちょっと読んでみますね。
はい。
ちょっと前の文章から読むと、
私は立然として兄が見当てもつかない画像へ車任務に登っていったかを痛感したのでした。
己の限りない罪を嘆く兄にして、あまりにも病弱な兄にして、
濁りに濁ったその泥沼にありながら、
あまりに正常を向くな、
瞬間無比な山に登らんと欲したのです。
亡くなる前年の日記に、
もう十年の修行時代を得たいと悲痛に書いていましたが、
もう二十年の否、
永遠の修行期間を経ねば登り得ぬ道なのだとその時思いました。
って書いてますね。
すごいね。
うーん。
この感覚、もっと感じたいですね。
なんかできちゃいますね、みたいなことじゃなくて。
うーん。ないないない。
感じてみたいね、確かに。
できちゃうことが増えていくしね、大人になっていくと。
仕事もできる流度に分解しながらやっていくものが多かったりするし。
どんなことなんだろうね。
二十年、三十年とか、
いやもう永遠にやっても届かないんじゃないかっていう。
圧倒されるもの。
そういうの感じることありますか?
いやー、なんかあれなんだよね。
そのできないっていうと、
どっちかっていうと自分の才能がとか特性がみたいなことからできないとか思っちゃいますけど、
ここで言ってる果てがないっていうのは、
深い深い神の世界にまで行くからでしょう。仏の世界まで行くからですよね。
もうそれが含んでるんだよね。
そうですね。
自分の強みとか、そういう話じゃない。
そうそうそうそう。
その存在の中にもその果てしなさが含まれてるって感じなのかな。
ね、そうなんですよね。
僕らはこういうところに大事なものがあると思っているから、
草木国土七海成仏みたいなね、ことをやっぱ大事にして読書をしているわけですし、
だから、もっと感じたいと思ってますよ。やっぱね、こういう世界。
感じてみたいと思った。
ねー。
何かを一点、じっと見つめていくとその世界になんか出ていきそうな感じも思いますけどね。
なんでもいいんですけど。
ねー。
木でもいいし、
そうなんですよね。
言葉でもいいし、
人の話を聞くってことでもいいのかもしれないけど、
それを何だろう、究極に見つめていった先には何か、果てしなさのようなものを感じそうですけどね。
そうですよねー。
身近にありそうですけどね、入り口が。
そうですよねー。
でも出会ってない感じがしました。
なんか芸術として、芸術家として何か作品を作るってなると、さらにやっぱり難しさがある、ありそうですね。
そうだよねー。
感じることができても。
それを表現っていうか。
ねー。
その感じたものを絵にするって、どんな感じだろう。
ほんとだよ。
ほとんどの絵にしたことがないかなって思います。
描いてそうすれば、
そういうことですね。
もうその絵を描くことができたら、
何か言いたいことはあるわけじゃないですか、
どうか、
あれは、
なんか、
その絵を描くことで、
どんな絵を描いて、
どうするかhabitsを踏まえて、
ほとんど、イメージとずれそうじゃないですか、違う、違うってなりそうじゃないですか、何書いても違うってなりそうですよね。
その調装、それすごいな。
そうなんだよね、基本違う違うってなるんですよね。だからやっぱさっきの日記で、あーようやくできたこの1枚ってなるんでしょうね。
うんうんうん。
書いて書いて書きまくった先の、そういう1枚だったでしょうし。
ね。
うーん。
果てしないよね、そんな1枚ができた日にさ、あと10年って思うのって果てしなさ感じますね。
感じますね。
なんかあと1年じゃなくて。
そうなんですよね。
だって自分がある程度納得する絵を書いて、気づいてらっしゃった。
すごい。
で、これちょっと読んでいきますね。
はい。
もうね、あと1ページで終わりなんですよ。
あ、そうなんですね。なんか寂しいですね。
で、これ最後、ちょっと長めですけど、読んでいきますね。
はい。
もはや現代の人間それ自身が罪を負って生きている。
いくら命がけで清まりたいと願ったとて、もはや自分の心に穢れなき神の姿を映し出すことは絶対にできないのだ。
仏像と人間の苦悩
村上科学の仏像は苦悩と礼儀と積量を象徴し、科学のような人にして初めて自己を練り磨き高めていく。
その過程に表現された仏像があのような表情を持つことこそ真実であり、我々はその魂の真摯さにおいて言葉なく科学の仏像に跪きたい思いがすると思います。
人はそれを見て、精神の平穏と信仰の美を直接に読み取ることはできないけれど、その限りない苦悩の中に、
ひたすら神を求め続ける一人の人間の偽らざる告白を聞く思いであり、それゆえにこそそれらの人々の異形は美しく、人々の心に迫るものを持っていると思います。
現代に生きる人間にとって、それは、科学という武器によらねば登り得ぬ画像となったのでしょうか。犯すべからざる神の領域に恐れぎもなく堂々と突き進む人々は科学者のみでしょうか。このことこそ、近代の大きな悲劇の原因ではないでしょうか。
人間はすでに犯すべからざるものを犯しつつあります。リルケの言うように、もしかすると人類は神の裏側に来てしまったのではないでしょうか。苦しそうであるなら、いいえ、そうだからこそ、
一本のガランスを求めるより、一片のパンを求めねばならぬこの荒廃の内続く現代のどん底で、打ちひしがれ望みを失ってはならぬと思うのです。神が人間に与えられた使命の何であるかを忘れ、人類の奇数を破壊に導こうとする怒涛の中にあればあるほど、命懸けで守り通さねばならぬものがあるように思えるのです。
暗い景観の小さな花の散った跡から、大しい美しい花を咲かせてくださる人々の必ずあることを信じ、命を込めて念ずるものです。
その一縷の望みあればこそ、兄の死は決して痛ましい惨めな敗者の死にとどまらず、その魂は永遠なるものを求めて、今も一筋な旅を続け、受け継がれ、必ず身を結ぶ火の荒んことを信ずるものです。
と言って終わります。
うん、いいですね。
ねえ。
うん。
のびさんの文章すごいですね。
うん。
うん。
さっき話してましたけど、この文章を前半読むと、やっぱり村上科学のように、塾を練り磨き高めていく、その過程に表現された仏像が、あのような表情を持つことこそ真実であり、我々はその魂の深さにおいて、言葉なく科学の仏像に跪きたい思いがすると思います。って書いてあるんですよね。
うん。
うん。やっぱり魂を磨いていかないと、ああいう絵は生まれてこない。
うん。
うん。
リルケの言うように、もしかすると人類は神の裏側に来てしまったのではないでしょうかと。
うん。
もしそこであるなら、いいえ、そうだからこそ、一本のガランスを求めるより、一片のパンを求めればならぬ、この荒廃の打ち続く現代のどん底で、打ちひしがれ、望みを失ってはならないと思うのです。
一本のバランス?
ガランス、ガランスっていうね、植物があるんですよ。
ガランス。
うん。
あのー、茜色した植物で。
これはね、あの、村上階太っていう画家であり詩人の方がいらっしゃるんですよ。
うん。
で、尾本家さんも村上階太好きなんですよ。
うんうん。
で、村上階太の代表作の中に、ガランスを謳った詩ってあるんですよね。
うーん。
だから多分それのことなんじゃないかなと思います、なんかこれ推察するに。
なるほどね。
で、その中でガランスっていうその茜色のね、この赤色のものは、なんだろうな、血液を象徴しているものであり、芸術とか精神を象徴しているものでもあるように歌われてる作品なんですよ。
うーん。
なので、一本のガランスを求めるよりっていうのは、そういう芸術世界、精神世界を求めるよりも、一辺のパンを求めればならぬ、生活とかを求めればならぬほど、荒廃の打ち続く現代のどん底の中で、っていう一点ですね。
うんうんうん。
なんかそれ書かれたの何年前でしたっけ、もう。
結構前かな。
なんか今も、今聞いても普通に通じそうだね。
確かに確かに。
一色一象が出たのはこれ、ふくみさんが58歳の時に出てますけれども、もともとはね、このこっちの屍版の方出てますから、ふくみさんが32さんとか。
え?
35、6とかかな、まあちょっとそれぐらいに出てる。
なるほど。
それぐらいに書いてるんですよ、この文章。
いよいよ増して、みたいな感じですよね、現代の僕らがそれに触れると。
そうなんですよ。
うん。
これ、暗い景観の、って最後の文章いいんですよね。暗い景観って暗い谷間のってことね。
暗い谷間の、暗い景観の小さな花の散った後から、大しい美しい花を咲かせてくださる人々の必ずあることを信じ、命を込めて念ずるのです。
その一縷の望みがあればこそ兄の死は決して痛ましい。みじめな敗者の死にとどまらず、その魂は永遠なるものを求めて、今も一筋な旅を続け、受け継がれ、必ず身の結ぶ日のあらんことを信じるものです。
芸術と生命の継承
強く願うってことが、そのお兄さんの命が決して無駄じゃなかったってことに繋がってくるってことなんですよね。
そうなんです。
もうだから我々がこれを読んで影響を受けてる時点で、いくばくか受け継いでるんですよね。
で、我々がこうやって、我々もまた同じように懸命に生きるから、現代で破滅に向かおうとするものを何とかより良いものにしていこうって動きが出てくるから、そういうものを念じておりますと。
なるほどね。谷間の花っていうのもすごい衆逸というか。
そうなんですよね。
これね、どっちが先に文章を書いたのか。
このね、暗い景観の小さな花って、これね、このおのもとへのえっていう屍版の方の最初に柳文義さんが書いてる文章に出てくるんですよ。
え?
で、それがなんとも美しくて。
だから、おそらく柳文義さんが書いてるから、それを引き受けて福美さん最後にこうやって締めたんじゃないかなと思ってますね。
なるほど。
でも逆もあるかもしれない、もしかしたら。福美さんが書いたから柳文義さんが十分にこう書いた。
どっちかっていうと柳文義さんが書いたから福美さんこう締めたんじゃないかなと思うけどね。
なんかなんとも素敵なわからなさだね、なんかそれも。
なんかでもこうやってね。
どっちも素敵だな。
そうなんですよ、美しいんですよ、こうやって。
どっちであろうといいな。
そうなんですよ、どっちであろうといいんですよ。こうやって一つの芸術をね、作っていってるっていう。
ちょっと読んでほしいですけどね。
読んでみていいですか。柳文義さんの文章もいいですよ、序文。
いきます。
これ序文ですよ、いきなり。
序文だよね、前書きだよね。
そう、前書きの、もう一番最初から入りますよ。
はい。
誰も滅多には訪れてくれない遠い山奥の暗い景観の岩陰に一輪の可憐な小花が咲いていました。
なぜこんな場所に咲くようになったかは、何の因縁によることでありましょうか。
しかし花である限りは、自然がこの世を美しくしようとする志の現れであると言いましょう。
ただ悲しいことには、この小花は、蕾がしばらく膨らんで、まさに開きかけようとしたとき、無情の雨風に叩かれて、その短い生涯を閉じてしまいました。
子・尾本英君は、そういう小花にも例えられる若い画家でありました。
って始まるんですよ。
そういうことなんです。
なるほど。
いやー、いいね。
なんと美しい。
例えば。
わなしれ。
英が浮かびました。
ほんとに。
それがまた最後にもう一回出てくるって思うとなんかまたいいね。
いいでしょ。
それで挟まれてるんだね。
これ、ちょっと続き読んでいきますよ。
はい。
子・尾本英君は、そういう小花にも例えられる若い画家でありました。
しかし、これも何かの縮演によるのでしょうか。
人里離れたその景観に、たまたま足を運んで、ふとその小花に目を止めた幾百かの人たちがいました。
そして散っているその花びらを拾って、その色の美しさや香りのゆかしさに心を惹かれた人たちがいました。
私も偶然、そういうわずかな人たちの仲間なのであります。
もう読みながらジュンさんも染み入ってる。
噛まないっすね。
尾本英さんに描いてるようですし、ほんと全人類一人一人描いてるっていうかね、
自分に言われてるような感じを感じながら聞いちゃってました。
その花がね。
この花っていうのは、尾本英さんの絵だったり、日記だったり、あるいは生き様だったりってすると思うんですけども。
こういうのがあって、さっきのね、福美さんの最後の文章があるんですよ。
もう一回福美さんの文章を読んでみますよ。
暗い景観の小さな花の散った後から、
大しい美しい花を咲かせてくださる人々の必ずあることを信じ、命を込めて念ずるのです。
その一縷の望みがあればこそ、兄の死は決して痛ましい惨めな敗者の死に留まらず、
その魂は永遠なるものを求めて、今を一筋な旅を続け、受け継がれ、
必ず身の結ぶ日のあらんことを信じるものです。
兄と彼の旅
なんかこれは本当にもう、亡くなった人に捧げたい言葉ですね。
そうだね。
そしてお兄さんは、今なお一筋な旅を続けてるんですね。
ねえ、どこに向かってるんだろう、どんな旅なんだろうね。
向こうでは向こうの仕事があるんですよ、やっぱり。
首相を救済していくっていう仕事があるんじゃないでしょうかね。
いいね、なんか。
いいですよね。
その表現、その表現、向こうには向こうの仕事があるんですね。
そうなんです。
考えたことなかったなあ。
これちょっとせっかくなんで柳木文義さんの文章、最後の部分ちょっと読んでみますね。
はい。
しかし残された幾枚かの画工は、画の原稿はですね、画工は今となってみれば、
その恩義に報いる何よりの紅葉の印ではなかったでしょうか。
これあれですね、紅葉紅葉って、当面の目標は紅葉、親孝行することですって言ってたやつだと思いますね。
だけど残った絵を見てみれば、その恩義に報いる何よりの紅葉の印ではなかったでしょうか。
その恩義に報いる何よりの紅葉の印ではなかったですかって言ってくれてるんですよ。
果てない一生であったとはゆえ、決して無駄なものではなかったと、それらの絵は語ってくれていると思われます。
私はその絵や日記が一冊の冊子に余れて、世に贈られる日の来たことを喜ぶものです。
これが今は亡き霊への何よりの供養であることを恋に願い、壊れるままにここに序文を奏する次第であります。
深い仏画の世界
七木文宏
いやぁ、良かったですね。
良かった。
最後序文に帰ってきて、なんかすごいリレーでしたね。
どうでした?
毎日読みたいですね。
久しぶりに触れた感じだったんですか、今回これを。
そうです。
なんか自分が求めていることがやっぱここにあるって感じてるんでしょうね。
そっか。
だから中田さんにも話したけど、最近のノバーリスの青い花を読んだりとか、
なんかそういうのもやっぱ福美さんとかが愛読しているものを自分もたどってみたいなとか、
物本絵さんが見てきた画家の絵を見てみたいなとか、そういう形でなんか導いてもらってる感じもありますね。
まさに受け継いでいこうっていうかね。
じゅんさんの中に気づいているとか感じたなぁ、今聞きながら。
その一人なんだね。
そうですね。
いやだから本当に僕、自分の詩集がやっぱ福美さんに読んでもらったっていうのはもう本当に感慨深かったですよ。
本当そう思うとね。
さらにその奥深さっていうか、その考えっていうものの深さ。
いや本当ね。
そうね。ちょっと深く知れた感じもしたなぁ、もうちょっとだけ。
もう出会ってるわけですもんね、この本ともちろん出会ってたし。
そうですそうです。
そんなことですよね。
そんなことが起こるとはつゆ知らないじゅんさんがこれに触れてたわけですよね。
そうですそうです。
いいですね。
良かったです。
中田さんなんか改めてどうでしたか?なんか印象残ってることとか。
なんか受け取ったものとか。
だらけだけどなぁ。
なんだろう、受け取ってることある気がする。言葉になる前のなんだろう、なってないかも。
うん。
知れない。
でもなんだろう、書いてきたこともそうだけど、こういう人がいたっていうその存在そのものに励まされるんだろうなぁ。
なんか自分は励まされてる。こういう人間がいた。
人間もここまでたどり着けるとかね。
それはもう言葉じゃなくて、そういう人間の存在に人間が励まされてるっていう感じを自分は感じましたね。
知れてよかったっていうか、出会えてよかったっていう。
本江さんと出会えた、出会えてよかったっていう感じですかね。
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