今回は、志村ふくみさんの「一色一生」から『兄のこと」。
また、その初出となった私家版「小野元衛の絵」を読みます。
芸術を試みる、魂を生きる人間にとって、小野元衛さんの存在に触れることは、感動とともに、大きな励ましをもらうように思います。
サマリー
志村ふくみが朗読する『一色一生』には、志村が亡くなる1年前の心情と芸術に対する信念が描かれ、特に創作活動への執念が強調されています。また、志村が兄のために『カラマーゾフの兄弟』を朗読する際には、深い思索にふける様子が見受けられます。このポッドキャストエピソードでは、『一色一生』の朗読とともに兄のこと、小野元衛の絵の朗読が紹介され、特に兄の死の間際の思いと文学の力が人々をどのように慰めるかに焦点が当てられています。
志村の芸術への思い
じゃあちょっと、次行きますか。
はい。
次も27歳。
あ、もうだいぶジャンプします。
はい。
亡くなる1年前ですね。
昭和21年、2月17日。
今日で仕事を始めて3日経つ。
父として進まぬ努力の生活なれど、一歩一歩踏みしめていこう。
危機ひしひしと迫る努力の生活を打ち立て、
自己の芸術を信頼し、できあいし、そして一生を捧げよう。
これが私の誠貫く日々の幸いな務めである。
村上科学が、画の生活のことを密室の祈りと言った。
いい言葉だと思う。
私もこの懐かしい部屋で、密室の祈りの精進を続けよう。
この道に進むことができる私を神に祈り、感謝の心を捧げたいと思う。って書いてます。
ありがとうございます。
ちょっと多かったのもあって、若干もうちょっとゆっくり触れていきたい感じがしてて。
うん。
で、村上科学さんっていう話に出てきたのかな。
村上科学っていう画家が好きなんですよね、桃太さんね。
で、彼が絵を描いている生活、同じ画家として、こういう絵を描く生活のことを密室の祈りって言ったと。
ああ、なんていい言葉なんだって。
私もそうしようと。
これ、父として進まぬ努力の生活になれどって。
全然進んでないと。
自分が描きたいものを全然描けてないと。
うんうんうん。
だけども、一歩一歩踏みしめていこうと。
それはやっぱり病気が進行しているってことなんですか。
そうだと思いますね。
そうだと思うし、なかなかやっぱり自分の本当に願っている絵が生まれてこないっていう。
もちろんそっちもありますよね。
うんうんうん。
こっくくくと、きっとお金も減っていってるだろうし。
うん。
そういう中で、キキ、これ鬼の木って書いてるんですよね。
うん。
キキ、ひしひしと迫る、努力の生活を打ち立て、自己の芸術を信頼し、出来合いし、そして一生を捧げようって。
うん。
これが私のまこと貫く日々の幸いな務めである。
うん。
これこうやってなんかこう、揺れ動く自分を元ある自分に戻していってるっていう感じがするというかね。
日記を書くことにね。
うんうん。一貫してますよね。昔の時から。
一貫してる。
こういう書き方というか。
うん。
自分に対してカツを入れるようなっていうのかな。
そう。
カツっていうのもちょっと生ぬるい言葉かもしれないな。
いや、ほんとほんと。
そういうのはありましたよね。青年時代っていうか、もっと若い時からも。
うん。
ほんとにそういう戦ってるような、自分の中で。
ほんとにね。
で、ちょっと次読んでみますね。
はい。
5月28日。
昨日は私の好きな絵が一枚できた。
これは私の絵でおそらく一番いいものであろう。
不思議なほど私はこの絵が好きである。
自分の絵を見て涙ぐむほど感激したのは初めてであった。
力を尽くそう。
私があと10年命の延長を許されれば、私は真に優れた絵を残して死にるであろう。
十分の画布や絵の具、それにも増して健康が欲しい。
1分1秒を惜しんで努力せねばならぬ時が来たのを感じる。
って書いてます。
すごいですね。
これもうほんとに病が相当悪化してるんでしょうね。
最後の一文とかもそう感じさせますね。
1分1秒を惜しんで努力せねばならぬ時が来た。
絵と病との戦い
健康が欲しいって。
はっきりと言って。
でもその中で最高の、そこまでの中で自分の最高の絵ができた。
そんな状態の中からでもっていうか。
すごいな。
どんな気持ちだったんだろう。
ほんとだよね。
ほんとだよね。
でもこうがいいですね。やっぱり。
自分が自分の作品に感動して涙するって。
こうでやりたいですよね。
そうだよね。
すごいな。
なんかそういう時は筆はシンプルなんだなというか。
そうだね。
こんだけ豊かに語れる人はその日の一日のそのシンプルさがまたなんかいいな。
自分の絵の対して。
多く語らない?
もっと書きたいって言ってますもんね。
そうなんですよ。
その日にね。
いやもうほんとこういう文章を読むのはほんとにいいです。
ほんとに。
これあれだな。もうこの年これ今5月28日でしょ。
で次7月24日ってあるんですけどね。
これ7月24日がもう最後の手紙。
てか日記みたいですね。
あ、そうなんだ。
兄への朗読
ちょっと読むつもりなかったんですけど読んでみましょうかね。
はい。
7月24日。
昨夜私は床の中でゴッホの本を読んで、
彼の自殺しなければならぬ悲劇ではあるが実に懐かしいものを感じた。
画家でこの人ほど懐かしいと思う人は他にない。
不思議なことに単質までゴッホに近いものを感じた。
私はゴッホをどの画家より好いていることを誰にも言うまい。
それほどまで私はゴッホを親しく懐かしくてならない。
私も彼の死んだ年まで心ゆくばかり作画して死にればと思う。
自殺のことがしきりに念頭に浮かぶ。
自殺は実に人生の冒涜であろう。
しかし万人の人の中、一人には自殺は肯定していいものだと私は思う。
私は秋から冬へ移る季節に死んでいきたいと思う。
この上は、生を一日も早く諦めよう。
神よ、死を決行する勇気を与えたまえ。
で終わってる。
ああ、そうなんだ。
ちょっとこれ、どういうことだろうね。
まずゴッホがね、ゴッホが一番好いていると。
で、この人に懐かしさを感じると。
懐かしいって言ってる。
この表現も驚異深いですね。
自分に一番似ている、近いものを感じているからこそ懐かしいんだと。
で、このことを誰にも言うまい。
言うんですね。
言ったらいいのにって思うじゃないですか。
そうっすね、思った。
どういう、なんかあるんだろうね、そこ。
この辺もだから、小野本栄さんのなんか世界観なんかあるんですよね、きっとね。
もう言ったらもうダメなんですって、なんかね。
なんかあるんですよ。
言わずにいるからこそ、ゴッホと親しくなれるんですよ、みたいなね。
ちょっと、なんかね、やっぱりあるんだと思います、なんか。
なるほどー。
で、自殺のことがね、ゴッホ自殺したから自殺のことがしきりに念頭に浮かぶって。
うん。
うん、まあこれどういうことで書いてるのかわからないですね。
単にゴッホの自殺のことを思うのか、自分も病で苦しいから自殺のことが酔いるのか、どうなんだろうな。
まあちょっと、この絵型から、なんかいろんな汲み取り方ができるんだと思うんですけど、念頭に浮かぶと。
自殺は実に人生の冒涜であろうと、与えられた命を自分で断つんだから。
しかし、万人の人の中、一人には、自殺は肯定していいものだと私は思う。
だからあれなのかな、これ。
人は冒涜だと言うが、自分は、自分だけは自分で自殺を肯定していいもんだと思うってことが言いたいんだろうかな、おそらく。
あーそういうこと。万人が否定してきたとしてもってこと。
うん。
うーん。
万人の中の一人には、うーん、そうね、万人がダメだって言っても、ある一人だけは自殺を肯定していいって言っていいと。
うん。
うーん。
ね。
うーん。
私は秋から冬に移る季節に死んでいきたいと思う。
この上は、生を一日も早くあきらめよう。神よ、死を決行する勇気を与えたまえ。
うーん。
生をあきらめようって。
うーん。
うーん。
これあれだな、ちょっと、一つ前の文章、6月23日、だから一月前の文章を読むと、
うん。
今年ほど体の疲労の激しいことは知らない。全く極度の疲労と言ってもよい。苦しいこと限りなく。肉体的にも精神的にも、こんな年は初めてである。
あるいは今年中に疲労して死んでしまうかもしれない。悲しいことだ。しかし生命限り力を尽くし生きようと思う。
うーん。
だから一月前までこうやって力を尽くし生きたいと思うって書いてるんだけど、
うん。
もう結構やっぱり身体的にも精神的にもきつい時期に来ているんですね、やっぱりね。
そういう風に読めますよね。5月からさらに一気に悪くなっていき、6月から7月にかけてもまたさらに状況変わっていったように読み取れました。
ね。
うん。
こうやって日記が終わって、で、こっからね、福美さんの文章が始まっていくんですけど。
もう日記はここで終わりなんですね、本の中では。
そうなんですよ。
はい。実際もう本当に速攻で書かれなかったってことなんでしょうかね。
そうだと思いますね。
あー。
もうそれぐらいの書くことを許されない状況にまで来ているという。
うーん。
こっから福美さんの文章がまたすごいんだ、これ。
うん。
うん。
気になる。
読んでいきますね。
はい。
兄の絶筆はここに終わっています。
ついに再び筆を持つことを許されませんでした。
そして死のとこに至るまでほとんど描画の中に過ごしました。
長く厳しいその年の冬の間中、春の明けるのをひたすらに待ちながら、私は兄の枕辺でカラマーゾフの兄弟を呼んで聞かせてあげました。
ドステフスキーがその生涯を懸けて求め、意識的にも無意識的にも苦しんだ神の存在を描くために捧げられたと言われるこの本は、やがて有名の境をことにするであろう兄の心にどのように染み渡ったことでしょう。
で、カラマーゾフの兄弟出てきましたね。
うーん。
この話何回かしましたもんね。
しましたよね。
うん。
そっか、読んで聞かせてあげて。
いやー、改めてカラマーゾフの兄弟をこのもう苦しい状況の時に読んでほしいって言ったんでしょうね、これ。
うーん。
すごいな。
ね、やがて有名の境をことにするであろう兄の心にどのように染み渡ったことでしょう。
ほんとそうだよね。
うーん。
うーん。
うーん。
あ、そうだね。
うーん。
中田さん、自分の死ぬ時に本読んでほしいですか?
いや、どうなんでしょうね。考えたこともなかったもん。
ほんと大事な一冊ですよね。
そうですよね。
うーん。
中短波のもの別に頼まないな。
そうですよね。
うーん。
こんな死ぬかも分からぬ時にそんなね。
今ちょっとほんと想像してみたら絶対頼まないなと思いましたね。
そうだよね。
だからそれほどの一冊だったんだろうな。
ねー。
もうそれはいい本とか好きな本とかじゃないレベルかもしれない。
うーん。
じゅんさんはどうなんですか?そう言われたら。
考えたことなかったっすね。僕もそんなんで。
でも、本読んでもらいたいっていうのはあると思います。
あ、そうなんだ。やっぱり。それはどういう?
ねー。でもどうですかね。
こういう小野本栄さんの日記とかはなんか近い感じしますけどね。
こういうタイプの本な気しますけどね。
うーん。
なんとなく文学ラジオで扱ってきた本たちのなんか方向性な感じなのかな。
そうでしょうねー。
うーん。
兄への思い
その中には入ってくるんじゃないですかね。やっぱね。
しだるだの最後とかもいいですしね。
うんうんうん。
月とロクペンスの最後もいいですしね。
うーん。
やっぱり彼方の世界まで見据えた、彼岸を見据えたものを読みたくなる気するなー。わかんないけど。
うーん。
でもここにカラマーゾフの兄弟が選ばれるってことがやっぱ衝撃だったなー。これ初めて読んだとき。
あー。
えーって思ったなー。
え、それは何こう、ここにもそこが繋がるんだみたいな、そこに出てくるんだみたいな驚きってことなんですか。
いやそんなに深くカラマーゾフの兄弟を読んだと思ってない。なんかそんなに深いんだっていう衝撃の方かな。
なるほどね。人がその、死にに向かってくとこの中で読み聞かせてもらいたいと思うほどの。
そう。
うんうんうん。だって、え、親父殺しの話でしょ?みたいな。
それを最後読みたいってなる?みたいな感じになって。
うん。
びっくりした。
なるほどな。
でもやっぱ読んでみると、あーって、わからんことない感じしてくるよね、やっぱ。
うん。ラジオを閉鎖してもらってるんで、そう、わからんでもないことを感じてるな。
ねー。
うーん。いやー。
いいなー。
これじゃあ続き読むとね。
うーん。
やがて有名な境を事にするであろう兄の心にどのように染み渡ったことでしょう。
私は今も、週や粉雪の降りかかる窓辺で寒さも忘れて読んだ時、灰をやむ少年異竜舎が針を飲ませた犬の行方を悲しんで、死の際まで祈っている意地らしい姿。
あーこれあれだな、ごめんなさい中田さん。これだからあれだ。
これね、こっから、あのー、カラマゾフのシーンをいくつか書いてくれてるんですよ。
うーん。
こういうシーン、こういうシーン、こういうシーン、こういうシーンって、書いてくれてるんですね。
はい。
その一つ目が、文学ラジオでは使わなかったけれども、灰をやむ少年異竜舎が針を飲ませたっていうシーンがあってね。
その犬の行方を悲しんで、死の際まで祈っている意地らしい姿。
二つ目。
イワンのセリフだなこれ、二つ目は。
一体どこに調和があるんだ。
痛いけない者や罪なき者の償われることのない涙がこの地上を潤している間、僕はやるせない苦悶と癒されざる不満の境に留まることを潔しとする。
僕は許したいのだ。互いに包容したいのだ。人間がこれ以上苦しむのを見ていられないのだ。と叫ぶイワン。
これはあれだわ。
アレウシャとイワンが酒場で飲んで喋ってる時だな、これな。
のセリフですわ。
そのままあれでしたっけ、大新聞。
そうそうそうそう、大新聞家の直前の会話だね、これね。
ああいう子供たちがね、罪なき幼い子たちが苦しんでいるのをもう我慢できないんだっていう。
ああいうことを叫んでるイワン。
3つ目。たとえ地上における全ての人が堕落して、真意ある者は自分一人になってしまおうとも、ただ一人なる自分が神を賛美すればよい。
もしそのような人が二人巡り合ったら、それでもう全く世界が、生きる愛の世界が出現したのであるから、愛包容して神を賛美せねばならぬ。
と言われる土島長老の最後までの信仰を読んだ時、兄の目に湧いた涙を今も忘れることができません。
土島長老が亡くなる場面。
これあとあれだな、ここには書かれてないけど、白夜を紡ぐっていう本の中に、ドステウスキーの感想をね、福美さんが書いてるエッセイ集なんですけど、
あの中にもね、お兄さんのこと書いてて、他にも、あの土島長老のお兄さんが亡くなる時のシーンとかもね、気に入ってたって書いてましたね。
なんかわかる気するな、なんかね、これなんかね、いいんですよね、やっぱね。
その涙もね、いやー詰まってるよね。何を思って。
改めてすごい文章ですしね、このカロマズム。
この境地じゃないとわからないことがあるよね、あの本には。
こう思うと。
文学と生の終局
でしょうね。
今これちょっと読んだこの土島長老のこのセリフもなんかもう、やっぱわかんないもんな、なんかこの絵が。
わかんないよね。
死にある者は自分一人になってしまうとも、ただ一人なる自分が神を賛美すればいい。
これ、この境地だから響いてくるんでしょうね。
意味がわかるかと涙が流れるかの違いが大きいよね。
本当にそうなんですよ、運命の差がある。
運命の差だよね。
そうやっていきたいけどね。
いやいいですね、だから本当に苦しいときに死ぬ間際出会っても、やっぱりこうやって本が慰めてくれるっていうね。
そうだね。
そういう方だろうね。
その尾本さんにとってね、俺を読んでくれる人がいて、聞けって。
本当ですよ。
ごめん、じゅうさん。
いやいや、尾本さんにとってはガランマーズフの兄弟でしたけどもね。
自分にとっての一冊がもしあるとしたら何なのかってことは、なんか探してみたいですね。
確かにね、そうだね、そういう意識で考えてなかったから。
ちょっと探してみるの面白いかもしれないな。
そう思うとその一冊出会えただけで、半端なく奇跡ですね。
もうそれだけでいいんです、本当は。
本棚にね、その一冊だけね。
その一冊を探すためにいろんな本を読んでいると言ってもいいのかもしれない。
まあ出会ってるんだけどね、本当はね、出会ってるんだけど自分がやっぱり気づいてなかったり受け止めてきれてないっていうことの方が、
ありそう。
ありそうですよね。
ありそう。
ちょっとこれ続きの文章読みますね。
はい。
こうした最後の冬が明け、春が訪れました。
母と私はその年は特に見事に咲いたぼたん、あねもね、けしをあふれるほど枕辺に飾りました。
兄はそれらの花の神秘なまでの美しさを心から愛していました。
そしてすべてのものの燃え上がる盛んな夏の果てに、
若い最後の植の日は消えたのです。
亡くなる数日前、兄は苦寒の限りのとこにあって、
時が来たのだ。すべてのものに生の終局はきっと来るのだ。
今、私の願っているのは、
時が来たのだ。すべてのものに生の終局はきっと来るのだ。
今、私の願っているのは、永遠の静けさだけだ。
苦悶と光
弱滅。今の私には何という親しい言葉だろう。
と語りました。
それは決して、決して悟りを得た人の言葉ではありませんでした。
無理やりに死の闇に引きずり込まれようとする、
望み多い若い命の苦悶の果てに、
かすかに差し入る一錠の光に必死としがみつく思いで、
深夜語った言葉でした。
そうした朝明けに、夏草の茂みに育く虫の根の中に、
一本のもみじ葵が天に向かって静かに咲いていたことを、
今もありありと思い浮かべます。
本当にすごい文章ですね。
解説とかいらなくなるもんね。
でも、冬を越えたんですね。秋から冬の途中にって、
本本栄さんはおっしゃってたけど。
冬を越え、花に囲まれ。
で、夏になくなったんだね。
夏草の茂みに育く虫の中に。
だから、5月に書いてたことを思うと、
本当に1年間くらい、本当に苦しい病気と生活を。
そうだね。書けなくなってから1年。
久美さんの文章すごかったな。
ちょっとすごすぎて。
記憶が。
これはもう何か、ぜひ買って何回も読んでください。
その方がいい気がする。
で、ちょっと続き読んでみていいですか。
こっからまたいいですよ、これ。
いきますね。
29:11
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