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こんにちは。
こんにちは。
じゃあ、じゅんさん、今日はどんな一冊を持ってきてくれましたか?
今日はね、こちら。
ヘルマンヘッセのシッダルタでございます。
シッダルタ。
僕も最近読みまして、じゅんさんに勧められて。
いやー、そうですか。
持ってます。手元に。
そうですか。
本当にね、この文学ラジオを始める時に、一番最初イヌ一番に、
まあ、これはやっぱり基本的には僕の本当に心というよりかはもう魂が震えた、
なんかこの一文を扱っていこうってことに決めたから、
イヌ一番に上がったのがやっぱヘッセのシッダルタだったんだよね。
最初に思い浮かんでたんですね。
そうなんですけど、なんか飲み込んだ、まずは。
ちょっと、それで、でも満を持して、今回。
満を持して、気はじくシッダルタでございます。
いいですね。久々っすね、物語というか小説。
そうね。
このラジオでもね。
そうですね。前回はあれでしたもんね。
月と6ペン数以来。
そうですね。
これ、今僕が持ってるのは岩波文庫の手塚富雄さんの役なんですけれども、
はい。
新潮文庫のね、高橋賢治さんの役でも素晴らしいんで、
どちらでも本当にこの作品に関してはいいと思います。
僕は両方読んだんですけど、個人的な好みで手塚富雄さんが好きなので、
ちょっとこっちを今大事にしてますけど。
なるほどね。
これ、読んだ時の印象としては、役で、役者でこれ全然変わりそうですね、なんかね、文章がね。
うん。
本当に。
いやこれね、シッダルタの作品って本当は、発刊当初って副題がついてたんですよ。
このシッダルタってタイトルに副題がついてた。
そう。
なんてついてたかっていうと、インドの詩って。
インドの歌詞。
歌?
ポエムの。
インドの詩っていう副題がついてたんです。
はい。
それなんだ。
このね、いわなみ文庫の手塚富雄さんの最後の後書きのところにもね、ちょっと書いてあるんですよ、これ。
ちょっと読んでみていいです?
はい。
この作の文章は、風合バルのヘルマンヘッセによれば、インドの僧が儀式の時と同じ文句を3度ずつ繰り返して唱えながら、それに合わせて足踏みの調子を整えるやり方を、文のリズムとして取り入れたのであるという、書いてあるのね。
はい。
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だから非常に、なんだろうな、インドの儀式と同じようなリズム感を、この文章の中に取り入れているんだってこと言うんですよ。
うーん。
だからインドの歌?
そう、なんかね、これはヘッセからすると、なんだろうな、詩であると。
で、非常にリズミカルで、響きがいいものにしてるんだと思うんですよ、おそらく。
だからこの、哲賀富雄さんも、常語の非常に多いのはそのためであろう、常語っていうのは繰り返し言葉のことね、山々とか日々とかね、そういうのが非常に多いのはそのためであろう、
調子は一点のたるみもなく張っていて高い、この調子が芸術的にはこの作の生命である、って書いてあるんですよ。
うーん。
で、この高橋岩尾さん、違う違う、哲賀富雄さんも、何よりもこの調子を再現することを目指した、って書いてあるのね。
ほんとはこれだから、そういう非常に響きが良いものらしいんですよ。
ちょっとドイツ語読めないから僕もわかんないんだけど。
でもこれ、この日本語でも読んだことある人は、ちょっと頷けるんじゃないですか。
どうだいね。
なんかその、この言ってることの意味が、これ読むとね、少しはわかるというか。
ね。
うん、なんかそれぐらいなんだろうな、本当にその文のリズムとか。
うん。
なんだろうね、気持ちよさすらある。
あるねー。
読んでいて。
うん。
うーん。
次。
で、これまあ、知ってあるたっていう、まあこの本のタイトルのごとく、まあ仏壇ね、豪玉知ってあるたっていう名前と同じなんですけれども、
まああのー、この豪玉知ってあるたとは違うんですよね。
出てくるんですけれども。
実際出会うんですけれども。
主人公。
そうなんですよね。
主人公も同じ知ってあるたっていう名前なんですよ。
はい。
最初読んだ時びっくりしました。
そうですよね。
はい。
同じようにまあ、仏壇もね、バラモン教のところから入っていって、そっから出ていくわけですけども、
この主人公の知ってあるたも同じようにバラモン教のね、最上教、あの階級にいて、いた人ですからね。
まあちょっと似てるんですよ、それには。
うーん。
でもこれサンスクリット語でね、知ってあるたってその意味を持ってて、あのー、ペッセが知ってあるたってつけてる意味もおそらくここから来てるんじゃないかなと思うんですけれども、
その、サンスクリット語で知ってあるたの知ったっていうのは、成仏したものって意味なんですよ。
はい。
で、知ってあるたのそのあるたって、あるたっていうのは目的って意味なんですよ。
ほうほう。
だから知ってあるたっていうのは、まあ、ある目的を成就したものっていう意味なんですよね。
へー。
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つまりテンジとはまあ、悟りとか下達とかってまあそういうことを意味しているんですけれども、
うん、言葉を変えると、なんだろうな、私が私自身になっていくっていうこと?
うん。
とか、この作品でまあ冒頭これ、神話って言葉が出てくると思うんですよ。
真ことの我って書いて、アートマンってルビフっているんですけれどもね、インド哲学だから。
はい。
まあこの、人間というものがいかに真の自分に真の我になっていくかっていう、まあそういう物語ですよね。
はい。
うん。
いいねー。
いいですね。
今日は長くなりそうです。
長くなりそうですね。
本当ね、まあこの、その青年シッダールタの、まあこの若き日から老年に至るまでの生涯が描かれているわけなんですけれども、
この生涯がまあいろんな方との出会いがあって、別れがあって、再会もあって、で、まあ真の自分になっていくっていう物語なんですけれども、
この本がね、なお魅力的なのは、その、まあ主人公のシッダールタがやっぱり飽きないビジネスをするじゃないですか。
まあ、やるし。
そうなんだよね、途中でね。
そう。
まあ、その、まあ愛する人を見つけて、まあ子育てもするみたいな場面も出てくるわけですよね。
そうですね。
非常に我々に近いものがある気がしていて、で、それが、なんだろうな、まあ自分が自分になっていくってことに勝てないことなんだってことが、
まあ見事に描かれているっていう、これがなんかこの本の魅力だなと思って。
確かに美しい話だけで終わらないもんね、途中どっぷり世俗に浸かると言いますか。
そうなんですよ。
シッダールタがね。
そうなんですよ。
びっくりしましたわ、あれは。
ね。
うん。
ブッダはさ、まあ同じようにそのバラモン卿出て行って苦行をして、で、まあその、なんだろうな、苦行ではダメだと思って、まあお大事の下で悟りを振られていくんですけど、
まあそれとは違ってやっぱこのシッダールタの主人公は、まさに世俗にまみれて、それがかえってこの事故になっていくってことが起きるっていう、これを掴みたいですね。
いやー、いいねー。
ちなみにジョーさんこの後はいつ、いつぐらいに出会ったんですか、この本は。
出会ったかちょっと覚えてないんですけど。
もうだいぶ昔からじゃあ、もう長い付き合い。
いや、そんなことない、そんなことないですよ。
そんなことないんだ。
はい、はい。
うーん。
でね、まあちょっと、あ、いい?
大丈夫、大丈夫です。
ヘッセ、ヘッセ自身が好きなんです、そもそもね、僕ね、シッダールタも好きなんですけど、だからちょっとだけヘッセ自身にちょっと触れてから、なんか今日は本に入れたなと思ってるんですけど。
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いいですね。
ヘッセってね、これ新庄文庫の方は高橋賢治さんが訳してるんですけど、僕ヘッセの評伝みたいなものをたくさん読んでるんですけど、まさに訳してくださった高橋賢治さんがヘルマンヘッセの評伝書いてるんですよ。
うーん。
これヘルマンヘッセ、危機の詩人って書いてあるんですよ。
危機ね。危機の詩人。
危険の、危機の。
で、まずこれ詩人ってつけてるところにポイントがあって、ヘッセって子供の頃から詩人になるってことを志してた人なんですよ。
へー。
実際詩人を書いてるし、この小説もヘッセは詩だと思って書いてるってことだと思うんですね、さっきのインドの詩っていうところからすると。
はい。
そういうところがまずあるんですよ。で、高橋賢治さん曰くその危機の詩人っていうこの危機ってことをつけているのは、ヘッセって非常にまあ危機の中を生きてきた人なんだってことを書いてくれてたんですよ。
うーん。
で、それはなんだろうな、まあ一応ヘッセってノーベル文学賞を取ってるからなんだろうな、でもそれって69歳の時ですごい晩年なわけなんですよ。
はい。
で、それまでのヘッセって非常に苦悩が多かったってことを書いてくださってて。
うん。
で、それはまあプライベートでもお父さんが若くしなくなったりとか、離婚とかいろんな問題があったりもするし、第一世界大戦とかそういう時代に生きてた人だから、そういう経験とかも非常に大きかった。
うん。
で、知ったれたの本出たのってヘッセが45歳の時に出してるんですけど。
はい。
ヘッセって39歳ぐらいの時にユング派の心理学のお弟子さんでラングってことに、ラングって方に精神分析とかも受けてたりするんだよ。
うーん。
それぐらいなんだろうな、やっぱり大変な時期があったんだよ。
うんうんうん。
なんか、なんだろうな。
まあ、その、例えばですけど、第一世界大戦の前にヘッセって反戦の文章を新聞社に投書したりしてるんですよ。
すごい反戦運動とか、反戦訴えた人でもあるんだって。
うん。
しかもその文章がさ、僕が大好きなベートーベンの大工の歓喜の歌の冒頭の文章を持ってきてるんですけど。
えー、繋がってるんだ、そこが。
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そう。
その反戦を、あれはシラーの詩の言葉ですけど、ベートーベンの歓喜の歌を引っ張ってきて出してるってところにもヘッセの凄さを感じるんですけど。
まあ、そういうふうなことをして、なんだろうな。
でもあの時代は、あの時代のドイツだから、ものすごい、なんだろうな、非国民扱いされて、
その、裏切り者だみたいな文章とかも、なんかこう、手紙がヘッセのところに届けられてとか、
そういうふうに、なんかこう、当時の時代は受け止められてしまってたみたいな。
うんうんうん。
なんかそんなのもあって、
まあ、なんだろうな、だからヘッセは自分を危機から救うために、
ないしは自分をやっぱ癒すために創作をしてたんじゃないかってことが、
なんだろうな、この高橋賢治さんの本を読んでる中で僕が感じたことなんだよ。
うーん、なるほどね。
このシッタールタも、これからヘッセ自身でもあるんですよ。
え、どゆことどゆこと?
この主人公のシッタールタって、ヘッセ自身でもあるんだと思うんです。
うんうんうん。
多分ヘッセが、この自分が自分になるってこととかを、やっぱり見出さざるを得なかった状況があったんだと思うんですよ。
うーん。ヘッセの体験の一部が書かれてるみたいなこと?
そうだと思う。
これ、シッタールタの本って、一応これ第一部と第二部で成り立ってるじゃないですか。
はい。第一部、第二部。
そう。第一部があれなんだよね、シッタールタが家を出ていくっていうところで終わるわけですよ。お父さんに別れをつけて。
そうですね、そうですね。
で、第二部がまさにこの世俗にまみれて、彼が変貌していくっていうところが書かれてあるんですけれども。
はい。
これ、ヘッセが42歳の時に、ちょうどデミアンって作品を出して、これデミアンもすごい良いんですけど、デミアン出したすぐシッタールタを書き始めてるんですよ。
うん。
で、第一部はすぐ書き切ったんですよ。
あ、そうなんだ。
その後ピカーンって止まるんですよ。
あ、そうなんだ。
で、第二部が書き切れってなったんですよ。
ほうほうほう。
武器が。
ほうほう。
1年半ぐらい止まっちゃうんです、執筆が。
へー。
っていう、その、あの、まさに、なんだろうな、シッタールタのこの精神的な深まりとともに、あの、ヘッセ自身の精神的な深まりとともにシッタールタが書かれていくっていうのになっていくんですよ。
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あ、面白いっすね。確かにガラッとモード変わりますもんね、第二部で。
モード変わる。
これはちょっと読んでみない、読んでみてほしいんですけどね、聞いてる人は。
そうなんですよね。
それ聞くとなんか少し納得感もあるというか。
ねー。これ僕あの、ヘッセがね、別の本なんですけど、ヘッセの書簡って結構書物になってるんですよ。
うーん、はい。
えっとね、ラインハルトっていう方にあてた文章の中に、このシッタールタのことが書かれてあるんですよ。
おー。
ちょっと読んでみていいですか。
はい。
私の対策のインドの詩は、これシッタールタのことね、インドの詩って。
私の対策のインドの詩はまだ完成していません。ある成長の段階をその中に描く必要があるのですが、私自身それをまだ終わりまで体験していないのです。
で、ちょっと飛ばして。シッタールタがこれからどうなるか、どうなるのか、私も知りたいところです。
私は仮より少しばかり余分に体験はしましたが、その私の体験の結末と結果がまだ見えてこないのです。
だから作品の中にもまだ描くことができません。それは個性化への道なのです。
これ個性化ってユングの言葉なんですよ。インディビジュアル。
まさに私が私になるって意味なんですよ。
これを自分はまだ体験していないから、シッタールタはまだ描くことはできないんだ。
へー。
だから本当に自分自身の人生とか自分のその個性化の道と重なりながらこの作品が生まれていくと。
そうなんです。
しかもこの東洋のこの世界観を描けるってどういうことなんだろうって思っていますけど。
そうなんですよ。ヘッセってインドの、ドイツの方ですけれどもね。
東洋にめちゃくちゃ精通してるじゃないですか。
これを読むだけでもそれがすごい感じますけど。
おじいさんがもともとインドの研究家の方なんですよ。
そうなんですね。
だから小さい頃から東洋の文献に親しんでたんですよ。ヘッセって。
そうなんだ。
インド哲学ね。ウパニシャドウとかもちろん。中国の老僧思想とかももちろん読んでるしみたいな。
でもヘッセ自身はプロテスタントのキリスト教のプロテスタントの家系で育ってるんですよ。
お父さん牧師さんだから。
なるほどね。
父に反発してるんですよ。ずっとヘッセって。
で、お父さんから離れるんですよ。
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これ知ってあるんだが、父の元離れるって一緒なんですよ。重なってる。
確かに。本当ですね。
父の元離れるってのは宗教的なことで。
まあそれがね。
それとまたいろんな理由があって。
これなんとも言えないんですよね。やっぱりヘッセはキリスト教も結局は大事にしてるんですよ。
うんうんうん。
でね、あのね、僕の手元に今ね、ヘッセのエッセイ全集っていうのがあるんですよ。
えー本当だ、エッセイ全集あるんだ。
これ愛読書なんですけどね、これにヘッセ自身が自分の知ってあるための作品について述べてる文章があるんですよ。
うん。
えーと、出した40年後に書いてる文章なんですけど、ちょっと読んでみていいですか。
はい。
知ってあるたのペルシャの読者にあててっていう手紙かなんか、これ短い文章なんですけど。
この物語は40年近く前に書かれた。
これはキリスト教徒に生まれ、その教育を受けた男の告白の書だが、
彼は若くして既に教会を離れ、他の宗教の理解に、とりわけインドや中国の信仰形式の理解に努めた。
私はあらゆる宗派やあらゆる人間の信仰の形式に共通するものを、あらゆる民族的な多様性を超越するものを、
そしてあらゆる人種やあらゆる個人によって信仰され、崇拝されるものを究明しようと試みたのだ。
っていう風に書いてあるんですよ。
まさにそういう教具の方だから、この宗派を超える、人種を超える、民族を超えるものを、まあなんか、試みていった。
ペルシャって言ったらイランからイスラムの文化だけども、
これをなんか、僕がプロテスタントだから、そのプロテスタントの教えとして、大使はなんかこの東洋のものとして受け取らないでねって。
これは宗派を超えてるものだから、そういう風に受け取ってねってことを多分ペルシャの読者に当てて書いてるんだと思うんですけど。
なるほどね。そういう宗派を超えたすごく普遍的なものを描いてると。
そうなんだよね。
そうなんだよなって今聞きながら思った。
なんかこの知ったるたてタイトルからだとさ、仏教の話かなとか思うんだけど、それに閉じない物語なんだよね。
21:00
どうだね。
ベネジオさん、途中で。
いやでもおっしゃる通りで、僕だから仏道の、仏教の、とはいえ仏教の入門書としてなんかやっぱり読んでいいと思ってるし、
宗教の入門としても読んでいいと思うし、やっぱりペッシはユング心理学に影響を受けてるから、
なんかそういう入門書としてもなんか位置づけられるようなもんだ気がしますよね。
うん。
これ第1部のところの裏側にさ、尊敬する友ロマン・ロランに捧ぐって書いてあるでしょ。
あ、そうそう書いてありますね。
ね。
誰だろうと思ってましたけど、僕は。
知識ないから。
ロマン・ロランさんという方に捧げてる。
ロマン・ロランも小説家なんですけどね。
小説家というか、批評家というか思想家というかね。
それこそロマン・ロランもベートーベンの生涯っていうね、どっかで紹介したいと思うんですけど。
じゃあどっかでロマン・ロラン出てくるかもしれないですね。
仲が良かったんですよヘッセと。
ロマン・ロランはフランスの人なんですよ。
ヘッセはドイツなんですよ。
第一次世界大戦でバチバチに戦ってるんですよ。
ナチスドイツがフランスを占領してるから。
でも彼らは2人ともスイスに亡命して、スイスは中立国だったからその時。
反戦をと言ってた人なんですよ。
そこでまさに国境を越えて繋がってた人なんですよ。
ロマン・ロランも同じようにガンディーと親しかったし、インドに生通してた人なんですよね。
ヘッセと共通してるところも多かった。
行き届くことが多かったし。
ヘッセもやっぱりロマン・ロランにずいぶん助けられた思いがあって。
それでロマン・ロランに捧ぐって書いたんだと思うんですよ。
なるほどね。
いいね。
まだ本編に行ってないってのがいいよね。
めさいね。
いいじゃないですか。
本編からじっくり。じっくりって言わすと。
本編入っていきましょうか。