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本編も行きましょうか。 本編行きましょうか。
あのー、そうですね、まあ、これ第1部に、あのー、冒頭からこれ、シッダルタ、青年時代ですけど、もう、
なんだろうな、悟りを開いてるような人なんですよね、実はね。
うんうんうん。 この、この方。みんなに崇拝されてたし。
うん。
次のバラマン教の司祭みたいなものを、やっぱり、まあ、見込まれてた人だしね。
はい。
ていう。でも、彼は出ていくんですよね。
そうですね。
これがまずすごいなっていう感じなんですけど。
はい。
うーん、その、真画、アートマン、本当の私は何なんだってことを求めて、まあ、出ていくわけなんですけど。
はい。
で、まあ、今日ちょっと1つ目に引っ張りたいところは、その第1部の最後の方の文章、52ページ。
あ、いいですね。62ページまでですもんね、第1部がね。だから最後の方ですね。
そう。の、これ、あのー、ゴータマシッダルタ、ブッダと出会った場面なんですよね。
そうなんですよね。ちょっと読んでて、僕最初混乱しました、これ。
え?ゴータマのことじゃなかったの?みたいなね。
そうだよね。
出てくるんですよね。別の人物として出てくるんですね。
そう。
うん。
この物語上。
うん。
うん。
で、そこに、そこで、まあ、主人公シッダルタがゴータマと話す場面のところ。
はい。
ちょっと読んでいきますね。
はい。
52ページの5行目なんですけど。
これ、今シッダルタが語ってるのね。シッダルタがゴータマに向かって語ってるのね、この言葉。
うん。
書いてあるんだよね。
うーん。
これ、ちょっとそのままキリの良いとこまで読んでみていい?
どうぞどうぞ。
小学、ま、ま、あの、悟りでいいと思うんですけど。
正しく覚えるで、小学。
うんうん。
03:21
100千万人のうち子孫のみが体験してまえる費用は含まれていないのでございます。
これが、教えを聞きながら私の考え、悟ったことでございます。
これが、私が、私の遍歴を続ける理由でございます。
決して他のより良い教えを探すつもりはございません。
これ以上の良い教えがないことを、それを私は承知しています。
いえ、あらゆる教えと、あらゆる使徒を去って、
ただ一人で私の目標に達すること、
しからずんばしすることが私の意図でございます。
って言うんですよ。
うーん。
うーん。
で、これはじゅんさんどうして選んだの、これ。
これは、やっぱり、
うーん。
豪玉と出会って、
うん。
しかも、この豪玉がものすごい人だっていうことを、
もう身に感じて、
うん。
普通、教えをやっぱり聞きたいっていうふうに思うのが普通なのに、
ここで知ったあるたのすごいところが、
あのー、私はついていきません。
あなたのもとを離れます。
っていう、え?みたいな。
はい。
っていうのがすごいなと思って。
うーん。
うーん。
実際、友人はついていくんだよね。
そう。
このちっちゃい頃からの友人がいるんですよね、これ。
もう一人、大事なキャラクターとしてね。
そう。
そこで、友人はついていく。
そう、ごびんだね。ごびんだっていう友人はついていくのに、
知ったあるたはついていかないんだよね。
はい。
すごいよね。
だって、なんだろうな、僕だったら絶対ついていっちゃうもん。
いや、そうですよね。僕もついていきますね。
ね。
うん。
実際ね、なんだろうな、やっぱ誰に師匠を指示するかっていうのはとっても大事な問題だと思うんですよ。
そうですよね。
禅の言葉でもね、三年勤め学ばんより三年死を選ぶべしって言葉があるんですよ。
ほほ。
それはどういう意味かっていうとね、三年間勤めて学ぶっていうことで得る学びをする前に、
止めていいから学びとかも、三年師匠を探し抜けって言うんですよ。
なるほど。
って言葉なんですよ。
へー。
それくらい誰のもとで学ぶかってことが大事なんだっていうことが禅の中であるんですよ。
06:05
あー。
だからやっぱり、我々はまずそれでいいと思うんですよ。
うん。
だったけども、知ってあるとはもうその境地じゃないんですよ。
うん。
うん。
で、この教えの中に、豪霊の教えの中に、唯一含まれてないものがあるってことを見抜いてるんですよ。
秘をね、秘を含まれてない。
秘密を。
それは豪霊自身が体験したそのものは、やっぱり本人にしかわからないっていう。
あー。
で、だからそれは誰も体験することができない。
だから私は、私にしか体験できないことを、まあ私がちゃんと受け止めていくっていうことをしないといけないんだっていう。
うーん。
すごいよね。
すごい。
うーん。
だからあなたについて行かずに、私は私の道を歩んでいきますっていう。
すごいよねーこれ。
すごいよ。
そうだよねー。
ちょっと、普段ここまでいけないんですけど、でもほんのちょっとだけ、まあ確かにそうかもなっていうこともなんかありますよ。
普段?生きて、我々は?
うん。僕もなんかね、なんかいろんな講座受けてたわけ。なんか。
うんうんうん。
だって大学院とかにも行ってたりしたし。
あー。
いろんなスクール行ったりしたし、なんかまあ恵まれてる教具だから学びということにまあお金を使えたっていう教具でもあって。
で、まあ朝日カルチャーセンターとかでね、結構まあ哲学とか芸術文学のこととか受けまくってた時期あったんだけども、なんかまあだんだん受けなくなってきちゃって。
今まあほとんど受けてないっていう感じになってきたんだよね。
うーん。
で、それはなんだろうな、やっぱりなんだろう、物足りなくなった、なんか。
うーん、物足りないなんだ。
そう。自分がやっぱり自分でなんだろうな、難しい本でも自分でやっぱり書物と向き合うってことの方が得るものが大きいなって感じたし、
自分がやっぱ随筆とか詩を書き続けてるのは、自分の体験をちゃんと受け取り直したいっていうことがあって書いているっていうのも、
なんか、ちょっとたぶんなんか近しいことのためにやってる気がするんだよね。
うーん、なるほどな。
だからじゅんさん、これを、このここをピックアップしたところはそういうところともつながってんだろうなって今思いながら、
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あの、めちゃくちゃ大変だなと思ったの、このタルタから文章をピックアップするの、なんか良すぎて。
全部面白いからね、最初から最後までね。
全部すごいんですよね、文章。
じゅんさんが今これをピックアップしたんだと思って、第一部。
そうだね。
これだから、今の僕がやっぱり響くところをまあ引っ張ってるに過ぎなくて、
うん、それでいいんですよね。
年取ったらまたたぶん違うところ、たぶん引っ張るんでしょうね。
そういう本な気がする。
よりそれがありそうな本な気がしますね、これね。
ねー。
確かに最近じゅんさんが語るようなことと重なる感じする。
うん。
うーん。
まあそれはもう、このタルタのこの本に。
ただ、引き受けたことなんだと思います。
引き受けたことでもあり。
この本の一番好きな言葉が、一番最後の、ほぼ最後の201ページのところの後ろから5行目ぐらいのところなんですけど、
うん。
ちょっと読んでみていいですか。
同じことが書かれてるんですよ。
これその、全く別、最後にも全く同じ言葉が書かれてるっていう不思議なことなんですけど、読むと。
ブッダの行為と生活は、ブッダの教説、教えですね、ブッダの教説よりも重大なのだ。
ブッダの手の動かれる様は、ブッダの意見より重大である。
言葉と思想の中に私はブッダの依頼を見ない。
ただ、その行為に、その生活に依頼を見るのだ。
いやー、確かにさっきの文章と近いものだよね。
これ前、中田さんとも別の何かミーティングしてる時に僕読んだことある?
あるかもしれないですね。
これすごいよね。ブッダの言葉とか教えとか、思想の中に依頼を見ない。
私はただ、ブッダの行為と生活に依頼を見るのだ。
良いですね、これ。
良い、良い。
心理っていうのは言葉を超えてるから、やっぱり言葉とか教えの中には心理は乱せないんだよね。
その言葉を突破しないと。
それよりも、もう心理がありありと出てるのは、彼の行為、行い、生活に出てるんだ。
行いは時々そういう言い方されるじゃないですか。
言ってることより行いよ、みたいな話あるじゃないですか。
そうですね。
生活って出てるのが結構個人的にツボですね。
行為と生活。
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行為って言ったら、その場その場の行いみたいな感じというかね。
見えますよね。
生活っていうともう本当のこの日常というかね。
生活。
これでも僕がやっぱり詩を書き始めたのって、自分の両親を見て、自分の両親の生活を見て、
なんと尊いんだって思って書き始めたんですけど、まさにこれだったなと思って。
僕はやっぱり自分の両親に依頼を見たんだなって思って。
ご両親が何を言ったかとか、そういうことじゃなく。
やっぱ小林秀夫さんの本当に言いたいことは語りきれないんだっていう、なんかそこに戻ってくる話なんだよね。
確かに確かに。
繋がるね。
だって手の動かれる様は、ブッダの意見より重大ですからね。
手の動かれるって思いました。
見事な表現ですね。
そんなささやかなこと?みたいな。
そんなささやかなことでもあるし、もうこの手はある意味象徴性を帯びた手ですよね。
この人の人生を含んでいるという。
まさに生活を表現している。
結構詰まってますね、もうここに。
いいとこピックアップしますな。
ありがとうございます。
確かにな。ここでありたいですね。
いいね。
じゃあちょっと次行ってもいいですか。
行きましょう行きましょう。